「もののあはれ」の物語

古き世のうたびとたちへ寄せる思いと折に触れての雑感です。

「井筒の女」

2005年07月04日 | 絵とやきもの

 先日の「江戸の絵画」の里帰り展で、遥かの記憶の底に沈んでいた亡霊に出会いました。

 宗達描くところの「河内越え」の小さな色紙が、極彩色の厚塗りで展示されていました。
 画面左上に庭の植え込みの中に小さく身を潜める男と、右下半分に大きく吹きぬきにした縁先に、黒髪を引く後ろ姿の女が描かれ、「風吹けば沖つ白波立田山 夜半にや君の一人越ゆらん」の歌が上に書かれていました。

 この伊勢物語「河内越え」は「井筒」として謡曲でも謡われており、有名な段ですが、簡単に筋書きを書いておきます。、
 井戸のそばで遊んでいた幼馴染が成人して、「筒井筒 井筒にかけしまろが丈 過ぎにけらしな妹見ざる間に」との男の歌に
、女が「比べ来し振り分け髪も肩過ぎぬ 君ならずして誰かあぐべき」と応え、結婚します。
 歳月が経ち、男は新しく河内に通う女ができます。ところがこの井筒の女は、「悪しと思へる気色もなくて出だしやりければ」男は疑心を持って、ある日、「河内にいぬる顔」で庭の植え込みに隠れて様子を窺うのです。
 夜更け、女は「いとよう化粧じて」「風吹けば・・・」この夜更け、風の中を今頃はたった独り山越えをと、夫の身を案じる歌を詠むのです。やがて男は河内に通うのをやめた。という筋書きです。
 
 10代の終わりの学生の時分、伊勢物語のこの段をを初めて読んだときのことです。なにかおかしいと違和感を持って、小品に書いたことがあります。
 井筒の女は、夫が河内に出かけた振りをして、どこかから様子を窺っていることを計算の上で、芝居がかった演出をしたという解釈で、生意気な、青い心理分析を披瀝して得意になっていた遠い日を思い出しました。

 しばらくは宗達の「河内越え」の前に佇んで白塗りの男の顔を眺めていました。