【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

550年後、目覚めた英国王=10=

2015-12-19 17:28:49 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○


 ◇◆ プランタジネット王家とフランス ◆◇

 30年間のばら戦争で、ランカスター家とヨーク家とのあいだには、全部で14回の戦いがあった。 面白いことに、戦いで負けたほうは、よくフランスへと逃げ込む。 そこでフランスの貴族や国王の世話になると、機会をみては軍隊を借りうけ、イングランドに攻め込んでくる。 そして負けたほうは、またフランスへと逃げてゆく。
 これは、フランス出身のノルマン王朝以来、イングランドの王室がフランスと深くかかわってきたからである。 ここで、当時のイングランドとフランスの関係をふり返っておくことにする。

 中世のフランス王国は、有力貴族の緩やかな集合体のようなものだったと言われている。 血統と武力がものをいったが、国王は、諸侯会議で選ばれた有力貴族のひとりに過ぎない存在だった。 中央集権的な絶対王政が確立するのは、だいぶあとのことである。有力貴族は、自分たちの領地や特権を守るために、ややもすると外国勢力と手をむすび、王権が強まるのを妨害していた。 一方、イングランド国王は、ウィリアム1世(在位1066-87)以来、フランスにも領地をもち、フランスに帰れば、そこの一貴族であり、フランス国王の臣下でもあった。

  この関係は、1154年にノルマン王朝からプランタジネット王朝になっても変わらなかった。 王家の祖となるヘンリー2世(在位1154-89)は、アングロ・サクソン人の血はわずか4分の1で、ほとんどフランス人だった。 そしてかれは、フランス語しか話さなかった。 ついでながら付け加えると、ヘンリー2世にかぎらず、ノルマン征服以降のイングランドの王族や貴族、高位聖職者は、フランス語しか話さなかったという。 聖職者はラテン語も話したが、支配階級の日常語はフランス語だった。 そして、英語の原形すなわちアングロ・サクソン語は、無知な庶民や農民の言葉として軽蔑されていた。

 蛇足ながら、1375年ごろの宮廷で話されていた言葉について、ウィリアム・ナシントンという人物が、次のように記している。 「ある者はフランス語を解するがラテン語は皆目だめ。またある者はラテン語を少々解するがフランス語はまるで解らない。ある者は英語を解するがフランス語もラテン語も解らない。 だがしかし、学のある者もない者も老いたる者も若者も誰しも英語だけは知っている」(トレヴェリアン著大野真弓監訳『イギリス史』より)。 イングランドの宮廷で英語が話されるようになったのは、百年戦争が激化し、フランスへの対抗意識が高まってからだったという。

 話を戻すと、ヘンリー2世は、イングランド国王でありながら、形式的とはいえフランス国王の臣下でもあった。しかしかれの領地は、イングランドに加えて、ノルマンディーからガスコーニュまでの、フランスの西半分を占めていた。 フランス国王の直轄地より、はるかに広大だったのである。 イングランド王がフランスにもっていたこの広大な領地も、ジョン王(在位1199-1216)とヘンリー3世(在位1216-72の時代にはほとんど失っていたが、利害関係は残っていた。

 1328年、カペー家のフランス国王シャルル4世(在位1322-28)が王位継承者となる息子を残さずに他界した。そのあとフランス国王となったのは、シャルル4世の従兄にあたるヴァロワ家のフィリップ6世(在位1285-1314)だった。 これにたいして、イングランドのエドワード3世が王権を要求して1337年に戦争を仕掛けた。 そしてこの戦争が、その後、断続的に100年以上もつづいたことから、のちに「百年戦争」と呼ばれるようになったのである。

 エドワード3世の主張とは、かれの母イザベルがシャルル4世の姉であり、かれはカペー家と血のつながりがあるので、フィリップより王になる資格が高い、というものだった。 フランスでは、王権は男子から男子への世襲制で、父親から息子へ、そしてその子に息子がいない場合には兄弟へと移ったが、これには問題が起きなかった。 ところが直系男子が絶えた場合は大騒ぎとなった。 次の国王は、王家と血のつながりのある者のなかから諸侯会議で選ばれることになるが、前王家と血のつながりがあれば、だれでも王位継承権を主張できたからである。この点からいえば、エドワード3世の主張は、根拠のないものでもなかった。

 しかし、王を選ぶのはあくまでもフランスの諸侯会議である。 そしてその会議は、フィリップを選んでいたのである。 領地に関していえば、エドワード3世は、1337年にフランドルの一部と南フランスのギュイエンヌに領地をもっていた。 1360年ごろのかれの最盛期になると、フランス国内のかれの領地は、フランドルの一部と南西部のアキテーヌからガスコーニュまでの、合わせてフランスの4分の1以上もあった。 それがヘンリー6世の最盛期には、さらにブルターニュからシャンパーニュまでの北部と、ギュイエンヌとガスコーニュの一部となり、合わせてフランスの半分近くもあった。 しかし、1453年10月にイングランドの敗北で百年戦争が終結したときには、大陸でのイングランドの領土は、わずかにカレーを残すのみだった。

 ノルマン王朝にとって、フランスは出身地であり故郷だった。 プランタジネット王朝にとっては、先祖の地だった。 イングランドの王家とフランスの王家や大貴族は、お互いの利害と姻戚関係で複雑に結ばれていた。 そしてイングランド国王の多くは、妃をフランスの王家や大貴族から迎えていた。 “ばら戦争”の時代でも、ヘンリー6世の母すなわちヘンリー5世の妃は、フランス国王シャルル6世(在位1380-1422)の娘キャサリンだった。
 この姻戚関係で、1422年にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで他界すると、生後9カ月足らずのヘンリーが、イングランド国王とフランス国王を兼ねることにもなった。 そしてそのヘンリー6世の妃は、フランスの大貴族アンジュー公の娘マーガレットだった。

 このようなイングランドとフランスの深い関係は、利害が一致することもあれば対立することもあった。 その関係が複雑であるからこそ、“ばら戦争”の時代に戦いで負けると、ランカスター家もヨーク家も、利害関係や血縁関係をたよってフランスへ逃げ込み、そこで機会をうかがっては、ふたたびイングランドに攻め込む――といったことをくりかえしたのである。 こうして見ると、当時のイングランドは、フランス出身の貴族の子孫同士が国を奪いあっていたところ――という、奇妙とも思える構図が見えてくるのである。 


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550年後、目覚めた英国王=08=

2015-12-15 12:16:35 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 ◇◆ 策謀が渦巻く王位継承 ◆◇ 

  “タウトンの戦い”に圧勝したマーチ伯エドワードは、6月28日、エドワード4世(在位1461-70、1471-83)として即位した。 そして弟のジョージとリチャードには、それぞれクラレンス公爵位とグロスター公爵位があたえられた。  一方、スコットランドへ逃れたヘンリー6世は、5年間あまりそこに留まっていたが、1466年7月、王位奪還をめざしてイングランドに戻ってきた。 しかし、イングランド北部を転々としているところをヨーク派に発見され、捕らえられてロンドン塔に幽閉されてしまった。

 封建領主である貴族にとって都合のいい国王とは、かれらの言いなりになる国王だった。 とくに「キングメーカー」――国王製造人――といわれる大物貴族は、そのために動いたのである。 ヘンリー6世を退位させ、マーチ伯エドワードに国王への道をひらいたのは、ウォーリック伯リチャード・ネヴィル(前節参照)だった。 しかし、かれがその影響力と権力を享受できたのも、そう長くはなかった。

 エドワード4世は、長年の戦いに明け暮れた生活をつづけてきたせいか、性格が荒れ、さらに怠惰になっていた。 かれは放埓な生活をおくり、国王になったものの、しだいに国政に関心を示さなくなった。 そこに、王妃エリザベス・ウッドヴィルとその一族、すなわち彼女の父や兄弟がつけこみ、王への影響力を強めて実権をにぎるようになった。

 そこで国王への影響力を奪われたウォーリック伯は、ふたたびキングメーカーとして動きはじめるのだった。
 次にチャード・ネヴィルが目をつけたのは、国王のすぐ下の弟クラレンス公ジョージだった。 するとジョージは、以前から兄エドワード4世にたいする嫉妬心を抱いていたので、ウォーリック伯の誘いに簡単にのってくるのだった。 1469年7月、クラレンス公は20歳になっていた。 彼は、ウォーリック伯が総督をしていたフランスのカレーに渡ると、そこで兄の国王の許可もとらずに、ウォーリック伯の年長の娘イザベル・ネヴィルと結婚をした。 こうすることによって、ウォーリック伯とクラレンス公は同盟関係を強化していった。

 王族が国王の許可なく結婚することは、それだけで謀反の疑いをかけられかねなかった。 ところがクラレンス公は、さらに兄にたいして公然と反旗をひるがえし、義父となったウォーリック伯とともにイングランドに戻り、反乱を起こしたのである。

 7月26日、かれらはオックスフォードの北であった「エッジコートの戦い」で王妃エリザベスの父リヴァーズ伯リチャード・ウッドヴィルとその弟を捕らえ、処刑してしまった。 さらにエドワード4世も捕らえ、最初はウォーリック伯の城だった、ミッドランズのウォーリック城に、次はヨークシャーのミドゥラム城に幽閉したのである。 しかしクラレンス公とウォーリック伯の反乱は、諸侯と国民の支持がえられず、反発を招いただけだった。その結果ふたりは、翌年にはエドワード4世を解放し、和解せざる得なくなってしまった。

  ところが翌1470年、クラレンス公とウォーリック伯は、今度はあろうことか、フランスに亡命していたランカスター派に接近したのである。 かれらを引きこんだのは、ヘンリー6世の妃マーガレットだった。 9月13日、クラレンス公とウォーリック伯は、ランカスター派の亡命者らとともに、イングランド南西部のダートマスに上陸して攻め込んできた。

 形勢が不利となったエドワード4世と弟のグロスター公リチャードは、いったんイングランド中西部に逃れ、各地を転々としたあと、10月3日にフランスへと亡命していった。 こうして、ウォーリック伯によるヘンリー6世の再即位がなった。 このときのクラレンス公への報酬は、ヘンリー6世の皇太子エドワードの次の王位継承権だった。 ところが策士ウォーリック伯は、この年、すでに次女アン・ネヴィルを、ヘンリー6世の皇太子エドワードと婚約させていた。ウォーリック伯は、ランカスター家であろうとヨーク家であろうと、次の国王とその次の国王までも支配する手をうっていたのである。

 しかし、ランカスター家とウォーリック伯の勝利は、長つづきしなかった。 エドワード4世とグロスター公リチャードの、ランカスター家にたいする反撃がはじまったからである。 彼等に軍隊を提供したのは、エドワード4世の妹マーガレット・オヴ・ヨークの嫁ぎ先で、いまや義理の兄弟となっていたフランスのブルゴーニュ公シャルルだった。

 1471年3月14日、エドワード4世とグロスター公リチャードは、軍隊をひきいてハンバー川河口の砂洲の先端にあった町レイヴンスパーに上陸してきた。 ここは、かつてヘンリー・オヴ・ボリンブルック――のちのヘンリー4世(在位1399-1413)――が、リチャード2世(在位1377-99)にたいし、王位を要求して上陸してきたところでもある。

 

