The Grand Parade Some Have, Some Have Not As It Should Be
『グランドパレード』『持つ者と持たざる者』『あるべき人生』
開演15分ぐらい前になると、羽をつけた帽子に、20年代の直線的シルエットのドレス姿の女性、あるいはタキシード姿の男性、つまりオーケストラの方々が、チューニングのために舞台上部のスペースに集まり始めます。当時のホテルで実際に演奏していたバンドという趣です。そして、開演時間・・・。
階上のオーケストラ指揮者と一礼を交わし、ステッキを突きながら、階段を下りてくるドクター・オッテルンシュラーグ。フロントのベルの音とともに、ホテルで働く従業員たちの様々な声が飛び交います。青山さんの声は、「ルームサービス、朝食を二人分お願い・・・」でした。冒頭のドラマティックなオケの音に合わせて、ドクターが舞台左手でカバンからモルヒネの注射を取り出し、その注射を腕に突き刺すことにより、このストーリーは始まります。同時に、かすかなスモークが漂い、青系と黄色系の照明がオケの音楽に合わせて劇的に変わるという幻想的なムードのなか、ジゴロと伯爵夫人が現れ、踊ります。再びドクターは、階段を上り、踊り場で宙を見つめ、恍惚の表情を浮かべながら、豪華ホテルの光景を歌います。「クリスタル、ビロード、香水の芳香、シャンデリアのきらめき・・・(歌詞はこんな感じでした)」いよいよ観客は「古きベルリン、グランドホテル」の世界へといざなわれてゆくのです。そしてジゴロと伯爵夫人も、何かに引き離されるかのように、舞台両端へとそれぞれが消えてゆきます。
ドクターが歌う「人は来て、人は去る(People come, people go)・・・」のところで、ステージのあちらこちらからベルボーイなどのホテルの従業員たちが登場してきます。青山さん演ずるベルボーイは回転扉の右横の扉からの御登場です。このときのアンサンブルの動きは、普通の日常生活の動きからは何段階かスピードを落としたようなスローなマイムです。しかし「マイム」とは言っても、その動きは、「パントマイム」という言葉からイメージするようなオーバーアクションな、ぎこちなさとつぎはぎ感のあるものではありません。青山さん演ずるベルボーイは、回転扉のそばで、実際のゲストもいないし、カバンもないのだけれど、マイムの動きでベルボーイとしての仕事をこなしてゆきます。笑顔を浮かべながら、そこにいるはずのないゲストに一礼し、あるはずのないカバンを持ち、ロビーを歩く・・・。どれも日常生活でありふれた動きのはずですが、ひとつの動作からもうひとつの動作に移るときの「継ぎ目のなさ」、そしてそのような動きが流れるようにスローなスピードで展開されることによって、非常に現実感のない、幻想的な空気感が漂うのです。「ドクターが打つモルヒネ」と「アンサンブルのマイムな動き」は、この作品では連動しているようで、ウォルフォードさんがパンフレットで述べている、「イリュージョン」な空気感が舞台を包み込みます。(後半I Waltz Aloneでも「モルヒネ」と「マイムな動き」が連動しています。)ドクターのどこか「死にかけている」存在感とともに、マイムな動きによって醸し出される、アンサンブルたちの眼の前に生きている人間でないような透明感と浮揚感に満ちた非現実的な存在感が、現代からは遠く時間を隔てて存在する「古きベルリン・グランドホテル」のセピアな色彩と薫りを醸し出すのです。
ちなみに、Grand Parade/Some Have, Some Have Not/As It Should Beが絡み合うようにして展開される、冒頭のこのシーンでは途中で、グルーシンスカヤが回転扉を通って、ロビーに登場してくるという場面が挿入されますが、この場面に移るときの質感の変化はたとえて言うなら「セピア色の写真」から「カラーの動画」といった感じです。シーン自体がパッと急に色づく感じで、登場人物に生気が入り、観客が場面に対して抱く現実感もいきなり増します。舞台の幻想的な雰囲気に包まれ、記憶の彼方にまどろむような感覚が消え、観客の中では、舞台での出来事に対する同時代感が一気に高まるという感覚が湧き起こるのです。確かに照明も変わるのですが、青山さんたちアンサンブルの動きの質、あるいは存在感、舞台上でのあり方の変化ということが、観客のなかに起こる変化の一番大きな要因だったような気がします。またグルーシンスカヤと男爵がすれ違う、ドラマティックな二人の出逢いも、アンサンブルの動きがフリーズすることによって、このシーンだけ切り取られたように観客のなかに印象付けられ、これからこの二人に起こる出来事がほのめかされていました。
