【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 13 =

2015-11-17 18:04:38 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★    = 「タタールのくびき」からの脱却 ⑧ =★

 カザン・ハン国はチンギス・ハーンの長男ジュチの十三男トカ・テルムの末裔であるウルク・ムハンマド(大ムハンマド)を祖とする王国。 ヴォルガ川下流のサライ周辺において行われたジョチ・ウルスのハン位(君主)を巡る抗争に敗れたウルグ・ムハンマドは、ジョチ・ウルス領の北方辺境であったヴォルガ・ブルラール王国の故地に退き、1438年にカザンを首都とする政権を樹立していた。 ウルグ・ムハンマドの子の一人マフムーテクは父を殺害し、マフムーデクの弟カースィムはモスクワ大公国に亡命する。 1452年頃にカースィムは自分の名前にちなんだカシモフという城市をモスクワから与えられ、カシモク・ハン国を建国し、モスクワ大公国に従属したのである。 

 しかし、1468年にマフムーデクの子イブラーヒームはモスクワとの戦闘に勝利し、ヴャトカ(現、キーロフ)を従属させた。 だが、イブラーヒームの子であるアドハムとムハンマド・エミーンがハン位を巡って争い、アドハムがハン位を勝ち取った。 敗れたムハンマド・エミーンはモスクワに援助を求め、モスクワ軍の助力を得て帰国したムハンマド・エミーンが1487年にハンに即位する。 他方、カザン・ハン国はクリミヤ・ハン国との関係が深く、国内ではモスクワ大公国を支持する親モスクワ派とクリミア・ハン国を支持する親クリミア派の対立が続いていた。 1487年からモスクワはカザンへの干渉を強めて傀儡のハンを積極的に擁立する。 当初モスクワはクリミア・ハン国の利害を考慮し、クリミア・ハン国の君主メングリ・ギレイの義理の息子であるムハンマド・エミーンとアブドゥッラティーフの兄弟をハン位に就けたのだが、1505年、ムハンマド・エミーンはモスクワからの干渉に抵抗し、翌 1506年にモスクワの軍勢を撃破し、独居を誇示した。

 従って、 1518年にムハンマド・エミーンが子を遺さず没した時にモスクワとクリミア・ハンの関係は悪化しており、モスクワはカシモフ・ハン国のシャー・アリーをハン位に就けた。 メングリの子メフメド・ギレイはカザンの王族の要請に応じて弟のサーヒブ・ギレイをカザンに派遣し、サーヒブはカザンのハンとなるが、モスクワ大公ヴァシーリー3世によってカザンと外部の連絡が絶たれる。 ヴァシーリー2世が送り込んだ親モスクワ派の人間によってカザンのイスラム教徒のキリスト教への改宗が進められ、メフメドはモスクワに対抗してカザンに派兵し、リトアニア大公国と共同してモスクワへの懲罰遠征を実施した。

 しかし、メフメドは遠征中に殺害され、モスクワのカザン進攻を知ったサーヒブは1524年にクリミアに帰国し、甥のサファー・ギレイをカザンのハンに就けた。 しかし、モスクワはなおも傀儡のカザン・ハンの擁立を企て、カザン内部の親モスクワ派と連絡を取っていた。 1530年にサファーはモスクワによってカザンを追放され、代わってシャー・アリーの兄弟ジャーン・アリーがハンに即位する。 そして、1535年にカザンで起きた反乱によってジャーン・アリーは失脚し、再びサファーがカザン・ハンとなる。

 カザンがクリミアの影響下に入った後、カザンとモスクワの関係は悪化し、1534年から1545年にかけてカザンは毎年ロシア東部・北東部の国境地帯に侵入した。 サファーの死後に彼の子であるオテミシュ・ギレイがハン位を継承したが、オテミシュはモスクワによって廃され、みたびシャー・アリーがハン位に就いた。 シャー・アリーに代わってノガイ・オルダから招かれたアストラハン家のヤーディガールがハンに擁立されたが、この事態を受けてモスクワ大公イヴァン4世はカザンの征服を決意する。 イヴァン4世はこれまでに3度のカザン遠征を実施していたが、1552年夏の4度目の遠征でカザンはモスクワに征服される。

 8月23日にカザンは包囲を受け、10月2日に陥落、篭城していた男子は全員殺害され、婦女子は捕虜とされた“カザン包囲戦”である。 カザンのハーン、ヤディゲル・マフメトが捕らえられて屈服した。 彼は1553年にモスクワで正教に改宗している。 信心深いイヴァン4世は、カザン・ハンをこれまで滅ぼせなかった自らの罪に赦しを乞うため生神女庇護大聖堂を建立した。 カザンからタタール人(蒙古軍団)は追放され、カザンはロシア人の町となった。 しかし残存勢力の反乱は長引き(カザンの反乱)、1557年まで鎮圧は続いている。

  この間期に、イヴァン4世はカスピ海の西北岸に位置するアストラ・ハン国を併合しいる。 これによりヴォルガ川全域はモスクワ大公国(ロシア)の支配下に置かれ、ロシアにとってヴォルガ川は「ロシアの母なる川」となる。 また併合によってイスラム教徒のタタール人(蒙古部族)を領内に抱えることになり、イヴァン4世は多民族国家としての第一歩を踏み出したロシアのツァーリとなった。


前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タタールの軛( 追稿 )= 12 = | トップ | タタールの軛( 追稿 )= 14 = »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史小説・躬行之譜」カテゴリの最新記事