○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○
★= タタールのポーランド侵攻 ③=★
バトゥに率いられたモンゴルの西方遠征軍は、1236年に中央アジアを出てヴォルガ・ブルガールを侵攻し、1237年から1240年にかけてルーシ侵攻を行い、ヴォルガ・ブルガールやルーシ諸国を完全に圧倒した。 モンゴル軍はこれで征服を終えることはなく、さらに西を目指し、ポーランドおよびハンガリーへと侵入する。 1240年春、バトゥはカルパチア山脈(上の写真)の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルヴァニア経由でハンガリー王国へ侵攻を意図する戦術を実行に移す。
まず、西方では右翼のオルダの支軍がポーランド王国(ピャスト朝)に侵攻し、3月にはクラクフを占領。 続いてバイダル率いる前衛軍が1241年4月にはレグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)でポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を敗死させた。 シレジア、モラヴィア地方もバイダル侵攻を受けた、カダアンとブリ率いる軍はカルパティア山間に居住していたザクセン人を破り、ボチェクの軍は山脈のワラキア人と思われる集団を撃破している。
ポーランド侵攻軍はチャガタイ家のバイダル、オゴデイ家のコデン、ジョチ家の長兄オルダの3人の将軍に率いられ、1240年後半には偵察活動に入った。 彼らに率いられたタタール(蒙古)軍のトゥメン(万人隊)は既に占領していたヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーから行軍を開始し、最初にルブリンを略奪し、1241年2勝ち13日にバイダルとコデンは凍ったヴィスワ川を渡河してクラクフ公ウラディームィル率いるポーランド軍の守るサウンドミッシュを包囲し、陥落させた=トゥルスクの戦い=。
モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻軍は3軍団を擁していたが、モンゴル軍はサンドミェシュから複数の部隊に分かれて行動した。 バトゥ率いるモンゴル軍本隊は、カルパチア山脈のベレッケ峠らパンノニア平原に入ってハンガリーに進撃した=モヒの戦い=。
オルダの支隊はポーランド中部と中北部を荒らし、ボルブッシュから北はレンツィカを経由してヴウォツワヴェクまで進んだ後南転し、コニンとシュラツを蹂躙してヴロツワフに向かった。 一方、当時ポーランドの諸公達の中で最も勢力を持っていた公の一人であるシロンスク公ヘンリク2世は、レグニツァ近辺で自軍と同盟者の軍勢を招集した。 ヘンリク2世はさらに軍勢の規模を大きくするため、シロンスク公国で最も大きな都市の1つだったヴロツワフを見捨て、タタール(蒙古)軍の荒らすに任せた。
バイダルが率いる支隊は、サンドミッシュからポーランド南部に進撃した。 3月18日にフミェルニクの戦いでウラディールィル率いるクラクフとサンドミェシュの連合軍が再び敗れ、ウラディームィルが戦死するとポーランドはパニック状態となった。 3月24日、市民が見捨てたクラクフ市はモンゴル軍によって包囲され焼き払われた。バイダルが率いる支隊はその後、ポーランドの南部、西部のタルチェク=タルチェクの戦=、ビトムの戦、ラチブシュの戦、オポーレの戦で一方的に勝利し、蹂躙し他の地に、ヴロツワフでオルダの支隊と合流した。
一方、ヘンリク2世はボヘミアからヴァーツラフ1世の率いる大軍が救援に来るのを待っていた。 バイダルとコデンがヴロツワフを包囲するかを思案中に、ヘンリク2世の軍勢にボヘミアの援軍が近付いているのを知った。バイダルとオルダが率いる2つの支隊はヴロツワフを離れ、ヘンリク2世の軍勢がボヘミア軍と合流するのを阻もうとした。
4月9日、モンゴル軍はレグニツァ近郊のレグニツキェ・ポーレで、ヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と対峙した(レグニツァの戦い/ワールシュタットの、前節参照)。 ポーランド・ドイツ連合軍には、主力となるドイツ騎士団、オポーレ公ミェシュコ2世の軍隊、トゥルスクとフミェルニクで敗北したポーランド軍、そしてテンプル騎士団とホスピタル騎士団のメンバー達と少数の外国人義勇兵が加わっていた。 ヘンリクの軍勢は敵と同数かそれ以上の数の軍隊を擁し、有効な戦略を採用していたが、組織・規律・武装・経験に勝るタタール(蒙古)軍には全く歯が立たず、4月9日の戦いで大敗、ヘンリク2世は戦死した。 モンゴル軍はレグニツァ城を占領しなかったが、ヴロツワフなどのシロンスク公国領内をほしいままに略奪して回ったのです。
タタール(蒙古)軍は、ポーランド攻撃に従事した後、バイダルとオルダの支隊はボヘミア軍との衝突を避けて5月にはハンガリー領モラヴィア(現チェコ東部)地方に移り、1241年にオロモウツで“オロモウツの戦”を行なった。 そこでハンガリーを西進中のバトゥ率いる本隊との合流を待った。 4月11日バトゥ率いる本隊は、モヒの戦いでハンガリー軍を破るとバイダルの支隊と合流し、孤立していたバーベンベルク家フリードリヒ2世のウィーンを目指し進軍する。 ヨーロッパ文化の中心、ドイツ民族全体の帝都を馬蹄で蹂躙するために・・・・・・。
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・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
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