減価する通貨が導く近代超克への道

自然破壊、戦争、貧困、人心の荒廃・・・近代における様々な問題の根本に、私たちが使う「お金の非自然性」がある

続:商取引の根源的な意味から問いかける「増殖する通貨」の危険性

2007-10-25 20:34:59 | Weblog
今日は、昨日のエントリーについてろろさんの質問を元に言い切れなかった部分や説明の足りなかった内容を補足したいと思います。

>よく巷で言われるような「共同体は自己完結できない」的な論理とはちょっと違うようですね。この論理は相互依存を強化する時の屁理屈として用いられるものですが、そうではなくて、生命活動から生じるゴミの処理の問題だとしている点は面白いと思い、また利点の多い解釈だと思いました。

私も巷で良く言われる「共同体は自己完結できない」論は、あまりに乱暴で傲慢だと思います。上記のように商取引(奴隷等の人間移動含む)が共同体内部のエントロピー解消つまり排泄と浄化が目的にあると考えれば、その時々の「共同体の開き具合(閉じ具合)」は、その時々の共同体内部の都合と外部環境の状態により決まるべきものとなります。それを共同体内部に対する理解も外部の状況も知らない人が「お前は開くべきだ」みたいなことを言うのは、傲慢で愚かです。実際に共同体が外部に対してどの程度開くべきか閉じるべきかを決めるのは、その共同体の維持に責任を持つ指導者(権力者)となるでしょう。内外のエントロピーの差異を注意深く観察しながら、商取引の範囲(市場の大きさ)を設定することになると思います。これも進化した生物の細胞が内部の老廃物の貯まり具合と外部環境の状況を自律的に判断して、細胞膜上のチャンネル(物質交換のためのトンネル)を適切に開け閉めするのと似ています。単純な「共同体は自己完結できない」論を主張している人は、周囲の水の塩分が高くても、低くても、ウィルスがやってきても細胞が常にチャンネルをオープンにしていたらどうなるか、ということを考えろといいたいです(確信的破壊者はそれを知った上で言っていると思いますが)。

一方で、共同体内外の状況を権力者が注意深く観察したとしても、「商取引」において完全にリスク成分を排除することは困難なはずです。また、長期的に共同体の存続維持を図るには、権力者は内外の利益を大所・高所からみて調節する必要があるため、そこには必然的に「2面性」(悪く言えばエージェント的性格)が生じてきます。

このあたりの権力者の持つ「2面性」というのは、実は全国各地にある塞の神・道祖神として祀られている「サルタヒコ」の神話・性格(神性)からも読み取ることができるのではないかと思っています。

この点について、フリーライター岡林秀明氏が宮崎駿の映画「千と千尋の神隠し」の謎解きの中で興味深い論点を示しています。

・謎とき『千と千尋の神隠し』 第6回
http://miruyomu.cocolog-nifty.com/blog/2004/10/post_3.html
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道祖神とは「さえのかみ(障の神、塞の神)」とも呼ばれ、「悪霊の侵入を防ぐため村境・峠・辻などにまつられる神。旅の安全を守る神。また、生殖の神、縁結びの神ともする。猿田彦神と習合したものも多い」(『大辞林第二版』)。

「侵入を防ぐ神」でありながら、同時に「旅の安全を守る神」であることに注目してほしい。

「記紀」によれば、天つ神たちが地上に降りることを決めたとき、途中、道を塞(ふさ)いでいるような神がいた。

「鼻の長さ七咫(ななあた)、背の長さ七尺余り。当に七尋と言ふべし」(『日本書紀』)とあるから、異形の姿であったことは間違いない。
この神がサルタヒコだ。

天つ神たちはアマノウズメを派遣して、サルタヒコと交渉させる。
アマノウズメは露出度の高い、かなり刺激的なスタイルで現れ、サルタヒコを陥落し、一転して先導役にしてしまう。
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・サルタヒコの2面性
http://miruyomu.cocolog-nifty.com/blog/2005/06/post_200d.html
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いったい、どっちなんだ?

猿田彦(以下、サルタヒコ)は「さえの神」(道をふさいで、外来者の侵入を許さない)と「みちひらきの神(先導者、案内人の役割を果たす)」という一見矛盾した性格を持っている。



一方は閉じられ、一方は開かれている。
矛盾しているとしか思えない。
記紀にも、両面性のある神として登場する(明示的ではないが)。

どうして矛盾した性格を持っているかといえば、ひとつの解釈としては、猿田彦が集団の指導者(あるいは指導者像が投影された神)だったからだ。

指導者にとって、まず重要なのは集団の構成員を守ることだ。

疾病、災厄などのトラブルは外部から訪れるものが持ち込んでくることが多い。
とすれば、外部のものは徹底的に排除せざるをえない。
集団を守る者、すなわち「さえの神」としての性格だ。

一方、まったく外部のものが入ってこないと、集団は衰亡していく。
衰亡をくいとめるためには、積極的に外部と交わり、外の血を入れていくしかない。
集団を導く者、すなわち「みちひらきの神」としての性格だ。