前述の「スローなマイム」の後まもなく、右手の階段中段に上った青山さん@ベルボーイは、「ようこそ、古きベルリン、ようこそ、グランドホテル」と歌いながら、客席正面と左手客席に向かって、ゆっくりと一礼をしてゆきます。ここで客席に座る観客のひとりひとりも、あたかもこの豪華ホテルをゲストとして訪れたひとりとして存在するかのような錯覚を抱くのです。青山さんは、濃赤色のベルボーイキャップに、所々が金モールで縁取りされ、胸にはGHのロゴが入った同色の上着、白シャツに折り目正しくネクタイを締め、茶色のズボンというお衣裳。ベルボーイとしての青山さんは、格式高いヨーロッパの高級ホテルの玄関で、一番にお客様をお迎えするという役割にふさわしく、背筋がピンと伸び、歩き方をはじめ、身のこなしも優雅でありながら、機敏で端正、その存在感に圧倒されます。回転扉の傍らでたたずむ、荷物を持つためにかがむ、そして歩く・・・、完成された何気ない動作のひとつひとつに、この作品を舞台の上に乗せることに向けて青山さんのなかで醸成されていった時間というものを感じました。くるりと向きを変え、階段を上ってゆく後姿などでは、上半身が微動だにせず、カバンを持つ腕、肩と背中から脚にかけてのラインが、一筆で描かれた完璧な一本の描線を辿るようでした。青山さんがベルボーイとして舞台の上にいるその仕方、とにかく完成された圧倒的な存在感でした。
「人生の華やかさを極めつつも、時間のない」ゲストたち、登場人物のひとりひとりがドクターの言葉で紹介されながら、回転扉を通って登場してきます。このときベルボーイたちはひとりひとりのゲストたちに深々と最敬礼をするのですが、ミニスカートの裾を翻して脚を高く上げポーズをとるフレムシェン御登場のときだけは、右手階段中段に位置する青山さんと高山さん@二人のベルボーイは、「この美しい女性は誰?」とばかりに、横から覗き込むようなしぐさをします。このときも、なんとなく普通よりはスローな動きですが、覗き込む動作に入るときの機敏さが、「思わず、不覚にもベルボーイである立場を忘れてしまった」気持ちを表現しているようでした。また、高山さんから青山さんという動きの流れのなかにある「間」のとり方が絶妙で、そのユーモアが漂う動きが、フレムシェンの向こう見ずな若さの輝きに重なって、とても印象的でした。貧しいアパート住まいに辟易し、何とか現状を変えたいと思っている若きフレムシェンとホテルで働く従業員たちの立場には、近いものがあるのかもしれません。後に続くジミーズとフレムシェンのダンスナンバー、Maybe My Baby Loves Meでも、最高にカッコイイ青山さん@ジミーズのひとりは、フレムシェンとの駆け引きを楽しんでいるように見えて、そんな細かいキャラクター設定も、フレムシェンの人物像の輪郭というものを描き出しているようでした。
「金のない貴族ほど役に立たない者はない」というドクターによる男爵への注釈がつくと同時に、客席の前方端から「洗い場の労働者たち」が舞台へと飛び出してきます。(この作品では、「金」ということに話題が及ぶと、この「洗い場の労働者たち」が登場してくるようでした。例えば、プライジングの商談や男爵の駆け引きなどの場面の周辺で)労働者たちは、迫力のある歌声と、金物を入れた金属製の籠をゆすりながらの激しい動きによって、いくら働いても恵まれないという生活に押し潰されそうな、フラストレーション爆発寸前の心情を、ホテルのゲストたちの豪勢な暮らしぶりと対比しながら吐露してゆきます。「籠のゆすり方、取り扱い方」という細かいことを取ってみても、労働者たちひとりひとりの個性が感じられて、彼らが自分の人生で抱えているものが見えるようでした。
