この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-28 18:09:59 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
       「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
                        Ⅶ
関東軍司令部及び731部隊の将校たちは、この遠征の成果を喜んだ。彼らは非常に強く感激したので、その衝撃のハイライトシーンを描写したドキュメンタリー映画は、満州だけでなく日本本土の科学者や軍人ら、見る眼のある人々に広く見せられた。その映画は、中国の新聞のショットで締めくくられているが、それは日本語に翻訳されているので、見る者にもその新聞の「寧波(ニンポー)地区で発生した深刻な伝染病」を報告する内容を味わうことができた。その映画の最後のショットは、「中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子」であった。
 翌年、石井の最も忠実な部下であり最も信頼する助手の1人である大田澄大佐は、中国中部における中国人の抗日勢力に対抗して、大規模な細菌兵器の使用を開始した。今回、標的は湖南省の商業の中心地である常徳だった。大田は初めは、40名から50名の分遣隊に伴って遠征に出た。これが後に、30名の細菌学者を含む100名を超す大所帯になった。9月16日に作戦発動を命じる杉山元参謀総長の指示によっての遠征であった。作戦目的は「中国軍隊の交通路の遮断を主要任務として派遣隊に課し、常徳市の住民間にペスト流行を惹起すべきこと」であった。〔『ハバロフスク裁判』〕
※細菌戦の映画まで作り、それが広く戦時中の日本で軍人や科学者の間で広く見られていたことには驚く。戦争に勝つためには、国家総動員して、科学者もお国のために自分の持っている力を発揮しなければならなかった!!とにかく戦争に勝つことが目的になり、人をたくさん殺す兵器ならば何でもよかった感じだ!!日本の場合それが細菌兵器の開発だった!!戦後、この映画を見たほとんどの人は、絶対に人前でこの映画のことはしゃべらなかったであろう!!ほとんどの日本軍兵士は、戦地で何があったかを語らず、そのまま60余年が過ぎてしまったのが日本の現状ではないか?日本が細菌戦に本気で取り組んだことがよく分かる!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
張鳳珍(女、91歳)の証言
1937年の12月に夫の陳広才は南京の薩家湾郵便局でイギリス人チーリーの飯炊きをしていました。日本兵が南京に入って来る何日か前に夫は私と息子2人とを難を逃れさせるのに民間の船まで送りました。載った船が八卦洲の水面まで来た時に、日本軍の飛行機の爆撃に遭い、私たち船を放り出して烏江橋村一帯まで逃げて避難しました。夫は私たちを船まで送ってからまた薩家湾郵便局に戻ってイギリス人の飯炊きをしました。日本兵が入って来て2日して、夫は薩家湾郵便局の後ろから日本軍に捕まって行きました。日本軍は夫とその他の所から捕まえてきた20何人かをみんな暁街のあるくぼ地まで連行し機関銃で掃射して死なせたのです。その時郵便局から日本軍に捕まって行ったのにもう1人李宏祥という労働者がいて、日本軍がその人を機務段まで連行した時、間違えて中国人ではないと思って(李さんは様子が外国人みたいだったので)、その人を釈放しました。夫が難に遭った経過は李宏祥さんが後で私に教えてくれたので、夫は難に遭った時37歳でした。(陳平穏が口述により整理)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-28 12:59:39 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
       「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
                        Ⅶ
関東軍司令部及び731部隊の将校たちは、この遠征の成果を喜んだ。彼らは非常に強く感激したので、その衝撃のハイライトシーンを描写したドキュメンタリー映画は、満州だけでなく日本本土の科学者や軍人ら、見る眼のある人々に広く見せられた。その映画は、中国の新聞のショットで締めくくられているが、それは日本語に翻訳されているので、見る者にもその新聞の「寧波(ニンポー)地区で発生した深刻な伝染病」を報告する内容を味わうことができた。その映画の最後のショットは、「中国の衛生兵が白い作業衣を着てペスト流行地区で消毒を行っている様子」であった。
 翌年、石井の最も忠実な部下であり最も信頼する助手の1人である大田澄大佐は、中国中部における中国人の抗日勢力に対抗して、大規模な細菌兵器の使用を開始した。今回、標的は湖南省の商業の中心地である常徳だった。大田は初めは、40名から50名の分遣隊に伴って遠征に出た。これが後に、30名の細菌学者を含む100名を超す大所帯になった。9月16日に作戦発動を命じる杉山元参謀総長の指示によっての遠征であった。作戦目的は「中国軍隊の交通路の遮断を主要任務として派遣隊に課し、常徳市の住民間にペスト流行を惹起すべきこと」であった。〔『ハバロフスク裁判』〕
※細菌戦の映画まで作り、それが広く戦時中の日本で軍人や科学者の間で広く見られていたことには驚く。戦争に勝つためには、国家総動員して、科学者もお国のために自分の持っている力を発揮しなければならなかった!!とにかく戦争に勝つことが目的になり、人をたくさん殺す兵器ならば何でもよかった感じだ!!日本の場合それが細菌兵器の開発だった!!戦後、この映画を見たほとんどの人は、絶対に人前でこの映画のことはしゃべらなかったであろう!!ほとんどの日本軍兵士は、戦地で何があったかを語らず、そのまま60余年が過ぎてしまったのが日本の現状ではないか?日本が細菌戦に本気で取り組んだことがよく分かる!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
張鳳珍(女、91歳)の証言
1937年の12月に夫の陳広才は南京の薩家湾郵便局でイギリス人チーリーの飯炊きをしていました。日本兵が南京に入って来る何日か前に夫は私と息子2人とを難を逃れさせるのに民間の船まで送りました。載った船が八卦洲の水面まで来た時に、日本軍の飛行機の爆撃に遭い、私たち船を放り出して烏江橋村一帯まで逃げて避難しました。夫は私たちを船まで送ってからまた薩家湾郵便局に戻ってイギリス人の飯炊きをしました。日本兵が入って来て2日して、夫は薩家湾郵便局の後ろから日本軍に捕まって行きました。日本軍は夫とその他の所から捕まえてきた20何人かをみんな暁街のあるくぼ地まで連行し機関銃で掃射して死なせたのです。その時郵便局から日本軍に捕まって行ったのにもう1人李宏祥という労働者がいて、日本軍がその人を機務段まで連行した時、間違えて中国人ではないと思って(李さんは様子が外国人みたいだったので)、その人を釈放しました。夫が難に遭った経過は李宏祥さんが後で私に教えてくれたので、夫は難に遭った時37歳でした。(陳平穏が口述により整理)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-27 09:45:02 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
