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松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

竜骨と喫水線・・・・・丹後舞鶴港

2014年05月15日 09時37分48秒 | 日記
京都府舞鶴市の引揚記念公園は高台にある。ここに立つと、舞鶴港がいかに複雑に入り組み、いかに波が静かなのか、よくわかる。また、高い山からいきなりストンと海に落ちていることから、水深もありそうにみえる。事実、深い。



左手にみえる施設は海上自衛隊の基地だ。ゆっくりと出入りする自衛艦は5000トン級だろうか。このクラスの喫水線は5m以上と、深い。深いというのは、もちろん「和船」と比べての話だ。



和船はお椀を大きくしたような構造になっている。近世から明治頃まで日本海中心に活躍した千石船もまた「和船」であり、基本的にはお椀船である。

一方、「洋船」は船首から船尾まで船底の中心に竜の背骨のような形をした構造材が通っている。「竜骨(キール)という。自然、船底は下にとがったような形になり、喫水線が深くなる。復原力が大きく、少しくらい傾いても転覆しない。和船がしばしば転覆したのと対照的だ。外洋に出るにはこうした洋船のほうがずっと有利だ。

もっとも、わが和船をかばうと、その構造的弱点が近世以降の日本各地の港に富と文化を均しくもたらしたことは言っておかなければならない。和船は外洋に出ないで、海岸線沿い近くをはい伝うように航行した。波や天候がすこしでも荒れるとすぐに最寄りの湊に避難した。このため、湊はあまり間隔をあけずに数多くつくられた。街道沿いの宿場町が旅人の安心のためにおよそ2、3里ごとに小刻みに整備されたのと同じだった。港が数多くつくられた結果、地域独自の習俗文化が行き交う人々によって他地域の港にきめ細かく伝わり、産物も他国の港経由でその後背地にまで広く運ばれた。もしも和船が出港してからいきなり外洋をめざしてしまったならば、寄港地はぐっと間引きされ、習俗文化や産物の伝わりかたはもつと荒っぽかったにちがいない。

ともあれ、明治以降、喫水線の深い洋船が主流になると、従来の遠浅の港は使い物にならなくなった。それが、北前船の寄港地の多くがすたれた理由のひとつだった。

しかし、舞鶴港は水深があるために大型船を受け入れることができ、北前船の寄港地としての役目は終えても、今度は軍港として栄えた。昭和23年6月、ナホトカから一隻の船が着いた。信濃丸、喫水線約7m、6000トン級だった。甲板には大きく手をふる男たち二千名の姿があった。

そのなかにわが父もいたのだった。カザフスタン・アルマータから生還した父は、一晩舞鶴ですごしたのちまっすぐに故郷に帰り、死ぬまで外へ出ようとしなかった。


丹後宮津の「富田屋」

2014年05月13日 07時53分00秒 | 日記
昨年の九月、丹後の宮津市で昼をとった。「富田屋」。宮津出身の若手社員からすすめられていたのだ。

各地に行ったとき、食物にはこだわる。といってもB級なのだが、少しくらい時間をかけて車を飛ばしてでも、目的の店に向かう。妥協はしない。

繁盛する店は構えからしてちがう。味のある暖簾、選んだ門戸、刈り込んだ植え込み、打ち水、盛り塩。だらしなくない。

さて、富田屋の入り口はどんな風情を醸していたのか。大きな狸のやきものがどんと座っていらっしゃった。ううむ、ここは大衆食堂だなというのが、第一印象だった。胸のボタンをひとつはずし、腕まくりをして暖簾をくぐった。

