なんくるないさぁ~だんな と わたし と SLE と

  12歳SLE発症。ループス腎炎Ⅳ型。
早発閉経で妊活強制終了。子なし人生の幸せ模索中。

SLEと共に生きる

1980年01月22日 | 膠原病とともに
 ★何をしていたの?★
今振り返ってみて
不思議に思うことがあります。

おかしなことに予定もないのに
入院準備をしていました。

入院する1ヶ月前くらい前から
急に部屋を片付け始めました。
普通に聡怩キるのとは違うんです。
まるで身の回りを整理するかのような片付け方でした。

本棚に並んでいる本をほとんど処分していました。

そしてB'zのグッズもほとんど手放してしまいました。
B'zのデビュー当時からの雑誌の切り抜き、
ライブのパンフレット、ライブグッズ・・・etc
今まで私が宝物としてきたものばかりです。
ほとんどはもう手元にありません。

他人が聞くと「たかがそんなこと」と
思うかもしれないけど、私自身からすれば、
なんで急に手放そうと思ったのかわからないんです。

そして投函してはいないけど、
まるで遺書のような手紙を友人に書いていました。
手紙なんてここ数年書いたことなんてないのに。

退院してからわかったことですが、
B'zのグッズの中で手放してないものがありました。
 
FANクラブの会報とサインです。
それは私が1番大切にしているものです。

人は死期を感じると無意識に
いつもと違った行動をすると聞いたことがあります。  

 このサインも会報も手放してしまっていたら?

 あの友人への手紙を出してしまっていたら?
 
 そんな風に思うと浮ュなります。

 病院で「死にたい!」と叫んでいたとき、
 本当に「死んでしまいたい」と思っていました。

 あのまま寝かせてくれても良かったのに・・・。

今でも病気である現実を目の当たりにした時は
そう思って「生」から逃げたくなる弱い自分がいます。

でもCNSを発症して親の愛情の深さを知りました。
「なんで今まで話してくれなかったんだ」と
真剣に怒ってくれる友人がいました。

こんな私でも愛されているんだと思うと
自分の命が愛しくなります。

一方で、その大切な人たちに迷惑をかけるのではないか。
心配をかけてばかりいるのではないだろうか。
私が一緒に居ることで何か我慢をさせているのではないか。

大切な人であればあるほどその思いは強くなり、
心配をかけないように。甘えないように。私が我慢すればいい。
「私は大丈夫」と言い聞かせている自分がいます。 

そして発症当時の感情だけが今もトラウマのように
頭の中に染み付いて離れません。
病気だと知られることを恐れている自分がいます。

でも同級生や後輩が亡くなったとき、
彼女らが病気だと知らなかった自分を悔やみました。
話さない選択が周りに悔しい思いを残すと知りました。
そんな思いを誰にもさせたくはありません。

SLEという病をみんなに知ってもらうこと。
そして大切だと思う人であればあるほど
自分の身体のことを話さなくてはいけないこと。

それがSLEと共に生きていくうえで
これからの私に与えられた課題だと思っています。



Koi-Gokoro

1980年01月22日 | 膠原病とともに
★★★B'zが結んだ縁★★★

大学時代に初めて彼氏ができました。

ちょうど私が大学生の頃からインターネットというものが
一般家庭でも普及し始めました。
大学ではネットが使いたい放題でした。
彼との出会いはB'zFANの方の個人HPのチャットでした。

そのチャットでは何人か常連がいて
ただ文字だけの会話をみんなで楽しんでいました。
彼とは画面上でふざけあって恋人同士を演じていたのです。
病気があることと容姿にコンプレックスがあった私は
直接対面できないネットという仮想空間でだからこそ
強がることなく素直に自分を表現していた気がします。

遊びだった恋人ごっこの会話は文字だけじゃ物足りなくなり、
いつしか毎日電話で話すことが楽しみになっていました。
B'z以外にも普段の生活のことや大学のこと、
家族のことや友達のことなど、色んな話をしました。

