Roses at the Station Bolero How Can I Tell Her? Final Scene Part 1,2The Grand Parade
「ステーションの薔薇」「ボレロ」「なんて言ったら」「最後の場面パート1、2」「グランドパレード」
「ラッキーショット」、心臓を真っ直ぐに貫くショットはそのように呼ばれるが、その銃弾に倒れた男爵にとっては、それは「ラッキーショット」とは言えなかった、という内容の、ドクターによるモノローグが入ります。何が起きたのかということを、観客に向けて、静かに、それでいて重みをたたえて伝えてくれるドクター役の藤木さんの言葉が非常に印象的です。すると、舞台中央奥からひとり男爵が登場してきます。このときの男爵は黒いタキシード姿、胸には赤い薔薇を一輪さしています。男爵は、これまでもダンスシーンではタキシードの胸ポケットに薔薇の花を挿していました。グルーシンスカヤとの「愛」の象徴である赤い薔薇が、ドクターの台詞にあった「ラッキーショット/心臓を貫いた銃弾」という言葉と重なり、男爵の「死」をイメージさせます。そして男爵は、「ステーションの薔薇」をグルーシンスカヤに対する万感の思いを込め、歌い上げてゆきます。男爵が盗みを目的に侵入したはずだった彼女の部屋。しかし、そこで男爵はグルーシンスカヤと落ちるはずのない恋に落ちてしまったのでした。ウィーンへと旅立つ今日、駅で薔薇を抱いて待っている、と男爵がグルーシンスカヤと取り交わしたはずだった約束・・・。「エリザベータ 僕はここだよ 薔薇を抱いて待っている・・・」しかし、もう男爵のそんな声も彼女に届くはずがありません。幼い頃から馬に乗り、兵士として活躍した戦場でも、銃弾に貫かれたことなどなかった男爵。自分のこれまでの人生は、この薔薇を抱いて駅でグルーシンスカヤを待っている、ただこのときのためにあったのだと悟った男爵が、その一歩手前でプライジングの銃弾に倒れてしまったという無念さを切々と歌ってゆきます。曲の盛り上がりとともに、男爵の元に無数の赤い薔薇の花びらが降り注ぎ、そしてドラマティックなこの曲の最後の部分とともに照明が消え、舞台は暗闇に包まれます。
男爵が「ステーションの薔薇」を歌っていた台のようなセットのそばで、再びドクターが語ります。敵同士であったはずの「愛と死」が再び顔を合わせ、手を結び、契りを結ぶ・・・、と。すると、作品冒頭で、上手下手のそれぞれの袖へと、何かに引き離されるかのように、別れていったジゴロと伯爵夫人が、この台を挟んだ向こう側とこちら側に登場してきます。敵同士であるはずの「愛と死」が再び手を結ぶことを象徴するかのように、ジゴロと伯爵夫人のふたりが、「ボレロ」を踊るために再び手を固く結びあいます。西島鉱治・向高明日美ペアが、回転扉の前でダイナミックに、かつ荘厳に、「ボレロ」を踊ります。このダンスは、グルーシンスカヤと男爵に訪れた悲しい運命を表しているようでもあります。しかし、力強く打楽器がたたきだすリズムの背景で流れる、この「ボレロ」の音楽のメロディーは、グルーシンスカヤの付き人であるラファエラが歌っていた「What You Need/あなたに必要なもの」です。そのせいか、ある意味「悲劇」ともいえる男爵とグルーシンスカヤの関係のみを示唆しているわけではない、ということも感じ取れます。つまり、未来につながる何かも感じ取ることができる場面でもあるような気がしました。男爵の命というものが、様々な意味で引き継がれていくことになる、この後の展開というものがイメージされるような気がしたのです。この曲は「ボレロ」なので、一定のリズムを刻みながらも、徐々に盛り上がり、大変ドラマティックな展開の仕方をする曲なのですが、メロディーが「あなたに必要なもの」をアレンジしたものであるからでしょうか、作品終盤に向けて、希望的な展開を観客が予感できるような気がしたのです。グルーシンスカヤをはじめとする登場人物たちの、男爵亡き後の「この後」を予想すると、いたたまれない気持ちにもなるのですが、「ボレロ」のダンスを観て、音楽を聞いていると、そんな登場人物ひとりひとりにとっての「あなたに必要なもの」が意識されてくる気がしたわけなのです。この曲の終盤、青山さんたちベルボーイをはじめとしてホテルの従業員たちも、冒頭のシーンのようにコーラスしながら回転扉の前に登場してきます。荘厳でドラマティックな音楽に合わせるようにして、ゆったりと確実に、おごそかな雰囲気で、一歩一歩を踏みしめるようにして登場してきて、センターで「ボレロ」を踊る二人を囲むような形でコーラスします。青山さん演ずるベルボーイも回転扉の付近で、コーラスされています。