矛盾した性格と見えるものは、集団の存続・発展を担わなければならない指導者だけが持つ「責任感」のあらわれとみれば、何の矛盾もなくなる。



別の解釈は時間的な経過を問題にする。

暴力的・破壊的な外来者が侵略してきたら、当然、国を守るため、妻子を守るため男たちは戦わざるを得ない。
サルタヒコも男たちの先頭にたって戦ったことは間違いない。

激烈な戦いだった。

残念ながら、運が味方せず、敗れたときにどうするか。
部族の存続を願えば、降伏せざるを得ないだろう。

サルタヒコは外来者が派遣した「進駐軍」を案内して、自分たちの国に帰っていく。
自分の思いはとにかく、「みちひらきの神」としての役割を果たしているわけだ。

昨日までのリーダーが先導役を務めているわけだから、国の人々の胸に、どんな思いが去来したか。
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う~ん、最近の日本には「サルタヒコ」がいなくなってしまったのだなぁ、とつくづく思うわけですが、それはさておき。

私は上記で語られるサルタヒコの2面性こそが、共同体という細胞が本来有するべき「チャンネル」の役割なのだと思います。また、開いていながらも閉じている、排泄すると同時に取り込んでいる、リスクであると同時にメリットである、そういう重ね合わせの状態というのが、自然界・生命システムの中には多く存在し、人の世もそういった「原則」に則って運営すると良い(せざるを得ない)ことを先人たちは民話や神話の物語りに託してきたのだと思います。今後、21世紀に持続可能な社会を築くという意味でこういった概念への理解が非常に重要になってくると思います。


>人類学的な話になりますが、外部婚が行われてきたのと同様に、生命体としての本能に近いものがあるでしょうね。

そうですね。外部婚も共同体内に貯まったエントロピーの放出方法の一つだと思います。実際、花嫁・花婿は売買の対象でもありました。また、家族という単位も共同体内にある小さな共同体だと考えれば、婚姻はまさに典型的な共同体間の「商取引」の一つだといえるかもしれません。

我々現代人は貨幣を中心に経済を見てしまうので、それゆえ商業(経済)活動の全てを極度に矮小化して考えていると思います(あるいは経済とは別のもの経済と呼んでいる)。先に述べたように商業(経済)活動全体は、人間が「共同体を形成する生き物」である以上必ず発生する物質的・精神的な「新陳代謝」全般であるとみた方が本質を把握できると思います。よって、この「新陳代謝」を様々な共同体が適切に継続することで、人類全体の系としても、その内面と外面が「成長」することになります。少し話しを飛躍させると、人間一人の中にたくさんの臓器・組織や細胞があって、それらは互いに独立しつつも相補的に関連しあって「人間の生存」が維持されているように、人間の作る共同体も人類という一つの「オーガニズム」を存続させるための、臓器・組織あるいは細胞であると言えます。そこにはマクロ(地球全体)からミクロレベル(細胞)までの「生命体」に共通の「フラクタル構造(曼荼羅)」を見出すことができそうです。

よって、経済の本質というものは、経済学などという屈折・矮小化した分野ではなく、広く人類学、社会科学、生態学、生命科学、地球科学、心理学的な観点から統合しなおす必要があると思っています。そういうといかにも難しいように感じますが、私はこれらに共通する視点はやはり共同体(生命)の維持に必要な「新陳代謝」と環境や共同体間の「関係性」を明らかにすることであると思っています。我々の祖先も、民話や神話の中で、そうした新陳代謝や関係性の意味を論理ではなく、感性に訴える形で示唆しています。例えば、八百万の神々とそれに対する信仰というのは、人と人、人と自然などの間に生まれる多様な「関係性」に「神」というイメージ(姿)を与え、通常は目に見えない関係性の意味を人々が理解し、それを畏れたり、守ったりするという行動につなげる一つの仕組みと見ることができます(もちろん信仰そのものにはそれ以外の多様なものを含んでいるでしょうが、ここではその話には触れません)。すなわち、小難しい知識などなくとも、ある種の「アートの力」があれば、共同体の「新陳代謝」や生命システムに内在する「関係性」の重要さを一般の人々も充分理解できるということです。そのためには西洋的な唯物論偏重の思考を、東洋的な唯「関係」論で超克するような意識変革が必要です(実際、アートの世界では宮崎駿の『千と千尋の神隠し』やミヒャエル・エンデの『モモ』『果てしない物語』などの中にその萌芽が見えます)。

>私が思うに、その根本的な部分にあるのは、人間の欲望です。そして、これが非常にやっかいであり、「彼ら」はここをうまく利用して支配する側に回ったのです。

私は人間の欲望もやはり生命の二面性を持っていると思います。欲望がなければ、人間は成長しません。しかし、欲望が何でもかなうという究極の状態は、もう成長する機会がない「精神的な死(エントロピーの極大)」を意味します。通常、人間の欲というのは様々な自然的制約、社会的制約により、簡単には究極の状態に向かわないようにできています。とくに共同体内でお互いに顔と顔を突き合わせている状態であれば、自他の行為の影響がダイレクトにわかりますから、自己の欲望の実現に拘ることが必ずしも自分に好ましい状況を招かないことを必然的に悟るわけです。そのような自他の関係性が生むフィードバック効果により、人間の内面は常に変化し、その結果精神的なエントロピーは極大に向かわずに済む(持続的に成長できる)、というのが現実かと思います。

