【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 15 =

2015-11-21 16:33:16 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★    = 「タタールのくびき」からの脱却 =★

 1562年、イヴァン4世は新しい土地法を制定した。 それは貴族の権利であった世襲に制限を加える法律であり、貴族同士の権限基盤への明確な攻撃であった。 同年、イヴァン4世は北コーカサスのマリア・テムリュコウナを妻に迎えるが、イヴァン4世は新しい妻にも、そしてこれ以降の妻にも親愛を示すことはなかったと言う。 1563年にはイヴァン4世が信頼す府主教マカリーも死亡し、イヴァン4世にとって亡き妻の一族であるザハーリン家の重要性は増大していった。 一方で、同年当初の対リトアニア・ポーランド戦線はうまく事が運んでいた。 リヴォニアの権益を巡って対立した諸国の間隙をつき、イヴァン4世はスウェーデンと休戦し、デンマークとは同盟を締結したのである。 

 これにより5万の動員を可能にしたロシア軍はリトアニアの重要な都市ボロシクを包囲し、イヴァン4世の親友にして軍司令のアンドレイ・クルプスキー、名門貴族のレプニン公、カーシン公の活躍もあってこれを降伏させた。この勝利に乗じ、ポロツク駐屯軍とスモレンスクからの増援を合流させ、一気にリトアニアの首都を目指そうとした。しかしポロツク駐屯軍の行動はリトアニアに把握され、領内を行軍中に急襲を受けて壊滅した。 スモレンスクからの増援もポロツクを放棄して撤退するしかなかった。 翌1564年には“ウラ川の戦い”でまたしてもリトアニア・ポーランドに大敗した。 この続けての敗北はクリミア・ハン国に和平条約の破棄を決意させ、オスマン帝国の後援を受けてロシアへの侵入を再開する。 この苦境を受け、モスクワ側の大貴族は、スウェーデンと7年の和平協定を結び、ポーランドとも休戦交渉に入った。 しかしイヴァン4世はこれに納得せず、全国会議を招集して戦争継続を支持させ、交渉を打ち切らせた。

 しかしながら、イヴァン4世は内通者の存在を疑っていた。  特に高位の者に対しての猜疑心が強く、レプニン公、カーシン公といった戦功を上げた名門貴族が次々に処刑された。 土地法と大敗、そしてイヴァン4世の猜疑心は名門貴族たちを絶望させ、この時期からリトアニアに亡命する貴族たちが続発する。 さらに腹心中の腹心とされたアンドレイ・クルプスキーもイヴァン4世の振る舞いから危険を察し、1564年にリトアニアに亡命した。  この苦境に立ったイヴァン4世は突然家族を連れてモスクワ郊外のアレクサンドロフに移り、退位を宣言(1564年12月3日)した。 直接的な理由は、多くの大貴族が“リヴォニア戦争”に反対し、クリミヤ・ハン国征服を要求してツァーリと対立していたためだった。 また新土地法にも関わらず大貴族たちは依然として領地に強い権力基盤を有し、個別には処罰ができても貴族、高位聖職者の勢力はツァーリと拮抗していたのである。

イヴァン4世は士族からアレクセイ・バスマーノフとその子フョードル・バスマーノフを取り立て、「裏切り者」を厳しく摘発させた。しかしその強権的な振る舞いはさらなる反発を招き、特にバスマーノフが自らとの口論を理由に軍司令のオフチーニンを絞殺し、それにイヴァン4世が許可を与えたことによって最高潮に達した。 根拠なき処刑を行うイヴァン4世への批判が一斉に起こり、大貴族たちだけでなく、政府の側近貴族、さらにマカリーの後任者アファナーシー府主教のからの「無用な血」に対する非難を招いた。 彼らの行動はこれまでのイヴァン4世の政策への反動であり、その要求は統治前半の貴族、聖職者、大公の三者が協調して統治を行うトロイカ体制への回帰であった。 だがイヴァン4世には受け入れがたく、また即位以来初めて行われた自分自身への弾劾に強い衝撃と強迫観念を受けていた。 イヴァン4世のクレムリン脱出と退位宣言には、それらの政治的かつ心理的要因が絡み合い、雷帝を翻弄した。

