養子 アメリカで驚いたこと

2015年11月30日 | ひとりごと、雑記

女性の地位向上やマイノリティーへの理解や支援は
欧米から始まって、日本の方にもたらされてきたような
イメージがありますよね。。。(女性の社会進出、LGBT etc)

それで、子どもがいない女性たちへの理解というか
そういう人たちへの心のサポート、
LINKS(子どもがいない人生)というカテゴリーの人たちに対して理解しましょう、みたいな動きが
アメリカで進んでいたら、日本にもその動きが入ってくるかもなんて
勝手に期待していたのですが、、、

昨日のブログでも書いた
『「産まない女」として生きるあなたへ』(リンダ・ハント・ハントン著 久坂 翠 翻訳)より

”永久に子どもができない状況について世間の人が話し合うことはめったになく、
この話題はタブー視されています。←ここのところに

え~、アメリカでこんな状況では
日本で子どもを持てなかった女性たちへ目が向けられる、なんてことは、なかなかないのかもと思ったのでした。

(本が書かれてから時間が経っているので今の状況は変わってきているかもしれませんが。)

それと関連して思い出したのはアメリカでは養子多いなあと思ったこと。

デジカメもないはる~か昔若い頃インターンシッププログラム
に参加してアメリカの田舎の小学校で日本文化)(折り紙を教えたり、
写真見せたりいろいろ)を通じて交流したことがあります。
先生のお宅にホームステイをしていました。

小学校にいて気が付いたこと、
アメリカで暮らしたことがある方なら多分感じてらっしゃたことがあるかもしれません。

養子、って一般的だなあ、、、ということ。
しかもかなり年齢がいったご夫婦が養子を迎え入れたり、なんかいろんなケースあって、
移民社会で、文化的背景が全く違うので日本と比較できませんが
日本より養子を受け入れるシステムが出来上がっていて、何より養子に対する偏見が少ない。

8歳くらいの男の子
「僕は養子なんだ」と胸を張っていたのがとても印象に残っています。
それを思い出して、短絡的ではありますが、

あ~、アメリカは子どもがいない場合、子どもを持ちたければ
養子を迎え入れるのは珍しくない。血はつながっていないけれどそういった偏見も少ない。
養子を迎えて、”子どもがいない人生”を”子どもがいる人生”
へとシフトできるのが一般的なのか。
そっかぁ、じゃあ
子どもがいない人生の人たち(少数派なのかな?推測)へは世間の目はあまり行かないのはしょうがないのかな。
なるほど。
じゃあ、LINKS(子どものいない人生)みたいな概念やそれに対する認知度が
高まり、その動きが日本に来ることは期待できないんだろうな~、なんて
また思ったのでした。がっかり
(当たっているかは分かりませんが


 

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悲しみを隠して平気な顔をする、平気な顔をした、、、

2015年11月29日 | 本Never to be a mother

私がまさに取り上げて欲しかったテーマ(お母さんになれなかった、子どもを持つことができなかった)の本

『「産まない女」として生きるあなたへ』

 リンダ・ハント・ハントン著 久坂 翠 翻訳 

のことは
過去記事

こちらの記事


でも書きました。
その中から印象に残ったことをランダムに書いていってみます。

1章の「喪失感を隠し、人知れず苦しむ女性たち」の中で、

”子どものいない女性のほとんどが、自分の失望感や悲しみをおくびにも出さず、懸命に日常を送っています。”

”永久に子どもができない状況について世間の人が話し合うことはめったになく、
この話題はタブー視されています。”

と書かれています。

最初読んだ時、ぐっ、と来てしまいました。

子どもが欲しかった女性がそれほど親しくない知り合いから世間話の流れで
子どものことを聞かれた時、まだ悲しみが十分癒されていない段階だったら、胸ににちくっときて
本当は涙をほろりと出してしまう状況になるかもしれません。

でもあからさまに悲しい顔をその人に見せたり泣きだしてしまったら
その場の空気を壊してしまう。
懸命に平気な顔をするしかないと思うんです。

癒され方は人それぞれなので、十分悲しみが癒された後だったら冷静に受け答えをし、
人によっては、悲しみが解消されていて全くもって平気な場合もあるでしょう。

しかしまだまだ悲しみが大きい場合でも、それを抑えて平気な顔を他人の前でもしなくてはいけない。
”懸命に日常を送っています”という表現にnever to be a motherをよく
言い表わしているなあと思いました。

