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The Blueswalk の Blues&Jazz的日々

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アヴァンギャルド  PARTⅠ

2007-10-15 16:50:21 | Jazz

アヴァンギャルド “コルトレーンからアイラーまで” -PARTⅠ

《ジョン・コルトレーン》 

【アバン‐ギャルド(avant-garde):前衛派】などという言葉はいまや死語となった感がある。アルバート・アイラーが好きだなどという方もあまり居られない。しかし、これほど人間性を顕わにした音楽は他にないだろう。難解な文章になりそうで、独りよがりな論に終始するかもしれないが、個人の好き嫌いが顕著に現れるジャンルだからこそ自分の思いを述べることが必要と思い、拙いレポートを提示する次第である。まず、フリー・ジャズとアヴァンギャルドとどう違うのかということをはっきりさせておくことが必要と思われる。僕は、一言で言うとフリー・ジャズは音楽的にコードとかの束縛を開放して出来上がった演奏であり、アヴァンギャルドというのは精神的、方法論的にこれまでと異なるやりかたで作り上げた演奏であると理解している。だから、「フリー・ジャズ」と「アヴァンギャルド」は別物であるということだ。しかし、一般的には同一視されており、ここでの記述も両者を明確に区別して記述してはいないので、本テーマを「フリー・ジャズ」と捉えてもらってもかまわない。しかし、これを、ジャンルとして分類するならば、あくまでもレコードという作品単位で分類すべきであって、演奏者単位で分類すべきではない。例えば、マイルス・デイビスは【アヴァンギャルド=フリー・ジャズ】かという議論は成り立たない。レコードである『ビッチェズ・ブリュー』はアヴァンギャルドかフリー・ジャズかそうでないかという議論でなければならない。そして、フリー・ジャズの作品を多く作っている人を一般的に「フリー・ジャズの人」と分類すべきなのである。そういう意味で、フリー・ジャズと分類されていない人の作品にもアヴァンギャルド【前衛的】な作品が多く存在し、よく聴かれているということがあり、逆にフリー・ジャズとレッテルを貼られ、あまり聴かれない人の作品人に意外とまっとうな普通の作品があるのも事実である。大体、演奏者というのは、初期のころはスタンダードで伝統的な曲を選び、自作でも突拍子のないものはあまり取り上げないものである。売れるようになり、人気も出、一人前になった後期にそれまで演りたくても抑えていた自己主張を出すものである。そういう意味で、途中でスタイルが変わったような人にはエポック・メイキング的な作品というものが存在する。つまり、それ以前のこちら側(伝統的ジャズ)の作品とボーダーライン上の作品と、あちら側(アヴァンギャルドな作品)に分類することが出来る。そして、あちら側の作品の割合が多い人を「フリー・ジャズの人」と分類するのである。 本、レポートは、そのような観点で、いろいろなジャズ・マンの作品からアヴァンギャルドとなるきっかけとなる作品を紹介しようとする試みである。副題に“コルトレーンからアイラーまで”とあるように、複数のジャズ・メンを複数回に分けて診てみようと思う。《ジョン・コルトレーン》 ジャズ・ファンはコルトレーンを好きな人と嫌いな人が極端に分かれる傾向にある。マイルス・デイビス・クインテットのころから1960年作の『マイ・フェイヴァリット・シングス』までとそれ以降の変貌した作品とのギャップがあまりに大きいせいだと思われる。しかしながら、作品単位で見ると、1962年作『バラード』、『ウィズ・デューク・エリントン』、1963年作『ウィズ・ジョニー・ハートマン』などなど、非常に人気の高い作品もあり、いつまでがこちら側でいつからあちら側などと一概に時系列で分類することは出来ない。 僕の音楽的な嗜好でみると、
