細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:24:00 | Weblog

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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飯田市はなぜ、歴史をきちんと伝えないのか??
 

 

 731部隊元隊員の証言、飯田市平和祈念館が展示せず 市教委「事実関係に議論」

2022/08/17 11:59

 


 

 


元隊員が持ち帰った医療器具などが並ぶ飯田市平和祈念館の731部隊の展示。
元隊員の証言は紹介されていない

 

 

 戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に伝えるため今年5月にオープンした飯田市平和祈念館で、関東軍防疫給水部(731部隊)の証言などを印刷したパネル展示が取りやめられたことが16日、市教育委員会などへの取材で分かった。住民有志でつくる市平和資料収集委員会が展示を求めていたが、市教委は事実関係が確定していないなどとして見送った。現在、展示は市出身の元隊員から寄せられた医療器具や人体解剖の医学書など十数点だけとなっている。

 

 取りやめた理由について、市教委生涯学習・スポーツ課は取材に「部隊の事実関係を巡ってはさまざまな議論がある。証言などを伝えたいという思いは理解しているが、公の施設としての展示は難しい」としている。

 

 市平和祈念館の展示は「戦争の恐ろしさ」「戦時下のくらし」など五つのテーマに分かれている。祈念館設置に向け、同委員会はこれまでに市教委と協力して戦時中の資料を集め、展示内容についても話し合ってきた。

 

 同委員会は「戦争の被害だけでなく、加害の歴史も伝えないといけない」と、731部隊が細菌兵器の開発を進め、捕虜となった中国人やロシア人に対して人体実験をしてきた―などとする説明文を作成。県内出身の元隊員4人の証言も文章にまとめた。市教委に証言などをパネル展示するよう求め、議論も重ねた。

 

 だが、市教委は遺品の展示のみにとどめている。同委代表の吉沢章さん(73)=飯田市=は「県内の元隊員らの証言を通じて地域と部隊との関わりを明らかにし、戦争の姿を伝えたかったのに」と割り切れない思いでいる。

 

          ◇

【731部隊】 生物・細菌兵器の研究開発のため、1936(昭和11)年に編成された旧陸軍の特殊部隊。旧満州(現中国東北部)のハルビン近郊で秘密裏に中国、ロシア人らの政治犯や捕虜に非人道的な人体実験を繰り返し、多数を殺害したとされる。ペストやチフスなどの細菌を研究し、日中戦争で実際に使ったとされる。

久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)

飯田市平和祈念館資料室

■731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:22:52 | Weblog

731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」

2022/08/17 11:58
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
 
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
 「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
 清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
 
信濃毎日8月18日(斜面)


 
 
 
 
今年(2022年)4月2日に開かれた日本医学会記念事業では、「過去の過ちに学ぶ」で、731部隊のことが取り上げられた

731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。

 

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会

第1分科会

 

大久野島戦争遺跡保存活動の歩みと今後の課題

『鹿島海軍航空隊跡地』の未来について

四国西南部の特攻基地ー第132震洋隊・土佐清水越基地跡を中心に

22日のフィールドワーク

平和記念公園と周辺の被爆遺跡を巡るコース

番外編

 

大久野島遺跡巡り

 

似島(広島県)

 
 
関連動画
 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:21:56 | Weblog

ザポリージャ原発の視察終え「職員常駐」の重要性強調 IAEA事務局長

 
 
 
 

日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??

 

戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!

国が原発推進していて、事故があったら責任ないなんて全くおかしい??
責任を全部下に押し付けるのは、BC級戦犯裁判、226事件と酷似だ!!

 

それまで原子力を利用していたものの脱原発を表明する国が現れ、米国で新規建設のプロジェクトがなくなるなど、世界各国の原発利用は停滞することとなりました。(資源エネルギー庁のHPより)
 



 
世界には、核実験、原爆、原発労働者、ウラン鉱山の採掘者等で被ばくした人はたくさんいる!!
それが、次世代・次々世代に影響するとなると大変な数になる!!反原発!!
 
 
 
 
戦争では、何も解決しない!!即時停戦を!!
世界の食糧危機!!、世界の環境破壊!!生態系の激変!!貧困、虐殺、レイプ、人間不信!!

На войне ничего не решить! !! Немедленное прекращение огня! !!
Мировой продовольственный кризис! !! , Всемирное разрушение окружающей среды! !! Кардинальные изменения в экосистеме! !! Нищета, резня, насилие, человеконенавистничество! !!
 
