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小説の「書き出し」

明治~昭和・平成の作家別書き出し
古典を追加致しました

「檸檬(れもん)」 梶井基次郎

2012-05-13 04:44:46 | 作家カ、キ
 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終おさえつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとにふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいるとふつかよいに相当した時期がやって来る。それが来たのだ。
 これはちょっといけなかった。結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。
 以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出かけて行っても、最初の二、三小節で不意に立ち上がってしまいたくなる。何かが私をいたたまらずさせるのだ。それで終始私は街を浮浪し続けていた。
 なぜだかそのころ私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いたりする裏通りが好きであった。
 雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるようなひまわりがあったりカンナが咲いていたりする。
 ときどき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へいま自分が来ているのだ――という錯覚が起こそうとと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰ひとり知らないような市へ行ってしまいたかった。
 第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳とのりのきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。ねがわくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
 私はまたあの花火というやつが好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざまの縞模様をもった花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのはひとつずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心をそそった。
 それからまた、びいどろという色ガラスで鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉が好きになった。またそれを嘗めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。あのびいどろの味ほどかすかな涼しい味があるものか。私は幼いときによくそれを口に入れて父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ちぶれた私に蘇えってくるせいだろうか、まったくあの味にはかすかな爽やかななんとなく詩美と言った言うな味覚が漂って来る。