「グランドホテルの日常」という現実からはかけ離れているような、幻想的で荘厳な「ボレロ」のダンスが終わると、再びシーンは、現実的色彩を取り戻したいつものホテルの日常へと戻ります。悲しみと動揺を秘めながらも、新しい何かが始まることを予感させるような活気に溢れた「How Can I Tell Her?/なんて言ったら」の曲。そのイントロ部分が聞こえてくると、ベルボーイたちが忙しく歩き回る、いつものホテルの風景が眼の前で繰り広げられるのです。そこでは、男爵がプライジングの銃弾によって、この世を去ったという事実を知る人びとの様子が描かれます。グルーシンスカヤの付き人であるラファエラは、上手よりの階段に腰掛け、男爵の死という事実を、グルーシンスカヤに一体どうやって伝えたらよいのか、という気持ちをこの曲で歌い上げます。この曲の中で、男爵の死という事実をその場に居合わせた人びとが知る場面があるのですが、そのシーンでは、青山さんたちベルボーイなどの従業員たちが、それまでしていた行動を急に停止し、シーン自体をフリーズさせるという部分があるのです。青山さん演ずるベルボーイも、上手よりの階段付近で歩いていた動作をピタッと静止させます。場面全体がフリーズするというこの演出によって、男爵の死というものがいかに衝撃的であったのかがとてもよく伝わってくるような気がしました。
そしてその男爵を銃で撃ち、死に至らしめてしまったプライジングは、手錠をかけられ、連行されようとしています。決して故意に男爵を撃ったわけではないプライジングは、自分がしてしまったことに対して、罪の意識にさいなまれています。「手を洗いたいんだ・・・」と自分を連行しようとしている警官に向かって言いますが、聞き入れてもらえません。そのまま警官たちに付き添われながら、階段をうつむき加減に下りていき、グランドホテルを後にします。「持つ者」としてここグランドホテルにやってきたはずのプライジングですが、「持たざる者」としてここを出てゆくことになるのです。プライジングは、「高慢な実業家」である反面、「道を踏み外したことのない実直な面」、「家族思い」な面も持っている。そんな彼であるからこそ、「はずみ」で男爵を死に至らしめてしまった彼の哀しさが伝わってきます。
一方、フレムシェンは、オットーとともに、今は亡き男爵を偲び、思い出に浸っています。「ハンサムで若くて優しかった・・・」と、男爵のことを語るオットー。オットーにとって男爵は、本来宿泊できる立場ではない自分を、このグランドホテルに宿泊できるよう取り計らってくれたその人であり、株への投資を薦め、オットーに一夜にして大金を持たせるように導いてくれたその人でもあります。またフレムシェンにとっての男爵は、あと一歩で引き返すことのできない道に進むはずだった自分のために、自ら命を落として救い出してくれたその人でもありました。そんな二人が男爵の面影を求める姿には、胸が熱くなります。そしてオットーは、フレムシェンに対して、何故プライジングとそんなことにならなければならなかったのかを問います。それに対して、フレムシェンは、新しい生活を始めるためにはお金が必要だったと告げるのです。フレムシェンは、回転扉の前でいま一度、何かを思い出したかのように立ち止まり、グランドホテルの風景を見渡します。そして、さまざまな想いを胸に、グランドホテルを後にするのですが、重い回転扉のドアをか細い身体で精一杯に押しながら、グランドホテルを出てゆく紫吹さん演ずるフレムシェンの後姿がとても印象に残りました。
