7月30日~8月28日までお休みします。
日本は、なぜ、核兵器禁止条約締約国会議に参加しない??
戦前・戦後直後と同じ、トップは無責任!!
731部隊に関しては、11.シンポジウム:未来への提言「4. 医療倫理・研究倫理の深化」のところで、以下のスライドが出てきて、わずかですが触れられます。
731部隊や関東軍の文書公開 ロシアが歴史問題で日本けん制か
Нет войне!!Стоп Война!!
I want Japan, which has Article 9 of the Constitution, to move more positively toward a ceasefire !!
Я хочу, чтобы Япония, у которой есть статья 9 Конституции, более позитивно двигалась к прекращению огня !!
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
第3章 生物戦の愚かな第1歩は、日本の731部隊からはじまった
●日本はなぜ“ワクチン後進国“になったのか
医療情報室レポート №199号より
福岡市医師会医療情報室より
平成元年
(1989) MMRワクチン(麻疹+ムンプス+風疹)が始まるも無菌性髄膜炎の多発により集団訴訟が起こる。国は相次いで敗訴し、MMRワクチンは1993年に中止となる。
平成6年
(1994) 感染症の患者・死者が激減する中、予防接種法が改正され、「義務」から「努力」規定へ、「集団」から「個別」接種へと変更された。
平成13年
(2001) 公衆衛生水準、医療水準は飛躍的に向上する中、予防接種法が改正され、対象疾病が一類疾病(努力義務あり)、二類疾病(努力義務なし)に分けられた。
平成17年
(2005) 日本脳炎ワクチン接種後の急性散在性脳脊髄炎(ADEM)症例の報告を受け、積極的接種推奨が中止され、2011年4月に再開された。
平成19年
(2007) 高校生や大学生等の年齢層で、特にワクチン未接種者や1回接種者を中心に麻しんが広がり、全国的に大流行となる。
平成23年
(2011) Hib、小児肺炎球菌ワクチン同時接種後の死亡例の報告を受け、接種が一時中止された。
生ポリオワクチン接種後のVAPP(麻痺)が問題となり、翌年、不活化ポリオワクチンへと変更された。
平成25年
(2013) 風しんの流行が過去最大ペースで広がる。
子宮頸がんワクチン接種後、慢性疼痛を訴える症例の報告を受け、積極的接種推奨が中止された。
予防接種法の改正により、副反応報告制度が法定化され、対象疾病が一類からA類、二類からB類へと変更された。
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
帝銀事件捜査が行われていた1948年1月から9月当時、まだ東京裁判やBC級戦犯裁判が行われている最中であり、一方で残虐行為のために死刑判決を受ける人がいた反面、他方では極めて組織的な残虐行為を行なったにもかかわらず、米軍に保護され、完全に免責されるという人(のちに米軍に雇われる人もいた)が存在したのである。
つまり、帝銀事件の捜査の段階で、日本の民主化・非軍事化政策の一環として行われた戦犯追及は、大きくねじ曲げられ、戦争犯罪・戦争責任が隠蔽されたということである。その意味で、帝銀事件の捜査は、占領政策の大きな転換をもたらす分岐点なったと言えるのである。(明治大学平和教育登戸研究所資料館長)
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
●日本政府は、新宿戸山の軍医学校跡地(現国立感染症センター)から見つかった人骨の身元調査を早急にして、遺族に返還し、きちんと謝罪すべきだ!!
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・参院選挙に出ている核融合党の桑島康文と人事異動にある桑島謙夫との関係は?
実験医学雑報20巻 第3号(1936年)
河本博士追悼会
故河本禎助博士の追悼会は、伝研学友会他40余・団体の共同主催により、49日忌に当たる去る2月22日(土)午後2時から日本青年館講堂に於て盛大に挙行された。壇上正面に博士肖像を飾り、父君、未亡人、2令息等の遺族列席し、林春雄博士司会の下に宮川伝研所長、長與東大総長、平沼大日本体育協会副会長、日本生化学会柿内教授、友人中井教授。防長在京各団体有志福士博士。同級生松本博士、門下生月江博士等の順序に夫々各方面を代表して追悼の辞を述べ、最後に父君が挨拶をされ5時閉会した。続いて5時半から階上食堂に於て追悼晩餐会が開催され、小島教授の挨拶に次いで、湯浅宮内大臣の指名により多数の人の追悼談があり、最後に令息より謝辞を述べられ8時盛会裏に散会した。
尚長與総長と及び宮川所長の追悼辞は次に掲載する如くである。
翌年の1936年5月10日には、浜松一中で大福餅の食中毒事件、1937年9月25日には大牟田
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
大牟田「爆発赤痢」事件
北宏一郎
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
定をしている)未だに隠し続け、その事実を認めていない。勿論謝罪もしない。
日本軍が中国に遺棄してきた生物兵器は戦後、どのようになったのだろうか?
この新型コロナウィルスに影響しているのだろうか?
今、日本人は過去に犯した戦争犯罪を直視し、きちんと歴史事実に向き合う時で
はないのか?