       「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
                        Ⅶ
 寧波(ニンポー)で使われた病気を広める方法はさまざまだった。石井と配下の研究者たちはこの地の罪のない普通の住民たちに対して試験を計画する際、多様な撒布システムを工夫した。貯水池や池や個人の住居の井戸に病原体が投げ捨てられた。10月の初めには、病原体を感染させた小麦やキビの粒が噴霧器によって衢県に撒布された。その月の下旬には、石井が自ら、寧波とその周辺で汚染された小麦や綿のばらまきを指揮した。11月27、28日には、金華の上空付近を、特殊装備が施された731部隊の飛行機が飛び、衝撃で煙のようなものを出す爆弾を落とした。その煙のようなものは、後で薄い黄色に変化した。
 最終結果としては、5か月に及ぶ作戦の結果、ペストが、寧波とその周辺の衢県、江山、金華、義鳥などに広がった。1000人以上の人々が、石井の作った病気のどれかにかかって体調を悪化させ、500人以上の人々が死んだことが知られている。もっと恐ろしいことには、この1940年の秋には石井が解き放った病気が、長期にわたる影響を残したということである。ペストは1941年、1946年と1947年にも、寧波とその周囲の地域社会を襲い荒らし回った。その被害は甚大であった。
※病原体をたくさんまくという普通では考えられない行動を当時の日本軍は中国で行い、長年にわたり甚大な被害を与え続けた。その中核にいた医学者たちは、日本人なら誰でも誇るであろう京都帝国大学や東京帝国大学出身であった!!驚くべきことである!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺 夫ないしは妻の被害
張文斌(女、69歳)の証言
夫は、他の人にみんなに耳の聞こえないデカと呼ばれていました。夫は小さい時は耳が不自由ではありませんでした。1937年の暮れに、日本人が南京に来ましたが、夫は街に出てご飯を食べに店に入りました。お椀を持っていたら、ある日本人に見られ、その日本兵が有無を言わさず、やって来てげん骨でなぐり脚でけっ飛ばし、その一蹴りがガーンと耳に来て、夫の耳を聞こえなくしました。それから夫は耳の不自由な人になり、何年か前に病死しました。
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-26 13:01:14 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
       「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
 これらの破壊工作が非常にうまくいったので、当時中国に駐在していたイギリスの科学者ジョセフ・ニーダム卿は、次のように記している。

 最初は、私はその信憑性に大いに疑問を抱いたが、今は、中国の軍医署によって集められた情報から、日本軍は幾つかの地区でこれまでペストを感染させた蚤をまき続けてきていて、今もまいていることが明らかであると確信している。

 大規模な細菌戦の試験は、実際は1940年7月、罪もない人々への攻撃に始まった。その月末、石井は平房から、厳重に防護された一本の列車を特派している。その目的地は、上海の富裕層のお気に入り、美しい休暇用行楽地の杭州であった。その列車の積み荷は、70キログラムの腸チフス菌、50キログラムのコレラ菌、ペストに感染させた蚤5キログラムであった。細菌戦のターゲットは、杭州の南にある地区、寧波(ニンポー)であった。寧波は19世紀には重要な条約港であり、蒋介石の生れた故郷でもあった。それからの5ヶ月間、寧波とその周辺地域は、一連の細菌兵器作戦にさらされた。
※細菌戦の規模が拡大していく様子が分かる。731部隊で造られた細菌兵器がいかに大量であったかが分かる。
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
周兪氏(女、69歳)の証言
 1937年の冬月に、日本人が南京に侵入した時、私たち一家はどこにも行かないで、通済門外の扇普営に住んでいました。ある日、日本兵が5人私の家に闖入し、すさまじい剣幕で怒っていて、その内の1人が夫の懐から3歳の息子を奪い取って私に渡し、すぐに夫の周俊祥を外に押し出し、耳の穴に銃を当てて一発、夫を活きたまま撃ち殺したのです。撃ち殺しておきながら家族に死体を埋めさせず、何日かしてもう一度死体があるかどうか見に来ると言い、もしなかったら、家族を撃ち殺してやると言いました。
 あの時、私たちの門の所に戴という人がいて、浴場で働いていました。ある日、その人が朝ごはんを食べていたら、日本人に何の訳もなしに撃ち殺されてしまい、30何歳かになったばかりでした。(劉慶躍と汪文等が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-25 18:11:29 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
      「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
 腸チフス菌及びパラチフス菌を染み込ませたビスケットは、石井が南京遠征の際に使用した、もう1つのお楽しみ菓子だった。日本軍の兵士たちは、300から400のビスケットを渡され、それをフェンスのそばや木の脇に放置しておくよう命令された。兵士が急いで撤退するさなか、食糧を持っていくのを忘れてしまったという印象を与えよう、というアイディアであった。いつでも食糧難にあえいでいる地元の住民が、日本軍の食料をたらふく楽しむ絶好の機会に喜んで飛びつくだろうと期待された。当然のごとく、ビスケットの提供が行われて間もなく、病気の発生は起こった。研究者たちは、試験されたさまざまな病原体のうち、「最も有効であったのは、パラチフス菌であった」と結論づけた。
