昔から聞く言葉に「器用貧乏」というのがあります。貧乏だから器用になるのか、器用だから貧乏になるのか、両方考えられます。
辞書には「何事についても一応はじょうずにできるため、かえって一つのことに集中できずに終わること。」とあります。吾が身に照らして「上手に」を除いて、納得できる当を得た説明です。
それもこれも、ナイナイづくしの時代に育って、なによりも発想の貧困が土台になっています。手当たり次第に、それまでの飢餓状態を埋めるべく読み漁った書物。世の中が、習い事が出来る状況になると、真っ先に油絵、次が謡曲、これは仕舞、囃子へと拡がり、木彫、様々な手芸も同時進行、琴は尺八との合奏のため、それと乗馬、この二つは連れ合いの影響からと際限もなく、興味と関心が次から次へと移り変わりました。
生来、欲深で、何事につけても自分でやってみなければ納まらないのです。時には自分でも呆れるほどの手の拡げようで、その軽薄を反省することもありました。
何事についても、ある程度習得すると、興味の対象はすでに次なるものに移っています。その上、思いつくと直ぐ実行というせっかちな質ですし、もとより貧乏性ときています。気概をもって取り組みたいと、頭の中では常々考えているのですが、一つのことに徹しきれないでは、大成のあるはずもなく、いつもそこそこの中途半端で終わってきました。
自分では「この道一筋」の人の持つ、奥深い凛とした筋の通しように、こよなく憧れるのですが、持って生まれた本性は矯正のしようもなく、それからそれへと展開していきました。
よくしたもので、年を重ねるということは、もはや体が気持ちのように動いてはくれなくなり、針の耳が糸を受け付けなくなると、連れて根気も無くなっては、自然消滅するものが次から次です。
膝を痛めて、正座ができなくなれば、人と合わせる囃子とも縁が遠くなりました。
短期で決まりのつく墨彩画と、謡、リハビリ代わりの水泳だけが残ったものです。が、この水泳も車の運転ができなくなれば、プールに通うことも困難になります。「あはれ」の物語です。
代わって新たに登場したのが、パソコンとの巡り会いです。3年の月日が速やかに過ぎ去り、この頑固で、頭脳明晰な愛すべき「つわもの」に、楽しく振り回されています。
マイナス思考に縁のない私は、この今までの道草が、ささやかな暮らしを自分なりに味のあるものにしていると思うことにしています。
芭蕉翁も死を前にしてなお「かけめぐる夢」を抱えていました。次元に雲泥の差があるとはいえ、私も器用貧乏を今しばらく楽しむことにしました。