○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○
★= 「タタールのくびき」からの脱却 ⑬=★ラスト
1574年には再び大粛清が起きたが、イヴァン4世はその年末に再び突然退位を宣言して、チンギス・ハンの子孫の1人シメオン・ペクラトヴィチにモスクワ大公の座を譲り、自らはモスクワ分領公を称した。 1575年、ポーランドでステファン・バートリが即位すると、その隙を狙ってイヴァン4世は再びリヴォニアに侵入してその大半を占領し、スウェーデンとポーランドが持つ領土を奪った。 そして、1576年の年明けには、再びツァーリとして復位し、シメオンはヴォルガ川中流域のトヴェーリ公となって引退した。
=この謎の退位事件は後世の歴史家の首を傾げさせている。 モンゴル帝国の厳然たるジンギスカーンの血“チンギス統原理”説で説明しようとするが、ロシア史研究者の多くは「1575年にロシア君主が死ぬ」という占い師の進言を警戒した、あるいはポーランド王位を狙うための戦略だったなどの説がある=
事実は、イヴァン4世は退位後もしばしば「嘆願」の形でシメオンを通じて政策や処刑を実行したことから、非常大権を手放してしまったために全国会議の必要が生まれたことに辟易し、傀儡を立てて隠れ蓑に使おうとしたのではないだろうか。 2年前に行ったノヴゴロド虐殺がイヴァン4世の強権政治がいたるところで齟齬を生んでいたのである。
1580年、リヴォニア戦争が始まってから20年が経過し、ロシアの国力は戦費とオプリーチニナ制度、そして重税とイギリスとの不均衡貿易によって経済的に限界を迎えつつあった。 また敵国は当初のリヴォニアだけではなく、スウェーデン、トルコの後援を受けたタタール人、そしてルブリン合同によって生まれたポーランド・リトアニア共和国となっており、それらは開戦当初よりも強大化していた。
イヴァン4世はそれらのうちポーランドと講和を結ぶことを考え、ナルヴァ港を除くリヴォニアの返還という譲歩を見せて交渉にあたった。 しかしポーランド国王ステファン・バートリはロシアの国情を踏まえ、例外なきリヴォニア全域の返還とノヴゴロド、プスコフの割譲、そして巨額の賠償金を求めた。 イヴァン4世は激しく拒否したが両者の国力はすでに大きく差が開けられており、特に係争の都市ノヴゴロドは虐殺によって備えを著しく欠いていた。 そのためイヴァン4世は和議の仲介をカトリックのローマ教皇グレゴリウス13世に依頼する。
イヴァン4世はローマ教皇が対トルコ十字軍の結成を望んでいることを知っており、グレゴリウス13世は正教徒の依頼ながらも辣腕外交官アントニオ・ポセヴィーノをポーランドに派遣して両者の交渉を取り持った。 その間、バートリはロシア国内に10万の軍を侵入させて都市をいくつか落としていたもののプスコフ攻略に失敗して進軍が停止していた。 さらにかねてより反ロシア同盟を結んでいたスウェーデンがこれを好機としてバルト海から進出し、1581年にナルヴァを占領して漁夫の利を得つつあった。 このためポーランド、ロシアともに交渉を進め、イヴァン4世は1582年にポーランドとヤム・ザポルスキの和約を締結した。
この和約ではロシアはリヴォニアの返還、ポーランドは占領したロシア初都市の返還を条件とし、スウェーデンが占領したナルヴァについては触れていない。 また翌1583年にはスウェーデンと条約を締結してリヴォニア戦争は終結したが、ロシアの国境線はリヴォニア戦争開始時まで後退し、バルト海交易ルートも失う。 長い戦争はロシアの国力を大きく疲弊させ、重税や治世末年の飢饉に苦しむ逃亡農民が大量に発生して南部・東部に移り、一部はコサックに転じ、モスクワ大公国の民はどうようし、多くは流民と化して離散して行った。
1583年、53歳になったイヴァン4世がリヴォニア戦争で25年以上かけて得たものは周辺諸国からの敵意だけであり、最大の交易相手イギリスに対する依存はますます強まった。 すでに領土問題を抱える周辺国との外交改善が望めないイヴァン4世は再びイギリスとの軍事同盟に活路を見出そうとしていた。 イヴァン4世は1567年にエリザベス1世に求婚して消極的に拒否された経緯があったが、両国の同盟のためには血の結びつきが必要と考えた。 そのためイヴァン4世は7人目の妻マリヤ・ナガヤと結婚していたにも関わらず、イギリス王室に連なる女性との結婚を望んだ。
この要望を受けたロシア使節は女王の一族のうち、その姪にあたるハンティント伯爵の末娘レディ・メアリー・ヘイスティングス(マーガレット・ポールの曾孫)を選び、結婚相手としてイギリスに打診する。 当時、白海交易にフランス、オランダが参入の意欲をみせていたため、イギリスは直ちに可否を返さなかった。 イギリスは「メアリーが天然痘に罹患した」、「航海に耐えられる体力が戻らない」等と回答を先延ばし、外交官が白海航路の独占を勝ち取ると、ついに結婚の交渉をうやむやにしてしまった。 結局、ロシアがイギリス王室から皇妃を迎えるには、ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世を待たねばならなかったのであるが・・・・。
【前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います】
※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行
----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------
【壺公夢想;紀行随筆】 http://thubokou.wordpress.com
【浪漫孤鴻;時事心象】 http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/
【 疑心暗鬼;探検随筆】 http:// bogoda.jugem.jp/
================================================
・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽 憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・
森のなかえ
================================================
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます