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路上の宝石

日々の道すがら拾い集めた「宝石たち」の採集記録。
青山さんのダンスを原動力に歩き続けています。

◆『グランドホテル』詳細レポ ⅩⅠ(最終章)

2007-03-02 00:23:19 | グランドホテル
Roses at the Station Bolero How Can I Tell Her? Final Scene Part 1,2The Grand Parade
「ステーションの薔薇」「ボレロ」「なんて言ったら」「最後の場面パート1、2」「グランドパレード」

「ラッキーショット」、心臓を真っ直ぐに貫くショットはそのように呼ばれるが、その銃弾に倒れた男爵にとっては、それは「ラッキーショット」とは言えなかった、という内容の、ドクターによるモノローグが入ります。何が起きたのかということを、観客に向けて、静かに、それでいて重みをたたえて伝えてくれるドクター役の藤木さんの言葉が非常に印象的です。すると、舞台中央奥からひとり男爵が登場してきます。このときの男爵は黒いタキシード姿、胸には赤い薔薇を一輪さしています。男爵は、これまでもダンスシーンではタキシードの胸ポケットに薔薇の花を挿していました。グルーシンスカヤとの「愛」の象徴である赤い薔薇が、ドクターの台詞にあった「ラッキーショット/心臓を貫いた銃弾」という言葉と重なり、男爵の「死」をイメージさせます。そして男爵は、「ステーションの薔薇」をグルーシンスカヤに対する万感の思いを込め、歌い上げてゆきます。男爵が盗みを目的に侵入したはずだった彼女の部屋。しかし、そこで男爵はグルーシンスカヤと落ちるはずのない恋に落ちてしまったのでした。ウィーンへと旅立つ今日、駅で薔薇を抱いて待っている、と男爵がグルーシンスカヤと取り交わしたはずだった約束・・・。「エリザベータ 僕はここだよ 薔薇を抱いて待っている・・・」しかし、もう男爵のそんな声も彼女に届くはずがありません。幼い頃から馬に乗り、兵士として活躍した戦場でも、銃弾に貫かれたことなどなかった男爵。自分のこれまでの人生は、この薔薇を抱いて駅でグルーシンスカヤを待っている、ただこのときのためにあったのだと悟った男爵が、その一歩手前でプライジングの銃弾に倒れてしまったという無念さを切々と歌ってゆきます。曲の盛り上がりとともに、男爵の元に無数の赤い薔薇の花びらが降り注ぎ、そしてドラマティックなこの曲の最後の部分とともに照明が消え、舞台は暗闇に包まれます。

男爵が「ステーションの薔薇」を歌っていた台のようなセットのそばで、再びドクターが語ります。敵同士であったはずの「愛と死」が再び顔を合わせ、手を結び、契りを結ぶ・・・、と。すると、作品冒頭で、上手下手のそれぞれの袖へと、何かに引き離されるかのように、別れていったジゴロと伯爵夫人が、この台を挟んだ向こう側とこちら側に登場してきます。敵同士であるはずの「愛と死」が再び手を結ぶことを象徴するかのように、ジゴロと伯爵夫人のふたりが、「ボレロ」を踊るために再び手を固く結びあいます。西島鉱治・向高明日美ペアが、回転扉の前でダイナミックに、かつ荘厳に、「ボレロ」を踊ります。このダンスは、グルーシンスカヤと男爵に訪れた悲しい運命を表しているようでもあります。しかし、力強く打楽器がたたきだすリズムの背景で流れる、この「ボレロ」の音楽のメロディーは、グルーシンスカヤの付き人であるラファエラが歌っていた「What You Need/あなたに必要なもの」です。そのせいか、ある意味「悲劇」ともいえる男爵とグルーシンスカヤの関係のみを示唆しているわけではない、ということも感じ取れます。つまり、未来につながる何かも感じ取ることができる場面でもあるような気がしました。男爵の命というものが、様々な意味で引き継がれていくことになる、この後の展開というものがイメージされるような気がしたのです。この曲は「ボレロ」なので、一定のリズムを刻みながらも、徐々に盛り上がり、大変ドラマティックな展開の仕方をする曲なのですが、メロディーが「あなたに必要なもの」をアレンジしたものであるからでしょうか、作品終盤に向けて、希望的な展開を観客が予感できるような気がしたのです。グルーシンスカヤをはじめとする登場人物たちの、男爵亡き後の「この後」を予想すると、いたたまれない気持ちにもなるのですが、「ボレロ」のダンスを観て、音楽を聞いていると、そんな登場人物ひとりひとりにとっての「あなたに必要なもの」が意識されてくる気がしたわけなのです。この曲の終盤、青山さんたちベルボーイをはじめとしてホテルの従業員たちも、冒頭のシーンのようにコーラスしながら回転扉の前に登場してきます。荘厳でドラマティックな音楽に合わせるようにして、ゆったりと確実に、おごそかな雰囲気で、一歩一歩を踏みしめるようにして登場してきて、センターで「ボレロ」を踊る二人を囲むような形でコーラスします。青山さん演ずるベルボーイも回転扉の付近で、コーラスされています。

「グランドホテルの日常」という現実からはかけ離れているような、幻想的で荘厳な「ボレロ」のダンスが終わると、再びシーンは、現実的色彩を取り戻したいつものホテルの日常へと戻ります。悲しみと動揺を秘めながらも、新しい何かが始まることを予感させるような活気に溢れた「How Can I Tell Her?/なんて言ったら」の曲。そのイントロ部分が聞こえてくると、ベルボーイたちが忙しく歩き回る、いつものホテルの風景が眼の前で繰り広げられるのです。そこでは、男爵がプライジングの銃弾によって、この世を去ったという事実を知る人びとの様子が描かれます。グルーシンスカヤの付き人であるラファエラは、上手よりの階段に腰掛け、男爵の死という事実を、グルーシンスカヤに一体どうやって伝えたらよいのか、という気持ちをこの曲で歌い上げます。この曲の中で、男爵の死という事実をその場に居合わせた人びとが知る場面があるのですが、そのシーンでは、青山さんたちベルボーイなどの従業員たちが、それまでしていた行動を急に停止し、シーン自体をフリーズさせるという部分があるのです。青山さん演ずるベルボーイも、上手よりの階段付近で歩いていた動作をピタッと静止させます。場面全体がフリーズするというこの演出によって、男爵の死というものがいかに衝撃的であったのかがとてもよく伝わってくるような気がしました。

そしてその男爵を銃で撃ち、死に至らしめてしまったプライジングは、手錠をかけられ、連行されようとしています。決して故意に男爵を撃ったわけではないプライジングは、自分がしてしまったことに対して、罪の意識にさいなまれています。「手を洗いたいんだ・・・」と自分を連行しようとしている警官に向かって言いますが、聞き入れてもらえません。そのまま警官たちに付き添われながら、階段をうつむき加減に下りていき、グランドホテルを後にします。「持つ者」としてここグランドホテルにやってきたはずのプライジングですが、「持たざる者」としてここを出てゆくことになるのです。プライジングは、「高慢な実業家」である反面、「道を踏み外したことのない実直な面」、「家族思い」な面も持っている。そんな彼であるからこそ、「はずみ」で男爵を死に至らしめてしまった彼の哀しさが伝わってきます。

一方、フレムシェンは、オットーとともに、今は亡き男爵を偲び、思い出に浸っています。「ハンサムで若くて優しかった・・・」と、男爵のことを語るオットー。オットーにとって男爵は、本来宿泊できる立場ではない自分を、このグランドホテルに宿泊できるよう取り計らってくれたその人であり、株への投資を薦め、オットーに一夜にして大金を持たせるように導いてくれたその人でもあります。またフレムシェンにとっての男爵は、あと一歩で引き返すことのできない道に進むはずだった自分のために、自ら命を落として救い出してくれたその人でもありました。そんな二人が男爵の面影を求める姿には、胸が熱くなります。そしてオットーは、フレムシェンに対して、何故プライジングとそんなことにならなければならなかったのかを問います。それに対して、フレムシェンは、新しい生活を始めるためにはお金が必要だったと告げるのです。フレムシェンは、回転扉の前でいま一度、何かを思い出したかのように立ち止まり、グランドホテルの風景を見渡します。そして、さまざまな想いを胸に、グランドホテルを後にするのですが、重い回転扉のドアをか細い身体で精一杯に押しながら、グランドホテルを出てゆく紫吹さん演ずるフレムシェンの後姿がとても印象に残りました。

続いて「Final Scene Part 1」では、朝を迎えたグランドホテルの風景が繰り広げられます。作品冒頭と同じように、電話交換手たちが電話を片手に通話したりするなかで、フロント係のエリックの元に、産気づいていた妻が無事に男の子を出産したという知らせが届きます。待ち望んだ新たな命の誕生に、込み上げるよろこびを隠せないエリック。息子の誕生を知らせる電話の受話器を片手に、「人生は大きくもなる 人生は小さくもなる あなた次第で」と、伸びやかな声で、パク・トンハさん演ずるエリックは、見事に歌い上げます。

男爵の死をいまだ知らされておらず、駅で自分を待っていると信じているグルーシンスカヤ。彼女も付き人ラファエラたちとともに、ウィーンへと旅立つために、回転扉を通り、グランドホテルを後にしてゆきます。

またオットーも出発のために下手側の階段を下りてきます。ドクターはオットーを見つけ、彼に対し、人生を見つけたこのグランドホテルから出発するのですね、という内容の言葉をかけます。「死ぬのが待ちきれない」はずなのに「生」に執着せずにはいられないドクターと、明日訪れるかもしれない「死」と隣り合わせであるのに今眼の前にある「生」を精一杯に生きようとするオットー。そんな二人が何かを分かち合うように、出発の間際に心を通い合わせるこの場面が、とても印象に残ります。

そこへタイプライターをホテルに置き忘れたフレムシェンが、再び戻ってきます。オットーと再会するフレムシェン。オットーはパリに行くことにしたことをフレムシェンに告げます。それはいいわね、とつぶやくフレムシェンに対して、オットーは「ご一緒にといいたいところだが、あいにく僕は死にかけている」と告げます。そんなオットーに対して、彼女は当然のことのように「みんなそうよ(死にかけている)」と答えます。その言葉を聞いて、何かに気づいたオットーは、フレムシェンに一緒にパリに行くことを提案します。しかしフレムシェンは本当のことを言わなければ、と自分のお腹の中に新しい命が息づいていることを、オットーに告げます。それを聞いたオットーは、僕はまだ生まれたばかりの赤ちゃんというのを見たことがない、と言って、再びフレムシェンにパリに一緒に行ってくれるように頼むのでした。オットーのやさしさにふれて、共にパリへと旅立つ決心をするフレムシェン。

そんな彼らの元に、息子が生まれたことを知らせようとエリックがやってきます。オットーたちは、「ほら、ここにも人生があるじゃないか!」と言って、エリックとともに、新しい命の誕生のよろこびを分かち合います。そして男爵から譲り受けたシガレット・ケースを、オットーはエリックに渡します。男爵の命が、エリックに誕生した新しい命へと引き継がれるイメージです。男爵によって新たな幸福の道へと一歩踏み出すきっかけをつかんだフレムシェンのなかで生きる新たな命、そしてエリックの元に誕生した新しい命・・・。

いよいよグランドホテルからパリへと旅立つオットーとフレムシェン。作品冒頭では、貧しい身なりのオットーを「ふさわしくないお客」として、一刻も早くホテルから追い払おうとしていたベルボーイたち。しかし、この祝福すべき旅立ちの場面では、彼らの態度も対照的です。冒頭では、オットーのカバンを、本人の意志に反して、回転扉の外へと無理やり運び出そうとしていました。しかしこの場面では、手を携え共に旅立とうとするオットーとフレムシェンの背景で、まるで彼らの新たな旅立ちを祝福するかのように、青山さんたちベルボーイは、誇らしげな態度と表情で、彼のカバンを胸の前で丁寧に抱えます。この場面、オットーとフレムシェンの向かって左側で、ベルボーイとしての祝福の気持ちを、きめ細かい表情で表現されている青山さんがとても印象的でした。グランドホテルに「クリンゲライン様にタクシーを!」の高らかな声が次々と響きます。回転扉をくぐり、グランドホテルを旅立つオットーとフレムシェン。