熱気だ。充満する焼き魚の臭いと煙り。あたりをはばかることのない大きな笑い声。せわしなく客の間を行き交う注文取り。「食う」という行為に人はこれほどまでの情熱をそそぐものかとあらためて感心してしまう。いや、感心などしている余裕はない。つぎつぎに来客があり、まごまごしていると食えなくなってしまう。分厚い一枚板のテーブルにひとつだけ空いた席に割り込んだ。メニューをみると「焼魚定食」が目についた。「すいません」と声をあげたが注文取りの女性はふりむかない。恥も外聞もない、食わなければどうにもならない。大きく手をあげて「おおいこっち、焼魚定食」とどなる。左隣でうまそうな煮魚をつついていた男が一瞬ギョッとしたように顔を上げたが、また下を向いて一心不乱に食い始めた。

この喧騒のなかの不思議な安堵感。ぬるいお茶をすすりながら待った。どんとおかれた皿には大ぶりのサンマの開き。もう秋だ。脂がのってうまそうだ。あれ待てよ。もう一枚ある。なんだこれは。アジだ、アジの開きだ。え、二枚もあるのか。これで、な、なんと600円。ううん、これだな、この費用対効果のアンバランス、客にリスクをとらせない心にくいサプライズこそ、店主の心意気なんだな。ご飯はいまひとつなのだが、まあそれはご愛嬌というものだろう。

魚はパリッと焼けて、薄塩がほんのりと心にしみる。あっという間に平らげた。ぐっとぬる茶を飲み干して、後で待つ次の人のために席をたった。しめてツーコイン。

わが情熱の丹後体験はこうして上々のスタートを切ったのだった。ああタンゴ、タンゴ。

海に投資した山の人・・・・・群馬県黒保根

2014年05月12日 21時35分31秒 | 日記
天橋立のある阿蘇海から内陸へ10キロほど入った与謝野町加悦。ここに尾藤家住宅がある。1863年築。和洋折衷の豪邸だ。



尾藤家の歴史はおもしろい。中世においては武士だつたが酒造業に転じ、幕末には生糸ちりめん商、銀行、ちりめん廃業と同時に海辺で醤油業、保険代理業。要するに時代の流れを読みつつ巧みに業態替えを行い富と権力を手にいれてきた。驚いたのは、北前船のオーナーになっていること。宮津湾からは離れているのだが、海からの遠近にかかわらず、儲かると思えば積極的に海にリスクをとったのだろう。投資家だった。



話はとぶ。群馬県の黒保根は足尾銅山の下流、渡良瀬峡谷の途中にある。昨日行った。いま長屋門ののこる星野家は黒保根村一番の地主であつた。多角経営だった。文政期(1818~1829)をみると、コア事業は金融業と酒造業だつたが、他に桑樹販売、鉱山経営、「廻船所有」とある。東北の石巻を拠点に千石船を4隻も所有していたという。これにはほんとに驚いた。たしかに海への投資家だからといって別に海辺に住む必要はないが、それにしても遠すぎる。群馬には海はない。黒保根はおよそ日本海からも太平洋からも最も遠い位置にあるのだ。



近世から明治頃までの日本、大きく稼ぐ手段の一つは廻船業だった。ここで得られた巨利は海沿いの町にのみ蓄えられたと私は考えてきたが、これから舟運研究が進めば、山間の集落においても恩恵に預かった史実が明らかになるかもしれない。近世以降、人々は農業や土地に縛られずに、実利を求めて自由に日本中を往き交つていたのだろうか。

陸の道、海の道、川の道。三つの道から古い町並みの形成を読み解こうとしている私の前に、従来の史観とは違う一群の人々がおぼろげに姿をあらわしつつあるようだ。

岡山県真庭市・・・・・旭川の鮎

2014年05月05日 13時01分09秒 | 日記
「夏に遊びに来ないか」、学生時代の友人から誘われた。彼は岡山県北部の真庭市に住んでいる。あのあたりには、じつは、ずっと関心があった。


