【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_22_

2015-09-21 17:55:41 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

 ★= タタールのポーランド侵攻 ② =★ 

 1241年1月、バトゥはルブリンザヴィホストに斥候を派遣したが、攻撃はその1か月後に開始された。 マウォポルスカではモンゴル軍の敵はいないも同然で、2月13日のトゥルスコの戦い、3月18日のタルチェクおよびフミェルニクの戦いで敗れたサンドミェシュの貴族のほとんどが殺され、犠牲者の中にはクラクフ宮中伯ヴウォジミェシュ、城代クレメント・ス・ブジェジュニツァなどがいた。 この直後、クラクフとサンドミェシュを含むマウォポルスカ全域がモンゴルの支配下に置かれた。 

 ヘンリク2世は西側諸国から約束された援助を待つことなく、レグニツァの地点で敵を迎え撃ってマウォポルスカの残党と自らが擁するシロンスク及びヴィエルコポルスカの軍勢を保持する作戦に集中することにした。 ヨーロッパ諸国の統治者達は皇帝と教皇の争いに関心を集中させており、ヘンリク2世の救援要請を無視していた。外国から加勢しにきた軍隊はヘンリク2世の義弟であるヴァーツラフ1世率いるボヘミア軍及びテンプル騎士団聖ヨハネ騎士団の混成軍だけだった。 最終的に彼らの軍勢はレグニツァ近郊で進軍を止めたが、ここでは簡単にモンゴル軍の餌食となってしまう恐れがあった。1241年4月9日のレグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)において、ヘンリク2世は大敗を喫し、戦闘中に殺された。

 

 この敗北は、支援を断ったヨーロッパの諸王達と、予期せぬ敵陣逃亡で面目を失ったオポーレ=ラチブシュ公ミェシュコ2世に対する轟々たる非難を巻き起こした。 ポーランドにとっては幸運にも、モンゴル人はポーランドに対する占領支配を意図しておらず、彼らはレグニツァの戦いの直後にハンガリー領モラヴィアに移り、そこでバトゥの率いる本隊との合流を待った。 ヘンリク2世の死体は首を引きちぎられていたうえ全裸に剥かれており、未亡人アンナだけが身体上の特徴から夫を識別することが出来たと言う。 =因みに、ヘンリク2世の左足には指が6本あった。 この事実は1823年、ヘンリク2世の棺が開かれた時に確認されている。 尚、遺体はヴロツワフにあるフランチェスコ会の聖ヤクプ教会に埋葬されている。=

 僅か3年間の短い治世だったにもかかわらず、ヘンリク2世はヴィエルコポルスカとクラクフの人々に理想的なキリスト教徒の戦士・領主として記憶された。 しかし、その華々しい経歴は早すぎる死によって断ち切られた。死後、遺領は長男のボレスワフ2世が継承したが、後に他の息子達との戦争に敗れて領土を分割、シロンスク・ピャスト家の領土は小規模な国家群(シロンスク公国群)に分かれてしまった。

ワールシュタットの戦い

 上記のように、1241年に入り、タタール(モンゴル軍)は凍結したヴィスワ川を渡り、サンドミェシュを掠奪したが、その年の四旬節のはじまる2月13日頃に多数の捕虜と戦利品とともに一時軍を退いたという。 クラクフの諸侯たちはこれを追撃に出たがことごとく返討ちにあった。 サンドミェシュでモンゴル軍は部隊をふたつに別け、北上させてポーランド中部のウェンチツァや中西部の中心都市クヤヴィ方面へも向かわせたという。

 3月18日にクラクフ侯ボレスワフ5世は、クラクフ北側のフミェルニク付近でのモンゴル軍との戦闘でポーランド軍が多数の死傷者を出して敗北したため(フミェルニクの戦い)、母と夫人とともにカルパティア山脈の麓の城塞に避難することを決め、さらにモラヴィアへ退避した。 これによってクラクフの有力者は都市を放棄してドイツ方面などへ避難し、その他の住民たちは山林などへ逃亡する事態となった。

 4月1日にモンゴル軍はクラクフに到着したが、ほぼ無人状態のこの都市に火を放った。 その後さらに北上してシロンスクに入った。 モンゴル軍はオドラ川を筏や泳いで渡ったが、ポーランド軍はまだ兵力が足りなかったため後退し、モンゴル軍はシロンスクの州都であるヴロツワフまで直進した。そのとき、北部諸侯を召集したシロンスク公ヘンリク2世の軍勢が、レグニツァヴァーツラフ1世率いるボヘミヤ軍の到着を待っているという情報がもたらされた。 そこでモンゴル軍は攻撃目標を切り替え、レグニツァで各地の軍勢が集結しつつあるドイツ・ポーランド連合軍を討つことにした。

 ヘンリク2世が中心となったドイツ・ポーランド連合軍には、優れた兵と劣った兵が混在していた。 軍を構成しているのは民兵や徴用された歩兵、封建騎士と従者、ホスピタル騎士団テンプル騎士団からの少数の騎士、そしてドイツ騎士団だった。 ワールシュタットの戦いでヘンリク2世が集めた軍は、2万5千人程度であった。 ヘンリク2世は軍を4つの大きな部隊に編成して、主力のドイツ騎士団および他の騎士たちを中央に前衛と後詰めに配し、民兵や徴用された歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置した。

 一方、モンゴル軍がワールシュタットの戦いで動員した兵力は2万人だった。 前列中央に陽動戦術の訓練を積んだ軽装騎兵を配置し、両側面には騎射や槍での接近戦を行うことのできる軽装騎兵が、後方には正面からの騎馬攻撃を得意とする重装騎兵が控えていた。

 1214年のブーヴィーヌの戦いがそうであったように、当時のヨーロッパにおける騎士の戦術は敵の中心への猛攻撃だった。 ワールシュタットの戦いは、まず前衛の騎士たちが軽装騎兵に攻撃を仕掛けて蹴散らされた。しかし、前衛の騎士たちは後詰めの騎士たちと共に態勢を建て直すと再び攻撃した。 するとモンゴル軍は中央の軽装騎兵を偽装撤退させて連合軍の主力である騎士団を誘い込み、両翼の軽装騎兵による騎射で混乱に陥れた。 そして騎士団の背後に煙幕を焚いて後方の歩兵と分断すると、完全に混乱状態にある敵軍をモンゴルの重装騎兵が打ち破った。 煙幕の向こうにいた歩兵は逃げ惑う騎士とそれを追うモンゴル軍の姿を見ると、恐怖に駆られて敗走した。

 逃げるドイツ・ポーランド連合軍をモンゴル軍は容赦なく追撃して、おびただしい数が殺戮された。 その後、モンゴル軍はオドラ川に沿った地域を掃討していき、当初の目標であったヴロツワフを完全に破壊した。

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森のなかえ

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