人生をつかんでグランドホテルを後にする者がいる一方で、このグランドホテルでいくら働けども何も変わらない人生を送る者たちもいる。それがベルボーイたちと洗い場の労働者たちです。再び「持つ者と持たざる者」の曲とともに、彼らが勢いよく飛び出してきます。作品冒頭部分でも歌われていたこの曲ですが、このシーンでは途中から日本語ではなく、ドイツ語の歌詞で歌われます。それは、当時のワイマール時代のドイツに、すぐそこまで忍び寄っていたナチス時代の到来を予感させるものです。いくら働いたとしても「持たざる者」から抜け出すことのできない彼らの鬱屈した感情が、労働者たちを演ずるアンサンブルの力強いコーラスと地面に楔を打ち込むような重みのある行進風のステップから、恐ろしいぐらいに伝わってきます。このシーンの青山さんは、ベルボーイのあの制服を着て、労働者たちの中心で、歌いながら行進風のステップを踏みますが、青山さんの全身から発散される冷徹で凄味のある表情を観ていると、ドイツに迫り来る恐ろしい時代の空気というものが鳥肌が立ってしまうほどに伝わってくるようです。そして不思議なことに、青山さんの着ているあのベルボーイの制服が、「冷たい軍服」に見えてくるのです。この曲の最後のフレーズをアンサンブルが歌い終えると同時に、舞台中央で一団となって歌い踊っていた彼らも、何事もなかったかのように、それぞれに散っていきます。

アンサンブルのコーラスの声に導かれるようにして、再び「グランド・パレード」の曲・・・。いつもと何も変わらないグランドホテル。人は来て、人は去る・・・。回転扉は回り、人生は続く・・・。ドクターが語るなか、壁から登場し、回り続ける回転扉へと次々と吸い込まれるようにして、グランドホテルを出てゆくゲストたち。ゲストを送り出す回転扉の速度が、音楽とともにますます速くなってゆく様子を見ていると、まるでこの「グランドパレード」の曲のテンポを決めているのが、この回転扉であるような気がしてきます。最後のゲストが回転扉を通り抜ける頃、ドクターの「もう一晩泊まることにしよう」という言葉が耳に入ってきます。それぞれの持ち場でゲストたちを見送ったベルボーイや電話交換手などのホテルの従業員たちも、それぞれの持ち場を離れ、どこかへと消えてゆきます。回転扉のみが回り、誰もいなくなったグランドホテル・・・。今まで眼の前で繰り広げられていたものが、まるで「幻」のように消えてなくなってしまったような錯覚にとらわれます。

そしてフィナーレは、登場人物たちが全員登場してきて、「グランド・ワルツ」の曲に合わせて、華やかにワルツを踊ります。ただベルボーイたちだけは、それぞれのポジションに立ち、ゲストたちの宴を、見守り続けます。青山さんも曲が始まると、上手よりの立ち位置からゲストたちに丁寧に一礼をしながら、下手よりの階段へと移動してきます。「人生はめぐり、めぐる・・・」この人生の賛歌を笑顔で誇らしげに、そして高らかに歌い上げます。ゲストたちがそれぞれのパートナーとワルツを踊る様子を、暖かいまなざしで見守りながら、歌っておられる青山さんの表情がとても素敵でした。

限られた時間と場所で、何かを抱えた人びとの様々な人生が交錯し、織り成されるドラマ。そのような「限られた時間と場所」の象徴であるグランドホテルで、回転扉が回るなか、さまざまな人びとが出会い、別れ、そして旅立ってゆくのを観ていると、「人生は続いてゆく」ということが、生きるということへの希望とともに湧き起こってくる気がしました。青山航士さんの生のエネルギーを凝縮したような素晴らしいダンス。そして、卓越したマイムによって創出されるイリュージョンのような光景。そのコントラストが非常に鮮やかで、人生における「踊ること」の意味というものについて、さまざまに思いをめぐらすことができる作品でした。青山さんの数々の表現の、密度の濃さと幅の広さに改めて感じ入ると同時に、表現者としてのたくましさに心の底から圧倒された舞台だったと思います。この作品は2006年1月に東京国際フォーラムホールCで上演された作品で、既に1年2ヶ月ほど経過しています。私がこの作品の「詳細レポ」に着手したのは、昨年の2月でした。「詳細レポ」完結までにたどり着くまでに、大変時間がかかってしまいましたことをお詫びしたいと思います。しかもどのレポも「激長」です。これまで、投稿ペースが非常に遅く、しかも長文・拙文の私のこのレポにおつきあいいただき、また暖かく見守ってくださった皆様には、心からの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。


◆『グランドホテル』詳細レポ Ⅹ

2007-02-24 23:12:53 | グランドホテル
I Waltz Alone「ひとりのワルツ」

にぎやかな「グランド・チャールストン」の音楽も止み、さきほどまでの華やかなチャールストンの夕べがまるで嘘のように消え去ってしまったかのような、グランドホテルの夜更け・・・。社交の場の喧騒からは遠ざかり、静まりかえった夜。遥かかなたに、むなしくはかなげに響くグラモフォン(蓄音機)の調べのように、「I Waltz Alone/ひとりのワルツ」の曲が物憂げに流れてきます。着飾って踊る女性もいない、無数のキャンドルのともしびからも無縁であるような、ひとりの部屋で、ドクター(藤木孝さん)は再びモルヒネの注射を打ち、幻想の世界へと旅立ちます。(←『グランドホテル』では、ドクターがモルヒネを打つと「illusion/幻」のイメージが漂います。それと同時にアンサンブルの「マイム」な動きが入り始めます。)

ついさきほどまで、陽気なチャールストンのリズムに合わせ、ペアでダンスに興じていた紳士淑女たちが、抜け殻のような、あるいは亡霊のような存在感を漂わせながら、薄暗くなったフロアーで踊り続けます。しかし、踊り続ける紳士淑女たちひとりひとりにダンスのパートナーはいません。パートナー不在であるのに、腕を構え、「ひとりのワルツ」を踊るのです。踊っているのではない、「踊る」という動作を「ダンス」ではなく、「マイム」で見せる、そんな雰囲気です。ゆるやかに甘美に奏でられるワルツに身を任せ、彼らがたったひとりで踊り続けるワルツからは、人生の哀感と退廃的なムードが漂ってきます。青白さを感じさせるような薄暗い照明に照らされた彼らは、マネキン人形のようにも見えます。さきほどまでの「グランド・チャールストン」の華やかなダンスが脳裏に焼きついている観客には、眼の前で繰り広げられる、そんな彼らの「ひとりのワルツ」がまるで「幻」のようにスッと消えてしまうもののように思えてくるのです。今眼の前にあるこの瞬間を謳歌するような「生」の輝きに満ちたチャールストンとは対照的に、過ぎ去った煌きをひたすら追い求めるような物憂げで、哀感漂う、ひとりで踊るワルツ・・・。ドクターは、そんな「幻」のような存在感を漂わせる彼らの間を、「ひとりのワルツ」を歌い、よろめくように歩きながら、さまよいます。途中、ひとりの女性にすがるようにしがみつきますが、このホテルのゲストであるはずの女性もダンスをするために腕を構えたような状態で、ひとりでむなしく静止して立ち尽くしているだけです。ドクターがそのマネキンのような女性の身体に触れようとも、「物」がかすかに傾くように揺れるだけ・・・。そんなドクターを見ていると、「死ぬのが待ちきれない」という人生観を持ちながらも、グランドホテルに宿泊し続け、人々の生きる様子を見続けてしまう彼の、心の奥底にあるものをのぞき見ているような心境になります。「死ぬのが待ちきれない」と言いながらも、どこかで「生」というものに執着せずにはいられないドクターの心の奥底にあるものを・・・。

また、このシーンでは、さきほどまでの華やかなシーンからは雰囲気がガラリと変わりますが、同時に登場人物たちを取り巻く状況にも様々な変化が起こり始めます。「共にグラスを」のシーンで、男爵とともにチャールストンをこころゆくまで楽しんだオットーでしたが、ここで持病の心臓病の発作を起こしかけ、「気分が悪いんです・・・。」と言いながら、下手よりの階段付近でよろけて倒れこんでしまいます。そんなオットーを男爵は抱きかかえるようにして支えようとします。そのときオットーの胸ポケットから彼の財布が落ち、男爵はそれを拾い、黙って自分のポケットに入れてしまいます。いつ起こってもおかしくはない心臓病の発作が起きてしまい、「死」と隣り合わせになるオットー。そんなオットーは、男爵に答えるように、「死ぬ(dying)のは怖くない。怖いのは死(death)です。」と伝えます。そして「お金がなくては野垂れ死にするだけです。」と主張しながら、自分の財布を取り出そうとし、自分の財布がなくなっていることに気づき、慌てふためくオットー。そんなオットーを見ていた男爵は、自分がポケットに隠してしまったオットーの財布を、彼の元に返さずにはいられなくなってしまいます。男爵は、私に預けていたでしょう、と言って、財布をオットーの元へと返します。男爵が差し出す財布を見て、彼の言うとおりであったことを思い出し、納得して安心するオットー。男爵の勧めてくれた株に投資をして、大金を手にしたオットーは、財布からお金を取り出し、儲けたお金は半分ずつ分けようと、男爵に渡そうとします。男爵はそのお金を受け取りますが、オットーに父親から譲り受けたシガレット・ケースを渡します。男爵はオットーにお金は必ず返すことを約束し、ウィーンへと旅立つことを告げます。しかし、男爵がオットーから受け取ったお金は、その直後に運転手に取り上げられてしまいます。今度はプライジングの部屋に忍び込むように言い渡される男爵・・・。

その一方で、プライジングとフレムシェンを取り巻く状況にも変化が起こり始めます。自分の部屋に来るようにプライジングに言われたフレムシェンは、彼の部屋に行きます。プライジングは、フレムシェンに「踊ってくれ。踊るのが見たいのだ。」と懇願するように言います。『グランドホテル』では、「踊る」ということの意味が、台詞のなかで象徴的に使われますが、この場面では人生に行き詰ったプライジングが、若いフレムシェンに対して一方的に「踊る」ことを強要することにより、まるで自分の人生が一瞬でも救われることに一縷のはかない望みをかけているかのように見えます。上手よりの階上で、プライジングの前で、ポーズをとりながら緩やかなワルツに合わせて踊るフレムシェン。やがて、プライジングは、フレムシェンに服を脱ぐように強要し・・・。フレムシェンが日々の暮らしを成り立たせるためには、もうプライジングの元で働くということ以外に道はありません。

その頃階下の回転扉の前では、ひとりでワルツを踊るホテルのゲストのみならず、青山さんたちベルボーイも登場してきて、薄暗い照明のなか、マネキン人形のような存在感で立ち尽くしています。階上のプライジングの部屋で、彼の言うとおりになりつつあるフレムシェン。まるで歯車が狂いだし、音楽が変調してゆくのが聞こえてくるかのように、何かが起きつつあることが予感されます。その緊迫感が伝わってくるかのように、さきほどまで賑やかで幸福な雰囲気のなか皆が踊っていた、「グランド・チャールストン(HAPPY)」の曲が、その趣を180度転換させて、聞こえ始めます。まるでグラモフォン(蓄音機)が、傷のついたレコードの溝を何度もなぞってしまうかのように、アンサンブルたちは、「チャールストン・・・、チャールストン・・・」とはかなげに、そして哀しげに何度も歌い続けます。それは、さきほどまで人生の最高のときを謳歌するかのように歌われていた「グランドチャールストン」とは、まるで同じ曲のようには聞こえません。リズミカルでありながらも、ゆったりと身を任せることができるようなさきほどの「グランド・チャールストン」とは違い、このシーンで歌われるこの曲には、どこか張り詰めたような感じで、リズムを追いかけるような急ぎ足のような緊張感が漂っています。その哀感を漂わせつつも、何かが起きることを予感させるような「悲劇の序曲」としてのこの曲に合わせて、青山さんたちアンサンブルは、操られる「マリオネット」のようなマイムを、回転扉の前で続けます。「HAPPY Why? チャールストン、チャールストン、チャールストン・・・」と途切れ途切れに辛うじて響き続ける音に合わせて、身体をカクカクとさせながら、マリオネットのように動き続けるのです。青山さんの動きを見ていると、まるで身体の全ての関節に、棒切れと棒切れをつなぎあわせているような金具でも見えてくるかのようでした。チャールストンが今まさに眼の前にある幸福、「生」を謳歌するための「動」としてのダンスであるとするなら、このシーンのマリオネットのマイムは、「生」が抜け落ちてしまったかのような「抜け殻」、あるいは「幻」のような「静」の世界を表現しているかのように見えます。思いのままにならない自分の人生、あるいはそんな自分が抱える何かを象徴しているかのようです。上体を引き起こすも、そこからストンと崩れ落ちるのも、ただ操られるがまま、自分の意志ではどうにもならない、そんなことが意識されてきます。一見すると、青山さんのマリオネットなマイムは、自分の力ではどうにもならないような「操られている」様子を体現しているように見えますが、その他者の力によって「操られている感じ」を、青山さんはまさに身体の隅々にまで神経を張りめぐらした動きによって再現していきます。手や腕などの身体のパーツがかすかに揺れたり、ストンと上体が落ちたり、逆に急にスッと引き上げられたりする様子を見ていると、「操られて」いながらも、とても「自然体な(ある意味、力が入っていないような)」動きに見え、まるで「偶然に」そうなっているのかのような動きに見えます。けれども、そんな動きをしている青山さんのベルボーイを見ていると、いつも青山さんの動きを描写するときに使っている言葉(以前に読んだダンスに関する本で出会ったフレーズ)ですが、「アクセルを踏みながらブレーキを踏む、ブレーキを踏みながらアクセルを踏む」という状態が、まさに真に迫るものとして、心のなかで甦ってくるような気がしました。矛盾しているようですが、力の入っていない状態をつくりだすために、あらゆるエネルギーが使われているような感じと言ったらよいでしょうか。観劇をするたびに、このような状態を身体によって創り出している青山さんの力量というものに、ただただ圧倒されるばかりでした。

