
東京フィルハーモニー交響楽団/第68回東京オペラシティ定期シリーズ
2012年3月8日(木)19:00~ 東京オペラシティコンサートホール A席 1階 4列 14番 3,780円(会員割引)
指 揮: 広上淳一
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団
合 唱: 東京混声合唱団
【曲目】
黛 敏郎: トーンプレロマス'55
黛 敏郎: 饗宴
黛 敏郎: BUGUKU
第1楽章: レント
第2楽章: モデラート
黛 敏郎: 涅槃交響曲
第1楽章: カンパノロジー I
第2楽章: 首楞厳神咒
第3楽章: カンパノロジー II
第4楽: 摩訶梵
第5楽章: カンパノロジー III
第6楽章: 終曲(一心敬礼)
東京フィルハーモニー交響楽団の第68回東京オペラシティ定期シリーズは、オール黛敏郎プログラム。ある意味ではマニアックなプログラムだが、20世紀後半の日本の「クラシック音楽」界に燦然と輝く巨人、黛敏郎さんの代表的なオーケストラ作品を4曲まとめて聴ける機会など滅多にあるものではない。東京フィルの2011/2012シーズンの会員になった理由のひとつに、今日のコンサートがあった。1年以上前から楽しみにしていたものである。とくに「涅槃交響曲」は遥か昔、学生の頃に聴いた記憶があり、それ以来のこととなる。男声合唱を含めた大編成のオーケストラ(管楽器群がステージ以外にも配置されるため、倍以上の管楽器奏者が必要)が必要になるため、演奏機会が少ない。ところが一度聴けば強く印象に残る曲であり、今回の機会を逃すまいと思ったものである。
黛敏郎さんといえば、昨年2011年11月に、オペラ『古事記』が上演され話題になった(オペラ形式で日本初演)。そのライブ映像が今週のNHK-BSプレミアムで放送される(3月10日深夜)のも、偶然とはいえ、因縁めいたものを感じる。

1曲目の「トーンプレロマス'55」は、いわば管弦楽から弦楽を抜いた器楽構成の曲。会場に入ってみると、左右の端に弦楽器奏者用の椅子と譜面代が片づけてあるような状態で、ステージの手前半分が大きく空いている。弦楽抜きとはいえ、2~5管の大規模な管楽器と、現代音楽らしい豊富な種類の打楽器、そしてピアノまであるので、オーケストラの編成としては小さくはない。既存のオーケストラにおける表現の限界を感じ、その構造を破壊しつつ、「息を利用する管楽器と、手に依るアタックを生命とする打楽器とのアンサムブルが発する音のエネルギーの集積」を目指した作品ということだ。
演奏は、強烈なリズムと断片的な音の洪水が、まさに「集積」したもので、東京フィルらしい濃厚な管の音と、耳で聴くというよりは身体を共振させるような打楽器による爆発的な音圧(ある意味では「騒音」ともいえるような)に身を委ねていると、何ともいえない陶酔感が生じてくる。不思議な曲であると同時に素晴らしい演奏でもあった。また変わったところでは、ミュージカル・ソーという楽器が登場する(演奏はサキタハジメさん)。要するに演奏用のノコギリに弦楽器の弓を当て、ビョヨーンという振動を使って不可思議な音階を出すのである。
2曲目は「饗宴」。弦楽のメンバーが入場してきて、やっといつものオーケストラに戻った(管楽器にはサクソフォン4が加わっている)。この曲はジャズの即興演奏をより過激に熱狂的にしたような曲であり、やはり強烈かつ変則的なリズム感と各パートがバラバラ勝手に演奏しているような混沌とした音の奔流の中に、曲全体を貫く大きな流れのようなものがあって、引き締めている。演奏は、リズムへのノリが良く、広上淳一さんのキレの良い指揮で、非常にダイナミックなものとなった。