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550年後、目覚めた英国王=06 =

2015-12-11 13:30:41 | 歴史小説・躬行之譜

 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 ◇◆ ヨーク家とランカスター家の固執 ◆◇   

 ところで、近代になって、“ばら戦争”はヨークシャーとランカシャーの地域的対立として誤解され、両地域の対抗意識がことさら強調されることがあった。
 しかし、ヨーク家とランカスター家、およびそれぞれの支持派が、かならずしも地域的にヨークシャーとランカシャーに塗り分けられていたわけではなかった。 地域的には、ランカスター家はランカシャーに加えてヨークシャーでも優勢だった。 ヨーク家はむしろ、イングランド中部のミッドランズ地方を基盤とし、それにヨークシャーの一部を加えていただけだった。

 1455年の“第1次セント・オールバンズの戦い”で、摂政のサマーセット公エドマンド・ボーフォートは戦死したが、ヨーク公リチャード・プランタジネットの勝利も決定的ではなかった。 勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃のランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると、ヨーク公と王妃マーガレットを中心としたランカスター派とのあいだの戦いがふたたび激化した。 1459年に戦いが再開する。 この年の9月23日、イングランド中部で「ブロワー・ヒースの戦い」があった。

 ヨーク公はこの戦いに敗れ、アイルランドへと逃れて行く。 また、ヨーク公の長男マーチ伯エドワード――のちのエドワード4世――は、母方の従兄になるヨーク派の大物貴族ウォーリック伯リチャード・ネヴィルとともに、フランスのカレーへと逃れて行った。 しかし7歳になる直前だったリチャードは、母親と兄ジョージ、そして妹のエリザベスとともに、ウェールズに近いラドゥロウで王妃マーガレットの軍に捕らえられ、ランカスター派の捕虜となってしまった。


  1460年6月、マーチ伯エドワードウォーリック伯は、フランスから戻ると、反撃に転じて行く。 彼らは、7月10日にイングランドの中部であった「ノーサンプトンの戦い」でランカスター軍を撃ち破り、ヘンリー6世を捕らえたのだった。 このとき ヘンリー6世はの王妃と皇太子は、からくも逮捕をまぬがれ、北部へと逃れていった。

 一方、アイルランドに逃れていたヨーク公は、9月にイングランドに戻ると、諸侯の支持をとりつけ、摂政職とヘンリー6世のあとの王位継承権をかちとることができた。 しかし、北部に逃れていた王妃マーガレットは、ヨーク公の王位継承権を認めなかった。 そして、わが子で皇太子だったエドワードの王位継承権をとり戻すために、敢然と巻き返しの戦いを挑んできたのである。 

ノーサンプトンの戦い/1460年7月10日= ブロア・ヒースの戦いでの勝利の後、ヨーク派はウスターに向かって進軍した。 途中でヘンリー6世指揮する強大なランカスター軍軍に遭遇すると、すぐに拠点のあったラドロー(Ludlow)のラドフォード橋まで後退した。 1459年10月12日、カレー方面軍司令官のアンドリュー・トラロップ(Sir Andrew Trollope)が部下を連れてランカスター派に寝返りし、ヨーク派の軍事・戦略情報と交換に恩赦を願い出た。 これによってヨーク派は約3分の1と圧倒的な数的不利に追い込まれた。 そのためその夜、ヨーク公と2人の息子、それからウォリック伯(前節参照)とソールズベリー伯は、勝ち目のないため撤退し、アイルランド、あるいはカレー(ドーバー海峡で対峙するフランス側の都市)へ落ち延びた。 翌朝、指揮官がいなくなった事を知ってヨーク派は雲散した。

  前年に行われたラドフォード橋の戦いにおける大敗北で、ヨーク派は既に絶えたように思われた。 何人かのヨーク派の司令官は、1459年11月2日にカレーに逃れ、ウォリック伯はそこで叔父フォーコンバーグ卿に会った。一方、ヨーク公ラットランド伯エドムンドは、比較的安全なアイルランドに撤退した。 その頃イギリス本土では、ランカスター派がヨーク派逃走の機を捉え、討伐隊を派遣した。 ウィルトシャー伯バトラー(James Butler, 1st Earl of Wiltshire)はアイルランドの代官に任命され、サマセット公ヘンリー・ボーフォートはカレーの方面軍司令官となった。 しかしその新しい「領主」に対し、アイルランド人はヨーク公の引渡しを拒否し、カレーは堅く城門を閉じ、彼らが新しいポストを占めることは、いずれも成功しなかった。

  ランカスター派はサマセット公にカレー討伐の軍を与えた。 だが、カレーを討伐するにはまずドーバー海峡を渡らなければならない。 そのため、艦隊の建設がサンドウィッチ(Sandwich)で始められた。 艦隊の建造が済んで間もなく、ウォリック伯はサンドウィッチを襲撃して、艦隊を強奪した。 ウォリック伯は5月にもドーバー海峡を渡っており、この時には建造中の艦隊を破壊している。 ウォリック伯はサンドウィッチに彼の叔父と軍の一部を残しておいた。 来るべきイングランド侵攻時の橋頭堡の役を務めるためである。 そして6月26日、ウォリック伯とソールズベリー伯とエドワードは2,000の兵とともにサンドウィッチに上陸した。 ちょうどこの時、ヘンリー6世もマーガレット王妃(前節参照)も小規模な軍をつれてコヴェントリーにいた。 ウォリック伯はこれを急襲するべく、7月2日2~30,000の兵を連れてロンドンに入った。

  国王軍はノーサンプトンにネーネー川を背にして防御的な陣を敷いた。 彼らの背後の川は、戦術的に危険だった。 防衛軍は10,000~15,000の強兵であった。 ランカスター派は大量の野戦砲も配備していた。 接近する間に、ウォリック伯は彼の代理として王と交渉するために使者を送った。 だがランカスター派の指揮官バッキンガム公は「ウォリック伯は国王の面前には出て来る事はない。来ようとすれば、彼が死ぬだけだ。」と答えた。 ウォリック伯はノーサンプトンへの前進の間、彼は2度も国王への取次ぎを拒否されている。 一度など、「2時には私は、国王と話をしているか死んでいるかだ」とも取れるメッセージを送っている。

  2時、ヨーク派は進軍を開始した。 彼らは縦列で進軍したが、打ち付ける激しい雨のため、思うように進軍できなかった。 ランカスター派に接近した時、ウォリック伯に激しい矢の雨が降り注いだ。 運の良いことに、ランカスター派の大砲は雨で役に立たなくなっていたのだった。 ウォリック伯がランカスター派の右翼側面に着いたとき、グレイ卿の指揮する部隊が、ヨーク派に寝返った。 グレイ卿の軍は武器を放棄し、ヨーク派を本陣まで導いた。 それは忠実なランカスター派にとっては、致命的ともいえる一撃であった。 この後、戦いは30分ほど続いた。 要塞を守る事もかなわなくなったランカスター派の防衛軍は、ヨーク派の攻撃に撹乱されて隊列も維持できない状態で戦場から離脱した。

  バッキンガム公、シュルーズベリー伯、エグリモント卿、ボーモント卿らは、皆ヘンリー国王をヨーク派から守るため、王のテントをかばって戦死した。 この戦いで約300人のランカスター兵が殺され、国王は捕らえられ、再びヨーク派の操り人形となった。

 

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550年後、目覚めた英国王=05 =

2015-12-09 18:08:58 | 歴史小説・躬行之譜

 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 

◇◆ リチャードの幼少時 ◆◇

 エドワード3世の長男エドワード黒太子は、フランスとの百年戦争の英雄だったが、父の死の1年前の1376年に他界していた。 そこで、王位は黒太子の息子リチャードに移り、かれがリチャード2世として即位したのだった。 ところが、リチャード2世は宮廷内の権力闘争で、1399年に廃位され、エドワード黒太子の弟ランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントの息子ヘレフォード公ヘンリー・オヴ・ボリンブルックが、ヘンリー4世(在位;1399年-1413年)として即位した。 そして、王冠はヘンリー5世(在位;1413年3月21日- 1422年8月31日)に受け継がれた。 そして、ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロアの子であるヘンリー6世が1422年8月31日、生後9ヶ月で父の死によりイングランド王位を、同年10月には母方の祖父であるシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位を継ぐ=前節、“英仏百年戦争”イラスト参照=。 

 ヘンリー5世の死後、ジャンヌ・ダルクの勝利に始まるフランス・ヴァロア家の失地回復の中、イングランドにおける“百年戦争”継続の機運は失速していた。 若い国王はフランスとの平和政策を好むようになっており、同様の志向を持つボーフォート枢機卿、サフォーク伯ウィリアムの派閥を贔屓にしていた。 一方で、戦争の継続を訴えるグロスター公やヨーク伯リチャードはないがしろにされた。 ランカスター家とヨーク家は、ともにエドワード3世の息子たち家系である。 エドワード3世には息子だけで7人いたが、そのなかの四男のジョンが婿入りしたランカスター公爵家(ヘンリー3世につながる王族)となる。 五男はヨーク公爵家を継承して行ったのである。 この両家はイングランド王を拝命する有力貴族でもあった。

 ヘンリー6世は、摂生の母が亡くなった1437年に成年となって親政を開始したが、すぐに一握りの寵臣達(お互いに対仏戦争に関する方策で意見が対立している貴族達)に宮廷を好きにさせてしまった。 1453年にヘンリー6世に息子が生まれて皇太子となると、ヨーク家の王位継承権は遠のいて行った。 しかし、 このランカスター家の支配に異議を唱えたのが、リチャード3世の父ヨーク公リチャード・プランタジネットだった。 彼の主張は、彼の父がエドワード3世の五男ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーの息子であり、母が三男のクラレンス公ライオネル・オヴ・アントワープの血を引いていたので、自分のほうがヘンリー6世より王位につく資格が高い――というものだった。 一方、1450年代に入って、百年戦争でのイングランドの敗北が色濃くなってくると、諸侯たちの野心と闘争心は、イングランド国内の権力闘争、すなわちヨーク家とランカスター家の対立に向けられていった。  そこでヨーク公は、武力に訴えて王位継承権を主張する。 

 話をもどすと、ヘンリー6世は、成人してからも子供のように単純で、気弱な性格だった。 意志薄弱なところもあり、貴族たちをまとめて国を治めることがまったくできなかった。 彼は一日中、部屋にこもり、神に祈ってばかりいたという。 そこで、王に代わって王国の実権をにぎったのが、フランスのアンジュー公の娘で気の強い王妃マーガレット・オヴ・アンジューと、ランカスター家支持にまわった諸侯だった。 ところがヘンリー6世は、1453年、32歳のときに、ついに精神に異常をきたし、痴呆の状態となってしまった。 こうなると、王妃マーガレットとて、王の代弁者とは言えなくなった。 そのとき、摂政となって国の実権をにぎったのが、リチャードの父・ヨーク公リチャード・プランタジネットだった。 この結果、ランカスター派は宮廷から一掃されることになった。

