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松沢顕治の家まち探しメモ

「よい日本の家」はどこにあるのだろうか。その姿をはやく現してくれ。

銀行への注文

2014年06月14日 09時20分22秒 | 日記
家つくりの仲人事業(ベストマッチング)を始めた。よい日本の家とは何か、それを実現していく方法は何か考えはじめてからだと構想6年ということになる。登録したハウスメーカー・地元工務店は40社ほどだろうか。

銀行も登録中だ。借り手の立場に立って、銀行ローンをコンペにかけようと考えている。そのさい、いくつか注文をつけている。

①まず住宅ローンの三つの金利型をきちんとしたうえで、自行が勧めるローンはそのどれに該当するのか、なぜ勧めるのかきちんと説明すること。そのローン商品が借り手の意向に沿ってるかどうか確認すること。

②金利変動リスクと25%ルールを具体例等をあげて、きちんと説明すること。

③延滞した場合の金利、自行の対応方針をきちんと説明すること。

④借り換える場合のメリデメもきちんと説明すること。

⑤保証料の性格は何か、だれのための保証なのか説明すること

⑥つなぎ融資はだれのためのものなのか、どんなリスクがあるのかきちんと説明すること

これだけ言うと、銀行担当者の顔から笑いが消えることが多い。今まで借り手への説明を避けてきた項目だからだろう。
しかし、消費者にきちんと商品説明することは、他の業界では当然のことだ。まして銀行は公共性が高い。ならば、きちんと商品説明したうえで借り手に借りるかどうか判断をゆだねるべきではないだろうか。いやしくも説明不足のために返済できず、家を手ばなし、一家が路頭に迷うような事態は極力避けなければならない。

領土を侵すもの

2014年06月02日 08時24分18秒 | 日記
生家は空き家になっている。困るのは領土が侵されるようになったことだ。

春先、敵はいくつもの地下道を静かに潜伏してきて、いっせいにわが領土内に姿をあらわす。昨年はっと気づいたときには遅く、すでに実効支配されていた。やむなく鋸を片手に、敵のただなかに飛び込み、つぎつぎに切り倒した。全勝である。いちおう領土は奪還した。

しかし敵は実力による現状変更をあきらめない。かならずまた地下から侵攻してくると想定はしていた。先週、現地偵察にいったところ、あぜんとした。敵は昨年を大きく上回る大兵力で二百メートルほどはある長い境界線から侵入していた。わが領土はふたたび実効支配されてしまったのだ。

空き家だから放置しておけばいいという考えもあるかもしれない。しかしここは祖父母・父母・兄弟などとの楽しかった想い出のつまったなつかしい領域だ。奪還して、二度と邪心を抱かないよう正義の鉄槌をくわえてやらなければいけない。これは気概の問題だ。

ヘルメット、鋸、安全靴を用意した。昨日早朝、作戦開始。

敵は戦闘能力には劣るが、なにしろ数が圧倒的に多い。かつ背丈がやたら高い。かつてこの国が「倭」すなわち「ちび」と蔑称されたことを思い出す。蚊の大群という思わぬ敵も登場したが、撤退はありえない。とにかく切った、切りまくった。敵は音を立てて倒れる。百は倒したろうか。とりあえず領土は奪還した。作戦終了だ。

しかしこの作戦は対症療法にすぎない。侵入者を根絶させる作戦を考えるしかない。境界線から敵側約8メートル地帯は要警戒地域だ。ここは外交交渉の出番だ。敵国政府と交渉のすえ、この地域に立つ敵は切ってもよいという合意ができた。

今年の冬、警戒区域内の敵は全滅させる計画だ。もはや鋸では太刀打ちできない。装備品にチェーンソーを加えることにした。数年かけて根絶させる。

それにしても敵はしぶとい。ひとこと「こん竹しょー」。


楽天HPより


ひとつひとつの家と町並み全体

2014年05月30日 09時03分13秒 | 日記
「お客様はわがまま。好き勝手に要求してもらっていい。我々の会社はそのとおりに家をつくるだけ」。
そう、某中堅ビルダーの社長は言った。