そんな彼らとは対照的に、同じ労働者階級でも、ベルボーイたちは抑制した動きでその心情を表現してゆきます。笑顔と誠意でゲストをお迎えすることが仕事である彼らの、もう一つの側面です。冒頭のこの場面では、男爵が歌うAs It Should Beと絡まりあいながら、このSome Have, Some Have Notは何度か歌われますが、青山さん演ずるベルボーイの抑えの効いた動きには、観ているこちらが客席の背もたれに押し付けられてしまうような「凄み」のようなものがありました。自分の気持ちのやり場のなさを、階段中段のひとつの段で、右に左に数歩ずつ行ったり戻ったりする、またはその場で動かず、「1日100万マルク使える」ゲストたちに対する不公平感を、上半身、腕や掌の動きだけで歌いながら表現する・・・。あるいは舞台前方に出て、その場で身体と顔の向きの角度を曲のフレーズとともに微妙に変化させる・・・。ただそれだけの、「ダンス」とは言えない、非常に動きの少ない振りなのですが、青山さんの動きを観ているだけで、その心の内に渦巻く張り詰めた緊迫感のようなものが押し寄せてくるかのようでしたし、抑えた動きを行う端正な身体/外面と、抑圧された不満が渦巻く激しい内面とのコントラストが逆に、恐ろしいぐらいに印象的でした。同時にステージの全体像として、それぞれのキャラクターが豊かな個性をぶつからせて、心情を吐露してゆくこの場面は、あの時代のドイツにあった空気を伝えるものとしてリアリティーがあったし、非常に迫力がありました。
Grand Paradeの後半、フレムシェン、ラファエラ、プライジング、オットー、男爵が舞台のあちらこちらで電話で話す場面があります。その内容から観客は登場人物の置かれた状況を察することができるのですが、ハーモニーを奏でながら、重層的に重なっていく彼らの声が印象的な場面でした。これに続いて全てのキャストが勢ぞろいして、Grand Paradeのラストを歌い上げるこの作品の「見せ場」とも言うべき場面は、作品冒頭から観客が大きな感動に包まれる圧巻の素晴らしいものでした。『グランドホテル』冒頭のこのシーンを、ベルボーイは右手を胸の前に置き、礼をするというポーズでしめくくります。
ベルボーイが着ていたのは、制服、ユニフォーム(uniform)でしたが、この言葉は元来「一つのかたち」という意味です。彼らの存在意義ともいえる共通の目的、すなわち「高級ホテルを訪れるゲストのおもてなしをする」、この目的の下に、彼らは「お揃いの一つの」衣裳を身につける・・・。そんな彼らは、舞台上で場面転換することなくそこにあり続けた、あの古きベルリンの高級ホテルのたたずまいさながらに、「来たりては、去る」人々の織り成すドラマを見続けます。しかし、そのユニフォームが、単なる「お揃いの一つのかたち」から、研ぎ澄まされた末に完成されたスタイルを持つ「一つのかたち」となるとき、そしてさらにそこに豊かな表情と重層的な意味が生起するとき、観客は演出家の意図した「イリュージョン」というものが読み取れる気がしました。
あの「制服/ユニフォーム」を着て、ベルボーイとして舞台にいる限りは最初から最後まで、身体の隅から隅までに全神経がはりめぐらされたような、一部の隙もない存在感と集中力。それは、「じっと立つ」という「動かない」動き(矛盾しているようだけれど)というものから、「歩く」「かがむ」「階段を上る」というありふれた日常動作に至るまでのひとつひとつの表現が、一貫して「ベルボーイ」としての身体秩序に則って行われているかのようでした。青山さんの身体の表面を覆っていたあの服だけではなく、あの青山さんの動き自体が「制服/ユニフォーム」だったと言っても過言ではなかったのかもしれません。そんな確かな存在感の表と裏で、場面ごとに動きのモードが変化することによって加えられる豊かな表情と、それにより観客のなかに連鎖してゆくイメージ、与えられる意味の数々・・・、それらの間隙を彷徨っていると、観客は固定されたセットのなかで展開されるストーリーでありながら、時折押し寄せる「イリュージョン/幻」の波にたゆたうことができるような気がしたのです。ユニフォームに生じるイリュージョンの力、それは間違いなく青山さんの卓越した秘法といってもよい「マイムの錬金術」によって牽引されていたように思います。
