【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

今日(狂)の狂言 : 09月14日(土曜日) & 旅と文化の足跡が野帳

2024-09-14 05:10:27 | 浪漫紀行・漫遊之譜

★ 忘備忘却録/きょうの過去帳・狂 

◆ セプテンバーバレンタイン/メンズバレンタインデーなので好きなあの子にパンツを贈ったら、紫色の服を着て白いマニキュアを塗った彼女から緑のインクで書かれた手紙を受け取ったでござる。 ◆ モスクワへはるばるやって来たナポレオンの御一行に、ロシアがファイヤーストームで文字通りの熱烈歓迎を行う(1812年)。 ◆ 北朝鮮が、あと一歩の所で反共反日で凝り固まった頑固爺を海へと突き落せるところまで行く(1950年)が、翌日仁川でダグラス・マッカーサーに不意打ちを喰らうことに。

◎ ◎ 創刊120年以上の“ナショジオ”が綴る【 そうだったのか! 】 =第1回= ◎ ◎

1901-1920期 « 明治の日本(2/2) »

……National Geographic Journal Japan 〉 ニュース〉 旅&文化〉 より……

・・・2015.05.01 / 文=Brian Clark Howard/訳=堀込泰三・・・・

 農林水産省の統計によれば、平成22年の日本の漁業従事者数は20万3000人でした。1905年5月号「日本の漁業(The Fisheries of Japan)」では、「漁業に従事している日本人の数はおよそ300万人。これは米国の21万5000人をはるかに上回る。日本の漁業従事者は全人口の約16分の1で、米国の場合は500分の1だ。水産業全体の売上高は年間約3000万ドルに達し、米国や英国のほぼ倍に当たる」 と記している。

ウナギの養殖は当時から盛んだったんですね。このほかに、日本ではタイが人気で、「食べ方としては生のまましょうゆをつけて食べるのが最も美味だ」なんて一文もありました。  最後に明治44年、1911年11月号「にっぽんチラ見(Glimpse of Japan)」。

「箱根では米国ではまず経験できないような、というより恐怖の体験をした……ほどなくホテルの一方の壁が大きく揺れ出し、たちまちホテル全体が揺れ始めたのである。いったい何事かとわれわれは一同総立ちとなり、パニックに陥った。ところが、われわれ以外の日本人やホテルの従業員は、特にあわてた風もなく、平然としているではないか。あとで分かったことだが、これが地震というものだった」

 地震のない土地から来たら、この世の終わりと思ったのでは。 「日本の子供たちは米国の子供たちと違って、まだ年端のいかないうちからよく家事手伝いをする。4歳から6歳になると、幼い弟や妹の面倒は彼らの仕事となる。いつも一心同体で暮らすといってもよい」

「日本人ほど幸せで、日々の暮らしに満足している国民はないということだ。その理由は二つあると思われる。一つは日本人のシンプルライフである。米国では、なにかとシンプルライフの大切さが語られはしても、それが実現しているとは思えない。もう一つは、日本人の親切さが何よりも証明しているように、美しいものに対する素直な感動と他人に対する思いやりである」

 さて、『ナショナル ジオグラフィック』の明治時代の日本の記事、いかがだったでしょうか。

明治三陸津波

創刊9年目の1896年にようやく月刊化を果たし、より一般向けの記事をじわりじわりと載せ始めた『ナショナル ジオグラフィック』。そのなかには明治三陸津波のレポートもありました。  筆者はエライザ・シドモアという女性です。

 彼女は1890年にナショナル ジオグラフィック協会に入会し、2年後に女性ではじめて評議員に選出された、いわゆる人文地理学者にして大の親日家でした。

84年に初来日して以降、日本に長く滞在し、91年には『シドモア日本紀行』(講談社学術文庫)を刊行しています。日本を愛し、隅田川の桜並木の美しさに感動して、当時お世辞にもきれいとはいえなかったポトマック河畔に桜を植えようと計画したのはほかならぬ彼女でした。

 日本に来る前から「ニューヨーク・タイムズ」などに寄稿していただけあって、シドモアの記事はとてもわかりやすく、被害の様子を的確に伝えています。  残念ながら、当時の日本版は(当然)ありませんけれど、『日本の100年』に抄訳が掲載されているので、少し引用してみましょう。

「この津波による死者は2万6975人、負傷者数は5890人。倒壊した家屋は9313戸、打ち上げられた大型船舶は約300隻、倒壊したり沖に流されたりした漁船は1万隻以上」 「助かった住民の証言によると、高波が押し寄せる直前に、突然海の水が600メートル近くも沖へ向って後退したのだそうだ。その後、波が高さ24メートルはあろうかという真っ黒い壁に変身し、打ち付けるように岸に向かって襲いかかってきた」

「かなりの数の船が陸地に打ち上げられ、中には2キロ以上も内陸へ運ばれたものもあった。海面からあまり高くない海辺の土地では、高波が引いた後、ほとんど何も残らなかった」

『ナショナル ジオグラフィック』の記事らしく、地震の原因にもふれています。

 もっとも普及している説は、「タスカロラ海淵」の壁あるいは海底の陥没である、とシドモアは書いています。 「タスカロラ海淵」は1874年に米国の測量船「タスカロラ号」による深海探査で発見された8514mの海溝で、今の知識で言えば、千島海溝のほぼ中央部にあたります。当時はピアノ線による測量のため、詳しい地形まではわかっていませんでしたが、地震の原因が深海底での「地すべり」によるという説は興味深くはないでしょうか。

 1896年9月号の明治三陸津波特集は全9ページで、被災地域を示す日本地図と、計4枚の写真が掲載されています(そのうちの2枚は『日本の100年』で見ることができます)。

シドモアの文章とともに、めちゃめちゃになった家や、建物がすべてなぎ倒されてまっさらになった場所に船が打ち上げられた写真を見ると、被害の状況が東日本大震災とそっくりなことに驚きを禁じえません。海に流された人の写真もあります。当時はテレビはありませんでしたが、これらの写真だけでも被害の甚大さはありありと伝わったことでしょう。

しかし、明治三陸津波や、前回紹介した上半身裸の男女の写真などのセンセーショナルな記事を掲載したにもかかわらず、月刊『ナショナル ジオグラフィック』の売れ行きは、残念なことに期待したほどは伸びませんでした。

明日 “ 901-1920期 北極点を制覇せよ! “ に続く・・・・・

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