友達の間では聞き役になる私が
不思議なことに彼には何でも話せていました。
次第に私は彼にどんどん惹かれていきました。

そして彼に病気のことを話しました。

小学生の頃の周りの態度の変容を思い出し、
彼はどんな反応をするだろうと不安を抱えながら話しました。
彼から返ってきた言葉はこうでした。

「皆の前では頑張ってもいい。
 でも俺の前では頑張る必要は無いよ」

大学生の頃には病状は安定してきたものの、
いつ悪化してもおかしくない日々。
病気への不安がないと言えば嘘でした。
それまで私は病気に負けないように
「頑張れ」とだけ自分に言い聞かせてきました。
周りからも「もっと頑張らないと」と言われると
私は弱音を吐いちゃいけないんだと
耐えることが宿命かのように覚悟していました。

その時に彼がどこまで私の病気のことを
理解していたのかはわかりません。

「頑張らなくてもいい」

私はずっとそのヒトコトを言って欲しかったんです。
彼の存在が私のココロの逃げ場となっていきました。

1999年のLIVE-GYM『Brotherfood』の年。
チャットの常連メンバーがLIVE後に
オフ会をしようということになりました。
常連メンバーの多くが近畿在住だったので
大阪ドーム公演のあとにみんなで会おうと。 

私はただドームに行ってみたい気持ちと
せっかく旅関係のサークルに入ったのに
一人でどこも行ったことが無いのが悔しくて
ほとんど家出同然のように飛んでしまいました(笑)

飛行機に一人で乗るのも電車に乗るのも初めて。
大阪駅についてから事の重大さに気付きました(^^;)
方向音痴な私は広大な大阪駅で迷い、
どこに向かって歩いていいのかもわからず
ただただ途方にくれていました。

唯一、電話番号を教えあっていた彼に電話。
すると彼は笑いながら
「迷ってるんじゃないかと思った(笑)
 今、新幹線で大阪に向かってるから
 とにかくソコで待ってろよ」と。

途方にくれた私は何も考えられませんでした(^^;
数時間後。どこにいるのか詳しく伝えなかったのに
広大な大阪駅で彼は私を見つけてくれました。
そして「よし。行くか(^^)」とだけ言い
半ば強引に私の手をとって歩きはじめました。

互いに写真でしか顔を知らないはずなのに
なんだか久しぶりに会うような不思議な感覚でした。

それが本当の遠距離恋愛の始まりでした。

彼の住む地は沖縄から飛行機で4時間弱。
1年で会える時間もわずかでした。
毎日の電話とメールだけが私と彼を繋いでいました。

寂しさに負けて別れた時もあります。
でも他の人と付き合っても長続きしませんでした。
お互いにほぼ同時刻に電話をして話し中になる。
そんな冗談のような本当の話もあります。

そのたびに不思議な縁を感じて
どんどん彼の存在は大きくなっていきました。

彼が沖縄に初めて来たのは2002年のGREENのLIVEの時。
「就職して仕事が安定したら迎えにいくから」
照れくさそうにしながらも真剣な眼でそう言う彼に
私は笑顔を作るだけで返事をすることはできませんでした。

嬉しさと恥かしさもありましたが
私の頭に真っ先によぎったのは「不安」でした。

時々感じる私の病を本当に理解していないであろう彼の態度。
環境の変化によるストレスが私の身体に影響が無いはずは無い。
しかも彼の住む地は日本でも有数の豪雪地帯。
寒さが大敵でもあるSLEを抱えた私が生活するには
難しい土地であるということ。

当時はそんな現実を見ないフリをして
ただ彼の優しさに甘えていた気がします。

★★★好きだけじゃダメだった★★★

CNSで唐黷髓シ前、私は彼と付き合っていくことに
限界を感じていました。

病状が思わしくないこともありましたが
大学院に進んだ彼と社会人になった私とでは
生活リズムが違ってしまい電話回数は減り、
もちろん会うコトは難しくなっていました。

最後に会ったのは2003年の渚園LIVE。

いつもなら別れ際に寂しくて泣いてしまう私が
あの日はナゼか泣きませんでした。
ホントにナゼだかわかりません。
‘もう彼と手を繋ぐことは無いんだろうな’と
バスに乗った私に手を振る彼の姿を見ながら
何かを感じていたのか私の心は冷静でした。