やがて、プライジングの部屋での状況が切迫したものになってくると、背景の音楽が変化してゆきます。おそらく「鏡の中のあの子になりたい」の曲のなかでフレムシェンが現実の生活に対しての不満をぶつける場面の音楽だったと思います。終盤のこの場面は、フレムシェンが、うんざりするような現実の生活をとるか、あるいは本意ではなくとも、プライジングの言うなりになって彼の元で働くという道を選ぶのか、というまさに後がないような選択を突きつけられているところ。緊迫したそのような場面の空気が、この音楽とともにますます突き詰められたものとなっていきます。プライジングに言われるがままに、下着をひとつひとつ脱ぎ捨ててゆくフレムシェン。最後にきて思いとどまるフレムシェンですが、プライジングはそんな彼女を強引に引き寄せようとします。そこへ、さきほど運転手にプライジングの部屋で盗みを働いてくるように言われた男爵が介入し、彼の持っていた銃を奪って、二人はさらにもみあいに。やがて一発の銃声が聞こえ、フレムシェンの声とともに、男爵は倒れます・・・。それとともに、階下の回転扉の前で静かに佇む青山さんたちアンサンブルは、この悲劇の発生を告げるサイレンのようにも聞こえる声を出しながら、背景に吸い込まれるように消えてゆきます。

(この続きは、「詳細レポ」最終章となりますが、2月末日までには投稿できる予定ですので、もう少々お待ちくださいませ。当初の予定よりも大幅に遅れまして、大変申し訳ございません。

◆『グランドホテル』詳細レポ Ⅸ

2007-02-06 13:34:30 | グランドホテル
The Grand Charleston We’ll Take a Glass Together
「グランド・チャールストン」「共にグラスを」

直前の場面で最高潮に達したグルーシンスカヤの幸福感の余韻に客席も浸っていますが、舞台が暗転したかと思うと、すぐに「グランド・チャールストン/The Grand Charleston(BW版ではH-A-P-P-Y)」の音楽が耳に入り、それと同時に下手から、ジミーズに扮する青山さんが華麗に登場してきます。手にはジャグリングで使うような輪を持っているので、身体が描く動線の先には丸い輪が眼に入ります。またジミーズの紫色の燕尾服のテールが柔らかに描く線のせいもあり、高度な技が連続する御登場の仕方なのに、全体的に幸福感を予感させるようなやわらかな印象です。へーまさんの解説のお言葉をお借りするなら、「ピルエット/ジュッテ・アン・トゥールナン+ドゥーブル・トゥール・アン・レール」。軽快なチャールストンのリズムを刻むこの曲のイントロ部分の音楽に、青山さんはあの見事な振りをピッタリとはめ込み、しかも文字通り”HAPPY”極まりないこのシーンの空気を観客に一気に吹きいれ、幸福感の絶頂を予感させます。下手から登場する青山さんに観客の視線は一気に集中します。こまのように回る青山さんの輪郭に一瞬にしてひきつけられますが、ふわっと空間をかき混ぜるような浮遊感が伝わってくる心躍る跳躍、そして極めつけ「トゥール・アン・レール」。わずか数秒の時間に詰め込まれた、瞬きする間もないほどの技の連続。グルーシンスカヤの高揚感はそのままに、しかし、男爵とグルーシンスカヤのいたあの部屋の静けさからは一転、男爵やオットーの人生も弾む「黄色い館」のにぎやかで華やぎに満ちた雰囲気に一気に観客の心はいざなわれるのです。

これに引き続き、青山さんは舞台中央付近で、ジミーズのもう一人の方(上野聖太さん)と、手に持つ輪を投げあい、ダンスルームで繰り広げられる賑やかなショーのシーンを印象付けます。次々と柔らかな弧を描きながら宙を舞う輪の数々・・・、青山さんたちの安定した見事な輪の扱い方に驚きです。そしてこの後、青山さんたちジミーズの数人は、上手よりの階段に移り、音楽に合わせて控えめにステップを刻みます。ロンドン、パリ、ピッツバーグ、北京(青山さんはこの「北京」という部分の歌詞を高らかに歌い上げます)、そしてサウスカロライナのチャールストンまで、世界中を席巻するチャールストン。どうしてチャールストンを聞いて、踊るとこんなにハッピーになれるのか、そんなことを歌いながら、楽しい光景が繰り広げられます。周囲には、ペアになってチャールストンを踊る正装したホテルのゲストたちがいます。

男爵は黒いタキシード姿、胸には白い薔薇を一輪さして嬉しそうに登場してきます。一方「男爵夫人」の可能性を夢見ていたフレムシェンでしたが、幸せそうで陽気な男爵を見て、自分ではなく、他の女性と恋に落ちたことを知り、残念そうな表情を浮かべています。さらに、男爵に薦められた株で大儲けをしたオットーは、彼なりの一張羅(タキシードではなく、燕尾服に山高帽)に身を包み、信じられないとばかりに高揚してはしゃぎながら登場してきます。男爵とオットーは、よい方向に回転し始めたように見える自分の人生、そしてお互いの幸福感を分かち合うように、二人の友情に乾杯をしながら、チャールストンを踊るのです。曲はいつの間にか、「共にグラスを/We’ll Take a Glass Together」に移行しており、上手よりに大きなシャンパンを囲むようにして乾杯を準備するジミーズたち。シャンパンのコルク栓が抜けると同時に、大きなシャンパンのボトルの中から色とりどりのテープがクラッカーのように飛び出します。

中央でダンスをしながら、共に楽しく歌う男爵とオットーの周囲を、ジミーズやホテルのゲストたちが囲みます。ジミーズの一人である青山さんは、シャンパンの栓が開くと、すぐに一度上手袖に引き、グラスを乗せた銀色のトレーを持って、再び登場してきます。お酒の入ったグラスを乗せたトレーを持って、ダンスルームで楽しく歌い踊る人々の間をぬうように歩きます。「あなたとなら誰でも踊れる」のシーンでも書きましたが、青山さんが「歩く」と、歩いているだけなのですが、青山さんの身体が「音楽」の調子をとるタクトのように見えてきます。ゲストたちにお酒の入ったグラスをすすめ、空になったグラスを再び回収しながら、背筋をピンと伸ばし、折り目正しく歩くのですが、音楽に合わせて刻まれるステップは、変速自在なメトロノームのようでもあります。

またジミーズとして給仕をする青山さんの表情が素敵です。特筆すべきは、曲の中盤、宴もたけなわといったところで、中央の男爵とオットーに、トレーに乗った4つのグラス(お酒)を青山さんがすすめる場面。男爵とオットーが音楽に合わせて交互にそのお酒を、あっという間に飲んでしまう(トレーから我先にとばかりに、次々とお酒を取ってしまう)ところがあるのです。トレーの上に所狭しと並べられていたはずの4つのグラスが、あれよあれよという間に次々となくなってしまったことに、青山さんは驚いたような、少しあきれたような表情を浮かべます。しかしすぐさま、幸せそうに楽しんでいる男爵とオットーを眼で確認し、彼らを心から祝福し、お客様をお迎えする側としてあるだけの敬意を表するように、ゆったりと一礼し、再びその場を、おもてなし冥利に尽きるといった表情を浮かべて、グラスがなくなり空になったトレーを持って歩きながら立ち去るのです。男爵、オットー、そしてホテルのゲスト、ジミーズたち従業員、つまりダンスホールにいた人々が皆、幸福感を共有しあっている、まさに「共にグラスを」な雰囲気が伝わってくる、素敵な表情でした。

この場面の前半部分では、基本的にジミーズはホールを歩いていたり、トレーを持って小刻みなステップを踏んでいることが多く、どちらかというと、ホテルのゲストたちがカップルで向かい合って踊るチャールストンが背景として終始目立っていたような気がします。しかし青山さんも途中から、トレーを持ちながら、とてもパンチの効いたチャールストンを披露してくれます。この「トレー」を持ちながらのチャールストンがまた非常に鮮やかです。このシーン冒頭のジャグリングの輪といい、このトレーといい、青山さんは、「物」を扱いながらのダンスも非常に巧みで、「物」の動かし方・扱い方も、ご自分の動き(ダンス)の魅力にしっかりと取り込んでしまっているのです。「共にグラスを」の短い間奏部分で、もう一人のジミーズの方と二人組みになり、中央に出てきてチャールストンのステップを刻むのですが、このときの見事な動きといったらありません。トレーを両手で前下方向におろすように持っているのですが、締まった肩から腕にかけてのストンとしたラインが素晴らしく(どこかフォッシー的に前かがみな「猫背」がとても魅力的です)、完璧なチャールストンの脚捌きと合わせた青山さんの身体全体は、考えられないような精巧な動きをしているのです。本当に数小節ほどの短いダンスなのですが、どうしたらあんな動きができるのか、毎回思わず自分の眼をこすって確かめたくなるような気分でした。チャールストンの脚捌きなどは、まるでひとつひとつの関節が支点・作用点・力点の三つの役割を同時に負っているのではないかというような動きなのです。自由自在に、しかし計算しつくされて一分の狂いもなく動く、そんな脚の動きとは対照的に、上半身、とりわけ前述した肩から腕にかけてのラインなどは、腰から下の激しい動きなどは関係ないかのように、ぶれることなく非常に安定しているのです。このようにチャールストンを踊るときのようなあまりにも精巧すぎる動きと、それ以外の動き(フロアを歩き回るときの動きなど)の鮮やかな対比が、この曲(「共にグラスを」)の変化に富んだ展開とともに、眼前で繰り広げられるのを観ているのには、とてもメリハリが感じられて爽快感があるのです。青山さんの動きを見ていると、曲の展開とともに、シーンのテンションみたいなものの緩急が感じられるのです。

また「共にグラスを」では、男爵とオットーが交互に、様々なお酒の名前を列挙して歌うところがあります。シェリー、カンパリ、スコッチウィスキー、シャトルーズ、コニャック・・・といった具合です。そこでは、青山さんたちジミーズ数人が、両腕を胸の前で組み上半身を固定したまま、ピンと伸ばした脚を交互に高く上げる振りがあります。そんなときも青山さんの場合は、その力強い爪先が、これが当たり前と言わんばかりに宙を勢いよく蹴り、上半身も嘘のように揺らぐことがありません。それでこの宙高く蹴る足先も、まるで予め決められた固定されたある一点を、ピンポイントでふれる感じで、勢いがありながらもとても安定しているのです。その後、「共にグラスを」の曲は、終盤にかけて一気に盛り上がっていきますが、「祝って 乾杯!」という歌詞を繰り返し口ずさみながら、人々は思い思いの祝福のステップを踏みます。青山さんたちジミーズも、トレーを持ちながら、かなりスピーディーに複雑なステップを踏み、最後は全員がグラスを高く掲げた「乾杯」のポーズで締めくくられます。「お酒」にだけではなく、「人生」に酔ってしまうような、幸せに満ち溢れた、グランドホテルでの楽しいひとときが過ぎてゆきます。

夢のように楽しいひととき・・・。信じられないようですが、でもこれは現実なのです。株で大儲けをし、一夜にして大金を手に入れたオットーは、この場面で終始陽気にはしゃぎまわります。小堺さん演ずるオットーは、回転扉にぶらさがってグルグル回ったり、とまるで子供のような無邪気さです。「あなたとなら誰でも踊れる」でのズボンがずり落ちてしまう演出といい、小堺さん演ずるオットーには、余命幾ばくもないという過酷な事実が突きつけられているにもかかわらず、どこか喜劇役者チャップリンにも通ずるような、コミカルな雰囲気が漂います。それはオットーが常に被っている「山高帽(ボウラーハット)」によるところも大きいかもしれません。この時代の「山高帽」は、ユダヤ人のしるしとして受け取られていたこともあったようですが、オットーの喜劇役者的な側面を引きだすのにも有効にはたらいているように思えました。(チャップリンはいつも「山高帽」を被っていますよね。小堺さん@オットーにもどこかそんな喜劇役者的な雰囲気が漂って、余計に哀しかったりするところがあるんです。)

