【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールが夢見た大洋_21_

2015-09-19 16:11:29 | 浪漫紀行・漫遊之譜

○◎ 更なる西へ、バルト海へ、アドリア海へ ◎○

 ★= タタールのポーランド侵攻 ① =★

大蒙古帝国・第2代皇帝オゴデイは1235年に帝都カラコルムを建設した。中央アジアから捕虜として集められた多くの技術者が建設に関わっている。 遊牧民には定着生活には親しみを覚えないが、帝都の必要はあった。 この帝都にてオゴディ・ハーンはクリルタイ(部族長会議、国会)を開催して諸国への遠征を動議し、決議した。 南宋方面への遠征とキプチャク草原からルーシ東欧に至る西方遠征の二大遠征だけではなく、あわせて高麗カシュミールへの遠征計画を決議した。 当時、蒙古軍は 先代チンギス・ハーンの時代に中央アジアのホラズム帝国を征服し、西は黒海沿岸のグルジアまで達していた。 東南の金帝国に対し、定期的な略奪的侵略を繰り返し、南方の西夏王国を征服していたが、金帝国を絡め手から攻略し 更には 金帝国に追われて南下した南宋をも侵攻しようと言う全方位への侵略計画であった。 

南方遠征(モンゴル・南宋戦争)については、総司令として中央軍を三男のクチュを任じて山西経由で南下させた。 次男コデン率いる西路軍を陜西・四川方面へ派遣し、金と宋を征服させようとした。 他方、前述のように、西方遠征軍=ヨーロッパ遠征=の総大将にジュチ家の当主・バトゥには5万の戦闘経験の豊かなモンゴル人と2万人の徴用兵、さらに中国人とペルシャ人の攻城専門兵が与えられて進軍せしめた。 西方遠征軍には、少数ではあるがイギリス貴族やフランス将校も時間を追って追加された。 彼らは十字軍に参加していた将校であり、十字軍からの脱落者やイスラーム軍の捕虜となっていた者たちである。 西方への水先案内人であった。

バトゥは1237年から1240年にかけてルーシ(ロシア)方面に侵攻を行い、ヴァルガ・ブルガリアやルーシ諸国を完全に圧倒し、キプチャック草原の諸族や黒海北方のキエフ大公国をはじめとするルーシ諸国を征服したことは前に述べたが、1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフを包囲して同地を攻略・破壊した。 当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。 他方、モスクワ大公はタタール侵入に対する防衛線・逆茂木線を築き、その一部となったコロムナはタタールに対する攻撃の拠点となっていた。 タタール(モンゴル軍)はジンギス・ハーンの庶子・コルゲンがこの方面の指揮を執って攻撃するも包囲戦で戦死している。

 しかし タタール(モンゴル軍)はこれで勢いづいて、モスクワ大公国を征服し、戦意はますます高揚し、さらに西を目指し、ポーランドおよびハンガリーへと 「地果て海尽きるところ」まで行くことを決意する。 1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行っていた頃から、総司令官バトゥはグユク(皇帝オゴデイの長男)、ブリ(叔父チャガタイの長男)らと論功行賞などで激しく対立。 その報告を受けたオゴデイの帰還命令によってグユクとモンケ(相互に信頼する従兄弟同士)は1239年の秋には遠征軍を離れてモンゴル本土へ出発させられていた=第三代皇帝選出を巡って、バトゥとモンケの密約が蒙古帝国を大きく成長させていく=。

ポーランド侵攻軍は チャガタイ家のバイダル将軍(チンギス・ハーン・次男の第五皇子)、オコデイ家のコデン将軍(皇帝の次男、グユンの弟)、ジュチ家のオルダ将軍(バトゥの異母兄)の3人の将軍に率いられ、1239年後半には偵察活動に入っていた。 そして、モンゴルのポーランド侵攻は、1240年後半から1241年にかけて実行に移される。 タタール(モンゴル軍)がヨーロッパに攻め込んでいった。 シロンスク公ヘンリク2世率いる大勢のキリスト教徒司令官の同盟軍を壊滅させた「トゥルスクの戦い」、「フミェルニクの戦い」、「ワールシュタットの戦い」などが欧州諸国制圧の幕開けとなり、血祭りに興じられる。

 ポーランドはピャスト朝のポーランド大公・ヘンリク二世(在位:1238年-1241年)が統治していた。 ヘンリク二世の父が死んだ時、彼は40歳前後だったが、いくつかの難題をも受け継ぐことになった。 最初の問題は、彼自身が父から権力を相続することに関する問題だった。 ヘンリク1世の強大な権威は、血統による世襲統治地域だった低地シロンスクにしか及んでいなかった。 ヴィエルコポルスカ南部とクラクフは長子領で、その統治者の地位はピャスト家の諸公達の中から選ばれる決まりだった。 尚、ヘンリク1世は唯一生き残っている息子に自分のもつ全財産を受け継がせようとし、1222年以後、若いヘンリクは父と共に文書に署名するようになり、2年後には独自の印璽と書記をもつようになっていた。 また、 先代のクラクフ公だったヴワディスワフ3世は領地の全てをヘンリク1世に譲る内容の遺言状を残していたが、マゾフシェ公コンラト1世とヴワディスワフ・オドニツはこれを無視していた。

ヘンリク二世は即位早々、先代から燻る領地問題に悩まされる。 南部地域の領地は何とか統治するも、北部での情勢は複雑だった。 ブランデンブルク辺境伯オットー3世はヘンリク1世の死を好機と見て、サントクの要塞を奪取してルブシュを包囲した。 ヘンリク2世はこれを解放するためのルブシュの戦いに敗れ、サントクを喪失しする事態が起きる。 この騒動の一方で、ヘンリク2世は父が約束していた補償の支払いを迫るマゾフシェ公コンラト1世、ヴワディスワフ・オドニツ及びグニェズノ大司教ペウカに率いられた教会勢力とのいざこざをも抱えていた。

しかし、ヘンリク2世にとっては幸運なことに、この苦境は1239年6月5日にヴワディスワフ・オドニツが2人の幼い息子ボレスワフプシェミスウ1世を残して世を去ると同時に一変した。 この状況を利用して、ヘンリク2世はグニェズノを含むオドニツの遺領の大部分を奪い取り、オドニツの息子達にはナクウォ・ナド・ノテチョンウィシチェのみを安堵した。 ヘンリク2世の次なる計画は挑戦的なものだった。 彼は一族が代々続けてきた神聖ローマ皇帝家であるホーエンシュタウフェン家との同盟関係を破棄し、教皇グレゴリウス9世と結ぶことで、教会との軋轢を直ちに収拾した。 更にコンラト1世との争いを終わらせ、2人の娘をコンラト1世の息子達に嫁がせた。 長女のゲルトルダをボレスワフ1世と、次女コンスタンツィアをカジミェシュ1世とそれぞれ結婚させたのである。

ヘンリク2世にとって難しい時期は去ったかに見えたが、最悪の出来事はその後にやって来た。 東方からタタール(モンゴル軍団)が迫ってきたのである。 バトゥ王子に率いられたモンゴル軍はルーシ人達を打ち破ってキエフ大公国で破壊の限りを尽くした後、ハンガリーを次の標的として西に攻めのぼってきた。 バトゥは賢明にもハンガリーと戦うためにはまずポーランドを征服せねばならないことを理解し、兄のオルダ指揮下の1万人の兵をポーランドへと差し向けた。

 

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森のなかえ

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