『グランドパレード』『持つ者と持たざる者』『あるべき人生』
開演15分ぐらい前になると、羽をつけた帽子に、20年代の直線的シルエットのドレス姿の女性、あるいはタキシード姿の男性、つまりオーケストラの方々が、チューニングのために舞台上部のスペースに集まり始めます。当時のホテルで実際に演奏していたバンドという趣です。そして、開演時間・・・。
階上のオーケストラ指揮者と一礼を交わし、ステッキを突きながら、階段を下りてくるドクター・オッテルンシュラーグ。フロントのベルの音とともに、ホテルで働く従業員たちの様々な声が飛び交います。青山さんの声は、「ルームサービス、朝食を二人分お願い・・・」でした。冒頭のドラマティックなオケの音に合わせて、ドクターが舞台左手でカバンからモルヒネの注射を取り出し、その注射を腕に突き刺すことにより、このストーリーは始まります。同時に、かすかなスモークが漂い、青系と黄色系の照明がオケの音楽に合わせて劇的に変わるという幻想的なムードのなか、ジゴロと伯爵夫人が現れ、踊ります。再びドクターは、階段を上り、踊り場で宙を見つめ、恍惚の表情を浮かべながら、豪華ホテルの光景を歌います。「クリスタル、ビロード、香水の芳香、シャンデリアのきらめき・・・(歌詞はこんな感じでした)」いよいよ観客は「古きベルリン、グランドホテル」の世界へといざなわれてゆくのです。そしてジゴロと伯爵夫人も、何かに引き離されるかのように、舞台両端へとそれぞれが消えてゆきます。
ドクターが歌う「人は来て、人は去る(People come, people go)・・・」のところで、ステージのあちらこちらからベルボーイなどのホテルの従業員たちが登場してきます。青山さん演ずるベルボーイは回転扉の右横の扉からの御登場です。このときのアンサンブルの動きは、普通の日常生活の動きからは何段階かスピードを落としたようなスローなマイムです。しかし「マイム」とは言っても、その動きは、「パントマイム」という言葉からイメージするようなオーバーアクションな、ぎこちなさとつぎはぎ感のあるものではありません。青山さん演ずるベルボーイは、回転扉のそばで、実際のゲストもいないし、カバンもないのだけれど、マイムの動きでベルボーイとしての仕事をこなしてゆきます。笑顔を浮かべながら、そこにいるはずのないゲストに一礼し、あるはずのないカバンを持ち、ロビーを歩く・・・。どれも日常生活でありふれた動きのはずですが、ひとつの動作からもうひとつの動作に移るときの「継ぎ目のなさ」、そしてそのような動きが流れるようにスローなスピードで展開されることによって、非常に現実感のない、幻想的な空気感が漂うのです。「ドクターが打つモルヒネ」と「アンサンブルのマイムな動き」は、この作品では連動しているようで、ウォルフォードさんがパンフレットで述べている、「イリュージョン」な空気感が舞台を包み込みます。(後半I Waltz Aloneでも「モルヒネ」と「マイムな動き」が連動しています。)ドクターのどこか「死にかけている」存在感とともに、マイムな動きによって醸し出される、アンサンブルたちの眼の前に生きている人間でないような透明感と浮揚感に満ちた非現実的な存在感が、現代からは遠く時間を隔てて存在する「古きベルリン・グランドホテル」のセピアな色彩と薫りを醸し出すのです。
ちなみに、Grand Parade/Some Have, Some Have Not/As It Should Beが絡み合うようにして展開される、冒頭のこのシーンでは途中で、グルーシンスカヤが回転扉を通って、ロビーに登場してくるという場面が挿入されますが、この場面に移るときの質感の変化はたとえて言うなら「セピア色の写真」から「カラーの動画」といった感じです。シーン自体がパッと急に色づく感じで、登場人物に生気が入り、観客が場面に対して抱く現実感もいきなり増します。舞台の幻想的な雰囲気に包まれ、記憶の彼方にまどろむような感覚が消え、観客の中では、舞台での出来事に対する同時代感が一気に高まるという感覚が湧き起こるのです。確かに照明も変わるのですが、青山さんたちアンサンブルの動きの質、あるいは存在感、舞台上でのあり方の変化ということが、観客のなかに起こる変化の一番大きな要因だったような気がします。またグルーシンスカヤと男爵がすれ違う、ドラマティックな二人の出逢いも、アンサンブルの動きがフリーズすることによって、このシーンだけ切り取られたように観客のなかに印象付けられ、これからこの二人に起こる出来事がほのめかされていました。
