【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 09月17日(火曜日) & 旅と文化の足跡が野帳 

2024-09-17 05:10:17 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ 半月前にナチスが攻め込んできたポーランドが蹂躙されるのを見て、当初の約束通りソ連も侵攻(1939年)。ナチスにやられ放しだったポーランドの人々は一瞬安堵したが、その後の展開はお察し下さい。 ◆ 異端児・英雄がアメリカに乗り込み、竜巻を起こし、対ロッキーズ戦でノーヒット・ノーランを達成(1996年)。 ◆ 日本から純ちゃんがやって来たのに嬉しくなった将軍様が、調子に乗って「自分が日本人を攫っちゃった、てへっ♥️」と言っちゃう(2002年)。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第3回= ◎ ◎

1901-1920期 « こんなところにも日本人 »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

2011年12月21日 / (Web編集部S) 

――白黒写真からカラーへ、銀塩フイルムからデジタル写真への移行も迅速に行った。

2006年、ナショナル ジオグラフィックは国際的な写真コンテストを開催し、18カ国から写真が集まった。雑誌に掲載された写真は、写真集として出版されることもある。

1910年の注目すべきもうひとつの出来事は“カラー写真”の登場でした。  掲載は1910年11月号で、撮影者は創業当初からコダックに投資して大金持ちになったウィリアム・ウィズナー・チェイピンです。

 タイトルは「韓中チラ見(Glimpses of Korea and China)」。  韓国と中国の記事なのに、なぜ「こんなところにも日本人」なのか?   それは“カラー写真”といっても、「日本の絵師が色をつけたモノクロ写真」だからです。

モノクロ写真の色着けは、写真が発明された当初からさかんに行われていました。そのなかで、日本画の技術を活かした日本人絵師のレベルは世界でもトップクラスでした。外国で知られるようになったのは、特に幕末から明治の中ごろにかけてたくさん制作された「横浜写真」の影響が大きいのですが、それについてはここではふれません。興味がある人はぜひ検索してみてください。

“色をつけたモノクロ写真”と聞くと、たいしたことないんじゃない? と思われるかもしれません。けれど、『ナショナル ジオグラフィック』におけるこの“カラー写真”はナショジオにとって記念すべきものでした。のちにグロブナーは強調しています。

「1910年11月号は雑誌の一大転機だった。東洋から戻ると、チェイピン氏は私にモノクロ写真をそっくり提供してくれたのだが、そのほとんどは日本の絵師が色をつけたものだった。『ナショナル ジオグラフィック』に新しい風を吹き込むために、私は24ページに39枚の写真を並べて一挙に掲載した。そんなことをする編集者は過去に一人もいなかったよ。結果、11月号はセンセーションを巻き起こして、何百人という新会員をもたらしてくれたんだ」

 1910年11月号こそ、カラーグラフィックページの原点でした。

『ナショナル ジオグラフィック』にとってだけではありません。今は当たり前すぎて、そんなことを誰が始めたのかなど考えもしないと思いますが、本格的なカラーグラフィックを手がけたのはナショジオが最初でした(とはいえ『ナショナル ジオグラフィック』のように“これでもか!”という見せ方の雑誌は少ないですが(笑))。

 11月号の成功をみて、グロブナーは翌年に続編を掲載します。その記事が1911年11月号「にっぽんチラ見(Glimpse of Japan)」。そう、前回の「ナショジオが見た明治の日本」で紹介した記事です。これも大いに評判を呼びました。

 話はちょっと戻りますが、第3回「編集長、原稿が足りません!」で紹介したように、『ナショナル ジオグラフィック』が「写真をたくさん掲載する一風変わった独自の道を歩き始め」た発端となったのは1905年1月号のラサの写真でした。

 そして、「世界で最も多くカラー写真を掲載する雑誌となる」ように、カラーグラフィックというスタイルの火付け役となったのが1910年11月号でした。  すなわち、「写真を多用」し、「カラー写真を(これでもか!と)グラフィックに見せる」『ナショナル ジオグラフィック』のスタイルの確立に貢献した2つの号のうちの1つがこの記事だった、というわけです。

――カラー写真

カラー写真は1800年代にアレクサンドル・エドモン・ベクレルらにより開発が始まった。初期のカラー実験では像を定着させることができず、さらに退色しやすかった。初期の高耐光性のカラー写真は1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルによって撮影された。

マクスウェルが手法を確立した初期のカラー写真は、それぞれ異なるカラーフィルターレンズを前面に持った3つのカメラを使うものであった。この技法は暗室や画像処理工程に3系統の処理設備を必要とし、カラー用の印画紙がまだなかったため観賞はスライドで見るのにとどまり、実用化までにはいかなかった。

1868年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンはカーボンプリントに減法混合を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。

1873年、ドイツの化学者ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲルによりついに赤と緑に適当な感度を持つ乳剤が開発され、カラーフィルムへの道が開け、1891年、ルクセンブルクのガブリエル・リップマンは3色干渉によるカラー写真を開発し、この功績により1908年にノーベル物理学賞を受賞した。この技術は実用化こそされなかったものの、現在ではホログラフに応用されている。

1930年、アメリカ合衆国のジョージ・イーストマンは100万ドルの賞金をかけてカラー写真の簡易方法を募集した。音楽家のレオポルド・D・マンネスとレオポルド・ゴドフスキー・ジュニア(は、多層乳剤方式のカラーフィルムを考案し応募してコダックに入社、同社の研究陣と協力して1935年、最初の近代的なカラーフィルムである「コダクローム」を発売した。コダックは当初コダクロームを「神と人により創られた」と宣伝していた。

明日 “ 1901-1920期 なぜマチュピチュは「大発見」だったのかに続く・・・・・

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