続いて「Final Scene Part 1」では、朝を迎えたグランドホテルの風景が繰り広げられます。作品冒頭と同じように、電話交換手たちが電話を片手に通話したりするなかで、フロント係のエリックの元に、産気づいていた妻が無事に男の子を出産したという知らせが届きます。待ち望んだ新たな命の誕生に、込み上げるよろこびを隠せないエリック。息子の誕生を知らせる電話の受話器を片手に、「人生は大きくもなる 人生は小さくもなる あなた次第で」と、伸びやかな声で、パク・トンハさん演ずるエリックは、見事に歌い上げます。
男爵の死をいまだ知らされておらず、駅で自分を待っていると信じているグルーシンスカヤ。彼女も付き人ラファエラたちとともに、ウィーンへと旅立つために、回転扉を通り、グランドホテルを後にしてゆきます。
またオットーも出発のために下手側の階段を下りてきます。ドクターはオットーを見つけ、彼に対し、人生を見つけたこのグランドホテルから出発するのですね、という内容の言葉をかけます。「死ぬのが待ちきれない」はずなのに「生」に執着せずにはいられないドクターと、明日訪れるかもしれない「死」と隣り合わせであるのに今眼の前にある「生」を精一杯に生きようとするオットー。そんな二人が何かを分かち合うように、出発の間際に心を通い合わせるこの場面が、とても印象に残ります。
そこへタイプライターをホテルに置き忘れたフレムシェンが、再び戻ってきます。オットーと再会するフレムシェン。オットーはパリに行くことにしたことをフレムシェンに告げます。それはいいわね、とつぶやくフレムシェンに対して、オットーは「ご一緒にといいたいところだが、あいにく僕は死にかけている」と告げます。そんなオットーに対して、彼女は当然のことのように「みんなそうよ(死にかけている)」と答えます。その言葉を聞いて、何かに気づいたオットーは、フレムシェンに一緒にパリに行くことを提案します。しかしフレムシェンは本当のことを言わなければ、と自分のお腹の中に新しい命が息づいていることを、オットーに告げます。それを聞いたオットーは、僕はまだ生まれたばかりの赤ちゃんというのを見たことがない、と言って、再びフレムシェンにパリに一緒に行ってくれるように頼むのでした。オットーのやさしさにふれて、共にパリへと旅立つ決心をするフレムシェン。
そんな彼らの元に、息子が生まれたことを知らせようとエリックがやってきます。オットーたちは、「ほら、ここにも人生があるじゃないか!」と言って、エリックとともに、新しい命の誕生のよろこびを分かち合います。そして男爵から譲り受けたシガレット・ケースを、オットーはエリックに渡します。男爵の命が、エリックに誕生した新しい命へと引き継がれるイメージです。男爵によって新たな幸福の道へと一歩踏み出すきっかけをつかんだフレムシェンのなかで生きる新たな命、そしてエリックの元に誕生した新しい命・・・。
いよいよグランドホテルからパリへと旅立つオットーとフレムシェン。作品冒頭では、貧しい身なりのオットーを「ふさわしくないお客」として、一刻も早くホテルから追い払おうとしていたベルボーイたち。しかし、この祝福すべき旅立ちの場面では、彼らの態度も対照的です。冒頭では、オットーのカバンを、本人の意志に反して、回転扉の外へと無理やり運び出そうとしていました。しかしこの場面では、手を携え共に旅立とうとするオットーとフレムシェンの背景で、まるで彼らの新たな旅立ちを祝福するかのように、青山さんたちベルボーイは、誇らしげな態度と表情で、彼のカバンを胸の前で丁寧に抱えます。この場面、オットーとフレムシェンの向かって左側で、ベルボーイとしての祝福の気持ちを、きめ細かい表情で表現されている青山さんがとても印象的でした。グランドホテルに「クリンゲライン様にタクシーを!」の高らかな声が次々と響きます。回転扉をくぐり、グランドホテルを旅立つオットーとフレムシェン。