У війні нічого не вирішиться! !! Негайне припинення вогню! !!
Світова продовольча криза! !! , Знищення навколишнього середовища світу! !! Різкі зміни в екосистемі! !! Бідність, бійня, зґвалтування, мізантропія! !!
 
Nothing will be solved in the war! !! Immediate ceasefire! !!
World food crisis! !! , World environmental destruction! !! A drastic change in the ecosystem! !! Poverty, slaughter, rape, misanthropy! !!
 
 
 

 

ウクライナに平和を!!
 
日本は、戦争の反省をしているのだろうか??
過去最大の防衛予算 歯止めなき膨張許されぬ
 
 

 

 
 
関連パネル展



731部隊全景

 

戦争を停止する道を探れないのか??
 

No War!!Stop War!!
Нет войне!!Стоп Война!!
 
 
 
憲法9条を持つ日本はもっと停戦に向けて前向きに動いてほしい!!
 
War in the 21st century? ?? In the 21st century, a world without war!!

Война в 21 веке? ?? В 21 веке мир без войн!!
 
21世紀に戦争??21世紀こそ、戦争のない世界に!!
 
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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:21:04 | Weblog
 
重慶無差別爆撃

 

 
 

京都大学出版会(2022年4月10日発行)
 
もしかすると中国人の人骨も京都大学にはあるのでは??
丹羽雅雄弁護士の話:遺骨という問題は非常に大きな問題なんですよ。死者の尊厳ですからね。死者の尊厳ということは、生きている人の尊厳につながっているんですよね。当時の帝国大学は色々な人骨研究をやっていますからね。そうすると恐らく朝鮮半島の御遺骨の問題も当然あるはずです。リストにありますからね。
それから、台湾もあるだろうし、東南アジアもあるだろうし、そういう風に広がっていく可能性があるんですね。遺骨の問題は先住民の大きな長い歴史の中で国際的にも重要な問題になっていると・・・
 
 
 
遺骨収集には、清野謙次の影響が強くあった。清野は731部隊長石井四郎の強力な支援者だった。(病理解剖の最高顧問)
 
 

 
 
 

 
 
昨年のパネル展

 

 

 

 

2021年 パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」アンケート
 
11月16日(火)
・貴重なパネル、資料により、日本軍の戦争犯罪がよく分かりました。ありがとうございました。
(30代、市外)
 
 


 
 
 

 





原告たちのあまりに理不尽な被害

『JUSTICE 中国人戦後補償裁判の記録』(中国人戦争被害賠償請求事件弁護団 編著、高文研)評者:根岸恵子

 

 

 
                


 
 
 

自衛隊における731部隊の記述

「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より

d旧日本軍の細菌戦活動

旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」

 

長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)

・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。

 

『日本医学百年史』1957年1月1日の731部隊の記述

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:20:09 | Weblog
 
日本医学界では731部隊の反省は戦後全くなされていないが、以下の書に731の記述が記されている。
『日本医学百年史』第4章 戦時体制下の医学 全体主義思想p236

 

 

「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。

昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。

勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。

 

 細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」

 

 
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
 

 

 

 
 
 

 
パネル展「731部隊 戦前・戦後の医学」
 医学と人権を考える―
1948年京都・島根 ジフテリア予防接種禍事件(その1) 
栗原 敦

~田井中克人さんの父親の「備忘録」より~ 

『克人ジフテリア注射』
 <田井中克人さん> 
「厚生省からすれば『うまく乗り切った』ということになる。『乗り切った』ということが、その後の厚生省の体質を作ったんじゃないか。こういう事件があったということと同時に、今の厚生省(の隠ぺい体質)を作った原点だと、社会に訴えたい」 
 田井中さんの調査には、同じジフテリア事件やその後の薬害の被害者当事者らが賛同し、研究会が作られました。歴史から何も学び取らず、薬害を繰り返してばかりいる国に、ジフテリア事件の持つ意味を突きつけてやろう。そんなメンバーの思いが、ある決定的な文書の存在を突き止めたのです。 
 
 
 
 
 
 
 

 
小津安二郎も毒ガス部隊だった
 

 

森友・加計問題などで公文書改ざん、事実の隠蔽などが問題になっているが、敗戦時の証拠隠滅、文書焼却、事実の隠蔽は、その比ではない!今も
続く歴史改ざん!!     
※30年経過したら、すべての情報を公開せよ!!

