松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

秋田県大館市・・・・・狩野亨吉の思想

2014年08月17日 11時00分02秒 | 日記
車がすこし坂をのぼると、正面はお屋敷であった。「門構えも立派ですね、ここはもと武家屋敷街ですか」と聞くと、「久保田藩の支藩があった」と山田福男さんはこたえた。なるほど、住所は「大館市三の丸」だ。

「あ、そこだ、そこに停めて」と山田隊長。塀に「狩野亨吉」の名前の入ったレリーフ。庭にはバラが咲き乱れている。ここで、亨吉は慶応元年(1865)代々佐竹藩士で漢学者をつとめる狩野家に生まれた。しかし明治元年に大館は南部藩に攻めこまれ、幼い亨吉は家族ともども大館から追われた。その後、父良知の出仕にともなって明治9年に上京、府一中、予備門(一高)、帝大という近代日本の学歴エリートの道をまっすぐに歩いていく
明治25年に帝大院を卒業すると同時に四高教授となり、五高教授をへて明治31年には一高に移り校長を明治39年までつとめ、同年京都帝大文科大学の初代学長に就任した。学長となった狩野はじしんの「鑑定眼」のみを信じて、「正規な」学歴のない内藤湖南と幸田露伴を教員にまねいた。そのため周囲との軋轢が生じたという。



しかし、狩野のまっすぐな歩みはここまでだった。望みさえすれば地位も名声もカネも手に入る前途がひらけていたのに、すべてを放り投げてわずか1年ほどで市井に隠棲してしまう。あっけにとられるとともに、じつに痛快でもある。

狩野はずばぬけた蔵書家であり読書家でもあったが、文章はおどろくほどすくない。ましてや私を語る文章などはのこしていない。したがって、狩野が隠棲した理由は推測するしかない。

狩野が当時無名の安藤昌益の主著を入手したのは明治32年ごろだったというから、一高の校長時代にあたる。最初は昌益を「狂人」とおもったらしい。しかし考察をつづけ「狂者ならざるを信ず」となった。そこで昌益を世にだそうとしたようだが「当時の社会的状況を考慮して公表をためらって」いるうちに大正12年の関東大震災で資料の大半が焼失してしまった。その経緯は「安藤昌益」(昭和3年公表)のなかで述べている。そのまま信じれば、狩野は一高の校長時代からずっと秘密裡に昌益の思想を考えつづけていたわけである。

言葉によって自身を変えていこうとする特性をもつ人は少数ながらいつの時代にもいる。書物と真剣にむきあいながら知らずに著者と対話をくりかえしているうちに、そうした人は相手と同化していく場合がある。狩野もそうだったのではないか。

畑を直接耕す生産者を、昌益はみずからの思索の原点にすえ、何も生産しない者を批判した。徳川家康にさえも批判の槍を収めなかった。激越なのである。その槍は為政者ばかりではなく、知識人にも突きつけられた。文章を書くことは「自然」を誤る最初の一歩だと考えたからだ。この考えを読み解いて、近代日本の学歴エリート道のど真ん中を走ってきた狩野は大きな衝撃を受けただろう。自己否定になるからだ。しかし狩野は昌益を肯定し高く評価した。ここが狩野亨吉の立派なところである。そう考えてみると、狩野が生産に関わらない地位や名声を惜しげもなく放りだして研究に没頭したのは、もしかしたらあとを追う覚悟があったからではないだろうか。

それでは狩野独自の思想はどうなるのかという疑問がわくかもしれない。しかし、かれはじしんの「鑑定眼」のみを信じて「忘れられた」昌益を表に出すことによって、自身をみごとに表現したのである。昭和初期という思想検閲が厳しくなりつつあったときに、自然世を賞賛する一見アナーキーな昌益を世に問うことは、相当な覚悟を必要としただろう。それが狩野独自の思想ではなかったろうか。


狩野の役回りは「鑑定眼」によって安藤昌益を発掘し、内藤湖南や寺田露伴を拾い上げることにあったといえるかもしれない。狩野はその役をよくつとめた。

近代日本の学歴エリートは狩野だけではない。ある意味、たくさんいる。しかし何もかも捨てて、姿まで消そうとつとめながら、後世の人がそれを許さず、その名をなつかしく記憶にとどめようとしたのは狩野亨吉くらいではないだろうか。

思いだした。昨年T先生と八戸市の昌益資料館に行ったときのこと。昌益の顔はノツペラボーだった。昌益もまた狩野と同じように顔をのこそうとしなかつたのだ。

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