なんくるないさぁ~だんな と わたし と SLE と

  12歳SLE発症。ループス腎炎Ⅳ型。
早発閉経で妊活強制終了。子なし人生の幸せ模索中。

小学校編

1980年01月04日 | 膠原病とともに
★1991年6月19日(水)「学校へ」★

学校に行ってもいいという許可がでました。
ホントはもっと休むべき状態だったはずなのですが、
あまりにも私が「学校」を意識するコトと、
母親の学校への執着(?)に先生が気づいたのかもしれない(笑)

学校では、いわゆるリーダー的な仕切り屋だった私は学校が大好きでした。勉強もできるほうだったし、先生たちにも好かれていたと思います。休み時間になれば、自然に私の机の周りに友達が集まってきたし。そんな何でも思い通りになる学校生活に戻りたかったのかもしれないですね。

でも、久しぶりに学校に行って
自分の身体の異常さに改めて気づかされました。

体力はガクゼンと失われていました。
階段を上がるだけで足がつる。
誰かに支えてもらわないと上るのもままならない。
歩くのが辛い。ただ歩くだけで息切れがする。
身体が重い。ダルイ。微熱のせいでずっとボーッとしている。

担任の先生には病気のことを知らせたので、
クラスの皆にも先生が話したのでしょう。
友達が私を見る目も変わっているように思えました。
何かを哀れむような目。
 
なにかとしきりに「大丈夫?」と心配する声。
プリントを配るだけの単純な作業さえ、私に任せてくれません。
クラスメイトはホントに心配していただけかもしれないです。
 
男の子たちは一切、私に話しかけなくなりました。
どう接していいのかわからない態度、
あるいは何かがうつるのではないかというような態度。

授業でも先生は何かと私に気をつかっているのがわかりました。

一番好きで得意で大好きな体育は休まなければいけませんでした。

 そして一番辛かったことがあります。

 発症前、私は器楽部でクラリネットを担当していました。
 器楽部なら・・・と、久しぶりに部室に行くと
 新入部員がたくさん入っていて知らない顔がいっぱいでした。

 試しにクラリネットを吹いてみると「シ」の音がだせないんですよね。
 (クラリネットで「シ」の音は息遣いが難しいと思う・・・たぶん)

 結構強く息を吹きこまなければいけないので、
 顎が痛くなっちゃうんです。

 そして私の楽譜ファイルは新入部員が使っていました。

 ちょうど運動会で行うマーチングの話合いが始まっている頃でした。

 私は自分のクラリネット(誕生日に買ってもらったもの)を持ち、
 二度と部室に行くことはありませんでした。
  
 クラスの話題は小学生最後の運動会。
 そして夏休み後にひかえた修学旅行の話題でもちきりでした。

 私はどちらの行事も不参加が決まっていました。

 目立つのが好きな方だったと思います。
 ただ、注目される理由が‘病気’という理由に
 変わってしまったんですよね。

 実際にはこんな偏見はなかっただろうと思います。 
 でも当時の私には、みんなが私を
 「明日にも死んでしまいそうな重い病気を抱えている人」
 「かわいそうな人」
と見ているように思えました。
 そしてその状況をもの珍しく楽しんでいるように思えたんです。
 まるで看護師ごっこを楽しんでいるように感じました。

 当時の一番辛い時期だったと思います。
 なぜあんなに辛かったのか。今考えてもわかりません。
 ただの甘ったれだと思いますから(笑)

 のちに主治医に「うつ状態だったんだよ。」と言われています。
 
 ココロを病むと言うことがどういうことなのか。
 周りがどう見えるのか。自分は何を考えていたのか。
 すべて後になってわかったことです。   

★★★1991年7月1日★★★

 7月に入ってから、学校に行けなくなりました。
 正確に言うと行かなくなったというのが正しいかもしれません。
 朝起きるとどうしようもなく身体がダルいし気分が悪い。

 精神的なものが大きな原因だったのでしょう。
 病状は「今すぐ何かをしなくてはいけない」というような
 深刻なものではなかったからです。登校拒否の子が
「朝になると身体の調子が悪くなる」というのが少しわかります。

 担任の先生は私が登校拒否をしているのだと心配して
 家まで来るようになりました。
 でもそれが、ひねくれてしまっていた私には
 「自分は問題児なんだ。大変な病気になってしまったんだ。」
 と自覚させるようで辛かったです・・・・。