前半の最後は「BUGAKU」である。「舞楽」の構成要素を管弦楽に持ち込んだ現代作品であるが、もともとはバレエ音楽として作曲されたものだ。第1部(楽章)はレントで、冒頭と集結部に現れる弦楽器のグリッサンドによるキュイーンという音が共鳴するように広がっていく様が非常に印象的だ。第2ヴァイオリンのフォアシュピーラーから始まり、主席へ、第1ヴァイオリンへ、ヴィオラへと変則的に重なっていく。各パートの2~3人が異なる音程・音型で弾いていて、徐々に不協和が増していくあたりは、ゾクゾクするような刺激的な音楽だ。2列目で聴いていると、色々な方角から響き合わない音が出てきて、とても面白い。中間部はリズムが強調されオーケストラ全体に不協和な音が広がっていくが、そのベースには日本古来の舞楽の響きがある。
第2部はモデラートとなっているが、序・破・急の形式を採るという。ここまでくると聴いていても構造的なところまでは掴みきれない。エネルギーが徐々に集積して行き、激しいクライマックスを迎える。限りなく不協和音と変拍子の音楽ではあるが、曲の根底を作っているのは「和」の要素であり、古代王朝風というところか。
黛さんは、日本やアジア(仏教圏)の音楽要素を西洋音楽の技法(オーケストラ)で表現した。和楽器を持ちこめば簡単にできることを、あえて西洋の楽器で表現することにより、普遍性を得たといえる。海外での演奏機会が多いのもそのためであろう。たとえば、弦楽器のピチカートで、右手の2本の指で弦をつまみ、指板に当たるように弦をはじくことにより琵琶のような音色を生み出す(何という名の奏法なのだろう?)。それを単純に日本旋法の中に置かないで、西洋の、しかも12音技法に置くことで、日本をはるかに超越した世界に通じる「和」の音楽を創り出しているのだ。
後半はいよいよ「涅槃交響曲」。まず編成だが、ステージ上がほぼ3管編成に打楽器群、チャイム、ハープ、チェレスタ、ピアノなどに弦5部と、12声部の男声合唱。ステージ外は、ステージ後方の2階席の左右両サイドに分かれて、木管と金管などが2~3名ずつ加わる。管楽器や打楽器をこれだけの人数が集められるのも、東京フィルならではであろう。
楽曲は6つの楽章からなる。第1楽章「カンパノロジー I」、第2楽章「首楞厳神咒」、第3楽章「カンパノロジー II」、第4楽章「摩訶梵」、第5楽章「カンパノロジー III」、第6楽章「終曲(一心敬礼)」、という構成だ。「カンパノロジー」とはもちろん造語であり、鐘(梵鐘)を製造するにあたって、合金の割合、鍛造のしかた、温度などを研究する学問なのだそうだ。黛さんは、日本の梵鐘の音に強く惹かれ、この音楽的ではない音を音響工学的に分析し、梵鐘の音に含まれる様々な音の要素をオーケストラで表現することを試みた。したがって、第1・3・5楽章に演奏されるオーケストラの複雑に絡み合った響きは、ホールという空間に放たれた梵鐘の(観念的な)音を表している。そして間に挟まれる第2・4・6楽章は、6名の独唱をともなう12声部の合唱が加わり、「首楞厳神咒」と「摩訶梵」はは禅宗の経文が歌詞として歌われ(歌唱と言うよりはお経)、終曲(一心敬礼)」では天台宗の声明(しょうみょう)が歌われる。…とまあ、難しいことはよく分からないので、あくまで音楽を実際に聴いた印象を書いてみようと思う。
声楽を伴う6つの楽章を持つ交響曲といえば、マーラーの交響曲第3番などが想起されるが、趣ははるかに異なる。きわめて前衛的ではあるがただ破壊的なだけというわけではなく、極めて論理的・創造的であり、知的な音楽特性を持っている。一般的な音楽を構成する3大要素の「旋律」「和声」「律動」がなく、それらを超越した、楽器から生み出される様々な音の集積と、それらの音が生み出すエネルギー。これらを聴くというよりは感じ取るといった方が分かりやすいかもしれない。
第1・3・5楽章の「カンパノロジー」は、調性どころか旋律らしきものもなく、断片的な音が混沌と混ざり合う。夢幻的…とでもいうべきか、観念の無限宇宙を彷徨うようなイメージだ。その中に一定の音階の音が通っていて、ひとつの梵鐘から生まれる様々な周波数の音が絡まり合っている様を表現している…と、説明されればそのように聴こえなくもない。不思議な曲ではあるが、妙に引き込まれる力がある。演奏の方は、捕らえどころがなく複雑な構成の曲を、広上さんが丁寧にまとめている。