地元工務店は数区画の土地を分譲した。南欧風の住宅がある。隣はログハウスだ。もうひとつは和風だ。色もまちまちだ。「何で」と聞くと、お客様の要望だからと社長は答えた。

それで「よい家」ができるのだろうか。どこかで違和感をおぼえる。




ある政治思想史家は「私と公」の関係についてこう述べている。

「個人の尊厳」を唯一の理念にした欠陥は、そのことを重んずるあまり、私の価値、私の権利、私の利益というものを独走させてしまった・・・・・・・・「私がよければよい」という精神の問題がある・・・・・・・・「私」と一対であるべき「公」の位置づけがありません

そうだ、これではないか。

家は個人の所有だから、好き勝手に作ってもよいということはならない。無国籍の、のっぺらぼうの家ばかり並んでよいのだろうか。周囲の町並み全体との調和をはかりながら、つくらなければならない。


そして、周囲との調和をはかることは、個々の家をつぶすことにはならない。私が観てきた美しい伝統的住宅は、全体との修景を加えられていたが、まったく同じ家はなかった。かえって、ひとつひとつが強烈に自己主張していた。

円環・・・・・広島県福山市鞆の浦

2014年05月23日 08時58分40秒 | 日記
よい日本の家とは何か具体的に考えていこうとしたのは4年ほどまえのことだった。そのころ、出版社を経営する知人の忘年会で、半年ぶりにM先生にお会いした。先生は、世界遺産を選定する日本イコモス国内委員会主査という要職にある。酔ったいきおいもあって、先生にお聞きしたところ、「重要伝統的建造物群をみたらきっかけがつかめるかもしれないよ」と助言をいただいた。

それから全国にある重伝建地区中心に歩きはじめた。テキストはない。深い霧のなかをとぼとぼと、しかし志の灯りだけを頼りにあるがままをみた。半年ほどたったある日に転機があった。千葉県香取市佐原の町並みを歩いていたときだった。陸の道、海の道、川の道という三つの道が佐原の家を、町並みをつくったのではないかと思った。

その後も各地を歩き、いまは百か所を超えた。これらの住宅と町並みがいつ、なぜ成立し、なぜ古い住居を残してきたのか思うとき、三つの道のネットワークは重要であるし、わかりやすいのではないかと考えている。山奥の集落でさえ、川の流れは海に通じているから、かならず海の道とのネットワークを考えないといけない。

近世以降の海の道は千石船が行き交った。このことは何度かふれた。大きな帆を上げて海を滑る千石船はロマンティックであるが、しだいに細部にこだわるようになってきた。一度の航海でいくら儲けたのか、そのカネは寄港地にいくら落ちたのかというカネの問題、船大工はどこがメッカだったのかという技術の問題、北前船はどの航路をたどったのかなど、関心はきりがなくひろがる。



北前船は北海道などから日本海沿いに南下し、下関から瀬戸内海に入り、大坂などに着けた。日本地図を指でたどってみる。次の港への距離や地形などをみれば、日本海沿いの寄港地はすぐに推測できる。ただ、瀬戸内海に入るとわからない。寄港できる島や湊が多すぎるのだ。芸予諸島は中国と四国とをつなぐ無数の飛び石のようになっており、航路を妨げたにちがいないが、逆にすべてが寄港地だったかもしれない。




芸予諸島からすこし大坂寄り、ぐっと瀬戸内海に突き出たところがある。ここはまちがいなく天然の良港だったにちがいない。広島県福山市の鞆の浦だ。調べてみると、たしかにずっと古い時代は主要港であり、近世、北前船などの弁財船も立ち寄ったが、しだいに通過するようになって寄港地としての性格は薄れた。さらに明治以降は鉄道にも敗れた。しかしそのことがかえって幸いして、近世の面影をとどめる家と町並み、さらには開発されない自然が残されたという。世界遺産登録への運動がさかんである。