 ほかの実地試験で、731部隊の破壊工作員は、人口密集地域に、ペストに感染した蚤(ノミ)の付いたラットを放した。研究者たちは、このペスト・ラットが現地のラットとかけ合わさって繁殖し、大規模なペストの流行を引き起こすと予測した。731部隊の男たちはまた、特別に改造された万年筆や杖に細菌を植え付ける方法が、細菌兵器として病原菌を広めるのに効果的な方法であることも発見した。細菌をちりばめた仕掛け付きの道具は、泥道や舗装道路沿いに落とされておかれ、それらを好奇心の強い者やあるいは欲しがっている者が家に持ち帰った。伝染病が発生すると(ペストが一般的だった)、日本軍の兵士がその被害を受けた地域に急行し、村民全体に立ち退きを命令して、外部の者に本当は何が行われたのか分からないように村を焼き払った。
※日中戦争時における日本軍の謀略事件はたくさん起こったのであろう!!多くの中国の一般市民が、何が起こったのか分からず、立ち退きを命ぜられ、家は焼き払われ、また病気で多くの方が亡くなった!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
王淑華(女、73歳)の証言
 1937年に私の家は糖坊橋47号だったのすが、日本軍が南京を侵犯した時は、私たちはみんな鼓楼三条巷2号の難民区に逃げて居住したので、家は空っぽでした。日本軍が入って来て何日もしないある日のこと、誰かが外で日本兵が来たぞと怒鳴ったので、私は恐くて、1歳ちょっとの下の女の子と奥の部屋に隠れました。夫の曾正禄(34歳)と上の男の子(7歳)と、それに私の弟(16歳)とが外にいました。ちょっとして、上の子が私にお父ちゃんと叔父ちゃんとが捕まってっちゃった、トラックに乗ってっちゃった、と知らせましたが、私は出て行かれませんでした。その時トラックが何台もいましたが、鬼がみんなをどこへ引きずって行くのか知らなかったのです。何日かして、人々が言うのでは、みんなは一緒に下関(シャーカン)の江辺まで引きずって行かれ機銃掃射で殺されました。父は息子が撃ち殺されたと聞き、江辺まで死体を探しに行きました。下関まで行ったら、死んでいる人がいっぱいで、長江の上にも死人と着物とが浮いて来ているのを見かけました。どうにも尋ねようが無く、それで、2人の屍は、今でもいまだ見つかっていないのです。(朱文英と顧洪華と汪道明が記録)  
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-24 11:34:25 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
       「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
 1942年7月、石井は細菌戦遠征部隊を率いて南京に行った。そこで彼は現地の細菌戦の死の工場のメンバーと協力関係を結び、共同で金属製のフラスコ〔携帯用瓶〕やガラスの瓶に入っていた腸チフスやパラチフスの細菌を井戸や沼地、普通の市民の家々に投げ捨てたりして散布した。石井がすべて平房で製造された130キログラムもの〔A型〕パラチフス菌及び炭疽菌、それに量がわかっていない腸チフス菌を持ってきたので、彼らの散布作戦の実施は、ふんだんに細菌を使ったものとなった。当地での流行病の発生は、その後すぐに起こり、研究者たちを大いに喜ばせた。
 南京への旅は、その他にも有益なことがあった。石井は、その都市を訪問している間、近くの2つの兵営において、捕らえられた中国人の囚人に対して特殊な施術を行った。加えて、彼は地元の若者たちに対して、炭疽菌のちりばめられたチョコレートという、尋常ならざる気配りの品を用意した。3000名の戦争捕虜に対しては、祝日の祝いとして、腸チフス菌かパラチフス菌を混入した肉入り蒸し団子〔饅頭〕が与えられた。その囚人たちは、やがて解放されて家に帰されたが、帰った先で、知らずに病気を広める媒介者の役割を担うことになった。子どもたちはチョコレートをたらふく食べて、その結果、必ずその副作用を受けた。
※南京の1644部隊とともに細菌の散布を行ったのだろう。とにかく、731部隊の姉妹部隊はたくさん中国に作られたので、この他にもいろいろな謀略事件はたくさんあったと思う!!
 石井はこのようなことをやっていて、効果があると喜んだのだろうか?戦争とは人間をこのような感覚にしてしまうのだろうか?多くの人が細菌によってもだえ苦しみ、その様子を見届けて高笑いしているのであろうか?恐いことだ!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
蒲秀英(女、68歳)の証言
 1937年には家は漢西門陶李王巷で、日本軍が南京を侵犯した時、一家で難民区に引き移り建築労働者と一緒に住まいました。
 日本軍が入って来て何日もしないで、難民区に人を捕まえに来て、手にたこのできているのを見つけると、中央軍だと言って、みんな捕まって行って銃殺されました。夫の王雲昌は建築労働者で、手には当然たこがあり、日本軍に捕まって行くのを恐れ、建築労働者12人と一緒に家屋の屋根裏に隠れましたが、やはり日本軍に見つかり、縄で縛られ捕まって行ってしまい、それからは行ったきりで帰って来ず、きっと殺害されたのです。それと同時に、お隣の沈阿大は、門の外に立って自分の妻が日本軍に日本軍に侮辱されるのを見ていながら、まもりに出ては行かれませんでした。他に、18、9歳の娘さんが、顔に黒い灰を塗っていても、日本軍の凌辱を避け切れず、日本軍何人かに強姦されたのです。(呉玉燕と呉建野が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●731部隊の犠牲者
・(731部隊の被害者は)3000名ではない。3000名というのは、実際に殺された男たち、女たち、子どもたちの数としてはひどく低い見積もりである。それにこの見積もりには、1941年より前に殺された人々は考慮されていない。思い出さねばならないのは、石井は人体実験を1932年に始めているということである。何百、おそらく何千と言う人々が、背陰河(ハイインガ)の冒険的事業で殺された。ほかにも、平房で1938年から1941年に川島が来るまでの間に殺されている。また別に、安達、ハイラル、林口、孫呉、大連の支部営内で皆殺しが行われている。さらにもっと多くの人間が広東、北京、そしておそらくは上海およびシンガポール(9420部隊)において殺された。また、少なくとも5000~6000名の人間が、日本の中国への侵略中、石井の直接の指揮下にはない細菌兵器の死の工場(奉天・南京・長春)で、殺されている。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 129頁】
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」 マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-23 09:13:15 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