 イヴァン4世の隠棲は年が開けて1565年になっても続き、その期間が1ヶ月にも及ぶと皇帝に集中していた政治は麻痺していた。 この事態に貴族、聖職者は困惑し、また何よりもモスクワの民衆は強い不安に苛まれた。民衆にとってツァーリは父であり、神に選ばれた存在であり、民衆の安全を守る軍司令官であり、貴族の横暴に対する守護者だと伝統的に信じられていたためだった。 ザハーリン家以外が敵となっていたイヴァン4世は、この新しい自らの支援者たちに着目し、1月3日、2通の文書を府主教アファナーシーとモスクワの市民宛に送りつけた。 その内容は貴族の売国とそれに癒着する聖職者をなじり、今の自分に許された権限ではツァーリとして統治できないこと、そのために退位せざるをえないことを痛烈な批判交えて訴えるものだった。

 さらに、民衆に対しては深い愛情を示すとともに、ツァーリの立場は欲深き貴族と腐敗した聖職者に苦しめられることでは同じ存在だと自らの境遇を嘆いてみせた。 この手紙の内容が民衆の間に広まると、モスクワ中の人々は激怒して府主教や貴族の館を取り囲んだ。 その結果、貴族と聖職者は民衆の求めるがままイヴァン4世へ帝位復帰の請願状を届け、退位撤回の条件として「無制限の非常大権」を求められてもそれに応じると書き連ねるしかなかった。 大貴族の嘆願で復位に同意する際、反逆者を自由に処罰する権限をはじめとする非常大権を認めさせたイヴァン4世は、有名な恐怖政治を開始する。

 手始めに、クレムリンに帰還した当日に大貴族の中でも指導的役割を果たす名門貴族の当主を7名処刑し、続いて中央集権化を勧めるため、オプリーチニナ制度の導入を宣言したのである。 しかしながら、強迫観念に襲われながらのツァーリが生活は生来の猜疑心を育て、心身に強い悪影響を与えていた。 モスクワに戻ったツァーリは頬がやせこけ、髪と髭が抜け落ちて容貌は一変していたと言う。 「以前の人好きのする性格は失われ、人の顔を伺うようになった」とも言う。 

イヴァン4世の新しい統治は、全国を直轄領(オプリーチニナ)とそれ以外の国土(ゼームシチナ)とに分け、直轄領を自ら選んだ領主オプリーチニキに統治させることにしたのである。 オプリーチニナに存在していた土地所有者は代替となる土地をロシア辺境に与えられ、立ち退かなければならなかった。 このため、ロシア国内はツァーリ派のオプリーチニキと、旧来の貴族たちのゼームシチナに二分される形になった。 オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った。オプリーチニキは富裕層の財産を狙って多くの犠牲者を出し、またイヴァン4世の命令に従って、次々に要人らの粛清を実行した。

 主な標的としては、モスクワ府主教フィリップノヴゴロド大主教ピーメンらの高位聖職者、ツァーリの従弟で有力なライバルであったスターリツァ公ウラジーミルなどがいる。 全国会議はその制度の弊害と暴走するオプリーチニキを憂い、翌年の1566年には制度廃止の嘆願をイヴァン4世に提出するが、イヴァン4世は嘆願者全員を処刑してこれに応えたのである。

 

前ページへの移行は右側袖欄の最新記載記事をクリック願います

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行

----------下記の姉妹ブログ 一度 ご訪問下さい--------------

【壺公夢想;紀行随筆】   http://thubokou.wordpress.com

【浪漫孤鴻;時事心象】   http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【 疑心暗鬼;探検随筆】   http:// bogoda.jugem.jp/

================================================

  

・・・・・・山を彷徨は法悦、その写真を見るは極楽  憂さを忘るる歓天喜地である・・・・・

森のなかえ

================================================

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« タタールの軛( 追稿 )= 14 = | トップ | タタールの軛( 追稿 )= 16 = »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史小説・躬行之譜」カテゴリの最新記事