この夏、岡山に行く予定があるので、すこし足をのばして鞆の浦に行ってみようか。M先生は鞆の浦の保存活動に深く関わっている。これも縁かもしれない。





写真はすべて福山観光コンベンション協会HPより

深き湊・・・・・丹後の宮津と舞鶴

2014年05月18日 14時21分30秒 | 日記
丹後の宮津と舞鶴。隣り合わせだ。ともに日本海からの入口をきゅっとすぼめた巾着のような湾を形成しており、近世から明治ころまでは北前船の寄港地として栄えた。どちらの町が大きかったのか、頼れる資料は手元にないが、もしかしたら宮津のほうが栄えていたかもしれない。



しかし今や差は歴然としている。舞鶴のほうが人口は4倍ほど大きい。町を歩いてみても活気がちがう。その差は何に由来するのか。かつて大きな富をもたらした北前船に注目してみよう。

北前船(弁財船)が栄えたのは、まず地域間の価格差をうまく利用したことだった。産地で安く買い取った商品を消費地に運び高く売りつける。いまとちがって地域ごとの実売価格が知られないから、うまくやれば暴利をむさぼることができた。

もうひとつは安全な航路があらたに開発されたことだった。海路を使えば、大型の弁財船
は約150トンの荷物を、コストのかからない風力だけで早く運ぶことができた。しかも乗組員はわずか10数名だった。人馬による従来の運送力は馬1頭で約135キロであるから150トン運ぶには千数百頭を要し、しかも大量の馬方も必要としたことを考えると、海の道が陸の道よりいかに低コストだったかわかるだろう。

「海はもうかる」。そうしたビジネス情報にふれたひとたちは海辺に住む者も奥山に住む者も廻船ビジネスに競うように投資した。盛期には、日本海を行き交う廻船だけでも数千隻あったのではないか。

宮津にも舞鶴にも毎日多くの北前船が寄港し、船員相手の宿・遊郭、食材や燃料卸、補修の船大工・鍛冶屋、地元産品を高く売り込み他地域産品を安く買い取ろうともくろむ問屋などが発達した。一般に、船主は投資家でありみずからも問屋でもあったから、その居宅は資金力にものをいわせた豪壮なものとなった。

しかし明治以降、海の道は急速にすたれた。鉄の道に敗れたのである。鉄道は天候に左右されずに、時間に正確に、大量の荷物を、安全に輸送できたからだった。宮津も舞鶴も北前船の寄港地としてではなく産業構造をあらたに構築する必要に迫られた。





しかし天運は舞鶴にくだった。軍港として選ばれたのである。宮津の名誉のためにいっておくと、それは宮津が軍港招致活動という人的努力においてやぶれたということではない。砂が堆積して遠浅の、天の橋立のある宮津湾は風光明媚ではあるが、竜骨を持って喫水線の深い軍艦(洋船)が出入りするには不適だった。船底が海底をこすってしまう。宮津港は水深が浅いから、深い舞鶴港には勝てなかったのである。

宮津と舞鶴が隣り合わせでともに往時は栄えながら、近代以降の経済発展が大きく分かれたのは、たんに水深の差という自然的条件にあったといってもよい。





夕刻、舞鶴にて、まずビジネスホテルをとって外にでた。どしゃ降りだ。アーケード街に駆け込み、構えのしっかりした「池屋」にとびこんだ。店主の風貌をみて思わずぎょっとした。おそるおそる注文した品はしっかり作られている。こわいがうまい。雨足が強く客は入って来ない。しだいに熱燗がまわって気も大きくなったので、店主に話しかけた。意外にも話し好きだった。笑うと目と顔がやさしい。舞鶴を、丹後を愛する人だった。うまかった、楽しかった。強雨という自然的条件で貸切状態になったのは、まさに天運ともいうべきものだった。