     「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
 各種の試験は狡猾で陰険で、しかし実に想像力豊かな多くの術策をカバーするものであった。満州の井戸には、非常に効果の高い致死性の腸チフス菌が投げ込まれた。ハルピン及びその周辺地域にあった1000以上の井戸が、1939年から1940年にかけて腸チフス菌で汚染されたと見積もられている。被害は、人間1人の死から、村全体を破壊させるほどの腸チフスの集団的な発生まで及んだ。ハルピンの昔からの住民であるエイダ・ピーヴォ夫人は、彼女の一番上の姉が腸チフスからくる熱で亡くなった日のことを回想した。その姉は、ハルピン・ユダヤ人シオニスト青年団の一員で、1940年の初夏に見学旅行に出かけた。その日は非常に暑く、家への帰り道、みんな13歳から15歳くらいまでの、その40名余りの若者たちのうちの幾人かが、ハルピンの繁華街でレモネードの瓶詰を買った。地元で瓶詰めされて、当地の井戸水を含んでいたそのレモネードを飲んだ子どもたちは、全員腸チフス熱にかかり後に亡くなってしまった。手当てをした医師たちが腸チフスの発生源を追跡調査して、その汚染されたレモネードを突き止めたのである。
 石井は、長春の同僚との共同作業で、満州国首都においてペストを発生させた。彼は1940年にその町に押しかけて行き、地元の統治機関に、ペストの危険がこの地域に迫りつつあるので、一般の人々に予防接種を受けさせなければならないと報告した。ただ石井が当局に知らせなかったのは、彼が使おうと主張した「ワクチン」がペスト菌を含んだ溶液であったということである。罪のない人々が列を作らされて注射されたり、もしかすると飲み薬か食べ物を接種するようにと与えられたりした。とにかく、ペストは首都長春にその後すぐ広がった。
※ひどい謀略事件である!!長春の手口は戦後日本で起きた帝銀事件によく似ている!!帝銀事件では、「赤痢の予防薬」と偽って青酸化合物を行員に飲ませたが。中国ではそれよりも大々的にこのような謀略事件がいくつも起きていた!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
邢王氏(女、78歳)の証言
 1937年には家は和平路で、日本軍が入って来てから、確か臘月(陰暦)のある日、家でご飯を食べていたら、日本軍が7、8人略奪しにやって来て、何も価値ある物が無いのを見て去って行きましたが、他の人の家にかすめに行き、何軒もかすめて、好いものがあると見たら持って行き、あらゆる悪事を働きました。日本軍はかすめた後また我が家に戻って来て、夫の謝春連がその時病気していたのに、どうしても夫と弟を捕まえて行こうとし、2人が行こうとしなかったので、脚で夫の腹を蹴り、発砲してその場で夫を撃ち殺したのです。弟も捕まえられて行き、今も行方が分かりません。(呉玉燕と呉建野が記録) 
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
・サンダース・レポートにはペストノミに関する記載が一切見当たらない。ペストノミは細菌の運び役として有効だった。風船爆弾やウジ型爆弾への搭載、特攻隊員のバラ撒きなど攻撃の幅が広がったからだ。・・・さらに驚くべきことに、田中少佐の尋問そのものがワシントンに全く報告されてない。サンダース・レポートに田中の「た」の字も載っていないのだ。・・・・ここで筆者はある仮説を提示したい。それは田中が提供した情報の価値があまりにも大きかったため、GHQサイドがあえてその内容をワシントンには報告せず、自分たちのチャンネルに情報を閉じ込めてしまった可能性である。マッカーサーがサンダースに免責付与をあっさり認めた経過についてはすでに触れた。マッカーサーの真意はわからないが、彼がそれなりに細菌兵器を重視していたことの証左と考えられよう。・・・・・一方、3年前の日本軍によるバターン半島攻略戦で、約8万人の米フィリピン軍を置き去りにしてオーストラリアへ脱出、“I shall return”の名文句の残したマッカーサーは、ある意味で追い詰められていた。これ以上の失敗が許されなかったからだ。したがって日本の占領統治は、大統領にも野心を燃やす彼の「復権」を占う重要な試金石だった。そしてワシントンに対して自分の威信を高めるには、占領をスムーズに行うだけではなく、米ソ冷戦の文脈で、軍人らしい成果を示す必要があったはずだ。マッカーサーはその成果のひとつを731部隊の細菌兵器に見出したのではないか。当時はワシントンで細菌兵器の有用性をめぐる議論が続いていた。そして田中の尋問でペストノミという新事実が発掘された。それはサンダースにワシントンに持ち帰られてしまうにはあまりにもったいない成果だった。だからマッカーサーはサンダースとの間で、ペストノミの実態解明を後任者への引継事項とするよう話を進め、結果的にはGHQによる情報独占をもくろんだのではないだろうか。なおサンダースの後を引き継いだアーヴォ・T・トンプソン獣医中佐も結局、ペストノミに関する情報をワシントンへ報告していない。・・・(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社)
●昭和天皇と731
・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-22 06:12:26 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
 非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。この感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章及び旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。
 ノモンハンでの経験に支えられて、石井は続く数年のうちに実地試験の展開範囲を、満州全域及び中国における日本軍占領地域と非占領地域との双方を含む広範な地域に拡大した。1939年後半から1942年にかけて、731部隊の工作員たちは、敵軍に対しても、また民間の人々に対しても、多くの試験を行った。このような広範にわたる試験を行うのに必要な兵站の物資及び労力の確保は大変なものだったので、石井は、関東軍の幹部たちと中国に侵略している日本軍指揮官たちの双方から〔試験実施の〕許可を受けなければならなかった。論理的に考えれば、東京の陸軍省のトップたちも、当然彼の作戦を評価し続け、是認していたはずである。石井の行った軍事実験は非常に大規模なものであったので、彼が(呪縛を解き放って)現出させた破壊や大虐殺は、中国から無数の抗議を受けた。その抗議があまりにすさまじく広範囲から寄せられたので、それらは嘘つきの国民党のプロパガンダ以外の何ものでもない、という反論の仕方がされるほどであった。