しかしながら、(とくに減価しない)通貨というものは、その交換性や保存性の高さ故に、この自然的・社会的制約を無視できるような錯覚を抱かせることができるわけです(ましてや通貨の発行権を有するということは、価値をいくらでも捏造することができるようになるわけで、貨幣発行者は全ての制約を打ち砕くパワーを得たと錯覚するでしょう)。そしてこの妄想は、経済活動に携わる皆が「そう思い込むこと」によって、相当程度現実化します。ただ、個人が持つプリミティブな欲望を極大化させることは、やはり物的にも精神的にも無理があるので、どんなに貨幣の力が強くても、どこかで崩壊するわけですが、その過程で「自然的・社会的制約」はどんどん無視され、破壊されます。ここで重要なのはこの「自然的・社会的制約」の正体とはなんだったのか、ということです。実は制約のように見えていたもの、それこそが自己と自然・他者とのかかわり=関係性ではないでしょうか。

上記のプロセスを映画『千と千尋の神隠し』は、「カオナシ」が砂金を手からぼろぼろと出しながら、周囲を奴隷化して、自己肥大していくというシーンにより、上手く表現しています。

ということで、近代社会において人間の欲望という2面性の負の面だけが、暴走してしまう根本は、やはり増殖する通貨の「非自然性」にあると私は思っています。欲は確かに正負様々なものを生み出しますが、人間を成長させる因子ですから、一概に否定するのではなく、それが適正に働くような有形・無形の制御システムを考えることだと思います。もっともこれは理想を言い出すと「ブッダ」レベルの適正さを求める話になってしまうので、当面は人間の欲を間違った方向に導く最大の原因である増殖する貨幣の性質を改めて、その後はゆっくりと時間をかけて思考錯誤すれば良いと思います(それが人類本来の進化の道筋ではないでしょうか)。

少なくとも、人々がモノそのものではなくて、関係性を重視するようになれば、己の欲に対する認識も徐々に変わってくるでしょう。増殖する通貨は「モノを超えるモノ」(のイメージを人々に与える虚像)ですから、これに頼っている限り、私たちは唯物信仰をやめられません。「近代経済システム」が民主主義の名で唯物信仰を共同体に予め植えつけることは、あたかも細胞のチャンネルを「有価物に偽装したウィルス(増殖する通貨)」に対して開かせる役割を果たしていると思います。

ですから、これに対して、減価する通貨を導入することで人々の認識をモノを得るための「関係性」を重視する方向に変化を促すわけです。そもそも、生命体・共同体の維持・進化にとって大切なのは「新陳代謝」ですから、お金はモノとの交換という関係性の媒介を果たした後は、内部で「分解される」ことが適切だと思います。血液の健全性は、すばやく体内をめぐってモノを運び、役目を終えたら、分解されることで保たれています。血液の流れが滞れば、人は病気になります。体内で白血病のように役に立たない血液が増殖すれば、それは死を意味します。

「増殖する通貨」はまさに人類の体内で発生したガン化した白血球であり、これを「減価する通貨」に改めることで、共同体の間にきれいな血液を流すことができます。

色々言葉を重ねましたが、起きている事実はとてもシンプルなことです。地域経済における現実的対応も当然必要ですが、アートの力で広く人々の洗脳を解く事ができないかと考えている今日この頃です。


≪加筆・修正≫
「減価しない貨幣」が人に抱かせる妄想の部分についての記述(2007/10/26)

≪参考≫
貨幣と市場の歴史、そして貨幣の他者支配力に関する詳しい考察は「晴耕雨読」の下記の記事が非常に参考になります。
・市場・貨幣そして貨幣の「他者支配力」 
http://sun.ap.teacup.com/souun/447.html

その他、今回の記事と同時に見ていただきたいサイト

・萬晩報:ミヒャエル・エンデが日本に問いかけるもの(園田義明)
http://www.yorozubp.com/0007/000726.htm

・平和党公式ブログ:自然主義経済
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/23943572.html

・補完通貨研究所:金利システムの問題
http://www.olccjp.net/wiki/index.php?%B6%E2%CD%F8%A5%B7%A5%B9%A5%C6%A5%E0%A4%CE%CC%E4%C2%EA

・新たな経済
http://www3.plala.or.jp/mig/econ-jp.html

・福井プログラマー生活向上委員会:未来を奪う利子
http://chikura.fprog.com/index.php?UID=1145803186

・経済の民主化
 オーストリアで地域経済を復活させた地域通貨
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/09/
 ドイツのキームガウアー: 地域経済の自律性を取り戻す新通貨
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/16/
 開かれた通貨宣言
 http://mig76jp.wordpress.com/2006/05/22/

(2007/10/26追記)




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