京都府舞鶴市の引揚記念公園は高台にある。ここに立つと、舞鶴港がいかに複雑に入り組み、いかに波が静かなのか、よくわかる。また、高い山からいきなりストンと海に落ちていることから、水深もありそうにみえる。事実、深い。

左手にみえる施設は海上自衛隊の基地だ。ゆっくりと出入りする自衛艦は5000トン級だろうか。このクラスの喫水線は5m以上と、深い。深いというのは、もちろん「和船」と比べての話だ。

和船はお椀を大きくしたような構造になっている。近世から明治頃まで日本海中心に活躍した千石船もまた「和船」であり、基本的にはお椀船である。
一方、「洋船」は船首から船尾まで船底の中心に竜の背骨のような形をした構造材が通っている。「竜骨(キール)という。自然、船底は下にとがったような形になり、喫水線が深くなる。復原力が大きく、少しくらい傾いても転覆しない。和船がしばしば転覆したのと対照的だ。外洋に出るにはこうした洋船のほうがずっと有利だ。
もっとも、わが和船をかばうと、その構造的弱点が近世以降の日本各地の港に富と文化を均しくもたらしたことは言っておかなければならない。和船は外洋に出ないで、海岸線沿い近くをはい伝うように航行した。波や天候がすこしでも荒れるとすぐに最寄りの湊に避難した。このため、湊はあまり間隔をあけずに数多くつくられた。街道沿いの宿場町が旅人の安心のためにおよそ2、3里ごとに小刻みに整備されたのと同じだった。港が数多くつくられた結果、地域独自の習俗文化が行き交う人々によって他地域の港にきめ細かく伝わり、産物も他国の港経由でその後背地にまで広く運ばれた。もしも和船が出港してからいきなり外洋をめざしてしまったならば、寄港地はぐっと間引きされ、習俗文化や産物の伝わりかたはもつと荒っぽかったにちがいない。
ともあれ、明治以降、喫水線の深い洋船が主流になると、従来の遠浅の港は使い物にならなくなった。それが、北前船の寄港地の多くがすたれた理由のひとつだった。
しかし、舞鶴港は水深があるために大型船を受け入れることができ、北前船の寄港地としての役目は終えても、今度は軍港として栄えた。昭和23年6月、ナホトカから一隻の船が着いた。信濃丸、喫水線約7m、6000トン級だった。甲板には大きく手をふる男たち二千名の姿があった。
そのなかにわが父もいたのだった。カザフスタン・アルマータから生還した父は、一晩舞鶴ですごしたのちまっすぐに故郷に帰り、死ぬまで外へ出ようとしなかった。

左手にみえる施設は海上自衛隊の基地だ。ゆっくりと出入りする自衛艦は5000トン級だろうか。このクラスの喫水線は5m以上と、深い。深いというのは、もちろん「和船」と比べての話だ。

和船はお椀を大きくしたような構造になっている。近世から明治頃まで日本海中心に活躍した千石船もまた「和船」であり、基本的にはお椀船である。
一方、「洋船」は船首から船尾まで船底の中心に竜の背骨のような形をした構造材が通っている。「竜骨(キール)という。自然、船底は下にとがったような形になり、喫水線が深くなる。復原力が大きく、少しくらい傾いても転覆しない。和船がしばしば転覆したのと対照的だ。外洋に出るにはこうした洋船のほうがずっと有利だ。
もっとも、わが和船をかばうと、その構造的弱点が近世以降の日本各地の港に富と文化を均しくもたらしたことは言っておかなければならない。和船は外洋に出ないで、海岸線沿い近くをはい伝うように航行した。波や天候がすこしでも荒れるとすぐに最寄りの湊に避難した。このため、湊はあまり間隔をあけずに数多くつくられた。街道沿いの宿場町が旅人の安心のためにおよそ2、3里ごとに小刻みに整備されたのと同じだった。港が数多くつくられた結果、地域独自の習俗文化が行き交う人々によって他地域の港にきめ細かく伝わり、産物も他国の港経由でその後背地にまで広く運ばれた。もしも和船が出港してからいきなり外洋をめざしてしまったならば、寄港地はぐっと間引きされ、習俗文化や産物の伝わりかたはもつと荒っぽかったにちがいない。
ともあれ、明治以降、喫水線の深い洋船が主流になると、従来の遠浅の港は使い物にならなくなった。それが、北前船の寄港地の多くがすたれた理由のひとつだった。
しかし、舞鶴港は水深があるために大型船を受け入れることができ、北前船の寄港地としての役目は終えても、今度は軍港として栄えた。昭和23年6月、ナホトカから一隻の船が着いた。信濃丸、喫水線約7m、6000トン級だった。甲板には大きく手をふる男たち二千名の姿があった。
そのなかにわが父もいたのだった。カザフスタン・アルマータから生還した父は、一晩舞鶴ですごしたのちまっすぐに故郷に帰り、死ぬまで外へ出ようとしなかった。