前述の「スローなマイム」の後まもなく、右手の階段中段に上った青山さん@ベルボーイは、「ようこそ、古きベルリン、ようこそ、グランドホテル」と歌いながら、客席正面と左手客席に向かって、ゆっくりと一礼をしてゆきます。ここで客席に座る観客のひとりひとりも、あたかもこの豪華ホテルをゲストとして訪れたひとりとして存在するかのような錯覚を抱くのです。青山さんは、濃赤色のベルボーイキャップに、所々が金モールで縁取りされ、胸にはGHのロゴが入った同色の上着、白シャツに折り目正しくネクタイを締め、茶色のズボンというお衣裳。ベルボーイとしての青山さんは、格式高いヨーロッパの高級ホテルの玄関で、一番にお客様をお迎えするという役割にふさわしく、背筋がピンと伸び、歩き方をはじめ、身のこなしも優雅でありながら、機敏で端正、その存在感に圧倒されます。回転扉の傍らでたたずむ、荷物を持つためにかがむ、そして歩く・・・、完成された何気ない動作のひとつひとつに、この作品を舞台の上に乗せることに向けて青山さんのなかで醸成されていった時間というものを感じました。くるりと向きを変え、階段を上ってゆく後姿などでは、上半身が微動だにせず、カバンを持つ腕、肩と背中から脚にかけてのラインが、一筆で描かれた完璧な一本の描線を辿るようでした。青山さんがベルボーイとして舞台の上にいるその仕方、とにかく完成された圧倒的な存在感でした。
「人生の華やかさを極めつつも、時間のない」ゲストたち、登場人物のひとりひとりがドクターの言葉で紹介されながら、回転扉を通って登場してきます。このときベルボーイたちはひとりひとりのゲストたちに深々と最敬礼をするのですが、ミニスカートの裾を翻して脚を高く上げポーズをとるフレムシェン御登場のときだけは、右手階段中段に位置する青山さんと高山さん@二人のベルボーイは、「この美しい女性は誰?」とばかりに、横から覗き込むようなしぐさをします。このときも、なんとなく普通よりはスローな動きですが、覗き込む動作に入るときの機敏さが、「思わず、不覚にもベルボーイである立場を忘れてしまった」気持ちを表現しているようでした。また、高山さんから青山さんという動きの流れのなかにある「間」のとり方が絶妙で、そのユーモアが漂う動きが、フレムシェンの向こう見ずな若さの輝きに重なって、とても印象的でした。貧しいアパート住まいに辟易し、何とか現状を変えたいと思っている若きフレムシェンとホテルで働く従業員たちの立場には、近いものがあるのかもしれません。後に続くジミーズとフレムシェンのダンスナンバー、Maybe My Baby Loves Meでも、最高にカッコイイ青山さん@ジミーズのひとりは、フレムシェンとの駆け引きを楽しんでいるように見えて、そんな細かいキャラクター設定も、フレムシェンの人物像の輪郭というものを描き出しているようでした。
「金のない貴族ほど役に立たない者はない」というドクターによる男爵への注釈がつくと同時に、客席の前方端から「洗い場の労働者たち」が舞台へと飛び出してきます。(この作品では、「金」ということに話題が及ぶと、この「洗い場の労働者たち」が登場してくるようでした。例えば、プライジングの商談や男爵の駆け引きなどの場面の周辺で)労働者たちは、迫力のある歌声と、金物を入れた金属製の籠をゆすりながらの激しい動きによって、いくら働いても恵まれないという生活に押し潰されそうな、フラストレーション爆発寸前の心情を、ホテルのゲストたちの豪勢な暮らしぶりと対比しながら吐露してゆきます。「籠のゆすり方、取り扱い方」という細かいことを取ってみても、労働者たちひとりひとりの個性が感じられて、彼らが自分の人生で抱えているものが見えるようでした。
