松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

秋田県鹿角市毛馬内・・・・・内藤湖南と和井内貞行

2014年08月25日 10時29分28秒 | 日記
秋田県鹿角市毛馬内の先人顕彰館をおとずれた。展示の中心は内藤湖南と和井内貞行である。

湖南は狩野亨吉に招かれて京都帝大文科大学(京都大)に奉職、東洋史学の基礎をつくった大知識人である。わたしなども学術文庫の『日本文化史研究』を読んでどきりとした記憶がある。いっぽう和井内については、十和田湖でヒメマス養殖に成功した人として小学校のときに伝記を読んだことがある。このふたりを同列に扱っていることに、正直、違和感をおぼえた。湖南のほうが上だろうと内心おもったのだ。



ところが館長のていねいな説明を聴きながら、いや待てよと思いはじめた。たしかに湖南は東京や京都では著名かもしれない。しかし湖南はみずから望んだわけではなかったが、故郷を出てしまった人である。その業績が中央ではどんなに高く評価されても、毛馬内の人々にいったい何をもたらしたのだろうか。

和井内は毛馬内に生まれ育った。鉱山勤務のときに「十和田湖に魚がいれば海から遠い毛馬内でもみんなが新鮮な魚を食える」と考え、そこから養殖業に乗りだしたといわれる。迷信にもとづく中傷、回帰しない魚、せっかく増えたら密漁。苦難の連続であったが、和井内は屈しなかった。貧窮のどん底にあってカバチェッポ(ヒメマス)に賭けた。放流後3年目の秋に、待ちにまったヒメマスの群れが「水しぶきをあげて」帰ってきたときの光景はいま聞いても感動的である。

和井内は毛馬内を離れることがなかった。その65年の生涯をみてふしぎなのは、困窮のさなかにあっても凶作のときには地元の人々に漁を開放していることだ。どう考えるべきか。これは和井内の事業が私欲から生まれたものではなく、毛馬内の人々の生活をよくするという「公」の精神にもとづいていたことを明らかに物語っている。やはり和井内貞行は「偉人」だったのである。


いずれも鹿角市HPより転載

平成22年12月の秋田県議会で、佐竹敬久知事は西湖でクニマスが発見されたという報道にふれてこう述べた。

「私自身ヒメマスの和井内貞行の血を引く者であります」

どこか誇らしげでさえあった。