 ヨーク家にとっては、ヘンリー6世の気がふれたことを契機に、ここでいっきに王権を奪取したいところだった。 しかし、ヘンリー6世は16カ月後に、突然、正気をとり戻したのである。 こうなると形勢は逆転し、王妃マーガレットとランカスター派の巻き返しがはじまることになった。 そして今度は、ヨーク派が宮廷から追放され、ヨーク公に代わってランカスター家のジョン・オヴ・ゴーントの孫で王の又従兄になる2代サマーセット公エドマンド・ボーフォートが摂政となり、実権をにぎったのである。 ここにきて、ランカスター家とヨーク家の対立は激化し、ついに、諸侯を巻き込んだ内乱へと発展していった。 こうしてはじまったのが「ばら戦争」であり、リチャードが3歳のときのことであった。 リチャード――のちのリチャード3世――が育ったのは、このような宮廷内の権力闘争の絶えない時代だった。

 1455年5月22日、リチャードが3歳のとき、ロンドンの北西約30キロメートルのところのセント・オールバンズで、両家のあいだの最初の激しい戦いがあった。 「第1次セント・オールバンズの戦い」である。 イングランドは国を二分するばら戦争へと突入していった。 この内乱は、ヨーク家のランカスター家にたいする挑戦という家系間の争いだけでなく、それを取り巻く貴族たちの、利害をめぐる戦いでもあった。 この戦いで、ヨーク公リチャード(リチャード3世の父)と彼の同盟者であるウォリック伯リチャードは、サマセット公エドムンド率いるランカスター派を打ち破り、エドムンドを殺した。 ヨーク公は国王ヘンリー6世を捕らえ、再び自ら護国卿となった。 

 戦いの進行は、約3,000の精強なヨーク派軍に側面に回り込まれるのを避けるために、ヘンリー6世の2,000名の軍勢は町の中に戻り、ホーリーウェルとセント・ピーター通りにバリケードを構築してヨーク派の東進を防ごうとした。 だがヨーク派の攻撃はあまりに速く、ランカスター派は驚いて対応に追われた。 両軍とも、この戦闘は1452年のブラックヒースの戦いの時のような平和的解決が可能と考えており、実際攻撃の直前まで和平工作を行っていた。 だが、狭い道路でのランカスター派の二正面攻撃からの攻撃に対して進軍が出来なくなったヨーク派は、多数の死傷者を出した。

 百戦錬磨のウォリック伯は彼の手持ちの兵を連れ出し、裏路地や庭園を抜け、町の防備の薄い箇所を通っていった。 突然、ウォリック伯の奇襲部隊はランカスター派の本体がのんびりくつろいで座っている市場の広場に現われた。 彼らがまだ戦闘が継続していると考えていなかった証拠に、彼らの多くは兜さえ脱いでいたのだった。 ウォリック伯はその少数の兵ですぐさま突撃し、ランカスター派の構築した2つのバリケードを破壊した。 バリケードに配置されたランカスター派の兵は中央広場に敵が現われた事を知り、背後からの襲撃を恐れてバリケードを放棄した。 間もなくヨーク派がなだれ込んできて、総崩れになった。 

 軍事的な意味では、セント・オールバーンズの戦いは死者恐らく300名程度という事で大きな勝利ではなかった。 だが政治的な意味では、王はヨーク公に捕らえられ、ライバルのサマセット公は戦死し、ウォリック伯の宿敵であるのノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーとクリフォード卿は総崩れ、というヨーク派の圧勝であった。

 

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550年後、目覚めた英国王=04 =

2015-12-07 16:14:23 | 歴史小説・躬行之譜

 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

◇◆ 生い立ちと”薔薇戦争“ ◆◇

  リチャード3世ことリチャード・プランタジネットは、エドワード3世(前節参照)の曾孫で第3代ヨーク公とセシリー・ネヴィルの8男として1452年10月2日、ノーサンプトンシャーのフォザリンゲイ城で産声を上げた。 この城は後に、スコットランド女王メアリー・ステュワートが幽閉され、処刑された場所でもある。 父はヨーク家のヨーク公リチャード・プランタジネットで、母は初代ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴル・オヴ・ラビーの娘セサリー・ネヴィルである。 ヨーク公夫妻は8男5女の13人の子供に恵まれたものの、うち6人は早逝、リチャードはその12番目。 

 いや  リチャードは、12人兄弟の11番目とも、11人兄弟の8番目ともいわれている。 かれの兄弟姉妹で成人したのは7人だけで、リチャードはその5番目だった。 実質的には末っ子であった。 母親セシリーが友人にあてた手紙によると、かなりの難産で逆子だったと言う。 おそらく、リチャードはこの出産の際の矯正で脊髄に強い後遺症(側弯症)を患ったと思われる。  父ヨーク公は、ランカスター家のヘンリー6世(在位1422-61、1470-71)の摂政をしていたが、エドワード3世(在位1327-77)のひ孫にあたっていたことから、次の王位を狙っていた。 

 リチャードが誕生した時勢は、曽祖父エドワード3世がフランスに反旗を翻したことによって始まった英仏百年戦争の終盤であった。 イングランド軍の劣勢が続き、1453年にはついに英国軍は敗退に追い込まれていた。 イングランド王国内では、当時の国王ヘンリー6世への不満が噴出し、リチャードの父ヨーク公が立ち上がった。 ヨーク家が白薔薇を、ランカスター家(ヘンリー6世)が赤薔薇の記章をつけていた事から「薔薇(バラ)戦争」と呼ばれ、王位をねぐる壮絶な権力争いが繰り広げられることになる。 この戦いの中、リチャードの父と次兄は戦死する。 長兄エドワードと母方の従兄弟ウォリック伯が勝利をおさめ、1461年、長兄はエドワード4世として即位、リチャードには、若干8歳でありながらグロスター公爵位が授与された。  しかし、1453年にヘンリー6世に息子が生まれて皇太子となると、ヨーク家の王位継承権は遠のいていった。  そこでヨーク公は、武力に訴えて王位継承権を主張した。こうしてはじまったのが「ばら戦争」である。リチャードが3歳のときのことで、かれはまさに、ばら戦争のさなかに育ったのである。

  そのバラ戦争は、1455年から1485年までの30年間、断続的につづいた。 ヨーク家とランカスター家とのあいだのイングランドの王権をめぐる内乱である。 ヨーク家が白バラを、ランカスター家が赤バラを旗印にして戦ったことから、「ばら戦争」というロマンティックな響きのする名称で呼ばれている。 しかし余談になるが、この内乱は、もともとはそうは呼ばれていなかった。 「ばら戦争」という名称は、19世紀の作家サー・ウォルター・スコットが創出したものなのである。 彼がこの名称を思いついたのは、シェイクスピアの史劇『ヘンリー6世』にでてくるテンプル法学院の庭園の場面からだという。

 ヨーク家のヨーク公とランカスター家支持派の2代サマーセット公エドマンド・ボーフォートが言い争いをしたとき、ヨーク公がそこに咲いていた白バラを、サマーセット公が赤バラを手折って、その場にいた貴族たちに、どちらにつくか態度をせまった場面である。 この場面が絵画や挿し絵などにもよく描かれたことから、「ヨーク家の白バラ、ランカスター家の赤バラ」の鮮明なイメージが定着したとされている。 ところが、ヨーク家はバッジ、すなわち徽章の一つとして以前から白バラを使っていたが、ランカスター家のバッジには赤バラはなかった。 ランカスター家が赤バラをバッジとして使うようになったのは、内乱の最後のころで、ヨーク家の白バラに対抗したものだという。

  因みに、図章のバッジとは、貴族が、家の紋章とはべつに、家や個人の「しるし」として定めたものであり、個人が定めたバッジは本人だけが使用できたが、家のバッジ――ヨーク家の白バラなど――として定めたものは、家臣や使用人の服や持ち物、軍旗などにも使われた。 また、ライバル両家の名称は、おのおのヨークランカスターの町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない。 ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)に勢力をはり、家門名のヨークシャーではランカスター家が優勢だった。

 ところでランカスター家とヨーク家は、ともにエドワード3世の息子たち家系である。 エドワード3世には息子だけで7人いたが、そのなかの四男のジョンが婿入りしたランカスター公爵家(ヘンリー3世につながる王族)と五男のヨーク公爵家とのあいだに起った権力闘争が、ばら戦争だったのである。 エドワード3世の長男エドワード黒太子は、フランスとの百年戦争の英雄だったが、父の死の1年前の1376年に他界していた。そこで、王位は黒太子の息子リチャードに移り、かれがリチャード2世として即位したのだった。 ところが、リチャード2世は宮廷内の権力闘争で、1399年に廃位され、エドワード黒太子の弟ランカスター公ジョン・オヴ・ゴーントの息子ヘレフォード公ヘンリー・オヴ・ボリンブルックが、ヘンリー4世(在位1399-1413)として即位した。 そしてこのあとは、ヘンリー5世(在位1413-22)、ヘンリー6世(在位1422-61、1470-71)と、ランカスター家の王がつづいた。

 このランカスター家の支配に異議を唱えたのが、リチャード3世の父ヨーク公リチャード・プランタジネットだった。

 プランタジネットの主張は、かれの父がエドワード3世の五男ヨーク公エドマンド・オヴ・ラングリーの息子であり、母が三男のクラレンス公ライオネル・オヴ・アントワープの血を引いていたので、自分のほうがヘンリー6世より王位につく資格が高い――というものだった。 一方、1450年代に入って、百年戦争でのイングランドの敗北が色濃くなってくると、諸侯たちの野心と闘争心は、イングランド国内の権力闘争、すなわちヨーク家とランカスター家の対立に向けられていった。

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550年後、目覚めた英国王=03 =

2015-12-05 17:11:42 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

   発掘現場は騒然となった。 現場責任者や発掘プロジェクトの担当者らを大急ぎで呼びよせた。 それらの関係者が固唾をのんで見守る中、全身を覆った土を慎重に取り除いでいく。 全員が無言である。 咳払いすらできぬ緊張が支配した。 やがて姿を現したのは、両手を縛られ、背骨がS字型に大きく曲がった人物の遺骨。 リチャード3世と肉体的な特徴が合致するものだった。 多くの文献が彼の肉体的特徴を記述しているではないか。

  いわく付きの王のもの思われる遺骨発見のニュースは瞬く間にひろがり、世界を驚かせた。 ここまでの興奮をもってむかえられるイングランド王は、おそらく他に類を見ないであろう。 在位はほんの二ヵ年であったにもかかわらず、シェークスピアの戯曲によって、残忍冷酷、極悪不遜、奸智陰険などと、最大級の汚名を被せて語られて来たリチャード3世。 ボズワースの戦場で命を散らせた最後の王である彼は、果たしてそれほどまでに極悪人だったのであろうか?