第2・4・6楽章に登場する独唱と男声合唱は、ほとんど音階もなく、歌詞も経文なので、オーケストラの無調な和音のリズムらしきものを伴奏にお経を唱えているようなもの。聴いているうちに不思議な音楽的な流れが浮かび上がってく。しかしあくまで音階はほとんどない。
繰り返しになるが、「旋律」「和声」「律動」がなく「調性」からも解放された音が離合集散する混沌とした音楽である。にもかかわらず、これが無意味な音の集合体(つまりデタラメな演奏)でないことは聴いていれば誰にでも分かる。つまり音は拡散してしまわないだけの求心力を残しているのだ。終楽章では高まっていくエネルギーが爆発的な広がりを見せるが、やがてそれも静かに求心的に収束していくイメージである。広上さんの指揮は複雑な変拍子に対して丁寧に指揮棒を刻み、各パートに合図を出しながら、オーケストラを巧みに操って行き、劇的な盛り上がりも見せた。東京フィルの演奏は、弦楽の緻密なアンサンブルと管楽器の濃厚な音色、打楽器群のタイミングの良さが、演奏に自然な厚みを感じさせて良かった。さすがにメンバーの皆さんの表情も楽譜を睨みながら真剣そのもので、その意味ではいつもよりは演奏が固かったかもしれないが、総じて素晴らしい熱演だったと思う。
黛敏郎さんは、やはり計り知れない才能の持ち主だったと思う。今日演奏された4曲は、どれも彼の代表的な作品だが、およそ半世紀の時を経ても、その先進性は色褪せていない。おそらく、未来に向けて残っていく作品に違いない。今日、東京フィルがこの4作品を採り上げたことに感謝したい。現代音楽が苦手なクラシック音楽ファンの方々も、聴く機会が増えればまた違った印象も生まれてくるはずだ。ベートーヴェンやブラームスを聴くのとは確かに違った行為になるとは思うが、あるいは同じ「音楽」というカテゴリーに入れて良いものかどうかは分からないが、オーケストラを聴くという点では、また別の意味で黛さんはオーケストラの機能性をフルに引き出していることに間違いはないからだ。
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2012年3月8日(木)19:00~ 東京オペラシティコンサートホール A席 1階 4列 14番 3,780円(会員割引)
指 揮: 広上淳一
管弦楽: 東京フィルハーモニー交響楽団
合 唱: 東京混声合唱団
【曲目】
黛 敏郎: トーンプレロマス'55
黛 敏郎: 饗宴
黛 敏郎: BUGUKU
第1楽章: レント
第2楽章: モデラート
黛 敏郎: 涅槃交響曲
第1楽章: カンパノロジー I
第2楽章: 首楞厳神咒
第3楽章: カンパノロジー II
第4楽: 摩訶梵
第5楽章: カンパノロジー III
第6楽章: 終曲(一心敬礼)
東京フィルハーモニー交響楽団の第68回東京オペラシティ定期シリーズは、オール黛敏郎プログラム。ある意味ではマニアックなプログラムだが、20世紀後半の日本の「クラシック音楽」界に燦然と輝く巨人、黛敏郎さんの代表的なオーケストラ作品を4曲まとめて聴ける機会など滅多にあるものではない。東京フィルの2011/2012シーズンの会員になった理由のひとつに、今日のコンサートがあった。1年以上前から楽しみにしていたものである。とくに「涅槃交響曲」は遥か昔、学生の頃に聴いた記憶があり、それ以来のこととなる。男声合唱を含めた大編成のオーケストラ(管楽器群がステージ以外にも配置されるため、倍以上の管楽器奏者が必要)が必要になるため、演奏機会が少ない。ところが一度聴けば強く印象に残る曲であり、今回の機会を逃すまいと思ったものである。
黛敏郎さんといえば、昨年2011年11月に、オペラ『古事記』が上演され話題になった(オペラ形式で日本初演)。そのライブ映像が今週のNHK-BSプレミアムで放送される(3月10日深夜)のも、偶然とはいえ、因縁めいたものを感じる。