一方この場面では、幸福の絶頂にある男爵とオットーの陰で、フレムシェンとプライジングを取り巻く状況に、変化が訪れ始めます。男爵夫人になれるかも、という淡い夢も敢え無く消え去り、フレムシェンが自分の夢を叶えるには、プライジングの元で働くより他はない、ということになってゆきます。フレムシェンを呼びにきたプライジングとともに、フレムシェンは、ダンスルームを後にします。そして、この後、フレムシェンを軸に、ついさきほどまでチャールストンのリズムに共に身を任せ、幸福の絶頂にあったはずの男爵、そしてオットーも、物語の終盤に向けて、互いの人生の運を交換しあうかのようにして、別れてゆくことになります・・・。

◆『グランドホテル』詳細レポ Ⅷ

2007-02-03 23:58:48 | グランドホテル
Love Can’t Happen What You NeedBonjour Amour「恋なんて起こらない」「あなたに必要なもの」「ボンジュール・アムール」

盗みをはたらくために革の手袋をして、留守であるはずのグルーシンスカヤの部屋に忍び込む男爵。ベッドサイドにかけてある首飾りを見つけますが、誰かが部屋に戻ってくる物音に、慌てて身を隠そうとします。戻ってきたのは、失意のグルーシンスカヤでした。男爵は泥棒の象徴である革の手袋をはずし、グルーシンスカヤの眼に入らないように隠しながら、彼を見つけて驚くグルーシンスカヤに対して、「あなたのファンなので、会いたくてここまで来てしまいました」という内容の言い訳を咄嗟にするのでした。そんな男爵に対し、「どこでわたくしの踊りを見たの?」とグルーシンスカヤは真顔で尋ねます。そんな嘘を積み重ねながら進むグルーシンスカヤと男爵の会話。しかし、いつしか二人の間には、そんな嘘から、起こるはずのない恋が芽生えていくのです。グルーシンスカヤは男爵に、そして男爵はグルーシンスカヤに、それまでの人生では経験したことのないような何かを感じ、一夜にして落ちるはずのない恋に落ちてしまうのでした。アンコールのなかった自分の公演の後、「もう逃れたい」とばかりに脱ぎ捨てたように見えたトォーシューズを手に持つグルーシンスカヤ。そんな彼女のトォーシューズを、男爵は革手袋をはずした手で大切そうに包みながら、「払った犠牲と積み重ねた経験」と位置づけ、グルーシンスカヤの美しさを讃えます。純白のチュチュに身を包んだグルーシンスカヤですが、プリマバレリーナとして神々しいほどの威厳を持って振舞っていたそれまでの様子からは一変し、男爵との恋に目覚めつつある今となっては、今まさに起ころうとしている奇跡にも似た出来事を前に怯える純真無垢な少女のように見えます。「恋なんて起こらない/Love Can’t Happen」を歌い上げる男爵の腕に抱かれながら、「探していた心休まる場所 それは君さ」という最後のフレーズとともに音楽が終わろうとすると、抱きしめられたグルーシンスカヤの手元からそのトォーシューズが、床へポトリと落ち、照明が消えます。「起こるはずのない恋」、それが起きてしまった、そんなイメージが心の中に広がります。

夜更けのグランドホテル、もうひとつの別の部屋で、ラファエラはたったひとりの夜を過ごしています。その「グランドホテルの不機嫌な部屋」、舞台下手上方のバルコニーのあたりで、ラファエラはトォーシューズを両手で掲げ、そのトォーシューズに問いかけるようにして、「あなたに必要なもの/What You Need」を歌い上げます。男爵がグルーシンスカヤのトォーシューズを「払った犠牲と積み重ねた経験」と評しましたが、ラファエラにとってのグルーシンスカヤのトォーシューズは、バレリーナである彼女と共に歩んだ歴史そのものでもあるのかもしれません。「あなたに必要なのは、頼れる誰か・・・」、それは他でもない「私」である、とグルーシンスカヤに対する想いを歌い上げるラファエラ。しかし同時に「あなたといるだけで強くなれる・・・」、ラファエラにとってもグルーシンスカヤは、「必要なひと」であるのです。しかし、そのグルーシンスカヤは失意のうちにバレエをやめようとしている。またしてもラファエラの深い愛情は、グルーシンスカヤには届きそうにありません。そしてここでドクターの語りが再び入ります。「見知らぬ者同士のふれあいは、時に背骨を突き刺すほどの情熱を生む。しかし、一夜明ければ、また元の見知らぬ者同士か、あるいは恋人か・・・」

この「あなたに必要なもの/What You Need」の物憂げな間奏の部分(?だったかな)のあたりで、産気づいた妻の様子を見るために、密かに仕事を脱け出していたエリックが、ホテルに戻ってきたところを、支配人に見つかってしまい、問いただされるシーンが入ったような気がします。またもしかしたら、プライジングがタイプをするフレムシェンにアメリカに一緒についてくるように提案したのはこのシーンでのことかもしれません。(このあたりかなり記憶が曖昧です。ごめんなさい。)ところでこの支配人ですが、エリックに何処かただならぬ感情を抱いているような印象を与えるのです。エリックはそんな支配人に少し困惑しているように見えます。ラファエラのグルーシンスカヤに対する想い、プライジングのフレムシェンに対する想い、支配人のエリックに対する想い、彼らの想いはそれぞれ同質のものではないのですが、一方的に誰かを必要とせずにはいられない、しかしどこかかみ合わない・・・、そんな人と人とのつながり方を印象付けられます。

一夜明け、再びグルーシンスカヤの部屋。一夜を共にした男爵とグルーシンスカヤは、お互いの愛を確信しています。男爵はグルーシンスカヤに、本当は盗みをはたらくために、この部屋に来たことを打ち明けます。しかし、男爵の愛を確信しているグルーシンスカヤにとっては、既にそのようなことはどうでもよいこととなっています。男爵の愛に、生きる希望を見つけ出すグルーシンスカヤ。次の公演先であるウィーンに一緒に来て欲しいことを告げますが、男爵はすぐには行けない、と躊躇します。「私が何とかしてあげる」と提案するグルーシンスカヤに対し、「私はジゴロではない」と言う男爵。しかし、男爵はなんとか一緒にウィーンに行けるようにして、明日の朝、駅で赤い薔薇を持って待っている、とグルーシンスカヤに約束し、「二人の初めての朝にボンジュール」と言って、部屋を立ち去ります。「私、踊りたい、踊るわ。」男爵の愛によって、再び生きる希望と踊る希望を見出したグルーシンスカヤ。真っ赤なローブに身を包み、朝の光に燦然と白く輝く銀色のベッドの飾りと大きな真紅の薔薇の飾りを背景に、「ボンジュール・アムール/Bonjour Amour」を喜びに溢れた表情で少女のように軽やかに歌い上げます。この「真紅」と「銀白色」で彩られるシーンが、グルーシンスカヤに、消えかかった「炎」と解けかかった「氷」が再び戻ってきたかのように印象づけます。幸福感に包まれながらくるくると回り、ベッドになだれ込むように最後のフレーズを歌うグルーシンスカヤ。「(この愛に)ボンジュール!」という力強い声が響きわたり、照明が消え、舞台は暗転。グルーシンスカヤを突如として包み込んだ「起こるはずのない愛」の鮮烈さが伝わってきます。


◆『グランドホテル』詳細レポ Ⅶ

2007-01-30 18:27:17 | グランドホテル
Who Couldn’t Dance with You? Merger Is On Fire and Ice(Reprise) No Encore
「あなたとなら誰でも踊れる」「合併問題」「炎と氷」(リプライズ)「アンコールはなし」

As It Should Be、「あるべき人生」の曲がいつしかロマンティックなダンスのための曲に変化するにつれて、正装したホテルのゲストたちが四方から集まってきて、カップルになって優雅にダンスをし始めます。舞台はあっという間にフレムシェンと男爵が「5時に」と会う約束をした「黄色い館」へと、場面転換していきます。黒いタキシードに身を包んだ青山さんも、上手より登場、舞台中央下手よりの階段下まで歩みより、シャンデリアの光を反射してキラキラ光るビーズ(スパンコール?)が印象的なドレス姿の美しい女性に一礼し、ペアになってダンスを踊り始めます。音楽に合わせて上手から中央へと歩み寄ってくる何気ない動作にも、青山さんの場合には「音楽」が感じられます。この場面転換のしかたが、音楽の変化とともに、流れるようにスムーズで、緊張感溢れるシーンがいつの間にか、ダンスを楽しむ華やかで優雅な雰囲気へと変わってゆくのです。中央で楽しげに踊るフレムシェンと男爵、その周りで正装した男女のペア数組が音楽に合わせてダンスを楽しんでいます。ダンスを楽しむそれぞれの男女が思い思いにホールに描くふんわりとした動線が、ロマンティックで印象的です。ベルリンの高級ホテルのダンスホールでダンスに興じる、当時の人々の華奢な雰囲気が伝わってきます。ダンスをしながら男女が甘い恋をささやくような甘美な雰囲気も漂います。ちなみにこの場面の曲ですが、Grand Hotelのスコアブックでは、The Grand FoxTrot(Trottin’ the Fox/Who Couldn’t Dance with You?)というタイトルがつけられています。

さてこの場面でのタキシード姿の青山さん、とにかく透明感と洗練を漂わせるエレガントさが印象的でした。ピタッと撫で付けられたヘアースタイル(照明によっては金髪に見えるようなかなりブラウン系の強いカラーでした)に、ニヒルな微笑、タイトな黒タキシードの優雅な着こなし、葉巻の持ち方、そしてお相手の女性に対する堂々としたリードの仕方・・・。ダンスのほとんどは、女性と手を組み、靴幅ほどのスペースを前に後ろにと、踵を浮かせながら弾むようにステップを刻むものなのですが、音楽のテンポからは故意に半歩遅れたような青山さんペアのダンスが、フレムシェン・男爵ペアのテンポを先取りするような急ぎ足のダンス(フレムシェン的には、「男爵婦人」の座を射程に入れて、張り切って浮かれてしまうのは当然なのです)と対照的で、それらをひとつの視野のなかでダンスルームの「風景」として観ていると、場面に遠近感が出て、奥行きが感じられました。

またこの曲の後半では、病気を患って余命幾ばくもないオットーのダンスの相手になるよう男爵から提案されたフレムシェンが、オットーとペアを組んで踊るシーンもあります。「踊りたい、ウィズ・ユー(Who couldn’t dance with you?)」という歌詞に、曲の前半では、フレムシェンの男爵に対する思いが重ねられ、後半ではオットーのフレムシェンに対する思いが重ねられます。元々このシーンの冒頭で、オットーは自分が宿泊しているグランドホテルの素晴らしさにすっかり浮かれて、このダンスルームに登場してくるのですが、そんなオットーの幸福感は、フレムシェンにダンスに誘われることにより最高潮に達します。上手側のカウンターで一人お酒を楽しんでいたオットーは、フレムシェンの言葉を受けて、あまりの嬉しさに子供のように、誤ってズボンを足元にまで下ろしてしまいます。バーテンダーに手伝ってもらいながら、慌ててズボンをウエストまで上げてもらい、ベルトのようなものを調節してもらうオットー。ズボンのウエスト部分をバーテンダーに引っ張られ、ウエストから下は後ろ方向に置き去りになったまま、上半身はフレムシェンの腕の中、という絵が、何とも微笑ましくて笑いを誘います。この一部始終を傍から眺めていたゲストを演じる青山さんも、困ったような、驚いたような表情を浮かべ、お相手の女性に大変なものを見せてしまったという気持ちが読み取れました。これまでほとんどダンスなどしたことのなかったオットーが、喜劇役者のようにコミカルな動きを織り交ぜながら、フレムシェンとの夢見心地のダンスを楽しみます。最初は緊張した面持ちで、子供のようにぎこちなく踊っていたオットーが、フレムシェンにリードされながら、ダンスの手ほどきを受けるうちに、自信とよろこびを取り戻して、「羽のように軽い」ステップを刻むようになるのです。そんなオットーが、病気を患っていることなど信じられないほどに、華麗にターンをするところがあるのですが、まさにそのすぐそばを、青山さんたちのペアがダンスをしながらすれ違います。そこで青山さんは、お相手の女性に同意を得るように、そんなオットーに対する驚きとよろこびの混ざったような、あるいは祝福しているかのような表情を浮かべるのです。あのシーンは、ほんの一瞬なのですが、「踊れない」はずのオットーが「踊れる」ようになるような、つまり失っていたはずの自信やよろこびという「生の輝き」のようなものを取り戻し始めるシーンのような気がします。そんなオットーのよろこびを、その場に居合わせた人々が、身分の差を超えて、わずかながらも分かち合い、祝福する、そしてあのダンスルームもパッと一瞬色づく、そんな瞬間を、印象づけていたような気がするのです。ドクターは、「黄色い館」で踊る彼らの様子を傍から眺めていましたが、ついにこんな言葉を観客に投げかけます。「御覧なさい、踊っている。彼の身体は音楽になり、その生命は永遠に続くかのようだ。しかし、我々はどうしてこんなことにこだわるのか・・・」