※ノモンハンで実施した細菌戦で、石井は天皇から勲章をもらった。そしてその後、細菌戦の本格的な実施に向けていろいろといろいろな作戦に取り組み、効果を見ていた。この軍事実験によって多くの中国人の犠牲者が出た!!もちろん、当時の日本人には細菌戦については何も知らされなかった!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
高史氏(女、85歳)の証言
 1937年に家は後宰門で、日本軍が南京に侵入して何日もしないで、家に闖入し、夫と弟と私の弟にホアクーニャン(=若い娘)を要求しました。その頃後宰門地区に住んでいた世帯は多くなく、ある者は難民区まで逃げて行っていて、ほとんど人がいないのに、どこからホアクーニャンが来られるんでしょう。日本軍の要求を満足させなかった為に日本軍に発砲され撃ち殺されたのです。
 翌年の1月16日に、日本軍がまた我が家に突っ込んで来て、夫にホアクーニャンを要求し、同じように要求が満足させられず、その場で日本軍に大きな刀で頭を真っ二つに割られ、全く見るに忍びないすさまじさでした。(習宇清と李秀英と呉建野が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐(当時)の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、731のデータの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●戦後日本
・国を、そして天皇を守るために、日本は敗戦直後の日米の密約にしがみついてきた。その結果として、この日本では、石井のネットワークが行なった人体実験や生物戦(細菌戦)の犠牲者の発掘調査や補償は何もされていない。おそらくこれは、日本という国の持つ、1つの強固な構造からくる。それは、基本的に個人は国家より下位に位置する、決して対等ではないという構造だ。その結果、平和条約等による他の国家への賠償は行なっても、個人に対して決して補償しないという態度が取られることになる。そのためには国として過去の犯罪の事実を、また、それについての責任を認めるわけにはいかないのだ。・・・すなわち、犯罪を、責任を認めたくないから、個人を相手としないということなのかもしれない。【『731部隊』:常石敬一著 200頁 講談社現代新書】
●マッカーサー
※(…)は【『731』:青木冨貴子著:新潮社】のページ番号
・「天皇制を旧来の形のままで存続させようとする(日本の)支配者のもくろみを許さなかったのは、ソ連だけではなかった。アメリカの世論調査では、天皇制廃止の主張が71パーセントを占め、中国の国民政府も、天皇制の存否は国民投票によるべきだとしていた。国内でも天皇制問題は大きな関心の的となり、新聞、雑誌、ラジオで盛んに討議されていた。」(『昭和史』:遠山茂樹ほか著より)
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・バージニア州ノーフォークにあるダグラス・マッカーサー将軍記念資料館には「日本軍の戦争法規違反」と題する報告書が保管されてある。
 終戦前の1945年6月23日付けの報告書には、「連合軍捕虜に対する残虐行為」など、戦争犯罪に問われるべき罪についての詳細があって、細菌戦についてばかりか、石井四郎の名前もしっかり明記されてある。これを見ると、マッカーサーが自分だけの判断で石井部隊に戦犯免責を与えたことがワシントンに発覚すると、元帥の地位も危なくなるほどの綱渡りだったに違いないと思えてくる。それだけの危険をおかしても、マッカーサーは石井部隊の実験結果入手にこだわった。(233)
・「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
厚木飛行場に降り立った時、マッカーサーが側近にこう訊いたと春海(石井四郎の長女)は証言。続いてこう語っている。
「マッカーサーは非常に科学的に方で、イシイなら分かるはずだから聞きたいことがあるということだったのに、側近が誤解して、警察から召喚状が来たもので、石井が巣鴨に拘禁されると、大変だということで、服部参謀などの陸軍省が父を隠した訳なの。それからは私にも分かりません。加茂にも確かにいましたね。何カ所か移ったと思います。日本特殊工業の宮本さんの東北沢のお宅にもいたと思います。その間の根回しは服部参謀がすべてやっていました。」
 石井四郎をめぐって生じた日米トップの誤解が目に浮かぶような証言である。厚木飛行場で先遣隊を迎えた有松精三はマッカーサーの言葉を聞いて驚き、早速、石井四郎を占領軍から隠す画策をした。根回しは服部卓四郎に任せ、その間に有松はウィロビーを通じてマッカーサーと交渉していた様子が手に取るようである。(290)
・ しかし問題は、日本の敗戦後、「禁断の兵器」に取り憑かれた妖怪たちが退治されることなく温存されたことである。細菌兵器のあらがいがたい誘惑が次には戦勝国の軍人たちに乗り移って行った。
 石井四郎は細菌戦に手を染めたからこそ、生き延びたことを知っていただろうか。権力を握るものにとってあらがいがたい細菌戦の誘惑がマッカーサーに取り憑いたため、厚木飛行場に到着した時、彼はこう発したのである。
「ル―テナント・ジェネラル・イシイはどこにいるか」
 その後、マッカーサーが、石井が自宅に戻ることを許し、彼を匿い続けたのは、「禁断の兵器」の強い誘惑のせいだった。
「ジェネラル・イシイの研究はどうしても手に入れたい」
マッカーサーがこう思ったことは疑う余地もない。
一方、本国では終戦とともに終了するはずだったキャンプ・デトリックでの細菌戦の研究続行が決定された。
「小国がいつ何時細菌戦に手を染めるかもしれないからである」
 調査に当たったジョージ・マークは彼の報告にこう記した。小国とは紛れもなく日本のことであり、日本のようなちっぽけな国がこれほどの実験を秘密裏に行っていたのだから、研究を終了すればどれほどの損失がありうるであろう、というのが研究続行の明らかな理由である。
「禁断の兵器」の誘惑に取り憑かれたのは、マッカーサーばかりでなく、トルーマンや国防総省の高官、さらには平房の破壊跡に足を踏み入れたソ連軍とスターリンも同様だった。レオン・N・スミルノフ大佐を東京へ送って731部隊の研究を手に入れようとしたソ連はこれに失敗すると、抑留した12名の石井部隊員を起訴して「細菌戦裁判」を開いた。(356)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・『731部隊-天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたち〔石原莞爾、植田謙吉、東條英機、木村兵太郎、南次郎、小磯国昭、畑俊六、梅津美治郎、山田乙三、荒木貞夫、板垣征四郎、土肥原賢二等〕は、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-21 09:38:22 | Weblog