 動画:≪Richard III - Princes In The Tower≫; https://youtu.be/d3bYh29LA00

 ◇◆ 歪められた実像 ◆◇

 少年時代とグロスター公時代を、ヨークシャーのミドゥラム城ですごしたリチャード3世(在位1483-85)は、英国史のなかで、もっとも冷酷で極悪非道の王だったと非難されるのだが、シェイクスピアは史劇『リチャード3世』のなかで、かれを「その化物じみた醜い姿」、「蝮」、「醜い毒蜘蛛」、「ヒキガエル」、腕は「立ち枯れた若木のように萎えている」と表現した。 また、『ユートピア』の著者で16世紀イギリスの最高の人文主義者とされるトマス・モアは、『リチャード3世史』のなかで、「かれは生まれたときから背が曲がり、不吉な姿をしていた。 足から先に生まれ、すでに歯がはえていた。 生まれてすぐに、カエルを生きたまま食した」などと記している。 

 リチャード3世は、プランタジネット王朝最後の王だったが、一般向けの歴史解説書では、反対派や親族をつぎつぎと暗殺して王位を簒奪した、冷酷で非道な極悪の王とされている。 そしてリチャード3世の名をもっとも有名にしているのが、前出のシェイクスピアの史劇である。 そこにでてくるリチャード3世は、政敵のヘンリー6世とその皇太子を殺害して長兄を国王の座につけるが、国王と次兄を仲違いさせて、まず次兄を殺害する。 国王の死後は、王妃の親族や反対派の貴族たちを謀反の疑いでつぎつぎに処刑し、甥が継承した王位を奪う。 そのあと、甥ふたりを暗殺する。 そのあいだには、自分の殺した政敵の皇太子妃に甘言を弄して王妃とするものの、そのあとには姪との結婚をはかり、邪魔になった王妃を殺害する。 

 まさに悪の権化のような王である。 これほど絵にかいたような極悪人は、そうはいない。 そして、最後は戦場で家臣の裏切りにあい、惨めな死に方をする。 シェイクスピアの史劇は、歴史をもとにした創作であって、そこに描かれていることが、すべて史実とはかぎらない。 しかし『リチャード3世』を読み、その演劇を観たりしていると、いつのまにかシェイクスピアの描いたリチャード3世が、実在した王のように思えて混乱してしまう。 それほど、かれの『リチャード3世』はよくできていて、面白い。

 実際のリチャード3世は、シェイクスピアが描いたほどの極悪非道の王ではなかった。 いまではむしろ、清廉潔白、実直でまじめな王だったとされている。 とくにかれが本拠地としたヨークシャーでは、多少の贔屓もあるが、かれは公平で統治にすぐれた手腕を発揮した名君であり、また、音楽を愛したよき夫であり、よき家庭人だった、と伝えられている。 リチャード3世が1485年のボズワースの戦いで敗死したと知らされたとき、ヨーク市の市長と長老たちは、市の記録につぎのように記した。

「かつて慈悲深くわれわれを統治し賜いしリチャード王は、・・・恐るべき裏切りにあい、この北部の諸侯たちとともに、無残にも切りつけられて殺害され賜う。わが市は、大いなる悲しみに暮れぬ」

 いまでは、リチャード3世はそれほど極悪非道の王ではなかったとわかってきている。 しかしそれでも、かれに着せられた罪や疑惑が、完全に晴らされているわけではない。 歴史家トレヴェリアンは、「リチャードは、生まれつきその性極悪の人物ではない。・・・しかし、きらびやかな王冠の魅力がかれの魂を罠にかけてしまった」と記している。

 リチャードが王位につくまでの過程や、その後、ボズワースの戦いでヘンリー・テューダ―に討たれるまでにかれのまわりで起こったことには、いまだ解明されていない謎が多い。 また、かれに着せられた最大の罪で最大の謎は、ふたりの甥殺しである。 かれは、ほんとうに甥たちを殺したのか? それとも、これはリチャードに罪を着せるための、だれかの陰謀だったのか? そして、リチャード3世のまわりで起こった事件は、すべてかれに責任があったのか?

 かれがまったく無実だったとは言えないかもしれない。 かぎりなく疑わしいところもある。 しかし、すべての責任が彼にあったわけではないことは確かである。 中世の激しい王権争いを考えれば、かれだけがとくに極悪人だったわけではなく、ほかの権力者たちにも、同じようなことはあったのである。 しかし、それにしてもリチャード3世は、なぜこうも極悪人に仕立て上げられ、「英国史で、もっとも冷酷で極悪非道の王」とされてしまったのか。

= リチャード3世、遺骨から浮かび上がる壮絶な最期 =

(CNN、2014.09.18 Thu posted at 16:43 JST) ; 15世紀のイングランド王、リチャード3世の遺骨から、戦場での壮絶な最期の様子が浮かび上がった。 英レスター大学の研究者らがけがの跡を分析し、英医学誌ランセットに成果を発表した。 リチャード3世は1485年、王位に就いてからわずか2年後に32歳で戦死した。 遺骨はイングランド中部レスターに近い修道院に埋められたと伝えられていたが、20122年、駐車場となっていた修道院跡で見つかった。

研究チームによると、遺骨には死の前後に負ったとみられるけがの跡が11ケ所も残っていた。 論文をまとめたサラ・ハインズワース教授は「当時の武器で長時間にわたり、あるいは複数の敵の手で傷つけられたことが分かる」と話す。 分析には全身のCT(コンピューター断層撮影)が使われ、骨の損傷部分はさらにマイクロCTで詳しく調べた。 11ケ所のうち9ケ所は頭部のけがだった。 頭がい骨の下面に2つ、致命傷になったとみられる損傷があった。 1つは剣や矛のような武器による大きな切り傷、もう1つはとがった武器による刺し傷の跡だったという。

頭部のけがからはかぶとを脱いでいたことがうかがえる一方、腕や手に抵抗した際の傷がないことから、よろいは着けていたとみられる。 頭部のほか骨盤にも大きな損傷が残っていたが、当時のよろいは腰の部分も防護していたはずだ。 リチャード3世の遺体は馬の背からつり下げた状態で戦場からレスターへ運ばれたとの説があることから、この時に受けた損傷ではないかと、同教授は指摘する。

ただ、どの傷も重なり合ってはいないため、正確な順番は確認できなかったという。 遺骨は来春、発掘場所から近いレスター大聖堂に再び埋葬されることになっている。

この戦いは1485年8月22日に、ヨーク派の国王リチャード3世と、対抗して王位を争ったランカスター派リッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のイングランド王ヘンリー7世)の間で行われた。この戦いは、リチャード3世の戦死による敗北と、ヘンリーによるテューダー朝樹立という結果で幕を閉じる。


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550年後、目覚めた英国王=01 =

2015-12-01 17:10:37 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ◎○

 = RICHARD III THE NEW EVIDENCE = https://youtu.be/gw0H0j1fpGA

◆◇ 駐車場で蘇った英国王 ◇◆

2012年9月5日、イングランド中部の都市レスラター。 

  終局の夏が秋に変わり、連日の雨天から一転し、透き通るような青空と煌々たる残夏の陽射光が立ち入り禁止になっている市営駐車場に降り注いだ。 その駐車場の一角は掘り起こされ、むき出しの土壌が陽光に晒されている。 その表面は黒黒と先ほどまで雨に打たれていたのである。 今しがたより、数人の作業員と考古学者たちが作業を再開している。 細心の注意を払い、黙々と掘り返している。 この駐車場は、13~16世紀にかけた“グレイフライヤーズ”と呼ばれた修道院が建っていた場所だ。

  この修道院は「稀代の暴君」として知られるリチャード3世との繋がりを、古くから伝え続けてきた。 伝承によれば、リチャード3世の遺体はこの修道院にて丁寧に埋設されたと指摘され続けてきたと言う。 その上で、ヘンリー8世の時代に修道院が閉鎖され、破壊・解体された折にリチャード3世の遺骨は掘り起こされて川に投げ捨てられたと言う。 以来、5世紀以上にわたって真相を追求しようとする学究は現れなかった。 

  リチャードは、政権内の争いから、1470年にエドワード4世がランカスター派に寝返ったウォリック伯によって追放されたとき、ウォリック伯の誘いを拒否して一貫してエドワード4世に忠誠を誓い、翌年の兄王の復位に貢献した。 そして、1472年、ヘンリー6世の継嗣エドワード・オブ・ウェストミンスターの寡婦であったウォリック伯の娘アン・ネヴィルと結婚した。 アンの姉イザベル・ネヴィルの寡夫であったリチャードの兄クラレンス公ジョージが1478年に処刑されると、リチャードは広大なウォリック伯領を独占相続して、名実ともに実力者としての地位を確立する。

  その後、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばすと、これと対立するようになった。 1483年、病死したエドワード4世の跡目を襲ったエドワード5世の摂政に就任するや、リチャードはリヴァース伯ウッドヴィルらの王妃一派を捕らえて粛清した。 エドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーをロンドン塔に幽閉すると、3ヵ月後の同年6月26日、エドワード5世の正統性を否定した議会に推挙されて、イングランド王リチャード3世として即位した。 同年、支持者の一人ジョン・ハワードノーフォーク公爵位(ロンドン塔に幽閉された甥リチャードから剥奪された)を与えている。

  1483年10月、リチャード3世政権の樹立に貢献のあったバッキンガム公ヘンリーが反乱を起こすとこれを鎮圧したが、反乱の噂は絶えず、政情は不安定なままに置かれた。 1484年4月には一人息子のエドワード・オブ・ミドルハムが夭折し、1485年3月には王妃アン・ネヴィルも病死する。 唯一の子供であったエドワードの死後、リチャード3世は一時、自身と王妃の甥であるクラレンス公の幼い遺児ウォリック伯エドワードを王位継承者に指名したが、王妃の死後にそれを取り消し、代わって別の甥(姉エリザベス・オブ・ヨーク の息子)であるリンカーン伯ジョン・ドゥ・ラ・ポールを王位継承者に指名した。

  1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで国王自ら軍を率いて決戦する。 この戦いでリチャード3世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。 遺体は、当時の習慣に従って、丸裸にされ晒されたと言う。 薔薇戦争の最後を飾る王であった。

 

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タタールの軛( 追稿 )=終節 =

2015-11-29 18:19:13 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 =★

 製塩事業で巨大な富を築いたストローガノフ家にイヴァン4世(雷帝)は、1558年 ヴォルガ川水系の上流域であるカマ川とチュソヴァヤ川沿いの広大な地域一帯を彼らの荘園に与えた。 もっともその土地は、地元の住民から力で押収し、農民を入植させたものであり、ストローガノフ家はこれらの土地で農業、狩猟、製塩所、漁業と鉱石採掘などの事業を拡大しいった。 

 ストローガノフ家は町と要塞を建設し、1566年に自らその所領をオプリーチニナ(ツァーリの私的な領地)に編入した。 同時に、ツァーリの助けを借りて反乱を抑えつつ、ウラル、シベリアに新しい土地を拡大していった。 彼らの東方への進出はタタール(蒙古)のシビル・ハン国領域を侵食する事であった。 1577年ごろ、ストローガノフ家はシベリアにおける権益をシビル・ハン国からの攻撃から守るため、イェルマークをシビル・ハン国との戦いの責任者に任命した。

 コサックの首領イェルマークがシビル・ハン征服に乗り出し、1581年にはイヴァン4世(雷帝)がコサックの棟梁イェルマークにお墨付きを与えてシベリア征服事業を推進する。 そして、1582年にシビル・ハン国の征服が完了し、ジュチウルスの一党であるシビル・ハンは南方に離散し、1598年のウマル川の戦いで滅亡するが、イェルマーク自身も傷つき、戦死した。 他方、1555年に設立されていたイギリス・モスクワ会社と新たなシベリアの領土から穫れる黒テンの毛皮を交易する関係が深まる。 この毛皮貿易は、恐怖政治を敷くイヴァン4世のツァーリ制度の強権からの逃亡農民を取り込んで東へさらに領土を拡張していく原動力となった。 

