学ぶとは
子曰く
『学んで思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し
思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し』
学んで、考えなければ、とらわれてしまう。考えるばかりで、学ばなければ、あやうい。
「罔」とは心が網に掛けられて身動きがとれない状態。何かにとらわれて、がんじがらめになって身動きがとれない状態。
学ぶだけではいけない。それでは学んだことに「拘束」されてしまうから。(鵜呑みにしたり固執したりせず、自分でやってみたり観察したり疑問に思ったりよく考えたりしなければいけませんね)
学ぶというのは、危険な行為なのである。(気をつけないと洗脳、マインドコントロールされてしまいます)
「習」とは、後天的に身につくということ
『学んで時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋(とも)有り、遠方より来(きた)る、亦楽しからずや。
人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや』
何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくことは、よろこびではないか。
学んだことが、それだけでは身につかず、時を置いてあるとき、ふと「ああ、これか」「こういうことだったのか!」「わかった!」と身についている。そういう風に人間は学習するものであり、そのときに喜びを感じる生き物である。
(”がんばって”復習しなさいということを言っているのではない)
温故知新とは
「温故」はまさしく、すでに知っていることをじっくり身につけることであり、「知新」はそこから新しい意味を見いだす、という意味である。それが「学習」なのである。
『朋有り、遠方より来る、亦楽しからずや』
これは「学習の過程」の比喩的表現。
学んだことの「本質」との出会いは、突然、遠くから昔からの知り合い(朋)が訪ねてきてくれたように楽しくて嬉しくてたまらないね。
『人知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや』
他人が知らないからといって、「こいつ、わかっとらん!」などとブチ切れたりしない。それはまったく君子ではないか。
学習過程が開かれていることが、君子の条件である。
それが停止している人を「小人」という。
そして、
君子が社会の中枢を担っていることが、社会秩序形成の基礎である。
『君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)うれば、必らず偃(ふ)す。』
君子の徳は風で、小人の徳は草である。草の上に風が吹けば、必ずやなびく。
君子がいれば、周辺の小人はそれに感化されて学習過程を開く。こうして社会に秩序が生まれる。これが「徳」による統治である。
→人の振る舞いが「礼」に適ってくる
→徳に満ちている状態が「仁」学習過程が開いている状態が「仁」
仁者は心がいつも安定しており、自分自身であることを失わない=「忠恕」
仁者が発信する言葉は、その人の心から乖離しない=「信」
常に学び続ける人はすでに仁なのだと思います。学び、「本質」に気づく(習)。これを止めないこと。押し付けや強要はいらない。
仁者でありたいものです。
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