人生をつかんでグランドホテルを後にする者がいる一方で、このグランドホテルでいくら働けども何も変わらない人生を送る者たちもいる。それがベルボーイたちと洗い場の労働者たちです。再び「持つ者と持たざる者」の曲とともに、彼らが勢いよく飛び出してきます。作品冒頭部分でも歌われていたこの曲ですが、このシーンでは途中から日本語ではなく、ドイツ語の歌詞で歌われます。それは、当時のワイマール時代のドイツに、すぐそこまで忍び寄っていたナチス時代の到来を予感させるものです。いくら働いたとしても「持たざる者」から抜け出すことのできない彼らの鬱屈した感情が、労働者たちを演ずるアンサンブルの力強いコーラスと地面に楔を打ち込むような重みのある行進風のステップから、恐ろしいぐらいに伝わってきます。このシーンの青山さんは、ベルボーイのあの制服を着て、労働者たちの中心で、歌いながら行進風のステップを踏みますが、青山さんの全身から発散される冷徹で凄味のある表情を観ていると、ドイツに迫り来る恐ろしい時代の空気というものが鳥肌が立ってしまうほどに伝わってくるようです。そして不思議なことに、青山さんの着ているあのベルボーイの制服が、「冷たい軍服」に見えてくるのです。この曲の最後のフレーズをアンサンブルが歌い終えると同時に、舞台中央で一団となって歌い踊っていた彼らも、何事もなかったかのように、それぞれに散っていきます。
アンサンブルのコーラスの声に導かれるようにして、再び「グランド・パレード」の曲・・・。いつもと何も変わらないグランドホテル。人は来て、人は去る・・・。回転扉は回り、人生は続く・・・。ドクターが語るなか、壁から登場し、回り続ける回転扉へと次々と吸い込まれるようにして、グランドホテルを出てゆくゲストたち。ゲストを送り出す回転扉の速度が、音楽とともにますます速くなってゆく様子を見ていると、まるでこの「グランドパレード」の曲のテンポを決めているのが、この回転扉であるような気がしてきます。最後のゲストが回転扉を通り抜ける頃、ドクターの「もう一晩泊まることにしよう」という言葉が耳に入ってきます。それぞれの持ち場でゲストたちを見送ったベルボーイや電話交換手などのホテルの従業員たちも、それぞれの持ち場を離れ、どこかへと消えてゆきます。回転扉のみが回り、誰もいなくなったグランドホテル・・・。今まで眼の前で繰り広げられていたものが、まるで「幻」のように消えてなくなってしまったような錯覚にとらわれます。
そしてフィナーレは、登場人物たちが全員登場してきて、「グランド・ワルツ」の曲に合わせて、華やかにワルツを踊ります。ただベルボーイたちだけは、それぞれのポジションに立ち、ゲストたちの宴を、見守り続けます。青山さんも曲が始まると、上手よりの立ち位置からゲストたちに丁寧に一礼をしながら、下手よりの階段へと移動してきます。「人生はめぐり、めぐる・・・」この人生の賛歌を笑顔で誇らしげに、そして高らかに歌い上げます。ゲストたちがそれぞれのパートナーとワルツを踊る様子を、暖かいまなざしで見守りながら、歌っておられる青山さんの表情がとても素敵でした。
限られた時間と場所で、何かを抱えた人びとの様々な人生が交錯し、織り成されるドラマ。そのような「限られた時間と場所」の象徴であるグランドホテルで、回転扉が回るなか、さまざまな人びとが出会い、別れ、そして旅立ってゆくのを観ていると、「人生は続いてゆく」ということが、生きるということへの希望とともに湧き起こってくる気がしました。青山航士さんの生のエネルギーを凝縮したような素晴らしいダンス。そして、卓越したマイムによって創出されるイリュージョンのような光景。そのコントラストが非常に鮮やかで、人生における「踊ること」の意味というものについて、さまざまに思いをめぐらすことができる作品でした。青山さんの数々の表現の、密度の濃さと幅の広さに改めて感じ入ると同時に、表現者としてのたくましさに心の底から圧倒された舞台だったと思います。この作品は2006年1月に東京国際フォーラムホールCで上演された作品で、既に1年2ヶ月ほど経過しています。私がこの作品の「詳細レポ」に着手したのは、昨年の2月でした。「詳細レポ」完結までにたどり着くまでに、大変時間がかかってしまいましたことをお詫びしたいと思います。しかもどのレポも「激長」です。これまで、投稿ペースが非常に遅く、しかも長文・拙文の私のこのレポにおつきあいいただき、また暖かく見守ってくださった皆様には、心からの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。