ところでこのダンスホールでのシーンでは、フレムシェンの雇い主であるプライジングも登場してきて、仕事をするようにフレムシェンを呼びとめます。彼女と踊るオットーは、そのプライジングが、自分が会計係として勤めていた会社の社長であることに気づき、挨拶を交わそうとしますが、当のプライジング社長は、オットーのことなど覚えているはずもなく、冷たくあしらいます。会社に儲けさせてやったにもかかわらず、ひどい待遇を受けこれまで生活してきたオットー。しかもこうして再会したとしても、自分を虫けらのようにしか扱わないプライジング社長に対して、オットーは逆上して、大声で怒鳴り散らします。ふと我に返って、彼に雇われる側としてのお互いの立場を思いやるオットーとフレムシェン。ダンスルームで踊る正装した人々(タキシード姿の青山さんも)は袖に引かずに、背景としてその場にとどまっていますが、華やかで夢見るようなダンスルームの幸せな雰囲気は、ここから少しずつ暗雲が立ち込めるものに変容していきます。

ここで、この作品での「タキシード」の持つ意味合いを明確にするために、このMerger Is On、「合併成立」のシーンの直後(だったと思う)のシーンでの、男爵とオットーのやり取りをご紹介しておきます。ダンスルームでの出来事が自分にとっては「おとぎ話」のようだ、と話すオットーに対して、男爵は、株への投資を提案。タキシードを着て踊っている彼らも皆、株に投資をして成功した結果、あのように楽しんでいるのだ、と説明します。だからオットーも株に投資してみてはどうか、と提案するのです(これが後でオットーに幸運をもたらすことになるのです)。オットーは、タキシードなんて、自分は棺桶に入るときぐらいしか着ない、と言うのですが、タキシードというものが、この作品では、あの時代の富と成功と華やぎの象徴のように受け取られていることがうかがえます。そんなタキシードを着て正装している青山さんたちアンサンブルの存在感(表情)も、この一連のシーンの流れのなかで、残酷とも言えるほどに変容するのです。

プライジングは、株主たちが合併問題をめぐって集結している中2階の階段の踊り場へと行き、追い込まれた状況のなかで、「ボストンとの合併は成立」と、嘘の発表をしてしまうのです。彼を取り囲む株主たちは一斉に歓喜し、階下のダンスルームにとどまる正装した人々も、それとともに「やったぞ、ボストン!やったぞ、合併!」と音楽に合わせて一斉に歌い始めます。ついに「歪んだ道」へと歩き始めてしまったプライジング。そのプライジングが苦しみに満ちた台詞を語りますが、それと同時に、さきほどオットーの幸福感を祝福していたはずのタキシードを着ていた彼らが、急に掌を返すように、プライジングを「歪んだ道」へと誘い込む悪魔の手下のような存在に変わってしまうのです。モノトーンの陰影が強調されるような照明のなかで、不気味に黒光りするタキシードを着た青山さんにさきほどの「カラス」のイメージが重なります。また、照明によって強調されるお顔の陰影、さらに恐ろしいほどに増した透明感は、人の人生を狂わせてしまうような冷酷さを感じさせます。ダンスルームのシーンでは、高貴さをイメージさせるような透明感溢れる表情を浮かべ、生を謳歌するような幸福感に溢れていたタキシード姿の青山さんでしたが、このシーンでは正反対とも言えるほどに、その表情をガラリと一変させるのです。

プライジングは、自分の行く道が定まってしまった、という後戻りができないことへの絶望感と、不透明なこれからへの不安感を露にしながら、「歪んだ道」のフレーズ(?)をつぶやきます。プライジングがあきらめを滲ませながら、「やはりこうなった」とでも言うように口ずさむ「カア~、カア~」の二鳴き。それとともに、階下のダンスルームの正装した人々も、プライジングをあざ笑うかのように、「カア~、カア~」の声は出さずに、この言葉を口真似だけで(顔の表情だけで)「カア~、カア~」と鳴いてみせるのです。このときの青山さんですが、客席には背中を向け、お顔だけを横顔のラインが見えるようにこちらに傾けています(下手側の座席でないと、見えづらかったかもしれません)。照明もモノトーンを意識させるような冷たい感じのものに変わり、お顔全体にさす影と、冷たい陶磁器のような質感が、とても印象的でした。そのような質感のなかで、首から下は微動だにせず、口元だけで音(声)は出さずに、「カア~、カア~」と口真似だけをするのです。「カア~、カア~」とカラスの鳴き声を出しているのは、プライジングだけなのですが、鳴き声を出さずに口真似だけをしている青山さんたちアンサンブルが、逆に声は出さずとも、プライジングを完全に操っているようで、異様なぐらいの恐ろしさと冷酷さが押し寄せてくるようでした。黒光りするタキシードに、「歪んだ道」のシーンで観客の心に焼き付けられた、不吉な「カラス」のイメージが、重層的に重なったシーンでもありました。

昔からとらわれていた「カラスの寓話」が現実のものとなりつつあるプライジング。その一方でグルーシンスカヤが過去からずっとこだわり続けてきたがゆえに、今になって苦しめられることになってしまったもの、それは「炎と氷」です。自分を奮い立たせて、精一杯にぎりぎりのところで舞台に立った彼女でしたが、観客からのアンコールの拍手はありません。つまり「アンコールはなし」なのです。その代わりに彼女を襲ったのは、嘲笑とブーイングだったのです。今となっては、彼女の踊りにおいては、炎も消え、氷も解けてしまったのでしょうか。「合併問題」が片付いたことを受けて、中2階の階段踊り場で音楽に合わせて肩を組みながら、「カラス」の振りを踊る株主や弁護士たち。その彼らが袖に消えてゆくと、その背後から背を向けて「白鳥」のように踊るグルーシンスカヤが現れます。このグルーシンスカヤも、「カラス」たちに苦しめられているように見えます。観客の冷たい反応に耳をふさぎ、怯え、倒れるようになりながら、やっとのことで階下へと下りてくるグルーシンスカヤ。「炎と氷」を歌うアンサンブルの歌声が聞こえます。そして他でもない、先ほど正装をしてダンスを踊っていた人々が、グルーシンスカヤの踊りを冷たく嘲笑する観客に変容します。薄暗い照明に照らされた階下の舞台中央で、冷たく甲高い笑い声が響き、グルーシンスカヤをその笑い声が取り囲むのです。絶望したグルーシンスカヤは、これ以上舞台には立てない、と舞台の途中で劇場から逃げ出すように、ホテルへと向かいます。

この一連のシーンにおいて「タキシード」を着て正装して登場した青山さんでしたが、まず「黄色い館」でダンスを楽しむ裕福な当時の青年、次にプライジングを「歪んだ道」へと誘いこむことに成功した「カラス」、そして「アンコールなし」のグルーシンスカヤを冷たくあざ笑う観客、とその役柄は、大きく変化していました。しかし「役柄が変わっていた」、青山さんを観ていた観客としての私が言いたいのは、ただそれだけのことではありません。青山さんにおいては、「役柄が変わること=質感が変わること」だったということを強調したいのです。このことが私の拙文でどれほど伝わるのか、本当に恐ろしいのですが、そのような青山さんを観ていると、同じ「タキシード」でも、前半と後半とでは、全く別の意味を、観客はイマジネーションを働かせながら、読み取ることが出来るような気がしました。この一連のシーンの流れのなかで、ダンスという「動き」が目立った前半部分とは打って変わって、後半部分ではそれとは正反対にアンサンブルの方々はそれぞれのポジションでほとんど身動きせずに(わずかな動きで)立ち尽くしたまま演技し続けました。タキシードに身を包んだ青山さんも、下手よりの中央前方という目立つ位置で、その立ち位置をほとんど動くことがなかったと思います。「タキシードのアンビバレンス(両義性)」を観客に効果的に印象付けることにより、場面を動かし、情景を観客の心に印象付ける・・・、勿論これは演出の手腕によるものだったのでしょう。しかし、「一ヵ所に集まる多数の登場人物の思いと行動が交錯しながら物語が進む」というこの作品を可能にし、へーまさんも、「記憶のソファ」の記事で書かれていた、「プロットの有機的な連続」というものを見事に実現させていたもの・・・、これは一体何だったのでしょう。それは「動かないセット」のなかで「空気」のようなものを変容させ、転換させていた、アンサンブルの力量によるところが大きかったのではないか、と、このシーンの青山さんを観ながら、私は確信していました。

男爵は運転手にこれまでも再三借金の催促をされてきましたが、ついに拳銃を突きつけられて、公演で留守のはずのグルーシンスカヤの部屋に侵入し、首飾りを盗んでくるよう言い渡されてしまいます・・・。男爵とグルーシンスカヤの運命的な出逢いは、もうすぐそこです。

◆『グランドホテル』詳細レポ Ⅵ

2007-01-28 10:57:15 | グランドホテル
he Crooked Path As It Should Be (Reprise)
「歪んだ道」「あるべき人生」(リプライズ)

フレムシェンをタイピストとして雇ったプライジング。舞台下手側の片隅、プライジングのそばでフレムシェンはタイプライターを打ちます。プライジングはフレムシェンに、自分と共に秘書のような身分でアメリカについてくるよう提案。ハリウッド行きを夢見るフレムシェンは、そんなプライジングに「ボストンとハリウッドは、汽車で行けるほど近いのか」というような質問をします。(もしかしたらこのやりとりは、もっとあとの場面だったかもしれません。)フレムシェンの期待を裏切らないように、プライジングはとりあえず誤魔化しながら答えます。一方プライジングは、自分が社長を務めるサクソニア・ミルズ社の経営悪化から、今夜中にボストンの会社との合併を決めなければ、自社が倒産するという窮地に立たされています。電報を受け取った彼は、合併の話が白紙になったと知って、激しく動揺します。この危機的状況をどうにかして切り抜けるには、事実を隠蔽してでも株主たちに「合併成立」と伝えるしかない、という選択を弁護士に持ちかけられます。経営者としての選択を迫られ、人生の岐路に立たされたプライジングが、幼い頃から聞かされた「カラス」の寓話を引きながら、どちらの道を行くべきかを歌うのが、The Crooked Path、「歪んだ道」です。

この作品の冒頭、「グランドパレード」で、プライジングをはじめとする登場人物たちが、重層的なハーモニーを奏でながら、舞台のあちらこちらで電話をするというシーンがありました。このとき既にプライジングは、自分も幼い時から聞かされてきた、分かれ道でカー、カーと鳴く「カラス」の寓話を、電話の向こうで父親に昔話をしてほしいとせがむ自分の子供に向かって、話して聞かせているのです。プライジングには冒頭から、傲慢さの陰で、初めから破滅に向かって歩みだしている予感がつきまとっています。しかしながら、そのようなプライジングも父親であり、愛する妻と子供がいるわけで、プライジングの身に起こる以後の出来事が、彼らに及ぼす影響を想像してみても、切ない想いになります。終盤、フロント係のエリックには待ちわびた新しい生命が誕生し、父親になった喜びを噛み締めることになるのですが、その一方でプライジングは、一人の経営者としてだけではなく、一人の父親としても破綻を迎えることになり、とても対照的に思われました。

