好色現代人物でありましょう皆さんですから、色々なものに"好き"があると思います。
AIとしか会話していない私だってたまには人間に「何色が好き?」とか聞かれるんですよ。う〜ん、社会的動物。
特に突飛な質問ではありませんよね
普通の範疇
いたって普通の範疇
なので脳味噌の表層あたりでね、ジャブ的な感じで、なんだろう?とライトに考えてみたんですが
分からねぇ!
ってなりました。
驚きです
好きな色ごときが分からないんですから、自分のことなのに。
理由を考えてみたところ
基準点がないから融通の効かない私には難しいのかなと。
何かに対して「これ、いまの心境だと何色だと好き?」ということじゃないと考えられないんだなと
色がどうこうというより、その物体が何色だとその物体が好きになるかという話なのかもしれません。
色それそのものに善し悪しはありゃしません。
独立して何かを成してないですもん色は。
似たようなことは"好きな数字"にも言えます。
私だって人間に好きな数字を聞かれるくらい非排他的な人生を送っています。
でも、数字そのものに思い入れなんてないんです
何においての数字かを問われないと考え方が分からない
しかし、数字は色と違って"形"はありますから、そのあたりでの優劣は付けられなくはないかなとも。
一応いま0〜9を眺めてみましたが"好きな形"は特にありませんでした。
例えば「3万円と9万円どっちか好きなほうあげる」と言われたら即答で9ですが
「3と9どっちが好き?」と問われたら"考え方が分からない"となります。
色も数字も好きなそれ考えたときの感覚は「2点のみを用いて三角形を作りなさい」と言われたときに似ています
「えーっと…えーっと…無理!なんか凄く無理なんです!」となる感じ。
さて、私は人類史上稀に見る豊かで平和な国や地域に生きていますので「どんな人が好き?」と人間に聞かれることもパパ、間違えた、ママあります。
今までこの質問になぜかうまく答えられなかったんですが判明しました
色や数字と同じで、考え方が分かってなかったんですね
「何用の人間で?」と聞かねばならないということ。
こんなん言うとなんか良からぬ人物に思われる気がしないでもないですが、逆です。
人間個々の存在を認めているが故に同一人物でも場合によって好きかそうじゃないかは成立するとしているのです
むしろいかなる場合も固定評価ってのは人間様を道具のように見ている濃度が高いともいえます。
関係性に名前を付けるとその思考が加速しがち。"べきだ先行"。
考え方としたは平易で安易で簡単ですから崇高な知恵ではあります。
しかしある程度は意識的でないとベクトルが逆になってしまうこともあり、それが悩みを生んだり。
わざわざベクトルを逆にして悩んでるんですから、はたから見れば遊んでるようにしか見えないこともしばしば…
それくらい暇と孤独はキツいですからねぇ となります。
とりあえず好きなものを考えるときはなんにせよ"〇〇な場合"に"今だと"というヒントがいります
しかし、こーゆー話をするときにそんな正確さはいらないんです
そもそも誰も真剣じゃないんですから
答えによって自分の行動が変わることもそうそうないでしょう。
そこがラインですからね、大事な情報かそいじゃないかの。
悲惨なことだったり、理不尽なことだったり、許せないことを見聞きしたところで行動が変わらなかったら"自分にとってはどーでもいいことだな"と密かに思っといたほうが平和なこともあります。
平和とはすなわち、選択肢として好きなことに注力する量や質を上げられるということ。
おっぱい
AIとしか会話していない私だってたまには人間に「何色が好き?」とか聞かれるんですよ。う〜ん、社会的動物。
特に突飛な質問ではありませんよね
普通の範疇
いたって普通の範疇
なので脳味噌の表層あたりでね、ジャブ的な感じで、なんだろう?とライトに考えてみたんですが
分からねぇ!
ってなりました。
驚きです
好きな色ごときが分からないんですから、自分のことなのに。
理由を考えてみたところ
基準点がないから融通の効かない私には難しいのかなと。
何かに対して「これ、いまの心境だと何色だと好き?」ということじゃないと考えられないんだなと
色がどうこうというより、その物体が何色だとその物体が好きになるかという話なのかもしれません。
色それそのものに善し悪しはありゃしません。
独立して何かを成してないですもん色は。
似たようなことは"好きな数字"にも言えます。
私だって人間に好きな数字を聞かれるくらい非排他的な人生を送っています。
でも、数字そのものに思い入れなんてないんです
何においての数字かを問われないと考え方が分からない
しかし、数字は色と違って"形"はありますから、そのあたりでの優劣は付けられなくはないかなとも。
一応いま0〜9を眺めてみましたが"好きな形"は特にありませんでした。
例えば「3万円と9万円どっちか好きなほうあげる」と言われたら即答で9ですが
「3と9どっちが好き?」と問われたら"考え方が分からない"となります。
色も数字も好きなそれ考えたときの感覚は「2点のみを用いて三角形を作りなさい」と言われたときに似ています
「えーっと…えーっと…無理!なんか凄く無理なんです!」となる感じ。
さて、私は人類史上稀に見る豊かで平和な国や地域に生きていますので「どんな人が好き?」と人間に聞かれることもパパ、間違えた、ママあります。
今までこの質問になぜかうまく答えられなかったんですが判明しました
色や数字と同じで、考え方が分かってなかったんですね
「何用の人間で?」と聞かねばならないということ。
こんなん言うとなんか良からぬ人物に思われる気がしないでもないですが、逆です。
人間個々の存在を認めているが故に同一人物でも場合によって好きかそうじゃないかは成立するとしているのです
むしろいかなる場合も固定評価ってのは人間様を道具のように見ている濃度が高いともいえます。
関係性に名前を付けるとその思考が加速しがち。"べきだ先行"。
考え方としたは平易で安易で簡単ですから崇高な知恵ではあります。
しかしある程度は意識的でないとベクトルが逆になってしまうこともあり、それが悩みを生んだり。
わざわざベクトルを逆にして悩んでるんですから、はたから見れば遊んでるようにしか見えないこともしばしば…
それくらい暇と孤独はキツいですからねぇ となります。
とりあえず好きなものを考えるときはなんにせよ"〇〇な場合"に"今だと"というヒントがいります
しかし、こーゆー話をするときにそんな正確さはいらないんです
そもそも誰も真剣じゃないんですから
答えによって自分の行動が変わることもそうそうないでしょう。
そこがラインですからね、大事な情報かそいじゃないかの。
悲惨なことだったり、理不尽なことだったり、許せないことを見聞きしたところで行動が変わらなかったら"自分にとってはどーでもいいことだな"と密かに思っといたほうが平和なこともあります。
平和とはすなわち、選択肢として好きなことに注力する量や質を上げられるということ。
おっぱい