 

 
     

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:18:53 | Weblog

●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。

 

 
日本政府は、真摯に過去に向き合い、生物兵器を作ったことを謝罪し、今のこの難局に、立ち向かうべきだ!!

 

 

東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫

元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉

「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」

 
1939年 731部隊 ノモンハン戦争にて細菌戦(チフス菌、コレラ菌、赤痢菌)を行う
*1940年は皇紀2600年(神武が即位して2600年??)東京オリンピックや万博が開催される予定であったが、戦争の為中止!!
1940年 6月4日  731部隊、農安大賚・農安で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月 4日   731部隊、衢州で細菌戦(ペスト菌)を行う
10月27日  731部隊、寧波で細菌戦(ペスト菌)を行う
1941年11月4日  731部隊、湖南省常徳で細菌戦(ペスト菌)を行
1942年17月 100部隊は、ハイラルの北約120キロのソ連国境で行なった「三河演習」で鼻疽菌の生存期間を測定、炭疽菌の土壌への浸透力の調査した 
8月  731部隊、湖南省江山、常山、衢県、麗水、江西省広信、広豊、玉山で細菌戦(ペスト、コレラ、チフス)を行う
1943年12月  100部隊第2部に細菌戦準備の第6科を設置
 

 
 

 

戦争犯罪と戦争責任を考える(帝銀事件捜査から)山田朗
(『日中友好新聞』2022年2月15日号より)

 帝銀事件捜査が行われていた1948年1月から9月当時、まだ東京裁判やBC級戦犯裁判が行われている最中であり、一方で残虐行為のために死刑判決を受ける人がいた反面、他方では極めて組織的な残虐行為を行なったにもかかわらず、米軍に保護され、完全に免責されるという人(のちに米軍に雇われる人もいた)が存在したのである。

 つまり、帝銀事件の捜査の段階で、日本の民主化・非軍事化政策の一環として行われた戦犯追及は、大きくねじ曲げられ、戦争犯罪・戦争責任が隠蔽されたということである。その意味で、帝銀事件の捜査は、占領政策の大きな転換をもたらす分岐点なったと言えるのである。(明治大学平和教育登戸研究所資料館長)

 

 
 

 
 
 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察

 

 731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。

 

 

 

 

 

●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!

 

731部隊被害者遺族の訴え!!        

 

 

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

 

実験医学雑報20巻 第3号(1936年)

 

河本禎助博士追悼の辞

  

 斯くして君は終に彼の地に赴かれたが雲仙の硫黄泉は君には少しも適しなかった。風光明媚の長崎の空気も君には少しも幸いしなかった。然も聞く君は病床にあって常に長崎は淋しいな、やはり東京が善いなと呟かれたということである。誠にそうであったろうと想像に余りがある。之を耳にした吾々東京人は、何とか致したかったのであったが、千里の外の長崎は、然も医科大学関係者以外には全く未知の地では如何とも為し難かった。賑やか好きであった君、さぞや淋しかったろうと、それだけでも気の毒に耐えぬ。然るに今日この地に於て、君が追悼会を催すに当たっては吾が医学界は勿論、君と関係深かったスポーツその他色々の団体総て40有余が打って一丸となってこの挙を遂行したのである。蓋し空前の事であろう。通牒を発した数だけでも正に3000、恐らく会するものの総てを一堂に納めることも困難であろうと思ったが、時寒天の際、野外に於て挙行することも如何かと思って、生前君と関係深かったこの青年会館を選んだのである。君と僕とは今や幽明境を異にして再び相語る事も出来ない。心からなる助言も忠言も再び受けることが出来ない。然し君が英霊はここに来て会して、この盛況を必ずや喜んで居てくれることと確信する。生前多大の恩義を恭した私及び吾が伝染病研究所職員一同はここに衷心より感謝の辞を捧げると共に、君が後嗣の発展を祈って止まない。君幸に永しえに安らかに眠って呉れ給え。

昭和11年2月22日
伝染病研究所長   宮川米次 

 

 

翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田

で爆発赤痢事件が発生している?防疫研究室との関係はないのか??
 