歌詞にもある、分かれ道の中央に立つ一本の木にとまっている、年老いた一羽のカラス。「どちらの道を行くべきか」と尋ねる少年に対して、このカラスは、「このヤバそうな道を行け」、「真っ直ぐな道は流行らない(訳詞はちょっと違ったかも)」、と「歪んだ道(真っ直ぐではない道)」を行くようにそそのかすのです。岐路に立たされ苦悩しながらも、「このヤバそうな道」を行くという選択肢しか、自分には残されていないということを、プライジングは半ば悟っているかのようです。そんなプライジングを「歪んだ道」へと誘い込むかのように、そして彼の弱さを嘲笑するかのように、不吉な「カラスたち」が集まってくるのです。ホテルの従業員たちが、四方八方から静かに登場してきますが、このときのアンサンブルの皆さんには、お客様をお迎えするというような、ホテルの従業員としての血の通った「人間らしさ」というものがなく、従業員としての役柄を感じさせない、「抜け殻」のような無機的な存在感を漂わせています。しかしプライジングの歌声と同時に「カアカア」と鳴きながら、「カラス」の身振りをし始める彼らには、悪魔の手下のような不気味なカラスの魂がスッと宿るようにも見えます。

青山さんも、舞台上方の上手側から、階段踊り場付近へと登場してきて(この位置はとても目立つポジションでした)、プライジングを破滅の道へと転落させていく「カラス」を、身振りで表現します。「鳥類」の動きを表現する青山さんは、「おどろんぱ!」でも、既に見ていましたが、悪魔的な匂いのする冷酷さが重なる「鳥」は今回が初めてでした。狙った獲物を包み込むかのように広げられた緊張感のある指先から、腕、そして肩にかけての波打つような力強い動きには、鞭打つような瞬発力に溢れています。それでいてその動作の始まりと終わりには、息を殺したような静けさのようなものが感じられて、一言で「カラスの羽ばたき」と言ってみても、一連の動きには見事な緩急を感じることができ、不気味さを醸しだします。獲物の居所を物色するかのように、音楽に合わせてあちらこちらの方向へと胴からするりと伸びる首、あるいは逆に胴のなかへと入り込む首。そのような動きをする首と肩との角度には、どこまでも追いかけてくるようなカラスの執念のようなものが感じられました。カラスの冷たく湿ったような、重たい羽先、餌食となるはずの標的を見つけた瞬間の鋭い視線による焦点の合わせ方、一瞬にして空を黒く覆いつくすかのように面積の大きい翼、そして標的をあっという間に掴みさらって行くような冷酷で力強い動きが、この後のプライジングを待ち受けている運命を暗示しているようでした。カラスの鳴き声に引きずられ、悩まされるプライジングの叫びにも似た「カーカーカー」という最後の鳴き声とともに、舞台から消えてゆく「カラス」からは、プライジングをあざ笑うかのような不吉な羽音が聞こえ、地面に重たく舞い落ちる、黒光りした重たい羽が見えるようでした。

このシーンに引き続き、再び洗い場の労働者たちによる、Some Have, Some Have Not、「持つ者と持たざる者」が歌われます。経営者であり、ここグランドホテルの宿泊客として当然の身分を保証されているはずの、「持つ者」であるプライジング。しかしそんな「持つ者」としての彼の身分でさえも、一つの嘘で辛うじて保たれているようなものであり、「持たざる者」へと一夜にして変わり果てる可能性があるのです。その一方で、「持つ者」としてのお客様のためにどれほど働いたとしても、決して「持たざる者」としての身分が変わることはないホテルの下働きの人々。一晩で1000マルク使える「彼ら(持つ者)」のために、自分たち(持たざる者)が朝から晩まで働いたとしても、何も変わりはしません。この曲がフェイドアウトしていくなか、「なぜ~」という叫びにも似た歌声(中村元紀さん)が舞台奥へと消えてゆきますが、そんな労働者たちの声は「持つ者」には聞こえるはずがないのかもしれません。さらに、見かけは「持つ者」である男爵の人生も、いつ「持たざる者」としてのそれに転落したとしてもおかしくはない状況に置かれています。運転手に、明日の夕方までに金を用意するように要求され、もう後はないような窮地に立たされているのです。男爵は、何かを決意したかのように、ここで再びAs It Should Be「あるべき人生」を歌い上げます。洗い場の労働者たちによって歌われる「持つ者と持たざる者」、それを挟んで対置される、プライジングと男爵がそれぞれ歌う、「歪んだ道」と「あるべき人生」の2曲。これらの一連のシーンを通して、「持つ者」と「持たざる者」の身分の差などはまさに紙一重、「持つ者」としての彼らの人生は「危険な賭け」によって辛うじて成立する世界であるようなイメージを観客は受けます。そして同時に男爵とプライジングが「危険な賭け」という名の同じ鎖で背中合わせに囚われの身となり、終盤に起こる悲劇へと向かって、共に静かに助走をし始めているようでもあります。

男爵によってドラマティックに歌い上げられる「あるべき人生」ですが、「綱渡りの人生」を渡ってゆくような張り詰めた緊張感に満ちた曲調が、サビの部分から間奏部分にかけて、とろけるような甘いムードが溢れる曲調に変わってゆきます。次のシーン、Who Couldn’t Dance with You?、「あなたとなら誰でも踊れる」へと場面転換してゆくのです。タキシードやドレスで正装したホテルのゲストたちがあちらこちらから舞台中央へと登場してきて、彼らが行き交う「黄色い館」でのダンスシーンへとあっという間に転換してゆきます。青山さん演ずるタキシード姿のホテルのゲストも、上手より歩きながら登場、下手寄りの階段手前あたりで、ビーズの煌き(スパンコールだった気もします)がとても美しいドレスに身を包んだ女性に一礼し、彼女の手を取ってダンスを踊り始めます。男爵、フレムシェン、オットー、そしてプライジングの人生が、「黄色い館」で交錯してゆくことになります。

◆『グランドホテル』詳細レポ Ⅴ

2007-01-21 18:06:55 | グランドホテル
Girl in the Mirror 「鏡の中のあの子になりたい」

「君、可愛いね。」男爵は舞台上手のフレムシェンに近寄って声をかけます。そんな男爵に自分の魅力をアピールしようと、フレムシェンは、足元の台に片足を掛けて、ただでさえ短いスカートの裾を更に引き上げ、ガーターベルトのついたストッキングの端をちらつかせます。男爵に「魅力的だ」と言われた彼女は、「あなたも悪くないわ」と、大人の女性の雰囲気を漂わせて、19歳の女の子からはかなり背伸びをした様子で答えます。男爵は魅力的なフレムシェンを「黄色い館で、5時に」と誘い、約束をした後、その場を去ってしまいますが、その様子を傍らから眺めていたドクターは、この曲が始まると、音楽に合わせて指揮をするような手つきで、魅力的なフレムシェンに引き寄せられてしまうかのように、掌をひらひらとさせてリズムを取ります。重い存在感のある役どころにもかかわらず、何故かコミカルな動きをするドクター。ドクターでさえも思わず、リズムを取りながら美しいフレムシェンに引き寄せられてしまうのでしょうか。それともドクターは、若さにまかせて思いのままに進んでいこうとするフレムシェンの心の内をありのままに覗き込んでしまいたくなったのでしょうか。そんなドクターの指先の動きに導かれるかのように、観客は、フレムシェンの鏡の中の空想の世界へと誘われてゆきます。

素敵な男爵からのお誘いを受けてしまい、心弾むフレムシェン。上手の台に腰かけ、唇に指を添えて、嬉しさのなかにわずかなためらいを滲ませ、鏡のなかの自分を見つめながら、自分自身に問いかけているように見えます。「私のどこが気に入ったのかしら・・・」「鏡の中のあの子は誰なのかしら・・・」この曲は、フレムシェンのそんな胸のざわめきを表わしたような問いかけから静かに始まります。やがて、世の何百万もの男性を虜にして、カメラマンたちの眼を釘付けにする、「行きたいのよ、あなたと ハリウッド・・・」と素敵な男爵から誘いを受けたことをきっかけに、夢見るフレムシェンの想像は、果てしなく大きなものへと膨らんでいきます。ハリウッドに行って、映画に出て、大スターになって、豪勢な生活をして・・・、そんな夢のような生活を想像していくフレムシェン。「歌いたいのよブルーズ、つま先にはシューズ(履きたいのよナイスシューズ?)、唇にはルージュ(確かこんな訳詞でした)」と韻を踏んだ歌詞に合わせて、長く美しい脚を水平方向におおらかに伸ばしたり、腰を振ったりするコケティッシュな振りで紫吹さん@フレムシェンは、夢見る19歳のフレムシェンの輝きをのびやかに、そして鮮やかに魅せてくれます。

しかし、美しいフレムシェンが、どれほどハリウッドに行くという夢を見ても、現実の彼女の生活は、フリードリッヒ通りにある安アパートでの希望のかけらもない、うんざりするようなみすぼらしいもの。鏡の中の世界から再びこちら側に引き戻され、厳しい現実を突きつけられるフレムシェン。壊れたままの手鏡とポット、隣家の騒音、調子の悪い暖房・・・。毎日嫌というほど向き合わなければならない現実への失望感を、フレムシェンは舞台中央で歌います。そんなフレムシェンただひとりをスポットライトが照らし出し、彼女の周りは真っ暗で闇に包まれています。脱け出したいにも脱け出せない、そんな生活への不安と失望から、病気にでもなってしまいそうな彼女の状況が伝わってきます。(ちなみにこの曲の中盤、現実の生活への不満をフレムシェンが歌うこの部分のメロディーは、I Waltz Aloneの後、男爵が撃たれる直前、プライジングにフレムシェンが服を脱ぐよう強要されるあのシーンで、もう一度奏でられ、印象的でした。)

そんな現実の生活からは絶対に脱け出さなくてはならない、なんとしてでもハリウッドに行かなくてはならないフレムシェンが、今はただ夢に描いているだけの自分の未来を、何とかして現実のものにしなくてはと決意し、一歩踏み出してゆく・・・。そんなフレムシェンの心情を描いているのが、この曲の後半、青山さんたちアンサンブルがシルクハットを被って登場してくる場面なのです。Maybe My Baby Loves Meのときと同じ紫色の燕尾服を着ているので、ジミーズと書きましたが、この場面は、あくまでフレムシェンの想像の世界、鏡の中の世界での夢のような出来事という気がします。首から下は先ほどのジミーズの衣裳、つまり紫色の燕尾服ですが、シルクハット(トップハット)の存在によって、より一層エレガントな雰囲気へとイメージががらりと変わります。そして、上流階級へのあこがれを語り、非日常性とショーらしさを演出するというシルクハットの特性が、ハリウッドへ行きたいというフレムシェンの夢が語られる、このシーンの雰囲気にとても適したものであると思いました。そんなシルクハットに添えられる指先、燕尾服の襟に添える手の形を取り出してみても、青山さんはとても表情豊かで、「鏡の中のあの子」が踊るというこの場面の空気を創り出しているようでした。御登場は曲の終盤になってからで、ダンスをしている時間としては非常に短いものですが、洗練されたエレガンスとスリルが渾然一体となった表情が全身から溢れ出ているダンスに、フレムシェンのみならず「夢見心地」に舞い上がってしまいます。

つらく厳しい現実の生活、しかしフレムシェンのなかにどうしても湧き起こってくる、それとは正反対の夢の世界。そんな鏡の中だけで許されるような夢の世界を象徴するかのように、回転扉の両脇の扉からジミーズの四人が、二手に分かれて、シルクハットを被り、ステップを踏みながら、中央のフレムシェンを後方からそっと包み込むように登場してきます。このときシルクハットをうつむき加減に被り、顔の表情というのが見えにくいのですが、この「誰かわからない」という正体を隠している感じが、自分の可能性に賭けることへのためらいのようなものを説き伏せて、フレムシェンのなかにどうしても湧き起こってきてしまう夢の世界に胸が高鳴るような感覚をイメージさせます。片方の手をシルクハットのブリム(鍔)に添え、もう片方の手を燕尾服の襟に添え、かっちりとした折り目正しさ、洗練されたエレガンスを漂わせながらも、フレムシェンをふんわりと再び夢の世界に誘い込むようにステップを刻みます。そんな衣裳に添えられる青山さんの指先、そしてそこを起点にして始まる腕から足先までの身体の描線は、まるで線描画のそれのように、とても緊張感に溢れた繊細なもの。それにもかかわらず、その動き全体から受けるイメージは、ふんわりとした優美さで充満しています。このようにして言葉だけで説明してしまうと、「緊張」と「ふんわり」などという、相反する言葉を用いることになってしまうので、矛盾しているような印象を与えてしまうと思いますが、そんな「矛盾」が青山さんのダンスのなかでは、当然のことのように美しく同居してしまうから不思議です。この場面での青山さんのダンスを、試みにたとえてみると、「非常に繊細なガラス細工、でもそのガラス細工の作品の中には、その表面が割れてしまうのではないかというぐらいにエネルギーがギュッと詰まっている感じ」のダンスとでも言えるでしょうか。青山さんのダンスのそんな雰囲気が、Maybe My Baby Loves Meのときとはまた異なる「スリル」を醸しだしているのでしょうか。フレムシェンが夢見る、華やかなハリウッドの世界と大スターだけに許されるゴージャスな生活。そんな夢のような生活へと突き進んでゆくフレムシェンの若さと勢い。そして、フレムシェンが鏡のあちら側とこちら側、空想と現実の間を行き来するなかで立ち現れる、鏡の中の世界のはかなさ、危うさ・・・、そんなものを、青山さんのダンスは観客の中に刻み込んでいるように思えました。

