◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ ◎
○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○
◇◆ マリー・アントワネットを彩った人々 ルイ・シャルル =2/3= ◇◆
1794年1月19日、後見人であるシモンは革命勢力の派閥争いに敗れ、妻とともにタンプル塔から去った。 しかし、 幽閉されている幼いルイ・シャルル=ルイ17世=は、 政変の国内の王党派や外国の君主からは正式なフランス国王とみなされ、政治的に利用されることを恐れたショーメットとエベールは2月1日、元は家族の食堂であった部屋に幼いルイ17世(ルイ・シャルル)を押し込んだ。 厚さが10フィートもある壁にある窓には鎧戸と鉄格子があり、ほとんど光は入らなかった。
不潔な状況下にルイ17世を置き、貶めるために、室内にはあえてトイレや室内用便器は置かれなかった。 そのため、ルイ17世は部屋の床で用を足すことになり、タンプル塔で働く者はこの部屋の清掃と室内の換気は禁止された。
また、本やおもちゃも与えられず、ろうそくの使用、着替えの衣類の差し入れも禁止された。 この頃は下痢が慢性化していたが、治療は行われなかった。 食事は1日2回、厚切りのパンとスープだけが監視窓の鉄格子からするりと入れられた。 ルイ17世に呼び鈴を与えられたが、暴力や罵倒を恐れたため使うことはなかった。 監禁から数週間は差し入れの水で自ら体を洗い、部屋の清掃も行っていたが、ルイ17世はくる廟になり、歩けなくなった。
その後は不潔なぼろ服を着たまま、排泄物だらけの部屋の床や蚤と虱だらけのベッドで一日中横になっていた。 室内はネズミや害虫でいっぱいになっていた。 深夜の監視人交代の際に生存確認が行われ、食事が差し入れられる鉄格子の前に立つと「戻ってよし」と言われるまで「せむしの倅」「暴君の息子」「カペーのガキ」などと長々と罵倒を続けた。 番兵の遅刻があった日は、同じ夜に何度もこの行為は繰り返された。 もはやマリー・アントワネットとルイ16世の血を引く国王であるルイ17世に人間的な扱いをする者は誰も居なかった。
パリ・コミューンの派閥争いにより、エベールは支持者らと共に3月24日に処刑され、その3週間後にショーメットも処刑された。 5月11日、ロベスピエールはタンプル塔の様子を見学した。 その後、7月28日にロベスピエールやロベスピエール派だったかつてのルイ17世の後見人シモンも処刑された。
タンプル塔のルイ17世 / 光が差し込まぬ獄舎での孤独
ジャコバン派の旧貴族で後に総裁となるポール・バラスは、ロベスピエール処刑の日にマリー・テレーズとルイ17世を訪ねた。 バラスは2人に礼儀正しく接し、「王子」「王女」と呼んだ。 バラスは悪臭漂う独房の子供用の小さなベッドに、衰弱したまま横になったルイ17世を目撃し、その衰弱ぶりと不潔な室内に驚愕する。 バラスは当時24歳だったマルティニック島(カリブ海・西ンド諸島一島)の出身のジャン・ジャック・クリストフ・ローランを新たな後見人にすることに成功した。
ローランは9月1日にルイ17世の独房の清掃を2人の男性に行わせ、マリー・テレーズに依頼されて虱と蚤だらけのルイ17世のベッドを処分し、彼女が使用していたベッドをルイ17世に使用させた。 ローランは自らルイ17世を入浴させ、身体にたかった虫を取り、着替えさせた。 室内の家具とカーテンの焼却も命じた。 この日、ルイ17世は医師の診察を受けた。
この頃のルイ17世は、栄養失調と病気のため灰色がかった肌色をし、こけた顔にぎょろりと大きくなった目、体中に黒や青や黄色の蚯蚓腫れがあり、爪は異常に伸びきっていた。 ローランはタンプル塔の屋上にルイ17世を散歩に連れ出すが、食事の質が改善されなかったことと病気での衰弱がひどく、一人では歩けなかった。
11月8日、国民公会はルイ17世の世話をジャン・バティスト・ゴマンに命じた。 ゴマンはルイ17世の衰弱した姿に驚き、国民公会の再視察を依頼した。 ルイ17世は長く続いたローランとゴマンの親切な対応に驚いたが、徐々に彼らになついた。 11月末に役人のデルボイがルイ17世の元にやってきたが、もうこの頃のルイ17世は衰弱しきっており、デルボイと会話をすることができなかった。
しかし、デルボイはルイ17世の部屋の窓にかけられた柵を取り払うよう命じた。 ルイ17世はおよそ2年ぶりに、日の光が入る部屋で過ごせるようになった。 ゴマンはルイ17世の病状を国民公会に確かめるよう何度も嘆願し、外で遊ばせる許可を得た。 しかしルイ17世の体調は悪く、独房の火の側で過ごした。
この頃にはフランス国内の空気も変化し、タンプル塔で行われていたルイ17世への虐待や現在の待遇も国民の話題となっていた。 11月26日、「世界通信」紙はルイ17世のひどい待遇が行われていた事実を公式に認める記事を発表した。 関係者らは逮捕され、国民公会に連行され、保安委員会のマテューは公式に王党色の強い新聞記事を否定し、革命支持者のためにルイ17世は一般の囚人と変わらぬ扱いを受けていると説明した。
スペイン王室はルイ17世の引き渡しを条件にフランス共和国を認めると、1795年の早い時期に申し出たが、スペイン側がこれに関し争う気が見えないため、フランス側は要求を拒否した。 この当時のヨーロッパ外交において、ルイ17世は見捨てられた存在であった。
1795年3月31日、エティエンヌ・ラーヌが世話係に加わった。 ラーヌはルイ17世はラーヌにはなつかなかったという記録を残している。 その後、ローランは別の役職に就き、ゴマンが後見人となった。 5月8日にローランとゴマンの再三にわたる要求により、ピエール・ジョセフ・ドゥゾー医師によるルイ17世の診察が許可された。ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。 最も救いがたい惨状と放棄の犠牲者で、最も残忍な仕打ちを受けたのだ。 私には元に戻すことができない。 なんたる犯罪だ!」と正直に意見を述べた。
毎日午前中に往診に訪れ、ルイ17世から感謝されていたドゥゾーは、5月29日に招待された国民公会公式晩餐会の後、急に具合が悪くなり、3日後に死去した。 彼の助手もその後死去したので、暗殺が疑われた。 次の医師が決まるまで、重態のルイ17世は治療を受けられなかった。 6月6日、新たに主治医となったフィリップ・ジャン・ペルダン医師が治療に向かった。
彼は「子供の神経に触るような閂、錠の音を控えるように」と士官を咎め、日よけを外して新鮮な空気に当たれるようにすることを命じた。 孤独な幽閉から1年半近く経過したこの日、独房の鎧戸や鉄格子、閂がようやく取り外され、白いカーテンで飾られた窓辺をルイ17世は喜び少し、様態が改善した。
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