【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

断頭台の露と消えた王妃 =41=

2016-07-25 16:10:34 | 歴史小説・躬行之譜

◎ マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・ドートリシュ 

○ フランス国王ルイ16世の王妃、フランス革命中の1793年10月16日に刑死 ○

◇◆ ルイ16世の脱出計画; ハンス・アクセル・フォン・フェルセン =4/7= ◇◆

 サン=クルーへの復活祭のミサ行幸が群衆の妨害で中止せざるを得ない状況に陥ったフランス王家。 フランスの王室スウェーデン人連隊長に任じられていたフェルセンは、各地の王党派と連絡を取り合い、綿密に計画を立て、国王一家の脱出のために超人的な行動をした。 だが、王党派の貴族内ではフェルセンの王妃への愛がタブー視された政治の底流にあった。 フェルセンの行動はスウェーデンの国益に繋がりはしたが、次第にスウェーデンの国策とは異なり始め、グスタフ3世は駐仏大使となったスタール男爵に信頼を置くようになっていた。

 計画に積極的だったのは国王に強い影響力を持っていた王妃マリー・アントワネットであった。 彼女は実家であるオーストリアへ亡命することを企てていた。 当時はフランス国外へ亡命する貴族はまだ多く、亡命そのものを罰する法もなかったことから、変装によってそれにみせかけることは可能であった。 マリー・アントワネットは、メルシー大使を介して秘密書簡で本国と連絡を取り、亡命が成功した曉には、実家はもとより血族のいる諸外国の武力による手助けを得て、フランス革命を鎮圧しようと夢見ていた。

  しかし 当のレオポルド2世は、ルイ16世が申し出た1500万リーブルの借款を断り、渋々軍隊を送る条件として、国王一家がパリを脱出した後に憲法を否定する声明文を発しなければならないとした。 このためルイ16世は「パリ逃亡の際の国王の宣言」を作成して、成功したら発表する予定であった。 これはパリ脱出の経緯を説明するもので、国民議会の憲法違反を非難する内容だった。 逃走の資金は銀行家から借金することになった。

 王妃マリー・アントワネットの主導のもとに計画が立てられたことで、いくつもの問題が生じることになった。 まず計画の中心人物が、王妃の愛人と噂されているスウェーデン貴族・フェルセンとなった。 彼に協力するのはショワズール竜騎兵大佐と王室技師ゴグラーという、国王と王妃に忠誠を誓った個人で、数名の近衛士官を除けば、国内で活動していた王党派との連携はほぼ皆無となる。

 国境地帯の軍を預かっていたブイエ侯爵は重要な役割を果たすこととなったが、このような問題に外国人が関与することに当初より強い懸念を示した。 フェルセンはルイ16世の臣下ですらなかったからである。 しかし、フェルセンは王妃の信頼に応えようと、国王一家の逃亡費用として、私財を投げ出した。 =2004年当時の日本円に換算して総額120億円以上を出資したという=

 

 フェルセンは別の愛人のエレオノール・シュリヴァンにこの資金の一部を用立ててもらい、さらに2頭立て馬車や旅券を手配したが、これらは彼女の助力の賜だったと言う。 ところが一方で、マリー・アントワネットの無理な主張にも振り回され、快走を約束する二頭立て馬車は王の行幸に用いられる8頭立てのベルリン型の大型四輪馬車の新品とすることになった。 馬車の内装を特注にし、さらに美しい服などを新調したことなどにより、脱出は当初の予定より1ヶ月以上も遅れることになる。

 また、王妃の主張する亡命というアイデア自体も難があった。 実行役となるブイエ侯爵は、反逆罪に問われる可能性が高かったことから、国王の署名入りの命令書を求めるなど抵抗した。 ルイ16世も国外への逃亡という不名誉を恐れ、計画の変更を求めて、ルートをフランス領内のみを通過するものに変えた。 しかしこれはブイエが最初に提案した旅程よりも危険なものになった。

 最終的な目的地は、フランス側の国境の町であるモンメディ の要塞に決まった。 ここに国外の亡命貴族軍を呼び寄せて合流する予定であった。 つまり実際には亡命ではなかったのである。 ベルギー国境に集結していたオーストリア軍の協力をあてにはしていたが、国王はあくまでも国内に留まる決意だった。

 計画は6月19日に決行される予定であった。 が、直前までマリー・アントワネットに振り回された。 何もかも準備は整っていたのに、彼女が革命派と考えていた小間使いが非番となる翌日まで1日延期されることになったのである。 他方、ブイエは街道に配下の竜騎兵および猟騎兵部隊を配置して警護させようと考え、準備していたが、彼らは王党派というわけではなかったので兵士達には任務の内容は知らせなかった。

指揮官のショワズールは、ただでさえ秘密の保持に苦慮するところであったが、このように予定が突然変更になって部隊は右往左往することを強いられ、計画は実行前からズタズタになっていた。

 

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