 1581年、イヴァン4世は後継者であった同名の次男イヴァンを誤殺してしまった。 事の顛末は、まず息子の妻エレナ・シェレメチェヴァが妊娠中に正教徒が着るべき服を着ず、また部屋着一枚でいたことにイヴァン4世が激怒し、家長権にもとづいてエレナを殴打したところから始まる。 幼少より司祭から「家庭訓」によって「家長権を行使するようにツァーリは国家に対して家長権を行使する」と教えこまれた程に家長権は絶大であり、イヴァン4世(雷帝)は息子の妻を過去に二度選んでは気に食わず追放していたにである。 息子にとって三人目の妻にあたるエレナもイヴァン4世が選んでいたが、これも次第に嫌って暴力を振るうようになっていた。

 息子のイヴァンは父の様子に気づくと、彼自身も家長権に服さなければならない立場だったが妻を殴打する父の様子は尋常ではなく、その手を抑えずにはいられなかった。 しかし家長権の行使を止められたイヴァン4世は、これに我を失った。 かねてより次男イヴァンが貴族たちと友好的な関係を築いていたことに猜疑心を抱いていたとも言われているが、イヴァン4世はツァーリの象徴とされる錫杖を手にとって振り下ろし、落ち着きを取り戻した時はエレナは震えて座り込み、息子イヴァンは耳を押さえてうめき声をあげていた。

 またそれを助け起こそうとする家臣ボリス・ゴドゥノフも額から出血しており、イヴァン4世はそれを見て自分が何をしたか理解したが、もはや取り返しがつかなかった。 息子イヴァンはそれから数日後に死亡した。 息子の血を残すはずのエレナのお腹の子も殴打と衝撃により流産に終わり、エレナ自身も死亡したのである。

 以後、イヴァン4世は息子を殺した罪の意識に苛まれ続ける晩年を送った。 肉体的、精神的な衰えから統治も停滞した。 生来の不眠症はますます悪化した。 深夜、イヴァン4世の近習は長男ドミトリー、次男イヴァンの名を呟きながら月明かりの回廊を徘徊する皇帝を何度か目撃している。 また皇太子の追悼祈禱にはロシア国内の修道院のみならず、コンスタンティノープル、エルサレム等の国外各地の修道院に依頼し多額の寄進を行ったと言う。 そして、 1584年、イヴァン4世は側近とチェスしている最中に失神し、3月18日に発作を起こして不帰の人となった。 代わって知的障害があり後継者には不適格と思われた三男フョードルが即位し、イヴァン4世の遺言で指名された摂政団に荒廃した国家の統治が委ねられた。

 複雑な性格の持ち主で、処刑や拷問を好むなど非常に残虐であると同時に、きわめて敬虔な一面をも持っていたイヴァン4世(雷帝)は自身の体内にはタタールの血が流れ、タタールの宗家・ジュチウルスのジンギスカーンが血脈の諸王家を駆逐して、“タータルの軛”からロシアを解放したのである。 逸話に、1552年10月2日の生神女庇護祭の祭日、モスクワ軍がカザンを陥落させると、イヴァン4世はこの戦勝を記念してクレムリンの隣に生神女マリヤの庇護に捧げる大聖堂を建立した。 この聖ワシリイ大聖堂は1560年に完成し、伝統的なロシア建築である。 「イヴァン4世はその美しさに感動した余り、設計者がそれ以上に美しいものを造らないようにと彼を失明させた」という伝説があるが、これは史実ではない。

 しかし、この頃以降、オプリーチニナに代表される恐怖政治が始まる。 1564年の初めに酒宴の席で酩酊して放浪芸人と共に踊りだしたイヴァン4世を大貴族レプニン公が諌めたが、イヴァン4世は彼に仮面をつけて踊りに加わるように命じ、レプニン公が拒絶するとその夜のうちに彼を殺害させたという。 また、イヴァン4世の下を訪れた外国使節らの記録によれば、イヴァン4世はオプリーチニキと共に修道院を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や時課を行い、毎夜のように生神女マリヤのイコンに祈りを捧げ、好んで鐘つき役や聖歌隊長を勤めたという。 [一方、午後には処刑や拷問が行われ、イヴァン4世自身もそれに加わるのが常だった。 イヴァン4世は拷問の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びを上げたと記されているが・・・・・。

 

 

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タタールの軛( 追稿 )= 18 =

2015-11-27 17:58:28 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 =★ラスト

  1574年には再び大粛清が起きたが、イヴァン4世はその年末に再び突然退位を宣言して、チンギス・ハンの子孫の1人シメオン・ペクラトヴィチにモスクワ大公の座を譲り、自らはモスクワ分領公を称した。 1575年、ポーランドでステファン・バートリが即位すると、その隙を狙ってイヴァン4世は再びリヴォニアに侵入してその大半を占領し、スウェーデンとポーランドが持つ領土を奪った。 そして、1576年の年明けには、再びツァーリとして復位し、シメオンはヴォルガ川中流域のトヴェーリ公となって引退した。

 =この謎の退位事件は後世の歴史家の首を傾げさせている。 モンゴル帝国の厳然たるジンギスカーンの血“チンギス統原理”説で説明しようとするが、ロシア史研究者の多くは「1575年にロシア君主が死ぬ」という占い師の進言を警戒した、あるいはポーランド王位を狙うための戦略だったなどの説がある=

 事実は、イヴァン4世は退位後もしばしば「嘆願」の形でシメオンを通じて政策や処刑を実行したことから、非常大権を手放してしまったために全国会議の必要が生まれたことに辟易し、傀儡を立てて隠れ蓑に使おうとしたのではないだろうか。 2年前に行ったノヴゴロド虐殺がイヴァン4世の強権政治がいたるところで齟齬を生んでいたのである。

 1580年、リヴォニア戦争が始まってから20年が経過し、ロシアの国力は戦費とオプリーチニナ制度、そして重税とイギリスとの不均衡貿易によって経済的に限界を迎えつつあった。 また敵国は当初のリヴォニアだけではなく、スウェーデン、トルコの後援を受けたタタール人、そしてルブリン合同によって生まれたポーランド・リトアニア共和国となっており、それらは開戦当初よりも強大化していた。

 イヴァン4世はそれらのうちポーランドと講和を結ぶことを考え、ナルヴァ港を除くリヴォニアの返還という譲歩を見せて交渉にあたった。 しかしポーランド国王ステファン・バートリはロシアの国情を踏まえ、例外なきリヴォニア全域の返還とノヴゴロド、プスコフの割譲、そして巨額の賠償金を求めた。 イヴァン4世は激しく拒否したが両者の国力はすでに大きく差が開けられており、特に係争の都市ノヴゴロドは虐殺によって備えを著しく欠いていた。 そのためイヴァン4世は和議の仲介をカトリックのローマ教皇グレゴリウス13世に依頼する。

 イヴァン4世はローマ教皇が対トルコ十字軍の結成を望んでいることを知っており、グレゴリウス13世は正教徒の依頼ながらも辣腕外交官アントニオ・ポセヴィーノをポーランドに派遣して両者の交渉を取り持った。 その間、バートリはロシア国内に10万の軍を侵入させて都市をいくつか落としていたもののプスコフ攻略に失敗して進軍が停止していた。 さらにかねてより反ロシア同盟を結んでいたスウェーデンがこれを好機としてバルト海から進出し、1581年にナルヴァを占領して漁夫の利を得つつあった。 このためポーランド、ロシアともに交渉を進め、イヴァン4世は1582年にポーランドとヤム・ザポルスキの和約を締結した。

 この和約ではロシアはリヴォニアの返還、ポーランドは占領したロシア初都市の返還を条件とし、スウェーデンが占領したナルヴァについては触れていない。 また翌1583年にはスウェーデンと条約を締結してリヴォニア戦争は終結したが、ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海交易ルートも失う。 長い戦争はロシアの国力を大きく疲弊させ、重税や治世末年の飢饉に苦しむ逃亡農民が大量に発生して南部・東部に移り、一部はコサックに転じ、モスクワ大公国の民はどうようし、多くは流民と化して離散して行った。

 1583年、53歳になったイヴァン4世がリヴォニア戦争で25年以上かけて得たものは周辺諸国からの敵意だけであり、最大の交易相手イギリスに対する依存はますます強まった。 すでに領土問題を抱える周辺国との外交改善が望めないイヴァン4世は再びイギリスとの軍事同盟に活路を見出そうとしていた。 イヴァン4世は1567年にエリザベス1世に求婚して消極的に拒否された経緯があったが、両国の同盟のためには血の結びつきが必要と考えた。 そのためイヴァン4世は7人目の妻マリヤ・ナガヤと結婚していたにも関わらず、イギリス王室に連なる女性との結婚を望んだ。

 この要望を受けたロシア使節は女王の一族のうち、その姪にあたるハンティント伯爵の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス(マーガレット・ポールの曾孫)を選び、結婚相手としてイギリスに打診する。 当時、白海交易にフランス、オランダが参入の意欲をみせていたため、イギリスは直ちに可否を返さなかった。 イギリスは「メアリーが天然痘に罹患した」、「航海に耐えられる体力が戻らない」等と回答を先延ばし、外交官が白海航路の独占を勝ち取ると、ついに結婚の交渉をうやむやにしてしまった。 結局、ロシアがイギリス王室から皇妃を迎えるには、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世を待たねばならなかったのであるが・・・・。

 

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タタールの軛( 追稿 )= 17 =

2015-11-25 18:24:30 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 =★

  1570年には、イヴァン4世は北方のノヴゴロドプスコフとともにリトアニア側につこうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した。 イヴァン4世はこの攻撃に1万5千のオプリーチニキ軍を編成し、オプリーチニナ宮殿から侵攻を開始した。 その行軍の間にある村々は軍の移動を隠匿するために焼かれ、住民は虐殺された。 オプリーチニキ軍がノヴゴロドに到着したのは1570年の1月2日であり、通常であれば神現祭が開かれているはずだった。 しかしノヴゴロドには少数の先遣隊が入り込み、町のいたるところが封鎖され、市民は家に閉じ込められていた。 ノヴゴロド大主教ピーメンはイヴァン4世の誤解を解こうと出迎え、皇帝は大主教を裏切り者と罵り祝福を拒否したものの、聖ソフィア大聖堂での聖体礼儀は受け入れた。 イヴァン4世は聖ソフィア大聖堂では何度も十字を切り、また上機嫌でピーメン大主教との会話も楽しんでいた。

 だが昼食会の最中、イヴァン4世が席を外すなりオプリーチニキが乱入し、臨席する市内の有力者たちへの捕縛と大聖堂に対する略奪が始まった。 イコン(聖像)を含むあらゆるものが剥がされ、捕虜とともに城外の野営地に運ばれた。 同時に市内でもオプリーチニキは無法を尽くし、聖職者、有力者に留まらず、官吏や商人、その妻子に至るまで目についた市民は全て連行され、拷問によって裏切りの自白を引き出した後に殺害された。女性と子供は手足を縛って厳冬の湖に捨てられた。 ノヴゴロド市内で1月2日に始まった虐殺と略奪は2月に入ってようやく止むが、それは目的地が市外の修道院に移っただけであり、なおも一週間に渡って27箇所全ての修道院の略奪と、罪を自白する「裏切り者」への殺戮が続いた。