浜一中大福餅事件

                浜松一中の慰霊碑
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

大牟田の慰霊碑(裏)

 

(碑文)

「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」

 

<三池の冬1997 その2>より

わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)

この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。

 

大牟田「爆発赤痢」事件


北宏一郎

 

日中全面戦争のさ中、軍機法改正、新聞紙法27条報道管制記事差止、軍需工業動員法、国民精神総動員実施要綱、そのような状況の中、721名の大牟田市民は殺され、企業も国家も一切の責任を問うことなく、真相を歴史の闇の中に閉ざしたまま今日に至っている。
 三井鉱山三池染料工業所はひたすら毒ガス資材を増産、戦争中規模を拡大、日本有数の化学会社に、後に三井化学、三井東圧へと。
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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:17:45 | Weblog
 

 

 
 

 

 

 

 

 



 
 

 
 

 
科研を視察する昭和天皇(中央)。久村所長が先導している(元科研職員の小野田悦郎さん提供)
 
 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より 

   





 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この新型コロナウィルスがどこで作られたかは分からないが、細菌戦の系譜をたどると、日本は、戦時中、1925年のジュネーブ議定書を無視して、中国で細菌を製造し、細菌戦を行なった。戦後、731部隊での研究データをアメリカに渡し、731部隊員は全員戦犯免責され、アメリカは生物戦の研究を本格的に始めた。
日本政府は、中国で行った細菌戦や生体実験の事実を、(日本の裁判所は事実認
 定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
 日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
 この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
 今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
 はないのか?
 
 

 

 

 

●細菌戦裁判資料集シリーズ・第8集(2002年10月31日)
 
「731細菌戦裁判・第1審判決特集号」の発行にあたって 
 
本書第8集は、細菌戦裁判の第1審判決(東京地方裁判所民事第18部)の後、開催された判決報告集会、記者会見、意見交換会等での発言を編集したものです。

 

 
 
第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

第6部

資料・731部隊細菌戦裁判

第1審判決全文

原告らの主張 (別紙3)

日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)

第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)

第2 国際慣習法の過去の戦争犯罪行為への適用による謝罪及び損害賠償請求

 12 結び

 
第3 中国法に基く謝罪及び損害賠償請求

2 被告の主張に対する反論

 被告は、本件事案に法例11条を適用することは誤りであると主張しているが、被告の主張は誤りである。

(1)公務員の権力行為に際して他人に与えた損害の賠償責任の法的性格

  ・・・戦前に於て美濃部達吉博士は、原因たる不法行為が公法上の行為であっても、その損害賠償関係は私法関係であるとしている(美濃部達吉・日本行政法上巻918頁)。また戦後の有力な学説も、一致して国家賠償法が私法に属することを認めている(雄川一郎・行政争訟法113頁、今村成和・国家補償法89頁、山内惟介「渉外判例百選3版」256頁)。裁判実務も、同様に私法説を採り、国家賠償請求事件を通常の民事訴訟としている(最高裁昭和46年11月3日判決・民集25巻8号1389頁)。

 
 
 
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?

 

 
 
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!

 

安倍晋三は何でこんな行動がとれるのだ??無反省のまま、ずっと生き延びられるのか??

 

 

 

           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2013年5月12日、安倍晋三は宮城県東松島市の航空自衛隊基地を訪問して、機体番号が‘731’であるアクロバット飛行団訓練機の操縦席に座りサムズアップして写真に収まった。

 

           

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
731部隊全景(中国に於いて人体実験を繰り返し、細菌兵器を開発し、中国各地で細菌戦を行なった。)

 

 

 

 

 

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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:16:57 | Weblog

 日本の中国東北侵略から91年

●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 



三月三日

娯楽機関の絶無な此の炭坑街の人々には何よりの慰安であろう 夕方から非常に通る。最も非常というのは炭坑の街のみの非常という意味で これを鞍山とか奉天とかいふ街に当てはめるべき日常のものではないことを書き添えておかねば間違いが起きる。それは炭坑の人員が二八八名故なるを以ってなり

今日珍しく鈴木君から手紙が来た 簡単に東京の様子も横浜の様子も変化のないことを知らしてきた。赤尾君も相変わらずやっているらしい。何にしても平凡なので珍しいこともないが それがまた何よりだ。

人間無闇に変化のみあってはならない 落ち着きがなくなる 落ち着きのない人間はみられないからね。

 

 

 

「ずっと父が嫌いだった」

 

 
 
 
軍都広島での物語

 

原爆詩集
峠三吉
・・・一九四五年八月六日、広島に、九日、長崎に投下された原子爆弾によって命を奪われた人、また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、そして生きている限り憂悶と悲しみを消すよしもない人、さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ。

