世の中驚くことばかり! 記事保管倉庫

右も左もあるものか
僕らが見るのは常に上

ソ連による“解放戦争”の現実

2010-09-03 | 国際的なこと
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100902/erp1009022022006-n1.htm

ロシアの“対日戦勝記念日”を大々的に祝ったサハリン(樺太)は戦前、その南部(北緯50度以南)が日本領で、約40万人が住んでいた。ここには今も、65年前の8月にソ連の苛烈(かれつ)な侵略を経験し、戦後、さまざまな事情で帰国を断念した同胞がいる。ロシアが「解放戦争だった」と主張する対日戦によって、南サハリンの地に暮らしていた住民たちの命運は翻弄(ほんろう)された。(ユジノサハリンスク 遠藤良介)
 「どの家の屋根にも大きな白旗が掲げられていたのに、ソ連の航空機はどんどん爆撃した。駅前広場はおびただしい血で、私たちは横たわる死者・負傷者をまたいで山の神社に隠れたのです」
 日本が降伏した8月15日以降、地方郵便局に勤めていた根本ミヨさん(84)=ドリンスク(旧名・落合)在住=が、避難先のユジノサハリンスク(豊原)で体験したことだ。「コルサコフ(大泊)から出るはずだった郵便船も爆撃されていた」

8月22日には、北海道留萌沖で引き揚げ船3隻がソ連と疑われる国籍不明潜水艦の魚雷攻撃を受け、婦女子を中心に死者・行方不明者1700人以上を出した事件も知られている。
 「上空の飛行機に、何も分からない子供たちは万歳をしていた。その飛行機が銃撃をし、発電所を爆撃したのです」。ブイコフ(内淵)で終戦を迎えた魚住笑子さん(79)=ドリンスク在住=もこう証言し、「日本の降伏後にソ連が攻撃することなど思ってもいなかった」と話す。
 女性は皆、戦車などで乗り込んできたソ連兵を恐れ、髪をばっさりと切って男を装ったり、ボロを身にまとったりした。
 戦後しばらくは引き揚げの機会はあったが、経済的理由などで戻れなかったという。
 「娘を(残留)朝鮮人に嫁がせ、その金で親を引き揚げさせた人も多かった」と魚住さん。「私たち親子には金がなく、帰れなかった。引き揚げる友人たちを見送り、同じ日本人なのにと隠れて泣いていました」と回想する。
 1946年12月には米ソ協定が結ばれて国の引き揚げ事業が始まったものの、ここで対象とされたのは日本人と子供のみ。40年代末までに魚住さんは朝鮮人と、根本さんはロシア人と結婚し、子供も生まれていた。家族と暮らすためには、帰国の思いを断ち切るしかなかった。

炭鉱労働の募集などでサハリンに渡っていた4万人ともされる朝鮮人も戦後、韓国への帰還の道は閉ざされた。残留日本人は「お前らはなぜ自分の国に帰らない」とロシア人にいじめられた上、反日感情を強めた残留朝鮮人との複雑な関係も乗り越えねばならなかった。それでも魚住さんは7人、根本さんは3人の子供をサハリンで育て上げた。
 残留日本人やその子供たちで構成されるサハリン日本人会の白畑正義会長(70)によると、十数年前には300人ほどいた会員が今では約200人。ソ連解体後に日本や韓国での永住を選んだ人もいれば亡くなった人もおり、45年9月2日までに生まれた「1世」は95人ほどに減った。
 「やはり子供や孫を残して日本に発つことはできない」(根本さん)。1世の多くは80代と高齢になり、永住帰国は難しい。その代わり、国の集団一時帰国事業で1年半に1度ほど、祖国の土を踏めるのを楽しみにしているという。
 日本の降伏後に攻撃を続けたロシアが、「戦勝」に浮かれていることをどう思うのだろうか。
 魚住さんは「戦争に勝った国よりも、負けた日本の方が立派な暮らしぶりだと言ってやる」と切り捨て、「私たちはここにいても日本人です」と力を込めた。


最新の画像もっと見る