 それらが済んだ後、オプリーチニキ軍は再び市内に戻って、今度は一般市民全てを対象とした略奪を再開した。 これにより息を潜めていた市民も数多くが殺害された。 このノヴゴロド虐殺によって3万の人口のうち、名簿に残っているだけでも3千人近くの犠牲者が確認されている。 ピーメン大主教を始め、その場で殺害されずにモスクワに連行後されたものは300名に及んだ。 またノヴゴロドから徴発した穀物類は出発の前に全て焼き払われ、生き残った市民は深刻な飢餓に苦しむ状況に貶められた。

 一方、ノヴゴロドとともに裏切り者とされたプスコフもノヴゴロドの次に略奪の被害を受けた。 しかしプスコフでは殺害されたのはアンドレイ・クルプスキーと親しいペチョルスキー修道院長のコルニーリーを始めとする数名に留まった。 それはプスコフにはイヴァン4世の畏敬する伴狂者(正教会の聖人)ニコライが住んでいたためとされている。 既存の教会などの権威に属さず、聖なる狂気を生きながらにしてあらわす伴狂者を、イヴァン4世はその彼独特の信仰心から畏れ敬っていた。 こうして虐殺は起こらなかったものの略奪自体は避けられず、市民には強制労働と重課税が課せられた。

 これらノヴゴロドとプスコフへの略奪は、皇帝親衛隊であるオプリーチニキを殺戮強盗集団の代名詞に変えた。すでに民衆が敬慕したツァーリはなく、ノヴゴロドから連行した裏切り者に対する拷問と、自白によって生まれた新たな300名の「共犯者」の存在は民衆を恐怖させた。 彼らの公開処刑の当日、民衆はオプリーチニキを恐れて家に閉じこもり、イヴァン4世は自ら安全であることを保証して人々を処刑場に招かねばならなくなった。 イヴァン4世は処刑場で口を閉じ、目を伏せる民衆の姿から「共犯者」300名のうち180名に恩赦を与えたが、もはやかつてのようにイヴァン4世を慈父と称える声はどこからも聞こえなくなっていた。

 1570年にはオスマン帝国と露土戦争の講和条約を結んだものの、1571年にクリミア・ハン国がリトアニアと同盟を結んで、重要な交易路を通ってロシア領に侵攻、5月には首都モスクワを焼き払った。 ハーンデウレト・ギレイの率いるクリミア・ハン軍に対し、当初はオプリーチニキの軍勢が防衛にあたっていたが、タタールの騎兵に翻弄された挙句に側面攻撃を受けて壊滅した。 イヴァン4世はこの敗北を受け、モスクワ郊外のアレクサンドロフにあるオプリーチニナ宮殿に退避した。 この非常事態により、モスクワ防衛は大貴族たちのゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍が合同で担うことになったが、騎兵を中心とするデウレト・ギレイは戦力の再配置を許さず、速攻でモスクワに侵入して徹底的な殺戮を行った。

 この略奪と放火でモスクワ市街は消失し、クリミア・ハン国はモスクワ市民6万人の殺害を公表したが、同時代の記録には30万人、またイギリス人フレッチャーの見聞では80万人もの死亡が記録されている。 この首都の壊滅は、イヴァン4世の精神に深刻な打撃を与えた。 同時に危機に何も成し得なかったオプリーチニナ制度の失敗に気付き始めていた。 イヴァン4世はオプリーチニナ制度を導入してから初めてとなる全国会議を招集した。 会議では貴族と聖職者の意見をまとめ、ゼムシチナ軍とはオプリーチニキ軍の指揮を一本化させた。 有能は指揮官はイヴァン4世自身が追放、処刑してしまっていたが、その指揮は大貴族たちに委ねたざるをえなかった。 もはや、イヴァン4世の権力は失墜している。

 1572年、ロシア軍は“モロディの戦い”でクリミア・ハン国に勝利した。 タタール人の大規模なバルカン・ロシア侵入はこれ以降消滅する。  同年、イヴァン4世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、オプリーチニナの幹部を多数処刑してその存在を抹消した。 これにより、イヴァン4世は1565年から掌握している「非常大権」を手放すことになった。 また同じ年、イヴァン4世はアンナ・コルトフスカヤと、2年前にノヴゴロド虐殺を行なったノヴァゴロドを新婚旅行した。 されど、新しき妃になったアンナはさほど美しくもなく、余りに素性が卑しいため実家の家族に貴族身分を与えることも出来なかった。 そして、アンナに飽きたイヴァン4世は、結婚2年目で石女だという難癖をつけて彼女を修道院に追放した。


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タタールの軛( 追稿 )= 15 =

2015-11-21 16:33:16 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★    = 「タタールのくびき」からの脱却 =★

 1562年、イヴァン4世は新しい土地法を制定した。 それは貴族の権利であった世襲に制限を加える法律であり、貴族同士の権限基盤への明確な攻撃であった。 同年、イヴァン4世は北コーカサスのマリア・テムリュコウナを妻に迎えるが、イヴァン4世は新しい妻にも、そしてこれ以降の妻にも親愛を示すことはなかったと言う。 1563年にはイヴァン4世が信頼す府主教マカリーも死亡し、イヴァン4世にとって亡き妻の一族であるザハーリン家の重要性は増大していった。 一方で、同年当初の対リトアニア・ポーランド戦線はうまく事が運んでいた。 リヴォニアの権益を巡って対立した諸国の間隙をつき、イヴァン4世はスウェーデンと休戦し、デンマークとは同盟を締結したのである。 

 これにより5万の動員を可能にしたロシア軍はリトアニアの重要な都市ボロシクを包囲し、イヴァン4世の親友にして軍司令のアンドレイ・クルプスキー、名門貴族のレプニン公、カーシン公の活躍もあってこれを降伏させた。この勝利に乗じ、ポロツク駐屯軍とスモレンスクからの増援を合流させ、一気にリトアニアの首都を目指そうとした。しかしポロツク駐屯軍の行動はリトアニアに把握され、領内を行軍中に急襲を受けて壊滅した。 スモレンスクからの増援もポロツクを放棄して撤退するしかなかった。 翌1564年には“ウラ川の戦い”でまたしてもリトアニア・ポーランドに大敗した。 この続けての敗北はクリミア・ハン国に和平条約の破棄を決意させ、オスマン帝国の後援を受けてロシアへの侵入を再開する。 この苦境を受け、モスクワ側の大貴族は、スウェーデンと7年の和平協定を結び、ポーランドとも休戦交渉に入った。 しかしイヴァン4世はこれに納得せず、全国会議を招集して戦争継続を支持させ、交渉を打ち切らせた。

 しかしながら、イヴァン4世は内通者の存在を疑っていた。  特に高位の者に対しての猜疑心が強く、レプニン公、カーシン公といった戦功を上げた名門貴族が次々に処刑された。 土地法と大敗、そしてイヴァン4世の猜疑心は名門貴族たちを絶望させ、この時期からリトアニアに亡命する貴族たちが続発する。 さらに腹心中の腹心とされたアンドレイ・クルプスキーもイヴァン4世の振る舞いから危険を察し、1564年にリトアニアに亡命した。  この苦境に立ったイヴァン4世は突然家族を連れてモスクワ郊外のアレクサンドロフに移り、退位を宣言(1564年12月3日)した。 直接的な理由は、多くの大貴族が“リヴォニア戦争”に反対し、クリミヤ・ハン国征服を要求してツァーリと対立していたためだった。 また新土地法にも関わらず大貴族たちは依然として領地に強い権力基盤を有し、個別には処罰ができても貴族、高位聖職者の勢力はツァーリと拮抗していたのである。

イヴァン4世は士族からアレクセイ・バスマーノフとその子フョードル・バスマーノフを取り立て、「裏切り者」を厳しく摘発させた。しかしその強権的な振る舞いはさらなる反発を招き、特にバスマーノフが自らとの口論を理由に軍司令のオフチーニンを絞殺し、それにイヴァン4世が許可を与えたことによって最高潮に達した。 根拠なき処刑を行うイヴァン4世への批判が一斉に起こり、大貴族たちだけでなく、政府の側近貴族、さらにマカリーの後任者アファナーシー府主教のからの「無用な血」に対する非難を招いた。 彼らの行動はこれまでのイヴァン4世の政策への反動であり、その要求は統治前半の貴族、聖職者、大公の三者が協調して統治を行うトロイカ体制への回帰であった。 だがイヴァン4世には受け入れがたく、また即位以来初めて行われた自分自身への弾劾に強い衝撃と強迫観念を受けていた。 イヴァン4世のクレムリン脱出と退位宣言には、それらの政治的かつ心理的要因が絡み合い、雷帝を翻弄した。

 イヴァン4世の隠棲は年が開けて1565年になっても続き、その期間が1ヶ月にも及ぶと皇帝に集中していた政治は麻痺していた。 この事態に貴族、聖職者は困惑し、また何よりもモスクワの民衆は強い不安に苛まれた。民衆にとってツァーリは父であり、神に選ばれた存在であり、民衆の安全を守る軍司令官であり、貴族の横暴に対する守護者だと伝統的に信じられていたためだった。 ザハーリン家以外が敵となっていたイヴァン4世は、この新しい自らの支援者たちに着目し、1月3日、2通の文書を府主教アファナーシーとモスクワの市民宛に送りつけた。 その内容は貴族の売国とそれに癒着する聖職者をなじり、今の自分に許された権限ではツァーリとして統治できないこと、そのために退位せざるをえないことを痛烈な批判交えて訴えるものだった。

 さらに、民衆に対しては深い愛情を示すとともに、ツァーリの立場は欲深き貴族と腐敗した聖職者に苦しめられることでは同じ存在だと自らの境遇を嘆いてみせた。 この手紙の内容が民衆の間に広まると、モスクワ中の人々は激怒して府主教や貴族の館を取り囲んだ。 その結果、貴族と聖職者は民衆の求めるがままイヴァン4世へ帝位復帰の請願状を届け、退位撤回の条件として「無制限の非常大権」を求められてもそれに応じると書き連ねるしかなかった。 大貴族の嘆願で復位に同意する際、反逆者を自由に処罰する権限をはじめとする非常大権を認めさせたイヴァン4世は、有名な恐怖政治を開始する。

 手始めに、クレムリンに帰還した当日に大貴族の中でも指導的役割を果たす名門貴族の当主を7名処刑し、続いて中央集権化を勧めるため、オプリーチニナ制度の導入を宣言したのである。 しかしながら、強迫観念に襲われながらのツァーリが生活は生来の猜疑心を育て、心身に強い悪影響を与えていた。 モスクワに戻ったツァーリは頬がやせこけ、髪と髭が抜け落ちて容貌は一変していたと言う。 「以前の人好きのする性格は失われ、人の顔を伺うようになった」とも言う。 

イヴァン4世の新しい統治は、全国を直轄領(オプリーチニナ)とそれ以外の国土(ゼームシチナ)とに分け、直轄領を自ら選んだ領主オプリーチニキに統治させることにしたのである。 オプリーチニナに存在していた土地所有者は代替となる土地をロシア辺境に与えられ、立ち退かなければならなかった。 このため、ロシア国内はツァーリ派のオプリーチニキと、旧来の貴族たちのゼームシチナに二分される形になった。 オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った。オプリーチニキは富裕層の財産を狙って多くの犠牲者を出し、またイヴァン4世の命令に従って、次々に要人らの粛清を実行した。