全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」
           
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
ノモンハン事件の最中、ソ連軍も細菌兵器作戦に従事した状況証拠がある。1942年、バルトーゲルマン系の、あるソ連空軍将校がドイツ軍に脱走した。彼は、ソ連による細菌兵器の準備状況について広範な知識を持っていると主張した。彼の応対に当たった人々によると、この元ソ連軍将校は、彼らに、細菌兵器は「モンゴルでの戦闘において実践試験」をされたと語った。この脱走兵は、その地域で、「広範囲にわたってペストの流行が起こった」と主張した。しかし、彼を尋問した者の報告書には、他に彼の話を立証するデータが含まれていないので、これらの言明には、いくらか注意してアプローチしなければならない。
 おそらくノモンハン事件全体をめぐって最も興味深かった出来事は、1939年10月1日に、石井部隊が関東軍司令官【荻洲立兵(おぎすりゅうへい)第6軍司令官】から特別の感状(戦功を讃える賞状)を授与されたことであろう。軍医部隊としては、これは前例のない名誉であった。他の部隊に属する多くの軍医たちが、他の戦闘においても、自らの任務達成のために英雄的な働きをしてきたという事実があるにもかかわらず、軍医部隊の歴史の中で、他の部隊が同様の表彰を受けた例はなかった。
※ソ連軍も細菌戦の研究をしていたかもしれない。また、日本軍はノモンハン事件で細菌兵器を使用し、その功労として石井部隊に感状を授与した。もちろん戦果を期待していた天皇はそのことは知っていたであろう!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
陳宝琴(女、68歳)の証言
 日本軍が南京を侵犯する前に、私は難民区の半台旅館の後ろに引き移って住まいました。夫の陳銀海がその時22歳で、夫の弟の陳銀龍は21歳で、2人とも皮をなめす職人でした。元々2人は中華門外の南郷まで逃げて隠れていましたが、私のことが心配で、また難民区に戻って来て私と一緒に住まっていました。
 冬月14日に、日本兵が難民区に検査に来て、2人の番になった時、手にたこができているのを見つけ、2人が兵隊だったと言い、鼓楼の湖北路まで連行し、若いのを西に立たせ、老いたのと病気しているのとを東に立たせました。並ばせ終わってから西の人たちを下関まで連行したのです。私は見に行けずにいて、三牌楼で機関銃の音がタッタッタと響くのが聞こえ、夫と弟とが銃殺されたのですが、屍すら見つかりませんでした。(井昇安と丁亜慶が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!
日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解 
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。
サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。
一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。(非常に多くの秘密の事業に従事しているこの組織のために、陸軍省が、コントロールしていた報道関係者にそのニュースを流す許可を与えたことが、その感状(戦功をたたえる賞状)の件をさらに有名にした。1940年5月23日、『東京朝日新聞』は、石井の写真とともに、部隊の授与された感状の長ったらしい本文を全文掲載した。その感状には、次のような興味深い表現が含まれていた―「同部隊は、あらゆる苦難を克服し〔細菌兵器を使用することによって?〕、以て大兵団の作戦を有利ならしめたるものにして」1940年4月29日、石井は個人的に功三等金鵄勲章および旭日賞を、彼がこれまで日常的に日本に奉仕してきたことを評価するものとして、授与されている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。 (以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
●遅すぎた「聖断」
・いま、私の手元に、1988年6月23日の沖縄慰霊の日にちなんだ沖縄琉球放送(RBC)制作の特集番組「遅すぎた聖断―検証・沖縄戦への道―」の脚本がある。
 ディレクターの中里雅之氏の脚本による番組は、昭和天皇の「聖断」が、1945年8月13日ではなく、もっと早くなされていたならば、同年の4月1日の沖縄本島・読谷(よみたん)への連合軍上陸によって本格化する沖縄戦の開始もなく、あの「鉄の暴風」と呼ばれた、壮絶な戦いの中で15万人という死者を出すことはなかったであろう、という歴史事実への思いが強く打ち出された優れた作品であった。そこでのキーポイントとして特に強調されたのは、沖縄戦が開始される1ヶ月半前に近衛文麿によって昭和天皇に提出された早期の「終戦」を訴えたいわゆる「近衛上奏」に対して、「もう1度戦果を挙げてからでないと」と一蹴した昭和天皇の言葉であった。戦力の底をついていた日本陸海軍の現実を直視することをせず、ひたすら沖縄守備軍と沖縄民衆に絶望的な戦いを強いた帝国陸海軍最高司令官としての昭和天皇の非合理的な判断と、「国体(=天皇制支配国家体制)護持」の1点にのみ執着する余り、甚大な犠牲を生み出すことになった、昭和天皇の〈不決断〉と〈無責任〉とを厳しく衝いた内容であった。・・・・【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:179頁】
※もちろん、沖縄戦の前に停戦もしくは終戦をしていれば、沖縄戦もなかったし、広島・長崎の原爆・日本の都市への多数の空襲・満州でのソ連参戦での大混乱もなかったであろう!!
※今、沖縄の米軍基地の移設問題が大きな国内の問題になっている。
国際紛争は、どうしても軍事力に頼らなくては解決しないのであろうか?
民主党政権には、アメリカに対して、軍事力を削減して、平和的な外交手段で世界の平和を築くように働きかけてほしい!!

コメント

この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-02-20 12:47:29 | Weblog

「ノブの日記」 のタグをクリックお願いします!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
「武器よ!さらば!!」

    「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!

