○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○
★= 「タタールのくびき」からの脱却 ⑦ =★
イヴァン雷帝
父親ヴァシーリー3世の崩御で3歳にしてモスクワ大公国の大公に即位したイヴァン4世。 彼の即位5年後、 摂政である母エレナが死去する。 イヴァン4世は10代にも達せず、シュイスキー家トベルスキー家の人々に政権を奪取されて8歳のイヴァン4世の存在は無視されるようになった。 またこの貴族同士の権力争いによってロシア正教モスクワ府主教のイオシフが廃位されると、代わってイヴァン4世の教育係でもあるマカリーが府主教に叙任された。
この時期、教会の権威は貴族勢力に左右されるまでに弱体化しており、マカリー府主教は教会の権威を高めるため、それに代わる強大な保護者を必要とした。 そのため、イヴァン4世には大公としてよりも「神に選ばれたツァーリ(カエサル、東ローマ帝国の絶対皇帝)」としての教育が施された。 また聡明なイヴァン4世もよく学んでダビデ王から始まりローマ帝国に続く「聖なる歴史」に親しむとともに、信仰心篤い青年へと成長する。 しかしその一方で鳥獣を虐殺し、貴族の子弟と共に市内で暴れまわるなどの二面性を見せていた。
13歳の頃には大公としての権限を行使し、かつて自らの廷臣を排除した摂政の一人、名門貴族のアンドレイ・シュイスキーを処刑している。 それまで国政では無視されていたイヴァン4世が、1547年1月16日に史上初めて「ツァーリ」として戴冠したのである。 ツァーリとしての称号は祖父イヴァン3世以来使われていたが、大公としてではなくツァーリとして戴冠するのはこれが初めてであった。
この生神女就寝大聖堂での戴冠式には“モノマフの帽子”が使われ、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)との連続性が強調された。 イヴァン4世の母方・グリンスキー家がその権勢を誇示する演出であったが、イヴァン4世は17歳の若き皇帝であり、特に府主教マカリーは自らが冠を掲げることで、ロシアにおいて教会が特別な地位にあることを印象づけた戴冠式であった。
即位直後は母方の親族グリンスキー家が戴冠を機に勢力を伸ばして宮廷の最高位を占めたが、戴冠式の半年後の6月、モスクワ大火災に伴う暴動によってグリンスキー家が失脚したため、イヴァン4世の本格的な親政を開始する。 実は 戴冠式の一ヶ月後、ザハーリン家(後のロマノフ家)のアナスタシア・ロマノウナを妻に迎えていた。 イヴァン4世は新興貴族出身のアダシェフやシリヴェーストル司祭といった有能な顧問団による選抜会議(ラーダ)に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。
行政面では、士族層の訴えに応じる嘆願局、中小貴族、聖職者、士族にも政治参加の機会を与えるゼムスキー・ソボル(全国会議)が創設された。 これまでのロシアの統治は「ツァーリが命じ、貴族が決定する」方式であり、最上位には大貴族たちの貴族会議があったが、全国会議ではその制度と貴族たちの専横を批判し、集まった各階層の代表者にツァーリがそれらの搾取から民衆を保護することを約束した。 これは貴族たちに対し、聖職者、士族の協調を得て中央集権化する狙いがあったのであろう。
アダシェフはこの政府の中で指導的役割を果たし、シリヴェーストル司祭は精神的支柱として政府とツァーリの権威を支えていった。 また外務局、財務局などの機関が独立して設けられ、1550年には法治主義を浸透させるべく法典を発布され、地方行政に関しても、腐敗の起きやすい代官制度に代えて地方自治制度に移行させている。 ゼムスキー・ソホル(全国会議)を活用するきめ細やかな行政を履行していく。 軍隊も改革対象となり、身分序列に基づく指揮系統には十分なメスを入れられなかったが、ロシア初の常備軍であるストレリツィ(銃兵隊)が新設された。 また、1556年には全ての領主貴族に兵役義務が課せられ、戦時の費用負担も所有地の規模に応じたものとして、大貴族の負担を多くした。
モスクワ大公国の東部方面においてカザン・ハン国(キプチャク・ハン国/ジュチ・ウルスの継承国家のひとつ)征服は治世初期からの懸案で、正教会からもイスラームに対する聖戦として期待され、支持されていた。 カザンがクリミアの影響下に入った後、カザンとモスクワの関係は悪化し、1534年から1545年にかけてカザンは毎年ロシア東部・北東部の国境地帯に侵入していた。 モスクワによって追放されていたサファーの死後に彼の子であるオテミシュ・ギレイがハン位を継承したが、オテミシュはモスクワによって廃され、みたびシャー・アリーがハン位に就いた。
シャー・アリーに代わってノガイ・オルダから招かれたアストラハン家のヤーディガールがハンに擁立されたが、この事態を受けてモスクワ大公・イヴァン4世ははカザンの征服を決意した。 当初は傀儡を立てた間接統治を目指すが失敗したイヴァン4世は、1552年10月に10万を超える軍勢でカザンを攻めてたのである。 この戦いでは国政改革を支えたアダシェフの他、同じくイヴァン4世にとって親友のアンドレイ・クルプスキー公が活躍するが・・・・・・・。
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