1964年作『至上の愛』がそのボーダーライン上の作品ではないかと思う。この作品はご存知のように、ひとつの組曲から出来ており、『承認』、『決意』、『追求』、『賛美』といった4部で構成され、最晩期のコルトレーンの独特の宗教的な色合いの濃い作品群の最初のものである。そのため、ジャズというよりゴスペル、スピリチュアル的であり、絶賛と批判が分かれるところでもある。コルトレーンのアヴァンギャルド度の判断基準は“宗教度合”ではないだろうか。
面白いのが1960年作の、タイトルがずばり『アヴァンギャルド』である。競演が、ドン・チェリー(TP)、エド・ブラックウェル(DS)で、演奏曲目がドン・チェリーやオーネット・コールマン作品とくれば誰しもがフリー・ジャズと思うだろう。しかし、演奏は至ってノーマルであり、大変楽しく聴ける。タイトルに偽りありのうれしい作品といえる。
 『アセンション』1965年作。昨日、僕はこのレコードに5年ぶりぐらいに挑戦してみた。何を挑戦したかというと、40分の演奏を一気に通して聴くことに対するトライである。過去、何回となく途中で挫折し、未だかつて最後まで聴きとおした事がない。最初から、騒音みたいに、統制のないトランペットやサックスの音が襲いかかってくる。3分過ぎに、コルトレーンのソロが始まって、やっと耳慣れたサックスの音に安心していると、7分過ぎからは、またもや、カオスの状態に陥ってしまう。とうとうこらえきれなくなり、10分過ぎでノックダウンされ、万事休す。まあ、フリー・ジャズだから、少人数のほうがまとまる可能性が高い訳で、リーダーによっぽど統制力がない限り、11人も集まったら混沌となってしまうのは当然といえば当然である。この点、コルトレーンは生涯一演奏家であり、グループのリーダーとはなりえなかったのがわかる。マイルスなら絶対こんなことにはならない。それにしても、何故こんな作品を世の中に出したのか未だに理解できないし、一部の評論家が絶賛していることを不思議に思う。コルトレーン生涯にたった一度の大失敗作である。
『メディテーションズ』1965年作。前作『アセンション』の失敗に懲りたのか、ホーンをコルトレーンとファラオ・サンダースの2人にし、以前の黄金カルテットのよさを残しながら、アヴァンギャルドに挑戦している。とはいえ、例の、パルスの洪水のようなテナーの咆哮が2人のテナーから吐き出されてくるかと思えば、マッコイ・タイナーの鋭くダイナミックで華麗なピアノが聴けるので、好きな人にはたまらない、嫌いな人にはどっちかにしてほしいところであろう。この作品は、後期のコルトレーンジャズの出発点と位置づけられよう。
『ライヴ・イン・ジャパン』1967年作。僕が、初めて聞いたジャズの中のひとつである。23歳当時、現代最高のジャズだといわれて、友人の部屋で「マイ・フェイヴァリット・シングス」を聞いたのであるが、レコードの片面がベースのソロだけで終わり、ただでさえ苛ついてきているのに、裏面に入ると“わけわからん”サックスの騒音が延々と続き、途中でプレイヤーをとめて、“これは音楽じゃない”と叫んだ記憶が未だに鮮明に残っている、僕にとってのいわく付きで、一生忘れられない作品である。しかし、それから10数年後、やっとこの作品を聴けるようになったのを、単に慣れととるか、自分が成長したととるかは難しいところである。でも、やはりこれを通しで聴くにはよっぽどテンションをあげないと最後まで続かない。当時は、レコード3枚組(録音は2枚半)だったのに、いまは、第2集を加え、CD4枚セット(4時間ちょい)怒涛のコルトレーンジャズ集大成である。
『エクスプレッション』1967年作。かなり、宗教色の濃い、後期の代表作で、前作から、マッコイ・タイナーとエルヴィン・ジョーンズが抜け、アリス・コルトレーンとラシッド・アリが加わった晩期カルテットの演奏である。静かに瞑想するのには持って来いであるが、音楽を楽しむには、かなりの慣れが必要と思う。1曲、1曲はさほど奇異でもなく、じっくりと鑑賞できるのであるが、全部が全部こんなんじゃ気がめいってしまうというのが始めて聴く人の気持ちかもしれない。作品としてはすばらしい出来だと思う。  という訳で、ジョン・コルトレーンにおけるアヴァンギャルド作品を数点紹介したが、まだまだ後期コルトレーンには多くのこういった作品がある。特に、ライヴ作品はほとんどこの系統の作品となっているので、一度染まったら抜け出せない坩堝の世界を覗いて見るのも秋の夜長(まだ残暑厳しい夏か?)にはいいのではないでしょうか?