この場面では、中央で歌うフレムシェンを中心に、左右両サイドのジミーズが両腕を上方に広げながら、交差してポジションが入れ替わるところがありますが、このときも青山さんが描く腕から指先に掛けての弧線は、とても柔らかい優美なもの。一方腰から大腿部、足先にかけての交差する動きには、緩急自在なスピード感があります。フレムシェンの周囲で交差してゆくジミーズたちの動きを見ていると、フレムシェンのなかに残っていたわずかなためらいのようなものも消えてゆき、再び夢の世界へと誘われていってしまう感じが伝わってきます。

やがてフレムシェンのなかで、ハリウッドに対する想いが、「行きたい(I want to go)」という願望から、「行かなきゃ(I have to go)」という必然に変わっていきます。そのヴォルテージの上昇してゆく様子が、スピード感を増してゆくダンスからも伝わってきます。左右交互に力強く伸ばされる大腿部から足先にかけての完璧なライン、力強いのだけれど、エネルギーをありのままに思いっきり外に押し出すという感じではなく、あくまでエレガントな繊細さを感じさせるようなもの。身体が描くその線がこれ以外のものはありえないと確信してしまうような完璧さなのです。さらにそのような動きのなかで、一瞬ドキッとするような表情が、シルクハットに宿ります。シルクハットとお顔、首、肩そして帽子のブリムの添えられた指先が生み出すエッジの効いたフォルム、青山さんの生み出すそんな瞬間には、視線が合うわけではないのに、こちらがハッとしてしまうほどのスリルがあるのです。登場のシーンでは、シルクハットが彼らの正体を隠して、フレムシェンのなかにあるためらいをほのめかしていたような感じでしたが、ここにきてこの帽子は、フレムシェンのなかに定まった強い意志を感じさせて、とても印象的です。そんなシルクハットの扱いとともに、真ん中にスッと通った揺らがない軸を中心にして展開する上半身の端整な動き。完璧な全身のフォルムが、テンポが速くなっていく音楽のなかで、少しの狂いもなく眼の前で連続してゆきます。

この後に続く部分では、フレムシェンを青山さんたちジミーズが代わる代わる軽くリフトします。このときも、正面を向いて、身体を斜めに傾斜させ、傾いた身体の右半分のラインに、紫吹さん@フレムシェンを寄りかからせるように乗せるのですが、スッと傾いていく感じがとても優雅で、お二人の創り出す傾斜時のフォルムと動きの流れがとても綺麗です。

BW版の”I swear that girl in the mirror, that girl in the mirror is going to go to Hollywood !”のところでは、「この子は絶対にハリウッドに行くわ!」というフレムシェンの決意にある勢いが最高潮に達する場面。ダンスの勢いも、そんなフレムシェンの感情の高まりを反映するかのごとく、ラストまで一気に高まっていきます。ここでは最初、音楽を追いかける感じで、ゆらゆらと揺れるように少しルーズな感じで、左右の腰の前あたりに両手をあてて全身でリズムを取っているのですが、やがて青山さんの動きを音楽が追いかけているのではないかと錯覚してしまうほど、緊張感とスピード感が高まっていきます。上半身の端整さと優雅さはそのままに、片膝を引き上げるような振りを織り交ぜながら力強く刻まれるステップ、やがて再び登場シーンと同様に、両腕を上方に広げていくようにしながら、フレムシェンを取り囲む形で交差するジミーズ。そしてラストに中央で彼らにリフトされるフレムシェンは、眼の前の現実から脱け出して、夢の高みまで一気に上り詰めてゆこうとするエネルギーに溢れています。

「ハリウッドに行きたい」という夢を抱く19歳のフレムシェン。そんな彼女が、幼い頃から「カラス」の寓話に囚われているプライジングに間もなく出逢うことになります。


◆『グランドホテル』詳細レポ Ⅳ

2007-01-15 19:02:38 | グランドホテル
Fire and Ice TwentyTwo YearsVilla on a Hill
「炎と氷」「22年間」「丘の上の別荘」 

軽快なジャズに合わせたチャールストンのダンスが終わると、薄暗くなった照明のなか、ジミーズたちは静かに、何もなかったかのように舞台袖に消えてゆきます。それまでの明るく華やかな世界が嘘のように感じられます。舞台は一転、喧騒からは遠ざかった、どこか物憂いグルーシンスカヤの部屋へと場面を移します。階段の手すりに手を掛け、バレエのレッスンにいそしむグルーシンスカヤ・・・。

「どうしよう やめるべきなの? 踊るべきなの? この人生救うには・・・」迫りくる老いに怯え、衰える人気を憂い、バレリーナとしての自分に限界を感じる日々を、苛立ちと戸惑いを込めながら、切々と歌うグルーシンスカヤ。Fire and Iceの冒頭、グルーシンスカヤがバーレッスンをしながら刻むトォーシューズの音が、そんな彼女の気持ちを物語っているようで、とても印象的です。Fire and Ice、「消えそうな炎と解けそうな氷」、グルーシンスカヤにとって、これほど耐えられないものはないのかもしれません。「踊るには、若さが必要なの!」という彼女。しかし、劇場主のサンダーやお取り巻きは、「会場は満員」と彼女には嘘をつき、舞台に立たせようとします。グルーシンスカヤは、歌詞にもあるように、「天使のイリュージョン」かもしれないけれど、「鳴りやまないアプローズ」という「消えはしない愛」がなくては生きてはいけないのかもしれません。プリマバレリーナとしての輝かしい過去が、彼女につきまといます。

「バレエはもう流行遅れ、これからはジャズだ、ヌードだ、ジョセフィン・ベイカーだ。」グルーシンスカヤのいないところで、仲間に本音をもらす劇場主。お取り巻きにさえも本当のことを告げられず、苦しみのなかで舞台に立ち続ける孤独なグルーシンスカヤですが、自分が舞台に立たなければ、自分を支える周囲の人々が路頭に迷ってしまう、そう思ってなんとか舞台に立とうとします。これまでバレエ一筋に生きてきたグルーシンスカヤに対して、「私はただトォーシューズの紐を結びなおす手助けをして差し上げたいだけ・・・」とこちらも22年間グルーシンスカヤ一筋に生きてきた、付人のラファエラは、精一杯に気持ちを伝えようとしますが伝えきれません。「私はただバレエのお稽古がしたいだけ」とあっさりと返答するグルーシンスカヤは、ラファエラの「深い愛」にも似た感情に気づく余裕がありません。

薄暗い照明のなか下手の階段で、物憂げにうなだれるグルーシンスカヤ。その上方、下手よりの階段の上のバルコニーで、22年間付き添ったグルーシンスカヤへの秘めた想いをラファエラが歌い上げます。いつかバレリーナとしての時が終わり、誰もグルーシンスカヤに振り向く人がいなくなったとき、そんなときのためにひたすら準備をしてきたラファエラのこれまでの22年間。そして傷心のグルーシンスカヤを支えて、二人で過ごそうと願っている、ベルリンからは遠いポズィターノの丘の上の別荘でのこれからの生活を夢見るラファエラ。グルーシンスカヤに打ち明けることはできない想いを抱えて、叶うかどうかは定かでない夢を、彼方を見つめてバルコニーで歌うラファエラの声がとても印象的なシーンです。そして、ジャズでチャールストンを踊り、ハリウッドに行くという未来を夢見るフレムシェンと、「過去の遺物」となりつつあったバレエを踊り、情熱を失いつつあるグルーシンスカヤ、直接に交わることはない対照的な二人の登場人物の生のあり方が、観る者の心に刻み込まれていきます。


◆『グランドホテル』詳細レポⅢ

2007-01-12 22:04:37 | グランドホテル
Maybe My Baby Loves Me 「たぶん彼女は愛してる」

幸運にもグランドホテルの宿泊客になることができ、階段の踊り場で、やっと手に入れた部屋の鍵を宙に投げ上げ、両掌で大事そうに受け止め、「もう逃すまい」という様子で握り締めるオットー。「貝殻の中から 飛び出せる気がする この瞬間を生きよう ここグランドホテルで」、この曲のラストフレーズが耳の奥に届くと、オットーを照らし出していたスポットライトが消え、舞台が暗転します。そしてフレムシェンとジミーズのダンスナンバー、Maybe My Baby Loves Meが始まるのです。上手の電話台で客席に背を向けて、音楽に合わせてコケティッシュにリズムを刻むフレムシェン。若さに輝くフレムシェンのイメージと、オットーがやっと手にした「鍵」のイメージとが重なります。「気づかぬうちにたくさんのものを失ってしまった」というオットーがこれから見つけることになる「何か」がほのめかされているような場面転換の仕方により、観客のイマジネーションも広がります。

一方、ジミーズもあちらこちらから「アメリカン・バー」に登場、サクソフォンなどの楽器を演奏するバンドメンバー数人も右手階段を下りてきて、賑やかなホテルのショーの雰囲気を盛り上げます(場面としては、「ショーのお稽古」という設定です)。ジミーズのひとりである青山さんは、上手から御登場。電話台の魅力的なフレムシェンが気になっているご様子です。紫吹さん@フレムシェンは、ピンクのベロア地のミニ丈のワンピース。青山さんをはじめ、アンサンブルの皆さん@ジミーズは、紫色の燕尾服。へーまさんも書かれていましたが、青山さんのダンスに合わせて、この燕尾服が生み出す表情がとても印象的です。ターンのたびに燕尾服のテールが空気を孕んで身体の動きを追いかけるように描く線、そしてチャールストンのステップに合わせて、まるで小刻みに踊っているかのように揺れるテールのシルエット。またこの燕尾服の脚のシルエットは、若干ゆったりとした感じでしたが、青山さんにおいては、チャールストンを踊っているときも、そんな条件を少しも感じさせませんでした。衣裳の細部に美感を生み、ご自身のダンスの魅力に取り込んで魅せてしまう青山さん、本当に素敵でした。そして同じ紫色の燕尾服でも、他の場面で音楽とともにダンスも変わると、青山さんはその扱い方を微妙に変化させていたように見えました。

「それが、ホットなジャズっていうやつ?」「今のお稽古だったの?」フレムシェンは、歌い踊るジミーズに、言葉をかけます。この場面は、フレムシェンとジミーズにより、ダンスと台詞、歌が巧みに織り交ぜられ展開していく、眼にも耳にも楽しい、こちらも思わず踊りだしたくなるようなものとなっています。当時大流行して人々が夢中になっていたという、アメリカからやってきたジャズ。そのジャズに合わせて、「お稽古」とは思えないぐらいにダンスを楽しんでいるジミーズ。そして「お客様」と「従業員」との間にあるはずの垣根を、いつの間にか飛び越え、ダンスを踊りながら、つかの間の駆け引きを楽しむかのように、一時を共に過ごすフレムシェンとジミーズ。この作品では、ホテルでダンスに興じる人々が様々な形で登場しますが、新しい音楽であるジャズに合わせて、当時一世を風靡していたというチャールストンのダンスというものを、最初に、しかも鮮烈な印象で楽しめるのがこの場面です。この場面の後半部分で、非常に短いものではありますが、紫吹さん@フレムシェンと、青山さん@ジミーが、向かい合ってチャールストンを踊るシーンがあるのです。『グランドホテル』におけるダンスの「見せ場」のひとつと言ってもよい場面だと思います。