CNSが発症した時の記憶は私にありません。
友達の誰にも彼の連絡先などを伝えていなかったため
私が唐黷ス知らせは彼には届きませんでした。
ネットを通して出会ったことに抵抗もあったので
親にも彼氏の存在を伝えていませんでした。
彼は私に起こった事態を詳しく知らないと思います。

私が覚えているのは、
やっと退院してまだ歩けない足をひきずり、
腕の力だけで階段を這い上がり自分の部屋に行ったこと。
携帯を手にとり、震える手で彼に電話したこと。

彼の電話の声は何も変わっていませんでした。
でも「ゴメン。今から飲みに行くから。また明日。」と
まるで何事も無かったかのような応答。

入院中に携帯は使えなかったので
3ヶ月くらい音信不通だったはずなんです。
おそらく3ヶ月ぶりの電話だったはずなのに。

切られた電話を片手に、悲しいとか寂しいとかより
私の中でスーーーーッと何かが消えていきました。

一番苦しい時に側にいてくれない。
でもきっと私も彼が苦しい時には
側にいることは出来ない。

それから彼の声を聞くのが浮ュなりました。
彼のことを思い出そうとすると彼のことよりも
CNSでの苦しかった感情だけが甦ってきました。
かかってきた電話をとることも
メールを返すこともできませんでした。

彼のことを嫌いになった訳じゃないのです。
ただ何もかも思い出すのが辛くて辛くて苦しくて・・・。
一種のトラウマかもしれません。
私のココロはもう限界でした。

正式な退院が許された頃、私の方から彼に別れを告げ、
6年間の遠距離恋愛に終止符を打ちました。
たぶん彼は私に何が起こったのかを
ほとんど知らないままだと思います。

B'zの曲の中には彼との思い出がある曲がたくさんあって
それを聞くと思い出して辛い時もありました。
それでも少しずつ自分の命の温かさと
優しい時間が癒してくれています。

ただ彼が支えだったことは事実です。
感謝の気持ちを伝えず最後の電話を
切ってしまったことの後悔が
今でも少しだけ私の中に残っています。

もし同じB'zFANとして彼と会える日がくるのなら
「ありがとう」とだけ伝えたいです。

今はただそれだけです。



就職編⑦

1980年01月22日 | 膠原病とともに
★2008年 再び『通院と通勤』の日々

「今を精一杯生きる」
それを信じて頑張ってきたご褒美は
カタチとなって突然やってきました。

再び、以前と同じ職場での就職。
患者として通っている病院の職員として。
しかも全く同じ部署での採用でした。

再び通院する病院へ通勤することになります。

ただ戻りたいとは思っていたけど迷っている自分もいました。
ソコで再び働くことは福祉の道に
もう進むことは無いであろう場所だからです。

でも悩む暇もなく働き始める日はやってきます。

新聞に求人がでていたのでダメだろうとは思いながらも
以前採用してもらった人事の方に直接電話を繋いでもらい、
とりあえず面接を受けたのは3月30日。

このとき精神保健福祉士の合否もわかっていません。

面接した人もかつて同じ職場の人なので
もちろん知っている顔です。

その日には採用してもらえたのかどうなのかも
よくわからないまま帰宅となり、
4月1日になって急に自宅にかかってきた電話は
本社:人事「どうしたの?体調悪いの?」

私からの電話を受けた時点で採用は決定していたとのこと。
悩む暇もなく主治医に相談する間もなく、
唐黷髑Oと全く同じ場所の同じ職で
その日の午後から出勤することになります。

それで良かったのかもしれません。

イロイロ悩んでしまうと悪いことばかり考えて
きっと断っていただろうと思います。

戻ってきた仕事場には唐黷髑Oの私の文字。
私がまとめたファイルや記録が現役で活躍していました。

以前とは変わってしまったやり方に
多少の戸惑いはあったものの身体は仕事を覚えていました。

かつての仕事仲間は快く歓迎してくれました。

ソコにはまだ私の居場所が残っていました。

唐黷ス後に‘見た景色’と‘得た知識’と‘感じた経験’は
私に「生きる勇気」を与えてくれました。

失った時間をより実りあるモノとして埋めて行きながら
記憶の途切れた日の続きを生きている気がします。