鮎川玲治の閑話休題。

趣味人と書いてオタクと読む鮎川が自分の好きな歴史や軍事やサブカルチャーなどに関してあれこれ下らない事を書き綴ります。

社会科主義論文(偽)。

2010-04-09 00:51:33 | 日記
本日はうちの高校の新入生部活説明会があるようなんですな。 そこで私は社会科研究部の一員としてこのような駄文を書きました。

先ず総ての学問教科と云うものはその実用的な意味に於いて等しく社会的な存在であるという基本的意識について述べたいと思う。これは第一のテーゼである。
総ての学問教科は其れが実生活社会に於いて援用される事によってその実際的価値を初めて獲得しうるのであり、また学問の発展自体が自己目的化した学問はその社会的価値の消失如何によっては実質的に淘汰されうる。これは本来的に学問が人間の社会生活を進歩発展させる為に存在しているという前提の上での定立であるが、実際的な例として近代文明開化以降流入して来た洋式数学に対して我が国の算学がこれに対抗することを得ず現在に於いて殆どその姿を消していることを挙げればこの定立を証明する一助となろう。関孝和以降一種の芸道としてその発展自体が自己目的化していた和算はより実際的な面、即ち商業経済など社会科学方面への応用が容易である洋式数学になんら抗い得るすべを持ち得なかったのである。
ここに第二のテーゼが成立する。即ち総ての学問は社会科学の下に等しく統合され得るというテーゼである。数学や科学といった自然科学はその成果が社会の発展に寄与するという点に於いて疑いなく社会科学を補佐する立場にあると言える。また翻っていえば社会科学とはこれらの謂わば純粋学問をその内部に複数個包含する上位概念的学問であるとも言える。無論これは社会科学の純粋学問に対する優越という意味に於いての事ではない。ただ純粋学問が実生活的社会に於いて揺ぎ無い価値を獲得するに当たって社会科学という概念を通過することを必要とするという意味に於いて述べているのである。
これによって第三のテーゼが成立すると考えなければならない。即ち学問の道を考究する者は皆等しくある程度の社会科学的素養を身に付けておかねばならないということである。己の行っている事の実際的、応用的、実践的価値を判断することの出来ない者は真にその道を考究することは断じて不可能である。自己目的化した探求はその先に如何なる成果をも見出すことを得ない。なるほど純粋学問は確かにある一定の部分に於いてその発展を自己目的とする点は否定し得ないのであろうが、では果たしてその先に如何なる果実をも結ばないとすれば一体その学問に如何なる実際的価値を見出し得ると言うのであろうか。即ち断じて否である。我々学徒は己の進む道の先に社会人類のために貢献しうる何物かがあると信じればこそその学問に対して価値を見出しうるのであり、自己完結した無為の精神的陶酔の為に考究を為すという事は断じて有り得るものではない。また有ってはならないと信じねばならない。学問の考究進歩とは社会の発展進歩の為の方法、手段なのであってそれ自体を自己目的化するなどと言う事は断じてこれを避けねばならないのである。その価値判断の為には各々の学徒に少なくとも一定の社会科学的素養が必要であると見なければならない。希望的に言えば総ての学問はその学徒の社会科学的素養の下に等しくその目的を統合するものとなろう。即ち共通の意志、共通の到達点として己の考究を等しく社会のために用いることを目的とすることになるであろうと期待せらるるのである。これが第四にして現段階の最終テーゼと考えられるものである。総ての学問は社会科学の下に統括せられ、等しく我々の生活するこの実社会の発展の為にその実践的価値を見出されるものとならねばならないのである。

…分からないでしょう。大丈夫、書いてる本人としても結構意味不明です。
要するに社会系科目は諸君らが思っている以上に重要だからそこのところは心するように、と言いたいだけなんですがね。まあこれをうちの部長が悉皆まともな事を話している隣でくっちゃべるわけですよ。ジェルジンスキー警護連隊の制服で。うわぁ。

ついでにほぼ個人的なメモですが、本日ブルガリアからebayで落札した勲章7連+2個(勲記付き)が届きました。物はいいんですが複数の連になってる勲章って怖いですね。互いにぶつかって傷がつくんですよね、あれ。後々こちらでも紹介したいと思いますが…うーん、結構いろいろたまってるんですよねえ、あれやらそれやら。

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