そんな彼らとは対照的に、同じ労働者階級でも、ベルボーイたちは抑制した動きでその心情を表現してゆきます。笑顔と誠意でゲストをお迎えすることが仕事である彼らの、もう一つの側面です。冒頭のこの場面では、男爵が歌うAs It Should Beと絡まりあいながら、このSome Have, Some Have Notは何度か歌われますが、青山さん演ずるベルボーイの抑えの効いた動きには、観ているこちらが客席の背もたれに押し付けられてしまうような「凄み」のようなものがありました。自分の気持ちのやり場のなさを、階段中段のひとつの段で、右に左に数歩ずつ行ったり戻ったりする、またはその場で動かず、「1日100万マルク使える」ゲストたちに対する不公平感を、上半身、腕や掌の動きだけで歌いながら表現する・・・。あるいは舞台前方に出て、その場で身体と顔の向きの角度を曲のフレーズとともに微妙に変化させる・・・。ただそれだけの、「ダンス」とは言えない、非常に動きの少ない振りなのですが、青山さんの動きを観ているだけで、その心の内に渦巻く張り詰めた緊迫感のようなものが押し寄せてくるかのようでしたし、抑えた動きを行う端正な身体/外面と、抑圧された不満が渦巻く激しい内面とのコントラストが逆に、恐ろしいぐらいに印象的でした。同時にステージの全体像として、それぞれのキャラクターが豊かな個性をぶつからせて、心情を吐露してゆくこの場面は、あの時代のドイツにあった空気を伝えるものとしてリアリティーがあったし、非常に迫力がありました。
Grand Paradeの後半、フレムシェン、ラファエラ、プライジング、オットー、男爵が舞台のあちらこちらで電話で話す場面があります。その内容から観客は登場人物の置かれた状況を察することができるのですが、ハーモニーを奏でながら、重層的に重なっていく彼らの声が印象的な場面でした。これに続いて全てのキャストが勢ぞろいして、Grand Paradeのラストを歌い上げるこの作品の「見せ場」とも言うべき場面は、作品冒頭から観客が大きな感動に包まれる圧巻の素晴らしいものでした。『グランドホテル』冒頭のこのシーンを、ベルボーイは右手を胸の前に置き、礼をするというポーズでしめくくります。
ベルボーイが着ていたのは、制服、ユニフォーム(uniform)でしたが、この言葉は元来「一つのかたち」という意味です。彼らの存在意義ともいえる共通の目的、すなわち「高級ホテルを訪れるゲストのおもてなしをする」、この目的の下に、彼らは「お揃いの一つの」衣裳を身につける・・・。そんな彼らは、舞台上で場面転換することなくそこにあり続けた、あの古きベルリンの高級ホテルのたたずまいさながらに、「来たりては、去る」人々の織り成すドラマを見続けます。しかし、そのユニフォームが、単なる「お揃いの一つのかたち」から、研ぎ澄まされた末に完成されたスタイルを持つ「一つのかたち」となるとき、そしてさらにそこに豊かな表情と重層的な意味が生起するとき、観客は演出家の意図した「イリュージョン」というものが読み取れる気がしました。
あの「制服/ユニフォーム」を着て、ベルボーイとして舞台にいる限りは最初から最後まで、身体の隅から隅までに全神経がはりめぐらされたような、一部の隙もない存在感と集中力。それは、「じっと立つ」という「動かない」動き(矛盾しているようだけれど)というものから、「歩く」「かがむ」「階段を上る」というありふれた日常動作に至るまでのひとつひとつの表現が、一貫して「ベルボーイ」としての身体秩序に則って行われているかのようでした。青山さんの身体の表面を覆っていたあの服だけではなく、あの青山さんの動き自体が「制服/ユニフォーム」だったと言っても過言ではなかったのかもしれません。そんな確かな存在感の表と裏で、場面ごとに動きのモードが変化することによって加えられる豊かな表情と、それにより観客のなかに連鎖してゆくイメージ、与えられる意味の数々・・・、それらの間隙を彷徨っていると、観客は固定されたセットのなかで展開されるストーリーでありながら、時折押し寄せる「イリュージョン/幻」の波にたゆたうことができるような気がしたのです。ユニフォームに生じるイリュージョンの力、それは間違いなく青山さんの卓越した秘法といってもよい「マイムの錬金術」によって牽引されていたように思います。