【 閑仁耕筆 】 海外放浪生活・彷徨の末 日々之好日/ 涯 如水《壺公》

古都、薬を売る老翁(壷公)がいた。翁は日暮に壺の中に躍り入る。壺の中は天地、日月があり、宮殿・楼閣は荘厳であった・・・・

タタールの軛( 追稿 )= 11 =

2015-11-13 17:55:56 | 歴史小説・躬行之譜

○◎ ルーシ諸侯の反撃 ◎○

★= 「タタールのくびき」からの脱却 ⑥ =★

 イヴァン3世統治期のモスクワ国家は、西部ではリトアニア大公国、東部・南部のタタール支配下の諸地域ではジュチ・ウルスの正嫡を自任する大オルダと敵対しており、この東西の敵が同盟を結んでモスクワに挑戦する状況にあった。 このためイヴァンはクリミヤ・ハン国と同盟してこれに対抗した。 大オルダの君主であったアフマド・ハンは、モスクワ大公に対して貢納と臣従の再確認を要求して、何度もモスクワに攻め込んでいた。 1480年10月、アフマド・ハンはポーランドの援軍を期待しつつ、モスクワへの大規模な遠征を開始したが、イヴァンはウクラ川に大軍を結集させてアフマド軍の渡河を阻止し、アフマド・ハンは数週間後に退却した。 この“ウクラ川の対峙”は、ロシアが「タタールの軛」から最終的に解放されたことを象徴する事件として、ロシアの歴史で最も重要な出来事の一つとなった。

 イヴァン3世はカザン・ハン国(ジュチ13男トカ・テルムの家系)の保護国化も試み、カザンの皇子でモスクワの臣下となってカシモフ・ハン国を統治していたカースィムをカザンのハンに立てようと考え、1476年から1469年にかけてカザンに三回の遠征を行ったが、成功しなかった。 さらに1482年に再びカザンでハン位の後継者争いが起きて、敗退したムハンマド・アミーン皇子がモスクワに逃れて援助を要請すると、イヴァンは1487年にモスクワ軍を率いて首都・カザンを包囲し、対立ハン・イルハム皇子の政権を崩壊させた。 復位したムハンマド・アミーンはイヴァン3世への忠実な同盟者となり、イヴァンは以後のリトアニアとの戦いに専心することが容易になった。 しかしイヴァンはタタール諸国への貢納を不定期の「贈り物」として続けており、タタールは未だロシアの脅威であり続けていた。

 1480年代頃からイヴァン3世はリトアニア国境への侵入を始めており、リトアニア大公国領の一部であるルーシ西部への影響力を築いて行った。 イヴァン3世の西方への拡大戦略である。 1492年にリトアニア・ポーランド王・カジミェシュ4世が死ぬと、ポーランド王位とリトアニア大公位が2人の息子たちに別々に受け継がれたため、両国の同君連合が一時的に解消された。 イヴァンはこれを好機と見て、リトアニア大公国領の一部・ヴャジマを占領する。 モスクワとリトアニアは1494年に休戦条約を結び、リトアニアはイヴァンが主張する「全ルーシの君主」という称号を認め、モスクワが占領したリトアニア領を割譲した。 そして翌1495年には、イヴァンの娘エレナがリトアニア大公アレクサンデルと結婚した。 

 娘婿のアレクサンデルは1501年に兄が死んだためポーランド王位を継承して、ポーランド=リトアニア連合王国を復活させており、1503年4月にはリトアニア支配下にあったルーシ西部のかなり広い地域を自領に組み入れた。 そのけっか、西方への拡大はバルト海世界の覇権争いに巻き込まれ、イヴァンは必然的にリヴォニア(ラトピア)のドイツ騎士団、スウェーデンの野心に対抗するため、1492年にナルヴァの対岸に要塞都市イヴァンゴロドを建設する。 この地は経済的な拠点としても繁栄し、イヴァンはさらにデンマーク王ハンスと同盟を結び、1495年には共同でスウェーデンとの戦争に乗り出したが、この戦争はデンマークを利するだけに終わった。

 1530年8月25日、イヴァン4世はクレムリンのテレムノイ宮殿で生まれた。 イヴァン4世は、長く後継者のいなかったヴァシーリー3世(イヴァン3世の次男)にとって待望の嫡男だったが、父は正教会の猛反対を押し切って、不妊の先妻を追放してイヴァン4世の母エレナを妻に迎えており、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪った。 またエレナは一世代前のドミトリイ・ドンスコイに敗れたジュチ・ウルスの有力者ママイの子孫と言われており、イヴァン4世は“クリコヴォの戦い”における勝者と敗者双方の血を引くことになる。

 1533年12月、イヴァン4世はヴァシーリー3世の死去により3歳で大公に即位する。 その後見には最初はシュイスキー公を中心とする貴族会議が、次いで母后エレナがオフチーニン=テーレプニェフ=オボレンスキー公の援助を受けて摂政として政務を執行し、エレナの政府は全国レベルでの単一通貨導入で内政の充実を図り、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組んでいった。 隣国リトアニア大公国との国境紛争にも勝利し、また大公位を狙うイヴァン4世の二人の叔父ユーリーとアンドレイ公を失脚させ、母方のクリンスキー家が実権を掌握したが、1538年に母エレナが死去すると、敵対勢力の人々に政権を奪取されて8歳のイヴァン4世の存在は無視されるようになった。

 また、この時期、教会の権威は貴族勢力に左右されるまでに弱体化しており、マカリー府主教は教会の権威を高めるため、それに代わる強大な保護者を必要とした。 そのため、イヴァン4世には大公としてよりも「神に選ばれたツァーリ」としての教育が施された。 また聡明なイヴァン4世もよく学んでダビデ王から始まり東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に続く「聖なる歴史」に親しむとともに、信仰心篤い青年へと成長する。 しかしその一方で鳥獣を虐殺し、貴族の子弟と共に市内で暴れまわるなどの二面性を見せる。 そして、13歳の頃には大公としての権限を行使し、かつて自らの廷臣を排除した摂政の一人、名門貴族のアンドレイ・シュイスキーを処刑する気迫を示し、貴族諸侯を圧迫していくのだが・・・・・・・。

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