【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 14 =

2015-11-19 17:44:50 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★    = 「タタールのくびき」からの脱却 ⑨ =★

 1553年の春、雷帝・イヴァン4世は生死に関わる程の大病を患い、1歳にもならない長子ドミートリーを後継者に定めた。 しかし貴族たちの一部はドミートリーへの宣誓を拒否し、また改革の協力者シリヴェーストル司祭も当初は宣誓を渋った。 これは皇妃アナスタシアを通じて影響を持ち始めたザハーリン家を警戒し、代わって後継者にイヴァン4世の5歳下の従兄弟スターリツァ公ウラジーミルを望んでのものだった。 結局、この後継者問題はイヴァン4世が快癒し、ツァーリそのものへの叛意を示した者がいなかったことから棚上げになる。 だが、後継者を巡る宣誓拒否はイヴァン4世に権威を損ねられた印象を与え、また新興のザハーリン家と旧来の名門貴族との対立もこの時期から浮き彫りになっていた。

 同年5月、イヴァン4世は大病からの快癒を神に感謝し、家族と廷臣を随行員にして北端の地ベロオーゼロのキリル修道院へ巡礼の旅に出た。 特にキリル修道院周辺は追放を受けた貴族、聖職者の配流地とされ、カザンの反乱が未だ続いていたことから側近や聖職者たちはこれに反対した。 しかしイヴァン4世にとってキリル修道院は母エレーナが自らを授かるため祈りを捧げた修道院であり、大病からの復活を遂げたイヴァン4世にとって「新しい生」を感謝するため巡礼を行わなければならなかった地だった。

 そして、同年6月 皇帝一行はキリル修道院で祈祷を捧げた。 しかしその帰路、船着場での事故によりイヴァン4世は皇太子ドミートリーを失う。 生後8ヶ月の後継者の理不尽な死に信心深いイヴァン4世は苦悶し、その大元を後継者宣誓拒否した貴族と側近たちに求めた。 だが、この時期のイヴァン4世は自制して教会、貴族との協調路線を続け、1554年3月には皇妃アナスタシアが次男となるイヴァンを産む慶事に、宮廷は一応の平穏を取り戻した。

 1553年8月末、イングランドから北極海航路で中国を目指したエドワード・ボナベリンジャー号が白海の通過を断念し、ロシア領内に到着寄港した。 これにより航路が確立され、両国の関係が始まった。 1555年、ロシアはイングランドと通商協定を結び、ヨーロッパとの本格的な交易が始まる。

 アルハンゲリスクを基点とするイギリス・モスクワ会社との貿易は、1年のうち短期間しか通れない北極海航路であり、イヴァン4世は側近たちの反対にも関わらずバルト海への進出を急いた。 その結果、1558年モスクワ国家はドイツ騎士団の残党が治めるテッラ・マリアナを支配下におくため、リヴォニア戦争1558年 - 1583年)を開始した。

 当初戦争は優位に進むが、クリミア・ハン国が不穏な動きを見せると、イヴァン4世はリヴォニアと半年間の休戦を結んで軍を退いた。 そして、イヴァン4世はクリミア・ハン国へ大軍を動員したが、休戦期間中にクリミア問題を軍事力で解決することはできなかった。 さらにリヴォニアは休戦を利用して完全に戦力を立て直し、また領土分割を狙う近隣列強が休戦後に介入し、戦争再開後のモスクワ国家はリトアニア・ポーランド同君連合との戦争に入った。 スェーデンもナルヴァを獲得するために1562年にフィンランド湾を海上封鎖した。これ以後、戦争は北欧全域に広がっていく=北方七年戦争=。

 この戦争の拡大の中で、次第にイヴァン4世は側近たちへの信頼を失っていった。 南進を主張する側近たちの進言を真っ向から否定してクリミア・ハン国と和平条約を結ぶと、全軍を傾けてリヴォニア攻略に望んだ。 また、ドイツ人の支配に対する反発からリヴォニア中で反乱が起こり、イヴァン4世の望むリヴォニア攻略はほぼ完成したかに思えた。 しかし政治家でもある攻略の司令官アタシェフは、現在のリトアニア・ポーランド同君連合軍が実質的にリトアニアしか動いていないことを知っており、リヴォニアの陥落はモスクワの国力を上回るポーランドの本格介入を招くことを理解していた。 そのため好機がありながらも戦線を停滞させてしまい、戦争は膠着状態に陥った。

思うようにならない戦争の焦りと、側近たちへの不審感、さらに妻のザハーリン家への反発を理由とする貴族たちの反対に、イヴァン4世は怒りを募らせていた。 しかし最愛の妻アナスタシア(前節参照)は夫の気性をうまく宥め、憎悪を和らげた。 彼女は13年で6人の子をなし、早世したドミートリー以外にも二人の男児、次男イヴァンと三男フョードルを設けていた。 しかし1560年8月7日、イヴァン4世が30歳となった年にアナスタシアは死去した。

 前年から体調を崩しており病死であったとされるが、イヴァン4世は妻の死にザハーリン家を敵視する勢力の関与を疑った。 さらにリヴォニア戦争でのアダシェフ顧問団将軍の失態、シリヴェーストル司祭の南進策の誤りも、自分を陥れるための策謀であるとみなし、そのために二人がアナスタシアを毒殺したというモスクワの噂を信じた。 マカリー府主教もこの頃は病に伏し、イヴァン4世が幼いころに見せた残忍な一面を咎められる人物は、もはや誰もいなくなっていた。

 アナスタシアの死からまもなくして、顧問団のアダシェフは全領地を没収の上にリヴォニアのドルパート要塞に投獄され、二ヶ月の1561年に謎の死を遂げる。 シリヴェーストル司祭も同時期に白海の孤島にあるソロヴェツキー修道院に永久に追放された。 選抜会議の中核をなした二人の追放は、従来の協調路線の破棄を意味した。 名門貴族はザハーリン家と相変わらず激しく敵対していたが、この時期からイヴァン4世は明確にザハーリン家寄りの姿勢を示し始める。

 

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森のなかえ

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