ただ今お釈迦様の教えを勉強中です。(面白い)
苦しみはどのように生まれるのかそのプロセスを、お釈迦様は「十二因縁」で示されました。
無明→行→識→名色→六処→触→受→渇愛→取→有→生→老死、愁、悲、苦、憂、悩→
→無明→行→識→名色→六処→触→受→渇愛→取→有→生→老死、愁、悲、苦、憂、悩→
の繰り返し(輪廻)
苦しみの始まりは「無明」、つまり無自覚であること。
そこから(無自覚のまま)、瞬時に12の連鎖反応が起こり、「愁、悲、苦、憂、悩」へと行き着いてしまうのです。心はもっっっすごい速さで生滅(を繰り返)しているのです。なので、ついつい(無自覚に)ムカッとか、なってしまったりするのですね。で、それをまた無自覚に繰り返してしまうので苦しみが強化される。
生きるということは、瞬間瞬間に生じ滅している現象にすぎないのだけれど、
六つの感覚器官(六処…眼耳鼻舌身意)に無自覚に反応し(触、受)執着し(渇愛、取)、自己同一化したとき(有、生…自己イメージ、自我が生じる)に「苦」が生じるのです。自分で苦しみの物語を創作してるのです。
>苦しみとは今ここで私たちが無自覚に創造しているもの、いわば自身の想像力の産物(『「気づきの瞑想」を生きる』プラユキ・ナラテボー著より)
苦しみの「責任」はどこに?
責任(レスポンシビリティ)とは、誰それのせい、ということではなく、
>レスポンスするアビリティー、すなわちさまざまな感覚や感情に対する自身の「応答能力」
智慧を得ることや、「応答能力」を育てることで苦しまなくてすむようになるってわけですね。「受(感受)」の段階でしっかり気づき「渇愛」「執着(取)」へと進まないように、苦しみの流れを阻み、その流れから抜け出す。誰のせいでもない、すべては因果法則の流れに乗って生まれているだけのこと。
まずは、自覚しましょう。
ありのままをしっかり見ましょう。
スッキリ目を覚まして、気づきながら生活しましょう。
気づかなかった、見えてなかった~と失敗することはよくあります。あの車止まってくれると”思った”んだけど、轢かれちったとか?(あんまりないか^^;)車の運転もちゃんと見て自覚してしないと事故りますね。
ミニ仏教講座でした。
さて、気づきの瞑想はじめようかな?^^
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