中国山地の背骨部分、つまり山奥なのだが、ここには二つの道があった。陸の道と川の道。

兵庫県姫路から島根県松江に至る陸の道は出雲街道と呼ばれ、美作地方には土居宿、勝間田宿、津山、坪井宿、久世宿、高田宿(勝山宿)、美甘宿、新庄宿が置かれた。津山は城下町でもあったので宿場町としては扱われず、津山を除いた町が「美作七宿」といわれた。大名から商人まで多くのひとがこの陸の道を行き交い、現金を宿場町に落とした。宿場は栄えたのだ。

ただ、陸の道は人馬が自由に行き交うにはよいが、大量の荷物を流通させるには向かない。近世から昭和初期ころまで、特産品を大量に安く運ぶには、やはり川の道を必要とした。真庭における川の道は何だったのか。

それは旭川だった。中国山地の脊梁部分から湧き出た水は、南に下り落ち、岡山市内を通過して、児島湾に注ぐ。水深の浅い川でも活躍できる高瀬船が、急な流れに乗って荷を運んだ。 下りでは、鉄、木材、麻、煙草などを運び、帰り荷では、塩、干物、衣料品などを運んだ。

高瀬船は大きいものでは15メートルをこえる。川をくだるのはまだわかるが、この長さの船が急流に逆らってのぼる光景は想像できない。いったいどうやって急流をのぼったのか。帆も使ったが、最後は人力だった。岸から綱で舟を曳きあげる専門の「曳綱船頭」が雇われたという。

旭川舟運の最上流の船着場は真庭市勝山だった。出雲街道の宿場もあったから、ここに陸の道と川の道とが交差したのだった。さぞかし賑わい、さぞかし莫大な富を落としたことだろう。


勝山は近世以降の町割りと町並みをよくのこし、それを利用しながら町づくりを行なったことで知られている。私は最初、個としてのよい家とは何かを考え、しだいに町並みという全体との関係に注目し、そして今は全体を維持する力に眼を向け始めている。勝山には何かがあるのではないかとわくわくするのだ。

「うちのおふくろは料理がうまい。とくに旭川の鮎と茄子を入れた味噌汁は、子どもんときはまずう思ったが、いまは絶品じゃ思うとる」。そう友人は言った。これもまた今からわくわくする。

画像は観光協会HPより

東京谷中の「カヤバ珈琲」

2014年04月30日 16時33分16秒 | 日記
私が古い町並みを歩きはじめたのは、あくまでもこれからの新たな家とまちづくりを考えるためです。ただそうはいいながら、やはり古い家や町並みが消えていくのをみると、何とかしなければと感じます。



東京・谷中の「カヤバ珈琲」の保存運動は示唆に富んでいます。「カヤバ珈琲」は大正5年築。震災や空襲にも耐え、ずっと親しまれてきました。しかし後継者がいなくなったことや、相続が発生したことから、所有者は解体することに決めました。そこで地元有志は何とか考え直してくれるよう運動を始めました。

たしかに所有者の気持はよくわかります。固定資産税や維持費がかかります。最初はよくても、しだいに重荷になってきます。私も経験者です

所有者の解体意思はなかなかゆるがなかったようです。

そこで、保存派のひとたちは役所に相談しました。しかし「買い取ると維持費がかさむ」と役所は応じません。

そこにNPOが登場します。所有者に納得してもらえるスキームを考え提案しました。
まず、建物管理はNPOが行い、珈琲店を経営する希望者をさがし、貸し出します。賃貸料が納税分を上回ることが条件です。そうすれば所有者の負担はぐっと軽くなります。

さらにNPOは定期借家制度を利用しました。ある一定の期間がたったら地主に返却するよう契約書に明記したのです。これは所有者を安心させました。さらに修繕費用や維持費は借主側の負担にしました。

そこで所有者は納得し、方針を転換しました。

いまや「カヤバ珈琲」は谷中のシンボルとなりました。私が昨年立ち寄ったときには満員で入れなかったほどです。



谷中の事例は多くのことを教えてくれます。さまざまの立場のひとが、持主の要望にこたえられるような解答を考えてあげれば、保存への糸口がみつかるのではないでしようか。