「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『死の工場』(隠蔽された731部隊)
(シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳:柏書房:1999年発行)
6章 人体実験―「秘中の秘」
       Ⅶ
 石井配下にあった当時の若い新兵が1982年、64歳になってから、ノモンハン紛争の最中の別の実地試験について回想している。鶴田兼敏氏は、『毎日新聞』の記者に、自分はソ連軍に対する腸チフスの実験に参加したと語った。鶴田の回想は以下の通り―。
 
 8月末でした。トラック3台にガソリン缶を積みハルハ河支流のホルステン河へ向かった。対岸はソ連軍が制圧し時々、信号弾が上がった。真暗ヤミの中で班長が液状の細菌を“まけ”と命じた。腸チフス菌ですよ。その班長が感染し腸チフスで死亡したのを後で聞いたのだから。
 日常の仕事は細菌媒介用のノミを飼う昆虫班。事件後、もう恐ろしくて、辞職した。太平洋戦までは、どうしても、といえば辞めた未成年隊員もいた。厳重に口止めはされたが。

 これらの努力の効果を正確に測定することは難しいが、少なくとも石井と彼の部下たちはこの作戦から非常に貴重な経験を得ることができた。
 731部隊の特務部隊は、ソ連に対して、細菌の詰まった弾頭を持つ砲弾を配備していた。6月初旬までには、彼らは海拉爾(ハイラル)に2000以上の砲弾を備蓄していた。どの砲弾も長さ1.5センチ、直径0.5センチの鋼製の弾頭があって、その中には病原体が入っていた。ほとんど全部の砲弾が7月から8月にかけて敵軍に対して発射されたが、その戦果ははっきりしない。ペスト、赤痢、コレラが、ソ連および日本の両陣営に甚大な損害を与えたことは確かだが、これらの感染者が、その細菌兵器が原因で難儀を被ったのか、それとも岩だらけの起伏の多い国境地帯の原始的な衛生状態も相まって自然環境が原因でこのような病気に感染してしまったのか、判断することは難しい。
※「大東亜共栄圏」という理想を掲げて、闘っていた戦争で、若い純真な青年たちは自分たちのやっていることに疑問と恐怖の念を抱き、隊員を辞めたとあるが、辞めるのも勇気のある決断だと思う!!
●南京大虐殺     
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳) (発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
夫ないしは妻の被害
何王氏(女、83歳)の証言
 家は代々清涼山で、あの時清涼山西村や清涼山新村の一帯はみんな畑で、植えてたのは麦や蚕豆でした。1937年の12月13日に、日本軍が攻め込んで来てから、至る所で人を殺し、清涼山一帯はどこも死体ばかりでした。翌年の春になり、山で蚕豆を採った時にも、屍を1つ見つけましたが、もう白骨になっていて、私は恐ろしくて気絶せんばかりでした。
 日本軍が南京を占領してから、至る所で人を捕まえましたが、夫は日本軍に捕まって行き、余りにむごくなぐられて、顔が紅く腫れ紫がかり、豚のレバーみたいな色になり、ぼやっと惚け、何日も意識不明瞭で、口が利けませんでした。
 甥の李文煥やその子李小五が清涼山に住んでいる人たちと一緒に捕まり、同時に捕まったのがみんなで13人でしたが、今なお行方不明です。その時金陵女子大学難民区に住まっていた甥の楊小徳子も捕まって行き、今なお音信がありません。
 清涼山の平寿庵に住んでいたお婆さんで、50歳余りだったのが、家の人が逃げて行って、何日かして戻ってきたら、お婆さんはもう踏みつけにされていて、かまどに腹ばいになって死んでいました。
 それと何さんという皮なめしの職人と、あだ名を猿と言った綿を打つ人が、道端で突っつき殺されました。(唐青雲が記録)
●女たちの戦争と平和資料館
常設展(日本軍「慰安婦」問題)と特設展(転載)
特設展
証言と沈黙 加害に向きあう元兵士たち
午後1時より6時まで入館料500円 
休館 月・火
 03-3202-4633
 早稲田奉仕園AVACOビル2階
jr 高田馬場駅よりバス西早稲田下車 2分
地下鉄東西線早稲田駅歩 5分 
※シャープの電子辞書パピルスの「日本史辞典」に「毒ガス戦」について次のような記述があった。
毒ガス戦・・・化学(毒ガス)兵器を実践に使用すること。第1次世界大戦で欧州では大規模な毒ガス戦がなされ、1925ジュネーヴ議定書でその戦時使用が禁止された。日本は第1次大戦後、毒ガス兵器の開発と製造を進め、日中戦争開始後、陸軍ははじめ実験的に毒ガスを使用、やがて恒常的に毒ガス戦を実施し、‘38(昭和13年)の武漢作戦はその最大級のものとなった。日中戦争は日本軍による毒ガス戦の性格をもつ。中国側の報告によると日本による毒ガス戦は2000回をこえ、中国側死傷者は9万4000人にのぼるという。
※日本は1925年のジュネーヴ議定書で戦時使用が禁止されてから、毒ガス戦・細菌戦を大々的にやったことになる。
日本政府は考えてください!!日中合同集団検診に国のお金を!!
毒ガス(旧日本軍が遺棄したもの)の被害は進行するので、継続的な検診による病気の早期発見が重要です。ハルピンの医療機関に支払う検査費用・被害者の交通費、宿泊費、食費・通訳費用・事務局スタッフの交通費等を化学兵器CAREみらい基金の会費と寄付金で賄っているとのこと。これは、人の命を大切にする民主党政府が本来やるべきだと思います!!国会議員の皆さん、考えてください!!