1曲目の「トーンプレロマス'55」は、いわば管弦楽から弦楽を抜いた器楽構成の曲。会場に入ってみると、左右の端に弦楽器奏者用の椅子と譜面代が片づけてあるような状態で、ステージの手前半分が大きく空いている。弦楽抜きとはいえ、2~5管の大規模な管楽器と、現代音楽らしい豊富な種類の打楽器、そしてピアノまであるので、オーケストラの編成としては小さくはない。既存のオーケストラにおける表現の限界を感じ、その構造を破壊しつつ、「息を利用する管楽器と、手に依るアタックを生命とする打楽器とのアンサムブルが発する音のエネルギーの集積」を目指した作品ということだ。
演奏は、強烈なリズムと断片的な音の洪水が、まさに「集積」したもので、東京フィルらしい濃厚な管の音と、耳で聴くというよりは身体を共振させるような打楽器による爆発的な音圧(ある意味では「騒音」ともいえるような)に身を委ねていると、何ともいえない陶酔感が生じてくる。不思議な曲であると同時に素晴らしい演奏でもあった。また変わったところでは、ミュージカル・ソーという楽器が登場する(演奏はサキタハジメさん)。要するに演奏用のノコギリに弦楽器の弓を当て、ビョヨーンという振動を使って不可思議な音階を出すのである。
2曲目は「饗宴」。弦楽のメンバーが入場してきて、やっといつものオーケストラに戻った(管楽器にはサクソフォン4が加わっている)。この曲はジャズの即興演奏をより過激に熱狂的にしたような曲であり、やはり強烈かつ変則的なリズム感と各パートがバラバラ勝手に演奏しているような混沌とした音の奔流の中に、曲全体を貫く大きな流れのようなものがあって、引き締めている。演奏は、リズムへのノリが良く、広上淳一さんのキレの良い指揮で、非常にダイナミックなものとなった。
前半の最後は「BUGAKU」である。「舞楽」の構成要素を管弦楽に持ち込んだ現代作品であるが、もともとはバレエ音楽として作曲されたものだ。第1部(楽章)はレントで、冒頭と集結部に現れる弦楽器のグリッサンドによるキュイーンという音が共鳴するように広がっていく様が非常に印象的だ。第2ヴァイオリンのフォアシュピーラーから始まり、主席へ、第1ヴァイオリンへ、ヴィオラへと変則的に重なっていく。各パートの2~3人が異なる音程・音型で弾いていて、徐々に不協和が増していくあたりは、ゾクゾクするような刺激的な音楽だ。2列目で聴いていると、色々な方角から響き合わない音が出てきて、とても面白い。中間部はリズムが強調されオーケストラ全体に不協和な音が広がっていくが、そのベースには日本古来の舞楽の響きがある。
第2部はモデラートとなっているが、序・破・急の形式を採るという。ここまでくると聴いていても構造的なところまでは掴みきれない。エネルギーが徐々に集積して行き、激しいクライマックスを迎える。限りなく不協和音と変拍子の音楽ではあるが、曲の根底を作っているのは「和」の要素であり、古代王朝風というところか。
黛さんは、日本やアジア(仏教圏)の音楽要素を西洋音楽の技法(オーケストラ)で表現した。和楽器を持ちこめば簡単にできることを、あえて西洋の楽器で表現することにより、普遍性を得たといえる。海外での演奏機会が多いのもそのためであろう。たとえば、弦楽器のピチカートで、右手の2本の指で弦をつまみ、指板に当たるように弦をはじくことにより琵琶のような音色を生み出す(何という名の奏法なのだろう?)。それを単純に日本旋法の中に置かないで、西洋の、しかも12音技法に置くことで、日本をはるかに超越した世界に通じる「和」の音楽を創り出しているのだ。
後半はいよいよ「涅槃交響曲」。まず編成だが、ステージ上がほぼ3管編成に打楽器群、チャイム、ハープ、チェレスタ、ピアノなどに弦5部と、12声部の男声合唱。ステージ外は、ステージ後方の2階席の左右両サイドに分かれて、木管と金管などが2~3名ずつ加わる。管楽器や打楽器をこれだけの人数が集められるのも、東京フィルならではであろう。