 

 
  憐れに善良で

てんと無関心な市民のゆききのかたわらで

陽にさらされ雨に打たれ砂埃にうもれて

年ごとにうすれゆくその影

入口の裾に「遺跡」を置く銀行は

ざらざらと焼けた石屑ガラス屑を往来に吐き出し

大仕掛な復旧工事を完成して

巨大な全身を西日に輝かせ

すじ向いの広場では

人を集める山伏姿の香具師

 

 

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 
" target="_blank">原爆投下
 
" target="_blank">原子爆弾投下後の広島市内(1946年3月21日撮影)
 
" target="_blank">封印された原爆報告書
 
" target="_blank">原爆初動調査1
 
" target="_blank">原爆初動調査ー隠された真実2
 
原爆初動調査ー隠された真実3" target="_blank">原爆初動調査ー隠された真実3
 
 
" target="_blank">広島スピーチ
 
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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:14:45 | Weblog

日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!

 ●『細菌戦部隊』

731研究会編   1996年9月(核時代51年)初版発行

『細菌戦部隊』

731研究会編

はじめに

  8月9日のソ連参戦により部隊破壊と(臨江)付近に退がれ」と命令したのは関東軍参謀であった。ハバロフスク裁判での尋問調書の中で松村はその事について、「1945年8月9日あるいは10日、軍事行動開始に関連して、山田司令官は総ての実験室および貴重な細菌培養設備を絶滅することに決しましたが、これはこれらの科学実験室がソビエト軍の手に落ちないためでありました。私の部下の草地大佐によって上述の諸部隊の解消及びこれらの部隊員の京城市(南朝鮮)への引き上げに関する命令が作成され、同日、命令は山田司令官によって署名され、その遂行の為、第731部隊及び第100各部隊長宛送られました」と、部隊破壊と、隊員と「貴重な設備」を「南朝鮮」に引き揚げるようにという証拠隠滅の指示が関東軍によりなされましたことを証言している。

 

 日本軍政下香港(1997.7.27)

 

 

●『論争731部隊』
松村高夫編
核時代49(1994)年4月発行
 
第1 本件検定経過について
 
第2 731部隊に関する研究状況
 
二 1983(昭和58)年以前の731部隊に関する研究状況
 
1 731部隊の基礎資料ー「ハバロフスク公判書類」と関連文献
 
 起訴状朗読の後、被告尋問が川島から始まり、4日目の28日まで続いた。引き続いて証人尋問に入り12名が証言したが、古都良雄が中国における細菌散布や人体実験(凍傷実験)について、堀田主計中尉(ハイラル支部)が安達での人体実験について、佐々木幸助が柄沢班の細菌製造について、橘武夫(チャムス憲兵隊長)が「特移扱」について、倉員悟(ハルビン憲兵隊)が「特移扱」と人体実験について証言した。長春の100部隊(関東軍軍馬防疫廠)に関しては、桑原が敗戦時に馬鼻疽感染馬を放ち流行病を拡げたことについて、畑木章が人体実験について証言した。
 

 



 

 










 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

消せない記憶「元軍医たちの謝罪の旅」

 

●毒ガス戦

『毒ガス戦と日本軍』

吉見義明  (2004年発行)

Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930


2 毒ガス使用禁止国際条約への対応

 

第1次世界大戦以前の国際条約

ハーグ陸戦条約は、陸戦に関する法規慣例をまとめて協定した包括な条約で、毒ガスに直接言及した条項はない。しかし、その附属書である「陸戦の法規慣例に関する規則」を見ると、第23条に「特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し」として、「(イ)毒又は毒を施したる兵器を使用すること」「(ホ)不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物その他の物質を使用すること」という項目がある。毒ガス使用はこれに該当すると思われる。これによれば毒ガス弾(爆弾・砲弾)の使用だけでなく、毒ガスの放射、雨下(飛行機から撒くこと)・撒布(地上で撒布車・撒布器・柄杓などにより撒くこと)の場合も違法となる。
 

海軍の相模海軍工廠跡を訪ねて(2022年4月9日)



 

 

 
日本は海軍も毒ガスを製造し、本土決戦に備
えていた!!
 