「ステーションの薔薇」「ボレロ」「なんて言ったら」「最後の場面パート1、2」「グランドパレード」
「ラッキーショット」、心臓を真っ直ぐに貫くショットはそのように呼ばれるが、その銃弾に倒れた男爵にとっては、それは「ラッキーショット」とは言えなかった、という内容の、ドクターによるモノローグが入ります。何が起きたのかということを、観客に向けて、静かに、それでいて重みをたたえて伝えてくれるドクター役の藤木さんの言葉が非常に印象的です。すると、舞台中央奥からひとり男爵が登場してきます。このときの男爵は黒いタキシード姿、胸には赤い薔薇を一輪さしています。男爵は、これまでもダンスシーンではタキシードの胸ポケットに薔薇の花を挿していました。グルーシンスカヤとの「愛」の象徴である赤い薔薇が、ドクターの台詞にあった「ラッキーショット/心臓を貫いた銃弾」という言葉と重なり、男爵の「死」をイメージさせます。そして男爵は、「ステーションの薔薇」をグルーシンスカヤに対する万感の思いを込め、歌い上げてゆきます。男爵が盗みを目的に侵入したはずだった彼女の部屋。しかし、そこで男爵はグルーシンスカヤと落ちるはずのない恋に落ちてしまったのでした。ウィーンへと旅立つ今日、駅で薔薇を抱いて待っている、と男爵がグルーシンスカヤと取り交わしたはずだった約束・・・。「エリザベータ 僕はここだよ 薔薇を抱いて待っている・・・」しかし、もう男爵のそんな声も彼女に届くはずがありません。幼い頃から馬に乗り、兵士として活躍した戦場でも、銃弾に貫かれたことなどなかった男爵。自分のこれまでの人生は、この薔薇を抱いて駅でグルーシンスカヤを待っている、ただこのときのためにあったのだと悟った男爵が、その一歩手前でプライジングの銃弾に倒れてしまったという無念さを切々と歌ってゆきます。曲の盛り上がりとともに、男爵の元に無数の赤い薔薇の花びらが降り注ぎ、そしてドラマティックなこの曲の最後の部分とともに照明が消え、舞台は暗闇に包まれます。
男爵が「ステーションの薔薇」を歌っていた台のようなセットのそばで、再びドクターが語ります。敵同士であったはずの「愛と死」が再び顔を合わせ、手を結び、契りを結ぶ・・・、と。すると、作品冒頭で、上手下手のそれぞれの袖へと、何かに引き離されるかのように、別れていったジゴロと伯爵夫人が、この台を挟んだ向こう側とこちら側に登場してきます。敵同士であるはずの「愛と死」が再び手を結ぶことを象徴するかのように、ジゴロと伯爵夫人のふたりが、「ボレロ」を踊るために再び手を固く結びあいます。西島鉱治・向高明日美ペアが、回転扉の前でダイナミックに、かつ荘厳に、「ボレロ」を踊ります。このダンスは、グルーシンスカヤと男爵に訪れた悲しい運命を表しているようでもあります。しかし、力強く打楽器がたたきだすリズムの背景で流れる、この「ボレロ」の音楽のメロディーは、グルーシンスカヤの付き人であるラファエラが歌っていた「What You Need/あなたに必要なもの」です。そのせいか、ある意味「悲劇」ともいえる男爵とグルーシンスカヤの関係のみを示唆しているわけではない、ということも感じ取れます。つまり、未来につながる何かも感じ取ることができる場面でもあるような気がしました。男爵の命というものが、様々な意味で引き継がれていくことになる、この後の展開というものがイメージされるような気がしたのです。この曲は「ボレロ」なので、一定のリズムを刻みながらも、徐々に盛り上がり、大変ドラマティックな展開の仕方をする曲なのですが、メロディーが「あなたに必要なもの」をアレンジしたものであるからでしょうか、作品終盤に向けて、希望的な展開を観客が予感できるような気がしたのです。グルーシンスカヤをはじめとする登場人物たちの、男爵亡き後の「この後」を予想すると、いたたまれない気持ちにもなるのですが、「ボレロ」のダンスを観て、音楽を聞いていると、そんな登場人物ひとりひとりにとっての「あなたに必要なもの」が意識されてくる気がしたわけなのです。この曲の終盤、青山さんたちベルボーイをはじめとしてホテルの従業員たちも、冒頭のシーンのようにコーラスしながら回転扉の前に登場してきます。荘厳でドラマティックな音楽に合わせるようにして、ゆったりと確実に、おごそかな雰囲気で、一歩一歩を踏みしめるようにして登場してきて、センターで「ボレロ」を踊る二人を囲むような形でコーラスします。青山さん演ずるベルボーイも回転扉の付近で、コーラスされています。