 主な標的としては、モスクワ府主教フィリップノヴゴロド大主教ピーメンらの高位聖職者、ツァーリの従弟で有力なライバルであったスターリツァ公ウラジーミルなどがいる。 全国会議はその制度の弊害と暴走するオプリーチニキを憂い、翌年の1566年には制度廃止の嘆願をイヴァン4世に提出するが、イヴァン4世は嘆願者全員を処刑してこれに応えたのである。

 

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タタールの軛( 追稿 )= 14 =

2015-11-19 17:44:50 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★    = 「タタールのくびき」からの脱却 ⑨ =★

 1553年の春、雷帝・イヴァン4世は生死に関わる程の大病を患い、1歳にもならない長子ドミートリーを後継者に定めた。 しかし貴族たちの一部はドミートリーへの宣誓を拒否し、また改革の協力者シリヴェーストル司祭も当初は宣誓を渋った。 これは皇妃アナスタシアを通じて影響を持ち始めたザハーリン家を警戒し、代わって後継者にイヴァン4世の5歳下の従兄弟スターリツァ公ウラジーミルを望んでのものだった。 結局、この後継者問題はイヴァン4世が快癒し、ツァーリそのものへの叛意を示した者がいなかったことから棚上げになる。 だが、後継者を巡る宣誓拒否はイヴァン4世に権威を損ねられた印象を与え、また新興のザハーリン家と旧来の名門貴族との対立もこの時期から浮き彫りになっていた。

 同年5月、イヴァン4世は大病からの快癒を神に感謝し、家族と廷臣を随行員にして北端の地ベロオーゼロのキリル修道院へ巡礼の旅に出た。 特にキリル修道院周辺は追放を受けた貴族、聖職者の配流地とされ、カザンの反乱が未だ続いていたことから側近や聖職者たちはこれに反対した。 しかしイヴァン4世にとってキリル修道院は母エレーナが自らを授かるため祈りを捧げた修道院であり、大病からの復活を遂げたイヴァン4世にとって「新しい生」を感謝するため巡礼を行わなければならなかった地だった。

 そして、同年6月 皇帝一行はキリル修道院で祈祷を捧げた。 しかしその帰路、船着場での事故によりイヴァン4世は皇太子ドミートリーを失う。 生後8ヶ月の後継者の理不尽な死に信心深いイヴァン4世は苦悶し、その大元を後継者宣誓拒否した貴族と側近たちに求めた。 だが、この時期のイヴァン4世は自制して教会、貴族との協調路線を続け、1554年3月には皇妃アナスタシアが次男となるイヴァンを産む慶事に、宮廷は一応の平穏を取り戻した。

 1553年8月末、イングランドから北極海航路で中国を目指したエドワード・ボナベリンジャー号が白海の通過を断念し、ロシア領内に到着寄港した。 これにより航路が確立され、両国の関係が始まった。 1555年、ロシアはイングランドと通商協定を結び、ヨーロッパとの本格的な交易が始まる。

 アルハンゲリスクを基点とするイギリス・モスクワ会社との貿易は、1年のうち短期間しか通れない北極海航路であり、イヴァン4世は側近たちの反対にも関わらずバルト海への進出を急いた。 その結果、1558年モスクワ国家はドイツ騎士団の残党が治めるテッラ・マリアナを支配下におくため、リヴォニア戦争1558年 - 1583年)を開始した。

 当初戦争は優位に進むが、クリミア・ハン国が不穏な動きを見せると、イヴァン4世はリヴォニアと半年間の休戦を結んで軍を退いた。 そして、イヴァン4世はクリミア・ハン国へ大軍を動員したが、休戦期間中にクリミア問題を軍事力で解決することはできなかった。 さらにリヴォニアは休戦を利用して完全に戦力を立て直し、また領土分割を狙う近隣列強が休戦後に介入し、戦争再開後のモスクワ国家はリトアニア・ポーランド同君連合との戦争に入った。 スェーデンもナルヴァを獲得するために1562年にフィンランド湾を海上封鎖した。これ以後、戦争は北欧全域に広がっていく=北方七年戦争=。

 この戦争の拡大の中で、次第にイヴァン4世は側近たちへの信頼を失っていった。 南進を主張する側近たちの進言を真っ向から否定してクリミア・ハン国と和平条約を結ぶと、全軍を傾けてリヴォニア攻略に望んだ。 また、ドイツ人の支配に対する反発からリヴォニア中で反乱が起こり、イヴァン4世の望むリヴォニア攻略はほぼ完成したかに思えた。 しかし政治家でもある攻略の司令官アタシェフは、現在のリトアニア・ポーランド同君連合軍が実質的にリトアニアしか動いていないことを知っており、リヴォニアの陥落はモスクワの国力を上回るポーランドの本格介入を招くことを理解していた。 そのため好機がありながらも戦線を停滞させてしまい、戦争は膠着状態に陥った。

思うようにならない戦争の焦りと、側近たちへの不審感、さらに妻のザハーリン家への反発を理由とする貴族たちの反対に、イヴァン4世は怒りを募らせていた。 しかし最愛の妻アナスタシア(前節参照)は夫の気性をうまく宥め、憎悪を和らげた。 彼女は13年で6人の子をなし、早世したドミートリー以外にも二人の男児、次男イヴァンと三男フョードルを設けていた。 しかし1560年8月7日、イヴァン4世が30歳となった年にアナスタシアは死去した。

 前年から体調を崩しており病死であったとされるが、イヴァン4世は妻の死にザハーリン家を敵視する勢力の関与を疑った。 さらにリヴォニア戦争でのアダシェフ顧問団将軍の失態、シリヴェーストル司祭の南進策の誤りも、自分を陥れるための策謀であるとみなし、そのために二人がアナスタシアを毒殺したというモスクワの噂を信じた。 マカリー府主教もこの頃は病に伏し、イヴァン4世が幼いころに見せた残忍な一面を咎められる人物は、もはや誰もいなくなっていた。

 アナスタシアの死からまもなくして、顧問団のアダシェフは全領地を没収の上にリヴォニアのドルパート要塞に投獄され、二ヶ月の1561年に謎の死を遂げる。 シリヴェーストル司祭も同時期に白海の孤島にあるソロヴェツキー修道院に永久に追放された。 選抜会議の中核をなした二人の追放は、従来の協調路線の破棄を意味した。 名門貴族はザハーリン家と相変わらず激しく敵対していたが、この時期からイヴァン4世は明確にザハーリン家寄りの姿勢を示し始める。

 

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タタールの軛( 追稿 )= 13 =

2015-11-17 18:04:38 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★    = 「タタールのくびき」からの脱却 ⑧ =★

 カザン・ハン国はチンギス・ハーンの長男ジュチの十三男トカ・テルムの末裔であるウルク・ムハンマド(大ムハンマド)を祖とする王国。 ヴォルガ川下流のサライ周辺において行われたジョチ・ウルスのハン位(君主)を巡る抗争に敗れたウルグ・ムハンマドは、ジョチ・ウルス領の北方辺境であったヴォルガ・ブルラール王国の故地に退き、1438年にカザンを首都とする政権を樹立していた。 ウルグ・ムハンマドの子の一人マフムーテクは父を殺害し、マフムーデクの弟カースィムはモスクワ大公国に亡命する。 1452年頃にカースィムは自分の名前にちなんだカシモフという城市をモスクワから与えられ、カシモク・ハン国を建国し、モスクワ大公国に従属したのである。 

 しかし、1468年にマフムーデクの子イブラーヒームはモスクワとの戦闘に勝利し、ヴャトカ(現、キーロフ)を従属させた。 だが、イブラーヒームの子であるアドハムとムハンマド・エミーンがハン位を巡って争い、アドハムがハン位を勝ち取った。 敗れたムハンマド・エミーンはモスクワに援助を求め、モスクワ軍の助力を得て帰国したムハンマド・エミーンが1487年にハンに即位する。 他方、カザン・ハン国はクリミヤ・ハン国との関係が深く、国内ではモスクワ大公国を支持する親モスクワ派とクリミア・ハン国を支持する親クリミア派の対立が続いていた。 1487年からモスクワはカザンへの干渉を強めて傀儡のハンを積極的に擁立する。 当初モスクワはクリミア・ハン国の利害を考慮し、クリミア・ハン国の君主メングリ・ギレイの義理の息子であるムハンマド・エミーンとアブドゥッラティーフの兄弟をハン位に就けたのだが、1505年、ムハンマド・エミーンはモスクワからの干渉に抵抗し、翌 1506年にモスクワの軍勢を撃破し、独居を誇示した。

 従って、 1518年にムハンマド・エミーンが子を遺さず没した時にモスクワとクリミア・ハンの関係は悪化しており、モスクワはカシモフ・ハン国のシャー・アリーをハン位に就けた。 メングリの子メフメド・ギレイはカザンの王族の要請に応じて弟のサーヒブ・ギレイをカザンに派遣し、サーヒブはカザンのハンとなるが、モスクワ大公ヴァシーリー3世によってカザンと外部の連絡が絶たれる。 ヴァシーリー2世が送り込んだ親モスクワ派の人間によってカザンのイスラム教徒のキリスト教への改宗が進められ、メフメドはモスクワに対抗してカザンに派兵し、リトアニア大公国と共同してモスクワへの懲罰遠征を実施した。

 しかし、メフメドは遠征中に殺害され、モスクワのカザン進攻を知ったサーヒブは1524年にクリミアに帰国し、甥のサファー・ギレイをカザンのハンに就けた。 しかし、モスクワはなおも傀儡のカザン・ハンの擁立を企て、カザン内部の親モスクワ派と連絡を取っていた。 1530年にサファーはモスクワによってカザンを追放され、代わってシャー・アリーの兄弟ジャーン・アリーがハンに即位する。 そして、1535年にカザンで起きた反乱によってジャーン・アリーは失脚し、再びサファーがカザン・ハンとなる。

 カザンがクリミアの影響下に入った後、カザンとモスクワの関係は悪化し、1534年から1545年にかけてカザンは毎年ロシア東部・北東部の国境地帯に侵入した。 サファーの死後に彼の子であるオテミシュ・ギレイがハン位を継承したが、オテミシュはモスクワによって廃され、みたびシャー・アリーがハン位に就いた。 シャー・アリーに代わってノガイ・オルダから招かれたアストラハン家のヤーディガールがハンに擁立されたが、この事態を受けてモスクワ大公イヴァン4世はカザンの征服を決意する。 イヴァン4世はこれまでに3度のカザン遠征を実施していたが、1552年夏の4度目の遠征でカザンはモスクワに征服される。

 8月23日にカザンは包囲を受け、10月2日に陥落、篭城していた男子は全員殺害され、婦女子は捕虜とされた“カザン包囲戦”である。 カザンのハーン、ヤディゲル・マフメトが捕らえられて屈服した。 彼は1553年にモスクワで正教に改宗している。 信心深いイヴァン4世は、カザン・ハンをこれまで滅ぼせなかった自らの罪に赦しを乞うため生神女庇護大聖堂を建立した。 カザンからタタール人(蒙古軍団)は追放され、カザンはロシア人の町となった。 しかし残存勢力の反乱は長引き(カザンの反乱)、1557年まで鎮圧は続いている。