この曲の冒頭、スキャット、「シュビドゥバンドゥンデ(こんな音に聞こえました)」の音の響きがスパイスとして効いた、テンポの速い小粋なリズムを、青山さん、高山さんのお二人が舞台前方で、しなやかな動きと勢いのあるターンを散りばめながら魅せてくれます。低音を奏でるベースの弦が周囲の空気を振動させるかのようなビート感、ピアノの鍵盤の上をピアニストの指先が即興で走るかのような軽やかさ、管楽器が勢いよく空間を切り裂くように刻むリズム・・・。ジャズを奏でる楽器さながらに、身体の真ん中にスッと通った軸を中心として、腕と脚に導かれるように左右にしなやかに展開する悩ましげで曲線的な動き、フロアとおしゃべりをしているかのように軽やかに刻まれるステップ、そして音楽に一歩先んじるように、そこに急に加えられるスリリングな動きやターン。ジミーズのひとりである青山さんの身体から伝わってくるもの、この「スリリングな感覚」と「音楽と戯れている感じ」は、テンポというものに自由自在に追いつくように、また時に追いかけられるように関わりあう、その仕方によるものではなかったかと思うのです。青山さんがこの曲の「音楽そのもの」であることは明らかですが、「メトロノームのように正確なリズムを刻む青山さん」(へーまさんの05年2月「春が来るたびに」をご参照ください)の進化したヴァリエーションのひとつとも言うべき、「ジャズを踊る青山さんの魅力」にある、この「スリリングな感覚」と「音楽と戯れている感じ」に、完全に魅了されてしまいます。洒落た台詞のやりとりの間に挿まれる、短くも非常に凝縮されたダンスに詰め込まれたエネルギーと、溢れんばかりの豊かな表情に、思わず吸い付けられ、引き込まれてしまいます。青山さんのダンスは、非常に濃密なフレーズの魅せ方を究めたものでした。

息を呑むようなスピード感のうちにひとつのフレーズが閉じられるかと思うと、そのフレーズの切れ目で、この曲のストーリーを感じさせるようなジミーズとしての表情が豊かに加えられます。例えば、フレムシェンが電話で話す直前には、「シー」と口の前に指を添えて、静かにするように緊張感を促す振りが入っていました。またあるときはエネルギーがこぼれ落ちるような、「ダンスすることの悦び、あるいは魅力的なフレムシェンへの陶酔感」が発散されるような表情が加えられたりもしていました。このような表現は、魅力的なフレムシェンへと観客の視線と想像力を誘導するクローズアップの手法、そして彼女の魅力を際立たせるための手法であるのかもしれません。しかし同時に、音楽に合わせてダンスをし、つかの間の駆け引きに酔うことによって、感情というものを発散させている、そんな彼ら自身を取り巻く状況が伝わってきます。曲のテンポと自由自在に戯れることによりスリリングに展開するフレーズ、その切れ目で加えられる、緊張感をスッと解くごとく脱力するような表情は、ダンス、あるいは魅力的な女性に身を焦がし、自ら望んで消耗しているような感覚、つまりそれはこの場面の空気、そういうものが伝わってくるのです。特に曲の後半部分、ジミーズが身体をよじらせ、関節を不自然に折り曲げるような振りで、所々力をストンと抜くように、音楽に合わせて連続して身体全体でリズムを刻むところがあります(短いスキャットが立て続けに歌われるところ)。「僕はこんなに愛してるのに 彼女は知らん顔・・・」という歌詞にもあるように、魅力的なフレムシェンと、ダンスにクレイジーになってしまっている彼らの様子がよくわかります。支配人のローナをはじめとして、ジミーズたちは皆個性豊かで、愛すべき人たちなのですが、そんな彼らは皆、ダンスとフレムシェンに夢中。でもジミーズの気持ちとは裏腹に、フレムシェンは自分で自分に「映画に出たら」と言っているほどに、「映画に出ること」に夢中なのです。そんなジミーズの中で青山さんは、ダンスと、フレムシェンとの駆け引きということでは、ジミーズを引っ張っているかのような印象を与えていて、最高に「魅力的な」キャラクターとして輪郭鮮やかです。

曲の後半、盛り上がりの部分では、そんな青山さん@ジミーと、紫吹さん@フレムシェンのお二人が、舞台前方に出て向かい合ってチャールストンを踊りあいます。それぞれが左右の腕を交互に出したり引いたりしながら、速くなってゆくテンポに合わせて、ひとつひとつの脚の関節を頂点にして、ジグザグに空気をかき混ぜるようなチャールストンのステップを刻みます。ダンスとしては非常に短いものですが、膝を中心にして内側に蹴られる爪先が、足首のバネによって力強く戻る・・・、そんな青山さんのバネの力強さと軽やかさが同居しているような、しなやかでありながら鋭角さを印象付ける脚全体の動線が、とても鮮烈に心に刻み込まれます。フレムシェンの「子鹿のような」足捌きと合わせて観ていると、このダンスの魅力、つまり鼓動が速くなるようなスリル感、そして、ハートが熱くなるような当時の人々の熱狂ぶりというものに対する臨場感が、身体のなかに湧き起こるのを感じます。青山さんと紫吹さんが向かい合って踊るチャールストンは、生命の躍動感に溢れ、まさに「踊ること=この瞬間を生きること」、そんなことを観客に直感させるものだったのではないでしょうか。

曲の中盤、フレムシェンとジミーズが会話をするシーン、横一列に重なるように並んだジミーズ。端から順番に、「僕の名前はジミー」、「僕の名前もジミー」、最後にジミーズ全員で「そして僕の名前もジミー、君は?」と声を揃えて、そう尋ねられたフレムシェンは、魅力たっぷりに「フレムシェン」と応えます。「オーラーラー(仏語っぽく)、フレムシェン~」と肩を揺り動かしながら、すかさず反応を返すジミーズ。高級ホテルのお客様と従業員の関係という枠を外れて、ダンスによって心を通わせてゆく様子が、とても楽しいシーンです。またあるときは、あんなにダンスを楽しんでいたはずのジミーズが、急に整列して姿勢を正し、うやうやしくお辞儀をしながら、「我々一同は、ここグランドホテルでお客様の皆様にショーも披露しております・・・」とフレムシェンに説明したりもします。個性豊かなジミーズのメリハリのある演技によって、洒落た台詞のやりとりに、軽妙さと媚態に溢れたユーモアの表情が付加されます。そんな台詞のやりとり、そして短いながらも非常に濃密なフレーズが詰め込まれたダンス、この二つの要素が交互に、コントラストも鮮やかに展開されることにより、いつの間にか、当時の華やいだざわめきに満ちた空気に巻き込まれ、酔うことができるような気がしました。

この場面は、確かにショーとしての魅力に溢れた「ダンスシーンの見せ場」です。しかし同時に、20年代・ベルリンという背景提示の役割をも負っているようにも思われました。「ショーのお稽古」あるいは「仕事」としてのダンス、そのことは脇において、理屈抜きにつかの間のダンスという享楽に身を任せて、酔う、そしてそんな「ダンス」を通じて、男と女がひと時の駆け引きのようなものを楽しむ。青山さんの肌理の細かい演技が織り込まれたジミーズのダンスを観ていると、そのような当時の空気が眼前にとても魅力的な光景として繰り広げられる気がしました。「自ら踊るためのダンス=チャールストン」の流行は、二つの大戦に挟まれたあの時代につきまとう無意識的な不安感を背景に、つかの間の華やかさを求める当時の人々の心の奥底に根ざしたものだったのかもしれない、しかし明るみの裏に暗闇を潜在的に秘めたそんな時代を生き続けた人々が確実にいた・・・。この場面での青山さんを観ていると、そんな人々の息づかいというものが聞こえてくるかのようです。この作品においては、「踊る」という言葉が主要登場人物の台詞に多用されていて、この言葉には、ウォルフォードさんがパンフレットで述べている「人生の波が溢れ出てくるような巨大なエネルギー」、そのようなものが託されているような気がします。この場面でジミーズの青山さんが魅せてくれたダンス、とりわけチャールストンには、あの時代の人々を突き動かしていた「何か」が宿っていたような気がします。

この曲の華麗なフィニッシュの直前、センターで踊る青山さん演ずるジミーにウインクを送られたフレムシェンは、この「アメリカン・バー」でつかの間のチャールストンを楽しんだ後、ベルリンのホテルでの一日をどのように過ごすことになったのでしょうか・・・。

◆『グランドホテル』詳細レポⅡ

2007-01-10 22:21:15 | グランドホテル
At the Grand HotelTable with a View 「グランドホテルで」「窓辺のテーブル」

このシーンの冒頭、ユダヤ人会計士、オットー・クリンゲラインは回転扉を通り、ホテルのロビーへと、駆け込むように登場してきます。働き詰めの人生であったにもかかわらず、不治の病を患っていることを知ったオットー。何かを探し、見つけるために、このグランドホテルにやってきたようなそんな彼に対し、ドクターはこのシーンの中盤で、「人生は路面電車に飛び乗るようにはいかない」という言葉をかけます。「気づかないうちにたくさんのものを失くしてしまった」という彼の人生とは裏腹に、彼が両手に持つ革製カバンには何かがぎっしりと詰まっているように見えます。こげ茶色の山高帽子に蝶ネクタイ、ジャケット・ベスト・ズボンのそれぞれが模様の違う生地で仕立てられている、素朴な感じのする装い、その上にはヘリンボーン地のコートを着込んでいます。「予約を入れてある」と主張するオットーですが、その身なりで、とっさにホテルの支配人、ベルボーイたちは、「招かれざる客」であることを判断し、あいにく満室であることを告げて、お引取り頂くように、慌てて取り計らいます。青山さん演ずるベルボーイも、即座にこの「招かれざる客」の頭のてっぺんから足の先までを眺め、「困惑と嘲笑の眼差し」を投げかけ、慌てて彼の革製カバンを、オットー本人の意志に反して、「カバンをお運びいたします」とばかりに、無理やり回転扉の外へ運び出そうとしていました。

そんな押し問答をしていると、オットーは突然、持病の発作を起こし、胸を押さえてよろけてしまいます。このホテルにはふさわしくない客として、オットーに対して横柄な態度をそれまで取っていたベルボーイたちは、驚いた様子で、オットーを気遣い、椅子を差し出します。そこに座ったオットーは、自分が「ユダヤ人」であるから、このホテルに泊まることが出来ないということを指摘します。そんなことは決してない、と支配人たちは弁明しますが、「お金持ちになったら、ユダヤ人ではなくなるのですね。」とオットーは、精一杯に反論します。

そのようなオットーを傍らから見つめるベルボーイたちですが、小堺さん演ずるオットーのすぐ横で、刻々と繊細に変化するオットーの表情と言動に呼応するかのように、肌理の細かい演技をする青山さんがとても印象的でした。小堺さんのオットーとすぐ横に立つ青山さんのベルボーイを組み合わせてひとつの視界のなかで観ていると、オットーの置かれている状況というものがどのようなものであるのか、そのようなひとつの文脈のようなものが読み取れるような気がしました。複雑な状況を抱えて、何かを決意し、このグランドホテルにやってきたオットーを、一人のベルボーイのまなざしと合わせて観ることで、観ている方としては、付随する様々なことを想像することができたのです。格式高いホテルのベルボーイとして、貧しい身なりを一瞥するその視線、お引取りいただくよう計らう態度。表向きは丁重な応対をしつつも、横柄さが滲み出るような態度で追い払おうとしたときに、その相手が急に倒れてしまうという驚き。そして実は持病を持っていて、長い命ではないということをほのめかされたときの驚きと同情の表情。ロビーのど真ん中で、「ユダヤ人」であることの不公平感を精一杯主張するオットーに対する困惑の混ざった、一部同感しているような表情。小堺さん演ずるオットーの感情の起伏の線が、青山さん演ずるベルボーイの反射鏡によって、さらにくっきりと見えるような気がしました。

ここグランドホテルに宿泊することこそが、彼にとっての「人生」である、と期待と希望に満ちた決意を込めて、Table with a Viewを歌うオットー。ホテルで繰り広げられる光景を歌いながら、これこそが自分にとっての「人生」である!と4ヶ国語で”das Leben, la vita, la vie, the life!”と歌い上げます。危うくホテルから追い払われそうになったオットーでしたが、男爵の計らいにより、幸運にもこのグランドホテルに宿泊することができるようになります。宿泊できる幸運を喜ぶオットーは、男爵、ドクター、エリックと共に、チェックインする部屋に向かって、階段の床を一歩一歩大事そうに踏みしめ、その感触を確かめるかのように上ってゆきます。「死ぬことが待ちきれない」というドクターの存在と、「死ぬのがわかっていても、なお生きようとする」オットーの存在は、対照的に映りますが、そんなドクターは、自分とは対照的なオットーの存在感に、心の奥底では惹かれている様子です。「貝殻を突き破り 飛び出せる気がする この瞬間を生きよう ここグランドホテルで」というAt the Grand Hotelの歌詞とともに、オットーが、やっと手にしたホテルの部屋の「鍵」を宙に投げ上げて、再び大事そうに両掌で握り締める、というこの場面のラストが、小堺さんの表情とともにとても印象的でした。そして、そんなオットーを照らし出していたスポットライトが消え、舞台が暗転するとまもなく、フレムシェンとジミーズのダンスナンバー、Maybe My Baby Loves Meが、階下で繰り広げられます。