「グランドホテルの日常」という現実からはかけ離れているような、幻想的で荘厳な「ボレロ」のダンスが終わると、再びシーンは、現実的色彩を取り戻したいつものホテルの日常へと戻ります。悲しみと動揺を秘めながらも、新しい何かが始まることを予感させるような活気に溢れた「How Can I Tell Her?/なんて言ったら」の曲。そのイントロ部分が聞こえてくると、ベルボーイたちが忙しく歩き回る、いつものホテルの風景が眼の前で繰り広げられるのです。そこでは、男爵がプライジングの銃弾によって、この世を去ったという事実を知る人びとの様子が描かれます。グルーシンスカヤの付き人であるラファエラは、上手よりの階段に腰掛け、男爵の死という事実を、グルーシンスカヤに一体どうやって伝えたらよいのか、という気持ちをこの曲で歌い上げます。この曲の中で、男爵の死という事実をその場に居合わせた人びとが知る場面があるのですが、そのシーンでは、青山さんたちベルボーイなどの従業員たちが、それまでしていた行動を急に停止し、シーン自体をフリーズさせるという部分があるのです。青山さん演ずるベルボーイも、上手よりの階段付近で歩いていた動作をピタッと静止させます。場面全体がフリーズするというこの演出によって、男爵の死というものがいかに衝撃的であったのかがとてもよく伝わってくるような気がしました。
そしてその男爵を銃で撃ち、死に至らしめてしまったプライジングは、手錠をかけられ、連行されようとしています。決して故意に男爵を撃ったわけではないプライジングは、自分がしてしまったことに対して、罪の意識にさいなまれています。「手を洗いたいんだ・・・」と自分を連行しようとしている警官に向かって言いますが、聞き入れてもらえません。そのまま警官たちに付き添われながら、階段をうつむき加減に下りていき、グランドホテルを後にします。「持つ者」としてここグランドホテルにやってきたはずのプライジングですが、「持たざる者」としてここを出てゆくことになるのです。プライジングは、「高慢な実業家」である反面、「道を踏み外したことのない実直な面」、「家族思い」な面も持っている。そんな彼であるからこそ、「はずみ」で男爵を死に至らしめてしまった彼の哀しさが伝わってきます。
一方、フレムシェンは、オットーとともに、今は亡き男爵を偲び、思い出に浸っています。「ハンサムで若くて優しかった・・・」と、男爵のことを語るオットー。オットーにとって男爵は、本来宿泊できる立場ではない自分を、このグランドホテルに宿泊できるよう取り計らってくれたその人であり、株への投資を薦め、オットーに一夜にして大金を持たせるように導いてくれたその人でもあります。またフレムシェンにとっての男爵は、あと一歩で引き返すことのできない道に進むはずだった自分のために、自ら命を落として救い出してくれたその人でもありました。そんな二人が男爵の面影を求める姿には、胸が熱くなります。そしてオットーは、フレムシェンに対して、何故プライジングとそんなことにならなければならなかったのかを問います。それに対して、フレムシェンは、新しい生活を始めるためにはお金が必要だったと告げるのです。フレムシェンは、回転扉の前でいま一度、何かを思い出したかのように立ち止まり、グランドホテルの風景を見渡します。そして、さまざまな想いを胸に、グランドホテルを後にするのですが、重い回転扉のドアをか細い身体で精一杯に押しながら、グランドホテルを出てゆく紫吹さん演ずるフレムシェンの後姿がとても印象に残りました。