 

 

 
略史
昭和 5年  海軍火薬廠用地の一部割愛を受け、海軍科学研究部化学兵器研究室が平塚出張所を開設
昭和 8年  平塚出張所に一号・二号・三号特薬兵器の製造実験工場を建設
昭和 9年  海軍技術研究所化学研究部として独立
昭和12年  特薬庫、火薬庫、爆発円筒及び特殊化兵研究室などを建設。総敷地面積は124,000平方メートルに
昭和17年  相模海軍工廠(寒川町)の新設と同時に、化学研究部が相模海軍工廠化学実験部になる
昭和20年  終戦、廃廠
 第一次世界大戦後、日本は化学兵器の調査研究と技術開発に着手、大正11年に艦政本部内に担当部署が設置され、翌12年には海軍技術研究所となり化学兵器の研究と技術開発を開始。
相模海軍工廠では士官・常用工・徴用工員・女子挺身隊員・勤労動員学徒等3,500人余りが従事し、主として化学兵器・火工兵器の研究開発・製造が行われた。
海軍では毒ガスを攻撃用よりは防御用とすると認識が強く、相模海軍工廠では防毒マスクの生産が主力だった。(相模海軍工廠より)
 
 

 

 

 

 
 
*A事案区域とは、環境省が平成 15 年に実施した<昭和 48 年の「旧軍毒ガス弾等の 全国調査」フォローアップ調査※1>において終戦時における旧軍の化学兵器に関連する情報を集約した結果を踏まえ設定したA事案(毒ガス弾等の存在に関する情報の確実性が高く、かつ、地域も特定されている事案)に該当する区域のことです。具体的には、以下の3区域となります(図1参照)。 
①旧相模海軍工廠跡地(神奈川県寒川町内) 
②旧相模海軍工廠化学実験部跡地(神奈川県平塚市内) 
③ 旧陸軍習志野学校跡地(千葉県習志野市・船橋市内)

 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 
 

 

 
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細菌戦の系譜!!

2022-09-09 14:13:43 | Weblog

 

・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)

第12章 癒しがたい傷

「生きながら得た」人々

しかし『認定患者』とか『非認定患者』とか分けるなんて、全くおかしな話です。国が4000人あまりを救済するのに何の難しいことがあるって言うんでしょう。だが国の『メンツ』を守り、国際法に違反して毒ガスを製造した行為を隠蔽するために、それができないのです。これらの人達が1人残らず死んでしまったら、歴史上のあの事件も存在しなくなる、とでも言うんですかね」。

 写真集では、被害者のほとんどが6,70歳の老人である。写真の1枚1枚に彼や彼女たちの非常な苦しみが刻まれている。

 

 

SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く

 

加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用



 



 
 
 

 

 

 

 

 
 
●『三光』     中国帰還者連絡会編
日本鬼子(リーベンクイズ)

 

核時代39年(1984年)5月初版発行

糧穀の略奪

(冷酷非情な取り立て)

 

引地 章(ひきじあきら)

警察署長 警正

(略歴)

学歴 高等小学校卒業

所属 旧満国 図們警察署

年齢 54歳

 

経済保安主任は「ハイッ」とかしこまって後姿を見送り、そして留置場へ入れられたのか、子どもの泣き声が廊下を伝わって聞こえてきた。しばらくすると経済保安主任は署長室にやって来た。

「警正殿」

「なんだ・・・」

言いにくそうだったが、口をゆがめ目をつぶるようにして、「あの、白麺3斤と、餅きび3斤を持って子供を抱いている中国婦人は、子どもが百日咳で、相当熱があって容態が悪いし、所持品は久しぶりで帰った実家の生母から土産として、嫁入り先の老母と夫に食べさせるようにと貰ってきたんだそうで、それからあの朝鮮飴を持っていた朝鮮人も、佳木斯の母親に土産に持って行こうというわけで、量は少し多いが、説諭を加えて帰してやったら」

引地は窪んだ目をむき出し、「馬鹿ッ!何回そんなことを聞くんだ。現在の重要政策の違反だ。情実を考えていたら駄目だ。重刑にするんだ。文句を言わず送致しろッ。この取締りが徹底せんと、出荷の成績が上がらないんだ。子どもが病気なら、嘱託医に見せておけ。それで子どもが死のうが、どうなろうが、自業自得だ」と、怒鳴りつけた。 

 
 
 

 

 

 

2018年12月に、『留守名簿 関東軍防疫給水部 満州第659部隊』2冊が発売されました!!(不二出版)

 

 

 

    

 

 

    

 
 
 
 
 
 
 
 
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