 身体はだるい。何もせず、一日中、自分の部屋の
 大きなクッションに身をうずめ、
 テレビもつけずボーっとしている。気がつくと泣いている。
 バスタオル一枚をグショグショにするまで泣く日々が続きました。
 部屋で泣いている私を兄が見つけると、
 母が私の部屋にやってきて抱きしめました。

 「なんで?どうしたの?お母さんが悪かった。
  こんな病気にさせて・・・」と一緒に泣きました。
 
 診察日の主治医の「無理しなくていいんだよ」という
 優しい言葉に私は何も答えることができませんでした。

★★★1991年9月★★★

 「病気でも私は平気。私は強いんだ!
  病気なのに私はみんなより頑張っているんだ!」

 そんなことを自分にいい聞かせながら、
 2学期から学校へ通い始めました。

 ある日ホントに身体がダルくてどうしようもなくなり、
 保健室へ行きました。ベットで横になっていると
 母親が迎えにきたのがわかりました。

 しばらくして保健の先生の話が聞こえてきました。

 「ちょっと過保護すぎじゃありませんか?」と母に言いました。

 確かに母は私に対して発病前から過保護だったと思います。
 病気になってからはなおさらでした。
 でもその理由はなんとなくわかります。

 母は弟を腎臓病で亡くしています。

 ‘なにやら聞いたこともない病気でしかも腎臓に症状が出ている’

 母が弟の不幸と私が重ならないようにしているのは
 よくわかっていました。
 過保護だと言われた母は何も言い返しませんでした。

★★★1991年10月★★★

 当時クラスの中でも仲のよいコが2人いて、そのうちの1人が、
 極度の貧血症をわずらい、入院することになりました。

 私は病気持ちの先輩であるかのような気持ちになってました。
 変な見栄ですよね。

 その友達は1週間くらいで退院したのですが体育はしばらく見学。
 私と一緒に過ごすPC遊びの日々がしばらく続きます。

 当時の担任の先生が体育の先生で、宿直室に自分のパソコンを置いていました。私は体育の時間、先生のPCで遊ばせてもらいました。今思えばこれが私のPCとの出会いですね。

 ある日その友人が給食時間の直前に、突然生理が始まってしまい、
 貧血症も持っていることから大事をとって早退することなります。

 ズボンが血液で汚れてしまって教室に帰るに帰れない。
 みんなには何で早退するのかなんて恥ずかしくて言えない。
 そんな友人は半泣きのまま、職員室で私と給食を食べました。
 私は当時、突然保健室に行くことも当たり前のような感じだったので、
 クラスメイトも「またか」という感じだったと思います。

 一緒に給食を食べながら、病気持ちの先輩ぶった私は調子にのって、
 「大丈夫よぉ~。私がついてるから大丈夫さぁ~」と言ったのを
 よく覚えています。

 でも、その子の母親が迎えにきて、
 「ばいば~~い。じゃぁねぇ~。明日、学校きてよ~」と言うと、
 「大丈夫よぉ~私はアンタみたいに登校拒否なんてしないからさぁ~」
 と返したのです。もちろん冗談で言ったことだとは思うのですが。
 
 そのとき、初めて先生は私が学校へ行けなかった時のことをみんなに
 「登校拒否をしている」として伝えたのだと知りました。

 あれはかなりショックでした・・・。
 まぁ~実際に学校に行けなかったのですが(^^;

 その友達もいまや2児の母となりました。
 あの頃の真意は聞けずって感じです。


★★★1991年11月★★★

 それから卒業までの日々はひたすら目立たずに過ごすことが
 私の目標のようなものになりました。

 病気はそれ以上は悪化することはありませんでした。

 卒業文集には6年間の思い出として作文が載っています。
 私の作文はクラスでリーダーシップをとっていた人気者の子に
 「私の病気に気を使ってくれて、うれしかった。
  ほんとうの友達だと思った」
 というような内容を書いています。その頃の本心ではないです(笑)
 悔しさと惨めさ悲しさを隠した作文です。

 退院してから卒業までは、プレドニゾロンの服用、月1度の採血・採尿と診察。高脂血症もあったようですが、特になにか対処療法はしていなかったようです。(後に病院で働いたときに自分のカルテを見て知りました)
 顔はムーンフェイスでパンパンになり始めていました。

 将来は何になりたいとか考える暇もなく。
 毎日、ただ「生きている」 
 そんな日々が続いていた気がします。