続いて「Final Scene Part 1」では、朝を迎えたグランドホテルの風景が繰り広げられます。作品冒頭と同じように、電話交換手たちが電話を片手に通話したりするなかで、フロント係のエリックの元に、産気づいていた妻が無事に男の子を出産したという知らせが届きます。待ち望んだ新たな命の誕生に、込み上げるよろこびを隠せないエリック。息子の誕生を知らせる電話の受話器を片手に、「人生は大きくもなる 人生は小さくもなる あなた次第で」と、伸びやかな声で、パク・トンハさん演ずるエリックは、見事に歌い上げます。
男爵の死をいまだ知らされておらず、駅で自分を待っていると信じているグルーシンスカヤ。彼女も付き人ラファエラたちとともに、ウィーンへと旅立つために、回転扉を通り、グランドホテルを後にしてゆきます。
またオットーも出発のために下手側の階段を下りてきます。ドクターはオットーを見つけ、彼に対し、人生を見つけたこのグランドホテルから出発するのですね、という内容の言葉をかけます。「死ぬのが待ちきれない」はずなのに「生」に執着せずにはいられないドクターと、明日訪れるかもしれない「死」と隣り合わせであるのに今眼の前にある「生」を精一杯に生きようとするオットー。そんな二人が何かを分かち合うように、出発の間際に心を通い合わせるこの場面が、とても印象に残ります。
そこへタイプライターをホテルに置き忘れたフレムシェンが、再び戻ってきます。オットーと再会するフレムシェン。オットーはパリに行くことにしたことをフレムシェンに告げます。それはいいわね、とつぶやくフレムシェンに対して、オットーは「ご一緒にといいたいところだが、あいにく僕は死にかけている」と告げます。そんなオットーに対して、彼女は当然のことのように「みんなそうよ(死にかけている)」と答えます。その言葉を聞いて、何かに気づいたオットーは、フレムシェンに一緒にパリに行くことを提案します。しかしフレムシェンは本当のことを言わなければ、と自分のお腹の中に新しい命が息づいていることを、オットーに告げます。それを聞いたオットーは、僕はまだ生まれたばかりの赤ちゃんというのを見たことがない、と言って、再びフレムシェンにパリに一緒に行ってくれるように頼むのでした。オットーのやさしさにふれて、共にパリへと旅立つ決心をするフレムシェン。
そんな彼らの元に、息子が生まれたことを知らせようとエリックがやってきます。オットーたちは、「ほら、ここにも人生があるじゃないか!」と言って、エリックとともに、新しい命の誕生のよろこびを分かち合います。そして男爵から譲り受けたシガレット・ケースを、オットーはエリックに渡します。男爵の命が、エリックに誕生した新しい命へと引き継がれるイメージです。男爵によって新たな幸福の道へと一歩踏み出すきっかけをつかんだフレムシェンのなかで生きる新たな命、そしてエリックの元に誕生した新しい命・・・。
いよいよグランドホテルからパリへと旅立つオットーとフレムシェン。作品冒頭では、貧しい身なりのオットーを「ふさわしくないお客」として、一刻も早くホテルから追い払おうとしていたベルボーイたち。しかし、この祝福すべき旅立ちの場面では、彼らの態度も対照的です。冒頭では、オットーのカバンを、本人の意志に反して、回転扉の外へと無理やり運び出そうとしていました。しかしこの場面では、手を携え共に旅立とうとするオットーとフレムシェンの背景で、まるで彼らの新たな旅立ちを祝福するかのように、青山さんたちベルボーイは、誇らしげな態度と表情で、彼のカバンを胸の前で丁寧に抱えます。この場面、オットーとフレムシェンの向かって左側で、ベルボーイとしての祝福の気持ちを、きめ細かい表情で表現されている青山さんがとても印象的でした。グランドホテルに「クリンゲライン様にタクシーを!」の高らかな声が次々と響きます。回転扉をくぐり、グランドホテルを旅立つオットーとフレムシェン。
