goo blog サービス終了のお知らせ 

松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

魔王の最期の日記・・・・・佐渡の両津郷土博物館

2014年04月29日 07時48分57秒 | 日記
両津から小木、宿根木に往く途中、「両津郷土博物館」の看板があった。妙にそれが気にかかっていたので、帰りに立ち寄った。

加茂湖を中心にした両津の人々がどうやって時代の流れに適応してきたのか、よくわかる展示だ。とくに水との関わりかたは、舟運に関心をもつ私にとって、とてもおもしろかった。満足して帰ろうかと思ったそのとき、ふと小さなガラスケースが目に止まった。

日記だ、こ、これは魔王最期の日記ではないか。見たい、何としてもみたい。動悸がした。

すぐに教育委員会に飛び込み、Nさんにぜひにと頼みこんだ。魔王の一次資料を手にするのは、じつは初めてだ。手にとる。大きい。B5の分厚い「本」だ。そして重い。開く。大きな字だ。まるで毛筆のように大ぶりの字だ。これほど太い万年筆があるのだろうか。独特な字体だ。縦はまっすぐにおろすが、曲げやはらいは鋭角的で、この人の精神のあたたかさと激しさに似ている。

日記をめくった。昭和11年2月26日の欄。「革命軍」の文字に二重線が引かれ、脇に「正義軍」と書き直されている。

2月28日。「大海ノ波打ツ如シ 午後一時 祈願」
この後4時頃、魔王は身柄を拘束され、ふたたび還ることはなかった。日記の空白を埋める者はもはや永遠に失われたのだった。これが、この文字が魔王の絶筆か、そう思うと、涙がとまらなかった。かわいそうな魔王。

私は社会人2年目から毎年、魔王の故郷・佐渡を歩いた。それは魔王の隻眼が遠くみつめていた国家にずっと魅力を感じ、浪漫的詩人のやさしさにひかれたからだった。法的正義の虚妄に傷ついた精神を、佐渡に癒されたいと思ったのかもしれない。

それはともかく、事件から一年以上たった昭和12年8月19日、魔王は刑死した。遺骨は厳重な管理下におかれ、ようやく故郷・佐渡に帰ったのは、処刑から4年が経った昭和16年、日本が戦争に踏み切ろうとする直前のことだった。

博物館を後にして、真念寺に行ってみた。ここの故村山住職の手元には魔王自筆の御布施袋と著作がのこされていたと知り、話を聞いたことがあった。しかし今は後を継ぐ者が途絶え、廃寺となっている。Nさんによれば、係累は佐渡を離れてしまったのだという。

挑戦・・・・・佐渡宿根木(3)

2014年04月27日 20時28分36秒 | 日記
宿根木の家々は明治以前の美しい面影を今にのこしている。それはなぜなのだろうか。

もちろん家屋を大事にして手入れを怠らなかったからだ。しかし地域での生計が立ちゆかなくなれば、家をかまうことなどできない。住み慣れた地でさえ離れていかなければならない。

かつて西廻り航路の繁栄によって栄えた宿根木も、航路の廃止とともに衰退した。産業構造をそのまま放置しておけば、宿根木は完全な廃村になり、家々は廃屋になってしまったろう。しかしそうならなかった。いったい何があったのか。

たまたま石瀬佳弘さんの論文を読んだら、そのあたりの事情がわかった。

明治の終盤、宿根木は産業構造を大転換することを余儀なくされた。住民は農業を選んだ。廻船を待つ受身の三次産業からものをつくる攻めの一次産業へと舵を切ったのだ。大正5年のこと、吉が沢や称光寺川から水路を掘って水を引いた。米をつくろうと住民はみんな開田に熱をそそいだ。その中心にいたのが高津昇之助だった。

宿根木は縦井戸には適さなかったらしい。そこで昇之助らは断層に向かって横井戸を掘り、湧水を引こうとする大胆な計画をした。しかしハイリスクのため、なかなか資金が集まらない。たいへんな苦労をした。井戸掘り工事がすすみ、ようやく水が音を立てて流れでたときには、昇之助らはほっとしたにちがいない。ともあれ、宿根木はここに産業構造をがらりと変え、ふたたび成長のエンジンをまわしはじめた。

そうした挑戦が宿根木の古い家屋を今にのこしたのだった。

船大工の余技・・・・・佐渡宿根木(2)

2014年04月21日 21時25分26秒 | 日記
山育ちのせいか、船大工という仕事がどうもよくわからない。家屋をつくる大工とどこがちがうのか、想像するしかない。

命をまっさきに考えるかどうか。それが船大工と他の大工との違いのように思う。船が浸水や転覆したら、乗組員は助からない。だから船大工は材料をを慎重に吟味して、すこしでも危険だと思えば使わないだろう。家屋の場合は節や穴、曲がりなどもうまく使えば、飾りにすることもできるのと対照的だ。


みなとの博物館ネットワークフォーラムHP

宿根木の船大工は、江戸末期に五人の棟梁、それに多くの弟子がいたと記録されている。わずか百メートル四方の狭い地域に、造船技術がぎゅっと詰まっていたわけだ。毎日の生産活動のなかで、船には向かない新古の材料が相当量、廃棄されたはずだ。