  この間期に、イヴァン4世はカスピ海の西北岸に位置するアストラ・ハン国を併合しいる。 これによりヴォルガ川全域はモスクワ大公国(ロシア)の支配下に置かれ、ロシアにとってヴォルガ川は「ロシアの母なる川」となる。 また併合によってイスラム教徒のタタール人(蒙古部族)を領内に抱えることになり、イヴァン4世は多民族国家としての第一歩を踏み出したロシアのツァーリとなった。


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タタールの軛( 追稿 )= 12 =

2015-11-15 17:06:29 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 ⑦ =★

イヴァン雷帝 

  父親ヴァシーリー3世の崩御で3歳にしてモスクワ大公国の大公に即位したイヴァン4世。 彼の即位5年後、 摂政である母エレナが死去する。 イヴァン4世は10代にも達せず、シュイスキー家トベルスキー家の人々に政権を奪取されて8歳のイヴァン4世の存在は無視されるようになった。 またこの貴族同士の権力争いによってロシア正教モスクワ府主教のイオシフが廃位されると、代わってイヴァン4世の教育係でもあるマカリーが府主教に叙任された。 

  この時期、教会の権威は貴族勢力に左右されるまでに弱体化しており、マカリー府主教は教会の権威を高めるため、それに代わる強大な保護者を必要とした。 そのため、イヴァン4世には大公としてよりも「神に選ばれたツァーリ(カエサル、東ローマ帝国の絶対皇帝)」としての教育が施された。 また聡明なイヴァン4世もよく学んでダビデ王から始まりローマ帝国に続く「聖なる歴史」に親しむとともに、信仰心篤い青年へと成長する。 しかしその一方で鳥獣を虐殺し、貴族の子弟と共に市内で暴れまわるなどの二面性を見せていた。 

  13歳の頃には大公としての権限を行使し、かつて自らの廷臣を排除した摂政の一人、名門貴族のアンドレイ・シュイスキーを処刑している。 それまで国政では無視されていたイヴァン4世が、1547年1月16日に史上初めて「ツァーリ」として戴冠したのである。 ツァーリとしての称号は祖父イヴァン3世以来使われていたが、大公としてではなくツァーリとして戴冠するのはこれが初めてであった。 

  この生神女就寝大聖堂での戴冠式には“モノマフの帽子”が使われ、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)との連続性が強調された。 イヴァン4世の母方・グリンスキー家がその権勢を誇示する演出であったが、イヴァン4世は17歳の若き皇帝であり、特に府主教マカリーは自らが冠を掲げることで、ロシアにおいて教会が特別な地位にあることを印象づけた戴冠式であった。

   即位直後は母方の親族グリンスキー家が戴冠を機に勢力を伸ばして宮廷の最高位を占めたが、戴冠式の半年後の6月、モスクワ大火災に伴う暴動によってグリンスキー家が失脚したため、イヴァン4世の本格的な親政を開始する。 実は 戴冠式の一ヶ月後、ザハーリン家(後のロマノフ家)のアナスタシア・ロマノウナを妻に迎えていた。 イヴァン4世は新興貴族出身のアダシェフやシリヴェーストル司祭といった有能な顧問団による選抜会議(ラーダ)に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。 

  行政面では、士族層の訴えに応じる嘆願局、中小貴族、聖職者、士族にも政治参加の機会を与えるゼムスキー・ソボル(全国会議)が創設された。 これまでのロシアの統治は「ツァーリが命じ、貴族が決定する」方式であり、最上位には大貴族たちの貴族会議があったが、全国会議ではその制度と貴族たちの専横を批判し、集まった各階層の代表者にツァーリがそれらの搾取から民衆を保護することを約束した。 これは貴族たちに対し、聖職者、士族の協調を得て中央集権化する狙いがあったのであろう。

   アダシェフはこの政府の中で指導的役割を果たし、シリヴェーストル司祭は精神的支柱として政府とツァーリの権威を支えていった。 また外務局、財務局などの機関が独立して設けられ、1550年には法治主義を浸透させるべく法典を発布され、地方行政に関しても、腐敗の起きやすい代官制度に代えて地方自治制度に移行させている。 ゼムスキー・ソホル(全国会議)を活用するきめ細やかな行政を履行していく。 軍隊も改革対象となり、身分序列に基づく指揮系統には十分なメスを入れられなかったが、ロシア初の常備軍であるストレリツィ(銃兵隊)が新設された。 また、1556年には全ての領主貴族に兵役義務が課せられ、戦時の費用負担も所有地の規模に応じたものとして、大貴族の負担を多くした。 

   モスクワ大公国の東部方面においてカザン・ハン国(キプチャク・ハン国/ジュチ・ウルスの継承国家のひとつ)征服は治世初期からの懸案で、正教会からもイスラームに対する聖戦として期待され、支持されていた。 カザンがクリミアの影響下に入った後、カザンとモスクワの関係は悪化し、1534年から1545年にかけてカザンは毎年ロシア東部・北東部の国境地帯に侵入していた。 モスクワによって追放されていたサファーの死後に彼の子であるオテミシュ・ギレイがハン位を継承したが、オテミシュはモスクワによって廃され、みたびシャー・アリーがハン位に就いた。

 シャー・アリーに代わってノガイ・オルダから招かれたアストラハン家のヤーディガールがハンに擁立されたが、この事態を受けてモスクワ大公・イヴァン4世ははカザンの征服を決意した。 当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗したイヴァン4世は、1552年10月に10万を超える軍勢でカザンを攻めてたのである。 この戦いでは国政改革を支えたアダシェフの他、同じくイヴァン4世にとって親友のアンドレイ・クルプスキー公が活躍するが・・・・・・・。

 

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タタールの軛( 追稿 )= 11 =

2015-11-13 17:55:56 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 ⑥ =★

 イヴァン3世統治期のモスクワ国家は、西部ではリトアニア大公国、東部・南部のタタール支配下の諸地域ではジュチ・ウルスの正嫡を自任する大オルダと敵対しており、この東西の敵が同盟を結んでモスクワに挑戦する状況にあった。 このためイヴァンはクリミヤ・ハン国と同盟してこれに対抗した。 大オルダの君主であったアフマド・ハンは、モスクワ大公に対して貢納と臣従の再確認を要求して、何度もモスクワに攻め込んでいた。 1480年10月、アフマド・ハンはポーランドの援軍を期待しつつ、モスクワへの大規模な遠征を開始したが、イヴァンはウクラ川に大軍を結集させてアフマド軍の渡河を阻止し、アフマド・ハンは数週間後に退却した。 この“ウクラ川の対峙”は、ロシアが「タタールの軛」から最終的に解放されたことを象徴する事件として、ロシアの歴史で最も重要な出来事の一つとなった。

 イヴァン3世はカザン・ハン国(ジュチ13男トカ・テルムの家系)の保護国化も試み、カザンの皇子でモスクワの臣下となってカシモフ・ハン国を統治していたカースィムをカザンのハンに立てようと考え、1476年から1469年にかけてカザンに三回の遠征を行ったが、成功しなかった。 さらに1482年に再びカザンでハン位の後継者争いが起きて、敗退したムハンマド・アミーン皇子がモスクワに逃れて援助を要請すると、イヴァンは1487年にモスクワ軍を率いて首都・カザンを包囲し、対立ハン・イルハム皇子の政権を崩壊させた。 復位したムハンマド・アミーンはイヴァン3世への忠実な同盟者となり、イヴァンは以後のリトアニアとの戦いに専心することが容易になった。 しかしイヴァンはタタール諸国への貢納を不定期の「贈り物」として続けており、タタールは未だロシアの脅威であり続けていた。

 1480年代頃からイヴァン3世はリトアニア国境への侵入を始めており、リトアニア大公国領の一部であるルーシ西部への影響力を築いて行った。 イヴァン3世の西方への拡大戦略である。 1492年にリトアニア・ポーランド王・カジミェシュ4世が死ぬと、ポーランド王位とリトアニア大公位が2人の息子たちに別々に受け継がれたため、両国の同君連合が一時的に解消された。 イヴァンはこれを好機と見て、リトアニア大公国領の一部・ヴャジマを占領する。 モスクワとリトアニアは1494年に休戦条約を結び、リトアニアはイヴァンが主張する「全ルーシの君主」という称号を認め、モスクワが占領したリトアニア領を割譲した。 そして翌1495年には、イヴァンの娘エレナがリトアニア大公アレクサンデルと結婚した。 

 娘婿のアレクサンデルは1501年に兄が死んだためポーランド王位を継承して、ポーランド=リトアニア連合王国を復活させており、1503年4月にはリトアニア支配下にあったルーシ西部のかなり広い地域を自領に組み入れた。 そのけっか、西方への拡大はバルト海世界の覇権争いに巻き込まれ、イヴァンは必然的にリヴォニア(ラトピア)のドイツ騎士団、スウェーデンの野心に対抗するため、1492年にナルヴァの対岸に要塞都市イヴァンゴロドを建設する。 この地は経済的な拠点としても繁栄し、イヴァンはさらにデンマーク王ハンスと同盟を結び、1495年には共同でスウェーデンとの戦争に乗り出したが、この戦争はデンマークを利するだけに終わった。

 1530年8月25日、イヴァン4世はクレムリンのテレムノイ宮殿で生まれた。 イヴァン4世は、長く後継者のいなかったヴァシーリー3世(イヴァン3世の次男)にとって待望の嫡男だったが、父は正教会の猛反対を押し切って、不妊の先妻を追放してイヴァン4世の母エレナを妻に迎えており、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪った。 またエレナは一世代前のドミトリイ・ドンスコイに敗れたジュチ・ウルスの有力者ママイの子孫と言われており、イヴァン4世は“クリコヴォの戦い”における勝者と敗者双方の血を引くことになる。

 1533年12月、イヴァン4世はヴァシーリー3世の死去により3歳で大公に即位する。 その後見には最初はシュイスキー公を中心とする貴族会議が、次いで母后エレナがオフチーニン=テーレプニェフ=オボレンスキー公の援助を受けて摂政として政務を執行し、エレナの政府は全国レベルでの単一通貨導入で内政の充実を図り、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組んでいった。 隣国リトアニア大公国との国境紛争にも勝利し、また大公位を狙うイヴァン4世の二人の叔父ユーリーとアンドレイ公を失脚させ、母方のクリンスキー家が実権を掌握したが、1538年に母エレナが死去すると、敵対勢力の人々に政権を奪取されて8歳のイヴァン4世の存在は無視されるようになった。

 また、この時期、教会の権威は貴族勢力に左右されるまでに弱体化しており、マカリー府主教は教会の権威を高めるため、それに代わる強大な保護者を必要とした。 そのため、イヴァン4世には大公としてよりも「神に選ばれたツァーリ」としての教育が施された。 また聡明なイヴァン4世もよく学んでダビデ王から始まり東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に続く「聖なる歴史」に親しむとともに、信仰心篤い青年へと成長する。 しかしその一方で鳥獣を虐殺し、貴族の子弟と共に市内で暴れまわるなどの二面性を見せる。 そして、13歳の頃には大公としての権限を行使し、かつて自らの廷臣を排除した摂政の一人、名門貴族のアンドレイ・シュイスキーを処刑する気迫を示し、貴族諸侯を圧迫していくのだが・・・・・・・。

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