そして平気な顔をしなくてはいけないのは
never to be a motherのことを
世間の人が話し合うことが極めて稀で(講演会やセミナー、ミーティング等聞いたことがない
タブー視されている傾向があること。
もしかするとはれものに触るような話題であること。
それが平気な顔をしなくてはいけない、を増幅しているかもしれません。

この本が日本で出たのは約15年前ですが、
アメリカでもそんな感じなんだ~、とちょっと驚きました。
それなら日本でタブー視化されるのは
仕方ないよね、と思ったのでした。


*「母になれなかった女性」のことを
原題から取って、ちょっと変だけれどnever to be a motherと場合により(便利なので)使うことにしま~す。




聞かれる、聞かれる、かも

2015年11月28日 | 日記
先週、短期で取っている英語関係のクラスがありました。

講師から「ウォーミングアップで、まずは隣の人と少し近況話して」と言われ、お隣の人と

How was your weekend?みたいな質問から始めました。



組んだ男性の方が、先週末(連休でしたね)子ども2人と近県でリンゴ狩りをしたと話しました。

子どもの1人(10代後半)はその県に今住んでるとか言っており(大学生かな?)

子どもの話が続いていたので、それを聞いている間「わぁ~、子どもの話題が長くなっているから、

今度こっちに子どものことを聞かれるかな」と

考えていた自分がいました。

なんか過剰すぎだけど、自分の子どものことを話したから

じゃあ、今度は相手に同じ話題で聞いてみよう、という

会話の自然な流れの中で、聞いてくるんじゃないかなあと考えていたのでした。

少しですがドキドキしていました。

なぜドキドキしていたかとういと、子どもの質問は

「当然いるよね」を前提にして今まで受けてきたことが多いです。

聞かれたくなかった、答えなくなかったという悲しい想いはほとんどありませんが、

「あ、私子どもいないんで」と言ったときの相手の

「あ、聞かない方がいいこと聞いちゃった~」というような一瞬の沈黙が想定されて

それがいやだったのでドキドキしていたのでした。


あまり知らない相手が子どもの話をしばらくしていると「聞いてくるかな?」と

自然に身構えている状態なのに自分でもちょっとびっくりでした。

独身の時、まだ結婚してないけど、子どもの話を質問されたことも何度も
ありましたが(^_^;) この時は結婚を、飛び越えて質問されたので
ただ、えー結婚してないんですが、と言うとまたちょっと
気まずさが。。。

子供のこと聞かれるかも、聞かれるかも、と会話をしながら
思ってしまったことなんてありますか?





アラサーフォーフィフ~~

2015年11月27日 | ひとりごと、雑記
アラフォー、アラフィフをブログでもよく使っています。

最初、この言い方がされ始めたとき、軽々しい言い方が何となくいやでした。

アラサーが最初だったでしょうか。30歳前後って言えばいいのに。
英語でも日本語でも
なんでも略して用語にしちゃってさぁと。

ところが、アラフォーが出てきて自分がその年代だったので使うようになってきて、
アラフィフというのも出てきて、そしてアラカンも(アラカンってちょっとかわいい
よくないですか~、年を聞かれて
いや~定年がもうすぐでねぇ、とかいや~還暦があと数年で、、、いうより、
まぁ~もうすぐアラカンでね、って言うの。)

39の時の出来事を表すのに、アラフォーの時とか。
46の時の出来事を表すのにアラフォーもちょっと過ぎた時とか。
そこはなんとなーく、適当です。
39歳の時に、と明確に書いてもいいんだけれど、まあ
その年齢の雰囲気が分かればいい時には「アラアラ年代」は便利です。

最初いやだった言い方、このアラサーアラフォーアラフィフアラカンの「アラ〇〇、around 〇〇」こそ、
子どものいない人生をやんわりと表わすことばが欲しいと思うことを書いた中の、「やんわり表すことができる」使える用語の
典型的なものだった(昨日気が付いた)。
普通に使っていたけれど、なんてやんわり感満載なの♪

例えば、28歳の女性が自分に気がありそうな男性から「何歳?」と年齢を聞かれたとします。
「アラサー」と言っておけば、28歳かもしれないし、32歳かもしれないし、相手の想像に
任せられます。
もし30歳代に思われたくないと思えば「28」とちゃんと言えばいいし、そこまで
ハッキリ年齢を言いたくないけど20代にはしときたいと思えば
「う~ん、アラサーの前の方かな」とかなんとか言って
まだ30前よ、若いのよ、を匂わせつつ煙に巻けばいいのです。
(このあたりの駆け引きと微妙な女心、男性には?の人もいるかも