「捨てたり燃やしたりするのは、もったいない。家に使おう」、だれからともなくそう言い出したにちがいない。そこまではわかる。



しかし宿根木の家屋は、外壁の下見板が横にではなく縦にはってある。防水には不向きな張り方を採用した理由がわからない。ちなみに腰板は造船の残材だ。色彩はとぼしく簡素だ。舟釘を使っているのがめずらしい。影響力ある船大工の棟梁が遊び心で始めたのだろうか。

気づくのは、板の留めかただ。舟釘も使っているが、使わずに木片を組み合わせて留めているのも少なくない。こうした住宅構法ははじめてみた。あるいはこれが船大工特有の技術なのかもしれない。

ところで、宿根木に船大工が集まったのはなぜか。需要があったからだ。大きな弁財船を注文する船主が多くいたのだ。狭い集落のなかで、需要と供給が高いレベルで手を結んでいた。

船主は全国に大きな価格差があるのを利用して、たとえば北海道のニシンを安く買い叩いて北前船に積み、瀬戸内に運んで高く売りさばいた。一度の航海で得た利益は1億円とも2億円ともいわれる。全盛期の宿根木には「佐渡の富の三分の一が集まった」。

たしかに石橋、石畳、石塔、石鳥居の材料は美しく高価な瀬戸内産だ。船主住宅の大きく贅沢な木材も遠隔地から大きな海船で運ばれたものだ。



狭い入江には、白い石杭が7本立つている。安永5年(1776)に瀬戸内から運ばれた御影石で、ここに千石船をつないだ。「白坊主」と呼ばれてきた。この石杭をみたら、さすがに一世紀以上昔にタイムスリップする感じになった。宿根木を歩くと、多くのひとが同じ夢をみるのではないだろうか。



隈研吾への共感

2014年04月20日 18時57分39秒 | 日記

東北の被災地を何度か歩いて感じたのは、無秩序に住宅がつくられていることへの疑問だった。
都市計画もなく、色もかたちもバラバラだ。

「百年後に観光資源になる町づくりができる機会なのに」。
そう強く思った。

隈研吾「つなぐ建築」を読んでいたら、はっとした。
こう述べている。

住まいと同時に、どうかせぎ、どう暮らすかも、デザインしないといけない。そのときに、いまのポスト工業化社会では、観光と生産を同時に考える必要があります。観光と生産のあり方と、人びとの住む場所を連動させなきやだめなんです。その三つを切り離して考えて、箱型住宅が並ぶひどい風景ができてしまったら、将来何百年も観光地にならない。ということは仕事も生まれない、ただの刑務所をつくっているだけです

同感だ。

船大工の余技 佐渡宿根木(1)

2014年04月20日 07時45分10秒 | 日記
小木民俗博物館で北前船をみて上機嫌になったまま、車に乗った。すぐに下り坂になる。「お、いよいよだな」。右手下に黒っぽい屋根がいくつもかたまっている。「ここが宿根木だ」。

車からおりて眺めると、グローブのなかにあるボールのような集落だ。グローブじたいが小さい。1haほどの狭い地域に110棟ほどの家が肩を寄せ合っている。よくみると、屋根は板葺きで石が重しになっている。昔の姿に復原されたのだ。

駐車場に停めて歩く。いきなり目の前に、細い竹でできた垣。強い潮風を防ぐ「風垣」だ。結界のようであり、おそるおそるくぐった。

道は狭い。家と家との間にはすきまがないほど建て込んでいる。シンプルな総二階だ。外観に個性がないとの批判もあるが、実態は違う。同じものはひとつもない。それに屋内は個性を競っている。

石畳の小路をひとりで歩いていると時間感覚がなくなってしまう。この不思議な感覚はどこかで抱いたことがある。あれはどこだつたろうか。そうだ、島根半島の美保だった。美保神社から仏国寺までの200mほどの径には、各地から船で運ばれた緑色の凝灰岩が敷きつめられており、濡れると幻想的に青くなる。この「青石畳通り」が整備されたのは江戸後期。ちょうど北前船の隆盛期だった。宿根木をたった北前船は途中いくつかの港に立ち寄り、美保港に着いたものもたくさんあったろう。心を寄せる女に佐渡土産を渡す水主の姿もみられたかもしれない。海路は物も人も心もつないだ。



さて、いまは宿根木だ。めざすのは「清九郎家」。清九郎は廻船二隻を所有し、宿根木一番の船主だった。建物は切妻総二階、妻入り。築は安政5年(1858)。梁も柱も太い。ただ、梁は加工されて、ほぼ直前になっている。柱は角が落としてある。すごいのは塗だ。随所が柿渋塗や漆塗だ。建物の外観は簡素質朴だから屋内にカネをかけるやりかたが一層きわだつ。

しかし、加賀橋立の酒谷家や久保家とくらべると、こぶりだ。橋立では「中の上」といわれた酒谷家住宅(1878年築)でさえ、30畳の大広間、二つの仏壇をおさめる仏間をはじめ17の部屋を持つている。「清九郎」がいくら宿根木一番といっても、くらべものにならない。いったいどこに理由があるのだろうか。