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか? 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
尋問がはかばかしく進まないと、早々とアメリカは731部隊幹部に戦犯免責を与え、細菌戦のデータを引き出した。
731部隊幹部は人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか? マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか? (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!) その結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。
●国の公式見解 
731部隊について国会で取り上げられたことがある。
1982(昭和57)年4月6日、国会議員が「生体実験を行った731部隊の規模・配置状況」について質問したのに対し、厚生省(当時)は内部資料をもとに、部隊員総数(3599人)などを回答した。日本政府が公式に731部隊の存在を認めたのは、この時が初めてである。しかし731部隊の人体実験と細菌戦の実行については認めず、今もその態度を変えていない。さらにアメリカからの関係資料の取り寄せと、調査が要求されたが、外務省は拒否している。(『731部隊展 1993.7-1994.12』:731部隊展全国実行委員会編集より)
●マッカーサー
・マッカーサーは日本に到着する前から、石井の機関が細菌戦の準備や、人体実験をしていたことなどの報告を受けていた。
・マッカーサーは、初めから731部隊関係者を戦犯にすることを考えていなかった。最初の調査官サンダースが調査に行き詰っていて、「生物戦に関係した者は誰も戦争犯罪人として裁かれることはないと、内藤に約束するのです。」と言った時、マッカーサーは「・・・・そうしなければすべての情報を得ることができないと思うなら、マッカーサーの意志だと言って内藤に免罪の約束をしなさい。そしてデータを入手するんだ。」と言った。ただ、細菌戦のデータを欲しがっていた。そして、731部隊に関係のありそうな事件(帝銀事件)や731での人体実験が明らかになり、天皇に責任が及ぼうとすると、調査をストップさせた。
・北野中将(731部隊第2代部隊長)は45年3月、石井部隊長復帰に伴い第13軍軍医部長として上海へ転出、終戦後もしばらく同地にとどまった。 
この北野が帰国するのが翌46年1月9日。米軍機により単身、厚木へと降り立った。北野は早速、車で東京・丸の内のホテルへ連れられ、その日はそこに宿泊。翌10日に「有末機関」を訪れ有末精三・対連合軍陸軍連絡委員長と面会した。
有末委員長は終戦時、陸軍中将で情報部門を担当する参謀本部第2部長の要職にあった。終戦直後には厚木飛行場でアメリカ軍の先遣隊を出迎える総責任者も務めている。そして引き揚げや戦犯問題などをめぐり、連合軍との窓口役である「対連合軍陸軍連絡委員会」の委員長に就任、・・・・有末機関を訪れた北野中将は、有末委員長から思わぬ一言を告げられた。「アメリカ軍とはもう話がついていて、戦犯になることはない」。尋問が始まる以前から、戦犯免責の段取りがついていたのである。5月開廷の東京裁判へ向けた訴追作業が大詰めを迎えるなか、最悪の事態をも想定して単身帰国した北野にしてみれば、有松の言葉は青天の霹靂(へきれき)だったであろう。・・・・さらに不思議な出来事が続いた。北野は有松機関を訪れたその足でGHQへと向かう。そして驚くべきことに、GHQで伝えられたのはなんと、「生物戦のことは口外しないように」との一言だった。・・・・
そのトンプソンの調査が始まる前日に、同じアメリカ軍であるGHQがどうして被尋問者の北野に不可解なアドバイスをするのか。目的が戦犯訴追にしろ科学調査にしろ、敗戦国の軍事情報の収集は終戦処理の大事なプロセスである。それなのに調査対象者に「本当のことを言うな」という常識ではとても考えられないこのGHQの提言は、いったい何を意味するのか?
その背景にあったのは、おそらく日本を占領統治する駐留アメリカ軍が内包した権力の「二重構造」ではないだろうか。サンダースやトンプソンはワシントンの意思で派遣された細菌戦の権威。軍内の地位は高く、その目的は戦犯訴追ではなく軍事データ取得のための科学調査にあり、米ソ冷戦が胎動する中で軍事戦略上の重要性を帯びていた。一方GHQだが、トルーマン大統領がマッカーサーに「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官としての貴官に従属する」との指令を出していたことからもわかるように、日本での地位が絶対的というだけでなく、ワシントンもその意向を最大限尊重しなくてはならない出先機関だった。
したがって、GHQが尋問前日に北野を呼び出しわざわざ箝口令(かんこうれい)を敷いたことは、トンプソンらキャンプ・デトリック組とはまったく違った思惑が、マッカーサーのGHQサイドに内在していたことを示唆している。トンプソンの狙いが部隊の実態解明と兵器データの取得にあったことは疑いない。それではマッカーサーの思惑とは?・・・・それは、731部隊の極秘情報を自分の威信を高めるためのカードとして最大限利用する、というワシントンを意識したマッカーサーの秘策である。ペストノミに代表される軍事機密をGHQの情報チャンネルに閉じ込め、独自に全容の解明を進める。その成果はワシントン凱旋の手土産とし、復権への足がかりを築く―。野心家軍人ならではのシナリオである。そしてそうした策略は、部隊の核心情報を隠し通すことで免責の温存を図りたい石井や増田、内藤らの目論見とみごとに合致したのではないか。(『731免責の系譜』太田昌克著:日本評論社より)
●昭和天皇と731
・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・ 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。
・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)
・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・ 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)
・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。
・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。
・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。
・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。
・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。
・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)
●遅すぎた「聖断」
・いま、私の手元に、1988年6月23日の沖縄慰霊の日にちなんだ沖縄琉球放送(RBC)制作の特集番組「遅すぎた聖断―検証・沖縄戦への道―」の脚本がある。
 ディレクターの中里雅之氏の脚本による番組は、昭和天皇の「聖断」が、1945年8月13日ではなく、もっと早くなされていたならば、同年の4月1日の沖縄本島・読谷(よみたん)への連合軍上陸によって本格化する沖縄戦の開始もなく、あの「鉄の暴風」と呼ばれた、壮絶な戦いの中で15万人という死者を出すことはなかったであろう、という歴史事実への思いが強く打ち出された優れた作品であった。そこでのキーポイントとして特に強調されたのは、沖縄戦が開始される1ヶ月半前に近衛文麿によって昭和天皇に提出された早期の「終戦」を訴えたいわゆる「近衛上奏」に対して、「もう1度戦果を挙げてからでないと」と一蹴した昭和天皇の言葉であった。戦力の底をついていた日本陸海軍の現実を直視することをせず、ひたすら沖縄守備軍と沖縄民衆に絶望的な戦いを強いた帝国陸海軍最高司令官としての昭和天皇の非合理的な判断と、「国体(=天皇制支配国家体制)護持」の1点にのみ執着する余り、甚大な犠牲を生み出すことになった、昭和天皇の〈不決断〉と〈無責任〉とを厳しく衝いた内容であった。・・・・【『「聖断」虚構と昭和天皇』:纐纈厚著:新日本出版社:179頁】
※もちろん、沖縄戦の前に停戦もしくは終戦をしていれば、沖縄戦もなかったし、広島・長崎の原爆・日本の都市への多数の空襲・満州でのソ連参戦での大混乱もなかったであろう!!

コメント