しかしこの「アラ」、厳密には何歳を指すかまでは知らなくて調べると


ウィキペディアでアラサーによると

アラサー 27-33歳
アラフォー 37-43歳
アラフィフ 47-53歳
アラカン 57-63歳

人の感じ方や希望にもよるので、44歳でアラフォーって
言う人もいていいんじゃないでしょうか。
履歴書や明確に年齢を言わなくちゃいけない場合以外は。
そこまで厳密に定義されているわけではないようですし。

時と場合により「アラ」の曖昧さの良さを利用して便利な使い方ができます、はい。




思考のお化け

2015年11月25日 | ひとりごと、雑記

にっちもさっちも行かなくなって考えるだけでも疲れてしまうことありませんか。
そこまでではなくても、考えても仕方ないと思いつつ、
考えてしまって頭の中がぐるぐる回る。
でもたくさん考えたからって解決の糸口が見つかるとは限らない。
思考が暴走してわけがわかんなくなってしまう、これを私は思考のお化けと呼んでいました。

私が40代独身一人暮らし時にリストラに遭い、
人間関係も経済的にも追い込まれていく状況の時、
「こうしたらよくなるかも」「こうすれば、ああすればもっと仕事が見つかるかも」と
頭の中はフル回転でした。
一方、「もう私はダメだ。思い描いていたものとは全く違ってしまった、もう落ちるだけだ」
「私は敗者だ」など自分を責める考えもどんどん出てきます
ホント、考えるのってエネルギー使うのか、考え疲れになりました
そして敗者だと思うと、絶望感や悲しいという感情がどわぁ~と出てきました。

その状況の時、料理関係の月刊誌を読んでいたら「思考にご注意!」という記事に目がとまりました。
(京都嵯峨芸術大学の森本武さんという方が書かれたものでしたが、
なぜ料理冊子に思考の話が出てきたのかいまだに?です。)

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嫌な出来事があった、その記憶が夜離れず嫌な気分になる。考えなければ何もない。
未来についても、貯金の残高を眺めながら先の生活を考えて不安を覚える。残高を知る行為も思考です。
思考に頼りすぎてはいけません。
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というような内容が書かれていました。
その時は、「確かに考えなければ不安も嫌な気分にならないけれど、
だって~、考えなくちゃ将来の生活の対策が立てられないじゃん!!」と思いましたが、
思考のお化けに悩まされ疲れていた私には、
思考に頼りすぎてはいけない、ということにちょっとした驚きを覚えました。

その後、溝口あゆかさんのインテグレイテッド心理学を学んでいく中で、
このときに書いてあった思考に頼りすぎてはいけないということが段々と分かってきました。

例えば、
「子どもがいない」これは、まぁそういうことです、事柄、出来事、事実です。

「私は45で独身だ」これも、まぁそういうことです。45歳の人が独身というだけのことです。
極端に言えば、This is a pen. という事実をいうのと同じこと。

でも、この「私は45で独身だ」という言葉を言い始めている時に既に、
「このまま独りだったらどうしよう、暮らしていけるだろうか、周りから寂しい女と思われないだろうか」
というような思考が一瞬にして付随することがよくあります。
「子どもがいない」に付随する
「だから将来年取ったら寂しいだろうな、面倒は誰が見てくれるんだろうか」というところは思考です。
この区別が最初は本当によく分かりませんでした。

事実とそれに付随する思考(このまま独りだったら食べていけるだろうか。。。子どもがいないと将来病気の時どうなってしまうだろう)そして、、、感情(寂しい、悲しいなど)。
この事実、付随する思考と感情、これが一緒になった時、
思考が暴走するかの如く、思考のお化けに悩まされるんだなぁと思います。

「将来病気になったらどうしよう」→、だからこういう保険に入ろう等、現実的に対応方法を考えます
(思考のお化けではない必要な思考)。
「将来病気になったらどうしよう」→そこから出てくる不安や焦りは癒した方がいい感情です。

ある状況であれこれ考えてしまってわけわからなくなってしまったら、
どれが事柄なのか、どれが考えなのか、どんな感情があるのか、
分けてみると、どこに自分が一番ひっかかっているのかが分かりやすいなと思います。
と思いつつ、思考のお化けが出てくると
それでしばらく頭がいっぱいになってしまうこともまだまだあります。