楽曲は6つの楽章からなる。第1楽章「カンパノロジー I」、第2楽章「首楞厳神咒」、第3楽章「カンパノロジー II」、第4楽章「摩訶梵」、第5楽章「カンパノロジー III」、第6楽章「終曲(一心敬礼)」、という構成だ。「カンパノロジー」とはもちろん造語であり、鐘(梵鐘)を製造するにあたって、合金の割合、鍛造のしかた、温度などを研究する学問なのだそうだ。黛さんは、日本の梵鐘の音に強く惹かれ、この音楽的ではない音を音響工学的に分析し、梵鐘の音に含まれる様々な音の要素をオーケストラで表現することを試みた。したがって、第1・3・5楽章に演奏されるオーケストラの複雑に絡み合った響きは、ホールという空間に放たれた梵鐘の(観念的な)音を表している。そして間に挟まれる第2・4・6楽章は、6名の独唱をともなう12声部の合唱が加わり、「首楞厳神咒」と「摩訶梵」はは禅宗の経文が歌詞として歌われ(歌唱と言うよりはお経)、終曲(一心敬礼)」では天台宗の声明(しょうみょう)が歌われる。…とまあ、難しいことはよく分からないので、あくまで音楽を実際に聴いた印象を書いてみようと思う。
声楽を伴う6つの楽章を持つ交響曲といえば、マーラーの交響曲第3番などが想起されるが、趣ははるかに異なる。きわめて前衛的ではあるがただ破壊的なだけというわけではなく、極めて論理的・創造的であり、知的な音楽特性を持っている。一般的な音楽を構成する3大要素の「旋律」「和声」「律動」がなく、それらを超越した、楽器から生み出される様々な音の集積と、それらの音が生み出すエネルギー。これらを聴くというよりは感じ取るといった方が分かりやすいかもしれない。
第1・3・5楽章の「カンパノロジー」は、調性どころか旋律らしきものもなく、断片的な音が混沌と混ざり合う。夢幻的…とでもいうべきか、観念の無限宇宙を彷徨うようなイメージだ。その中に一定の音階の音が通っていて、ひとつの梵鐘から生まれる様々な周波数の音が絡まり合っている様を表現している…と、説明されればそのように聴こえなくもない。不思議な曲ではあるが、妙に引き込まれる力がある。演奏の方は、捕らえどころがなく複雑な構成の曲を、広上さんが丁寧にまとめている。
第2・4・6楽章に登場する独唱と男声合唱は、ほとんど音階もなく、歌詞も経文なので、オーケストラの無調な和音のリズムらしきものを伴奏にお経を唱えているようなもの。聴いているうちに不思議な音楽的な流れが浮かび上がってく。しかしあくまで音階はほとんどない。
繰り返しになるが、「旋律」「和声」「律動」がなく「調性」からも解放された音が離合集散する混沌とした音楽である。にもかかわらず、これが無意味な音の集合体(つまりデタラメな演奏)でないことは聴いていれば誰にでも分かる。つまり音は拡散してしまわないだけの求心力を残しているのだ。終楽章では高まっていくエネルギーが爆発的な広がりを見せるが、やがてそれも静かに求心的に収束していくイメージである。広上さんの指揮は複雑な変拍子に対して丁寧に指揮棒を刻み、各パートに合図を出しながら、オーケストラを巧みに操って行き、劇的な盛り上がりも見せた。東京フィルの演奏は、弦楽の緻密なアンサンブルと管楽器の濃厚な音色、打楽器群のタイミングの良さが、演奏に自然な厚みを感じさせて良かった。さすがにメンバーの皆さんの表情も楽譜を睨みながら真剣そのもので、その意味ではいつもよりは演奏が固かったかもしれないが、総じて素晴らしい熱演だったと思う。
黛敏郎さんは、やはり計り知れない才能の持ち主だったと思う。今日演奏された4曲は、どれも彼の代表的な作品だが、およそ半世紀の時を経ても、その先進性は色褪せていない。おそらく、未来に向けて残っていく作品に違いない。今日、東京フィルがこの4作品を採り上げたことに感謝したい。現代音楽が苦手なクラシック音楽ファンの方々も、聴く機会が増えればまた違った印象も生まれてくるはずだ。ベートーヴェンやブラームスを聴くのとは確かに違った行為になるとは思うが、あるいは同じ「音楽」というカテゴリーに入れて良いものかどうかは分からないが、オーケストラを聴くという点では、また別の意味で黛さんはオーケストラの機能性をフルに引き出していることに間違いはないからだ。