人生をつかんでグランドホテルを後にする者がいる一方で、このグランドホテルでいくら働けども何も変わらない人生を送る者たちもいる。それがベルボーイたちと洗い場の労働者たちです。再び「持つ者と持たざる者」の曲とともに、彼らが勢いよく飛び出してきます。作品冒頭部分でも歌われていたこの曲ですが、このシーンでは途中から日本語ではなく、ドイツ語の歌詞で歌われます。それは、当時のワイマール時代のドイツに、すぐそこまで忍び寄っていたナチス時代の到来を予感させるものです。いくら働いたとしても「持たざる者」から抜け出すことのできない彼らの鬱屈した感情が、労働者たちを演ずるアンサンブルの力強いコーラスと地面に楔を打ち込むような重みのある行進風のステップから、恐ろしいぐらいに伝わってきます。このシーンの青山さんは、ベルボーイのあの制服を着て、労働者たちの中心で、歌いながら行進風のステップを踏みますが、青山さんの全身から発散される冷徹で凄味のある表情を観ていると、ドイツに迫り来る恐ろしい時代の空気というものが鳥肌が立ってしまうほどに伝わってくるようです。そして不思議なことに、青山さんの着ているあのベルボーイの制服が、「冷たい軍服」に見えてくるのです。この曲の最後のフレーズをアンサンブルが歌い終えると同時に、舞台中央で一団となって歌い踊っていた彼らも、何事もなかったかのように、それぞれに散っていきます。
アンサンブルのコーラスの声に導かれるようにして、再び「グランド・パレード」の曲・・・。いつもと何も変わらないグランドホテル。人は来て、人は去る・・・。回転扉は回り、人生は続く・・・。ドクターが語るなか、壁から登場し、回り続ける回転扉へと次々と吸い込まれるようにして、グランドホテルを出てゆくゲストたち。ゲストを送り出す回転扉の速度が、音楽とともにますます速くなってゆく様子を見ていると、まるでこの「グランドパレード」の曲のテンポを決めているのが、この回転扉であるような気がしてきます。最後のゲストが回転扉を通り抜ける頃、ドクターの「もう一晩泊まることにしよう」という言葉が耳に入ってきます。それぞれの持ち場でゲストたちを見送ったベルボーイや電話交換手などのホテルの従業員たちも、それぞれの持ち場を離れ、どこかへと消えてゆきます。回転扉のみが回り、誰もいなくなったグランドホテル・・・。今まで眼の前で繰り広げられていたものが、まるで「幻」のように消えてなくなってしまったような錯覚にとらわれます。
そしてフィナーレは、登場人物たちが全員登場してきて、「グランド・ワルツ」の曲に合わせて、華やかにワルツを踊ります。ただベルボーイたちだけは、それぞれのポジションに立ち、ゲストたちの宴を、見守り続けます。青山さんも曲が始まると、上手よりの立ち位置からゲストたちに丁寧に一礼をしながら、下手よりの階段へと移動してきます。「人生はめぐり、めぐる・・・」この人生の賛歌を笑顔で誇らしげに、そして高らかに歌い上げます。ゲストたちがそれぞれのパートナーとワルツを踊る様子を、暖かいまなざしで見守りながら、歌っておられる青山さんの表情がとても素敵でした。
限られた時間と場所で、何かを抱えた人びとの様々な人生が交錯し、織り成されるドラマ。そのような「限られた時間と場所」の象徴であるグランドホテルで、回転扉が回るなか、さまざまな人びとが出会い、別れ、そして旅立ってゆくのを観ていると、「人生は続いてゆく」ということが、生きるということへの希望とともに湧き起こってくる気がしました。青山航士さんの生のエネルギーを凝縮したような素晴らしいダンス。そして、卓越したマイムによって創出されるイリュージョンのような光景。そのコントラストが非常に鮮やかで、人生における「踊ること」の意味というものについて、さまざまに思いをめぐらすことができる作品でした。青山さんの数々の表現の、密度の濃さと幅の広さに改めて感じ入ると同時に、表現者としてのたくましさに心の底から圧倒された舞台だったと思います。この作品は2006年1月に東京国際フォーラムホールCで上演された作品で、既に1年2ヶ月ほど経過しています。私がこの作品の「詳細レポ」に着手したのは、昨年の2月でした。「詳細レポ」完結までにたどり着くまでに、大変時間がかかってしまいましたことをお詫びしたいと思います。しかもどのレポも「激長」です。これまで、投稿ペースが非常に遅く、しかも長文・拙文の私のこのレポにおつきあいいただき、また暖かく見守ってくださった皆様には、心からの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。ありがとうございました。