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
第6部
資料・731部隊細菌戦裁判
第1審判決全文
原告らの主張 (別紙3)
日本軍による中国への細菌戦の実行(事実論)
第2部 被告の細菌戦に関する責任(法律論)
第1 ヘーグ陸戦条約3条に基く謝罪及び損害賠償請求
9 ヘーグ陸戦条約の裁判上の適用事例について
ヘーグ陸戦条約又はその国際慣習法に基いて損害賠償の支払いを認める判断は、国際的な裁判機関の他、次のように、各国の国内裁判所に於てもごく日常的に行なわれている。これらの多数の実行例を見れば、ヘーグ陸戦条約3条が個人の加害国に対する損害賠償請求を認めたものであることが明らかである。
(6)そのほかにも、次のア~ケまでのように、押収や徴発に関する戦時国際法に交戦国が違反し、その結果財産の所有者である私人への財産の還付や賠償を認めた国内裁判所の判例(交戦国が財産を売却したこと等により、訴訟の形式が私人対私人となっているものも多い。)は極めて多数存在する。
ア 1947年5月17日フランスのルーン訴訟裁判所判決
イ 1947年7月11日デンマークの西控訴裁判所判決
ウ 1947年5月4日イタリアのボローニャ控訴裁判所判決
エ 1948年3月4日ノルウェーの控訴裁判所判決
オ 1950年2月6日オランダの特別破棄院判決
カ 1947年7月11日デンマークのコペンハーゲン東地方裁判所判決
キ 1951年4月18日オーストリア最高裁判所判決
ク 1952年2月13日ドイツ連邦共和国連邦最高裁判所判決
ケ 1957年11月13日フランス破棄院(最高裁)判決
●日本政府は、731部隊の罪業を、公開せず、秘匿し、戦後全く無反省である!!最高責任者の昭和天皇も戦犯免責された!!
日本の中国東北侵略から91年
●『1931 満州鞍山守備兵 斉藤準太郎の日記』
二月二十五日
晴 風あり 午後十時分遣隊出発。
六百米の大子河の鉄橋に乗った時の腰のあたり寒さはまた格別だった 女ならばすぐ腰の病気でもすぐにおこすに違いない。
三里半を二拾分の速さは決してマラソンの比でないから 守備隊の兵隊もでたらめだね。本当に夜の勤務ばかりでつらいでしょうね。軍隊出の人張台子の駅員がいふ。之からまた張台子で一息入れてから煙台まで行かねばならない 本当にやりきれない。鼻水も凍ったと見えて出てこない。弐拾五日と弐拾六日は続けざまだ
「ずっと父が嫌いだった」
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
おわりに(731研究会/証言集編集委員会 越田稜)
「戦後50年」という“時”が過ぎ去ったとしても、731部隊及び関連部隊が犯した罪業をはじめ生物兵器、あるいは化学兵器(毒ガス)による多大なる被害の未清算は、今後とも執拗に問われ続けなければならないであろう。「731部隊展」に併行して「毒ガス展」全国開催も予定されている(1996年9月より)。また日中共同による日本軍の細菌戦の実態調査も地道に続けれられている。はかり知れないアジアの被害者からの告発に応える営為である。
・・・・・・・
731研究会/証言集編集委員会 越田稜
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅰ 第1次世界大戦の衝撃 1915―1930
1、毒ガス開発の開始
第1次世界大戦の終結
臨時毒瓦斯調査委員は、戦時の態勢から平時の態勢に移る為、1919年12月10日の総会で委員会の解散問題を審議した。しかし、解散は留保され、第2期の調査として、放射用の毒ガスは塩素とし、程谷曹達工場の指導を継続することと、ガス弾用の毒ガスとして臭素・ホスゲン・イペリット・臭化アセトンの研究を行なうことが決定された。しかし、大戦終結の為臨時軍事費も支出されなくなった。新たな成果も、1920年11月中旬に岡山県日本原演習場で15糎榴弾砲ガス弾臭素115キロ分)の試験を行なった以外には、見るべきものはなかった。
・『日本の中国侵略と毒ガス兵器』 歩平著(山邊悠喜子、宮崎教四郎訳)明石書店 1995年発行)
第12章 癒しがたい傷
毒ガスの焼却
こうして、1年ほどの間に、大久野島の姿は著しく変貌した。木製の建築物は既に焼き尽くされ、セメントの建物の中もガランとして、昔日の工場の面影は跡形もなくなっていた。日本が戦争中、化学兵器を研究、製造、使用した歴史はこの時から既にページをめくられたがの如く、人々のこの問題についての記憶も段々薄れていった。人々が美しい大久野島国民休暇村で楽し気に遊び戯れる時、ここがかつては凶悪な殺人兵器を製造していた場所であることを知る者は最早ほとんどいなくなった。しかしながら、毒ガスとう悪魔は果たしてそんなにたやすく影も形無くなるものだろうか?戦争の傷痕はそんなに簡単に癒されるものだろうか?
SNSで人気「ウサギの島」が背負った〝毒ガスの歴史〟大久野島を歩く
加害の歴史」北九州市の毒ガス工場 第二次世界大戦で旧陸軍が使用
核時代39年(1984年)5月初版発行
糧穀の略奪
(冷酷非情な取り立て)
引地 章(ひきじあきら)
警察署長 警正
(略歴)
学歴 高等小学校卒業
所属 旧満国 図們警察署
年齢 54歳
「それは大変だぞ。県でさえ勝手に、義倉の開放命令は出せんのだ。そんなことをしたら、暗いところへ入る者が沢山出るからね。前線の兵士のことを考えたら、そのくらいの苦労は何ともないんじゃあないか。この際、ネズミでも、蛙でも、蛇でも、食えるものは何でも食って辛抱していかなければいけないよ」
この暴言に李村長はじめ、5人の者はブルブル拳を振るわし、じっと奥歯を噛んで、早川を睨みつけた。李村長はおもむろに懐中から、封筒入りの陳情書を取り出し、早川の前に差し出した。