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路上の宝石

日々の道すがら拾い集めた「宝石たち」の採集記録。
青山さんのダンスを原動力に歩き続けています。

◆The Radio City Rockettes/A Dance Through Time

2007-09-12 02:19:55 | ボーイ・フロム・オズ
更新が滞りまして申し訳ございませんでした。ここ1週間ほど風邪をひいてしまい、体調を崩していたので、書くのはちょっとお休みして、読みたかった本などを手にとってちょっと充電していました。季節の変わりめ、皆様もどうぞお気をつけください。そこで、今日はそんな中から1冊の本のご紹介。前から取り上げようと思っていた”The Radio City Rockettes/A Dance Through Time”のご紹介です。12月の『ALL SHOOK UP』は、坂本昌行さん主演ですし、ちょっぴり懐かしいOZの話題もよろしいかもしれませんね。



2005年のOZ初演、そして、昨年の再演のときからずっと気になっていたのが、Rockettesのことでした。(Radio City Music HallとRockettes、日劇のことについて書いた記事はコチラです。)日本版OZでは、第2幕第4場で、青山さんたち男性アンサンブルの方々も華やかな衣裳に身を包み「女装」して、女性アンサンブルの皆さんと同様に、白い燕尾服姿のピーターを囲んで、華麗なロケットダンスで魅了してくれました。(BW版では鏡を多用して、女性ダンサーを多数に見せるという演出だったのですよね。)昨年OZ関連の記事を書くときにも、Radio City Music HallのHPで、Rockettesの歴史などについて読んでみたりしたのですが、もっと写真などが多く掲載されていて、詳しく書いてある本はないかな、とずっと探していたところ、この本を発見したというわけです。

歴史的な白黒写真の数々、そしてJames Portoというカメラマンによって撮影された現在のRockettesの写真が数多く掲載されていて、ヴィジュアル的にはかなり満足できる1冊でした。70年代後半から最近までの数々の舞台衣裳を着たRockettesの皆さんのポートレートが70数枚掲載されているのは、やはり圧巻。Rockettesの衣裳のスタイルブックのような出来上がりとなっています。Vincente Minnelli(つまりJudy Garlandの旦那様で、Liza Minnelliのお父上)は、Radio City Music Hallの最初の衣裳デザイナーであり、セットデザイナーであったということですが、その後も、このRockettesの衣裳デザインには、Bob Mackie(表紙の衣裳は彼のデザインです)やErtéというデザイナーたちが関わっているそうです。また、”A Dance Through Time”というサブタイトルがついているだけあって、20年代から現在まで、Rockettesがいかに激動する歴史のなかで時代に適応し、今日まで愛されてきたのかが、歴史的な写真とともに読み取れて、それも楽しかったです。 また舞台写真だけでなく、アール・デコ調のホールロビーでポーズをとるRockettesの写真も多くあって、そちらも素敵でした。

OZの日本版Rockettesの青山さんたちのダンスを思い出してみてもわかりますが、Rockettesのダンスのキーワードは、“a team of dancers moving as one”ということなのだそうです。Ziegfeld Folliesにインスパイアを受けていたRockettesの創始者、Russell Markertは、どんなに複雑なルーティーンをしようとも、そこに絶対的な精確さと一体感を求めたのだそうで、そこで大きな役割を果たすと考えられたのが華やかなお揃いの舞台衣裳だったそうです。そういえば、日本版OZで、Rockettesの皆さんが横一列に、赤と銀色のスパンコールの衣裳で、ステップを踏みながら、勢ぞろいするあのシーンも、圧倒的な華やかさを醸し出していました。ダンスに一体感を出すために欠かせないのが、お揃いの衣裳。でもその一体感を完成させるために、総勢36人のRockettes、そのひとりひとりに、3回ずつフィッティングが行われ、微調整が行われてゆくのだとか。次のショーのお稽古、上演中のショーへの出演の合間にスケジューリングされる舞台衣裳のフィッティング、これはRockettesにとって、欠かすことのできない仕事のひとつだそうです。

そして先ほども述べたとおり、Rockettesの舞台衣裳のデザインには、Vincent Minnelliをはじめとして、多くの著名なデザイナーが関わっているということですが、ブロードウェイの舞台衣裳デザイナーであるJames Morcom,John William Keck,Marco Montedoro,Frank Spencerなどの名前も挙げられていました。数々のデザイナーたちが作り上げてきたRockettesの舞台衣裳も、演目に沿って、デザイナーそれぞれの個性が表現される一方、時代の流れを受けて変化を遂げてきているようです。例えば、ヘムライン。OZの日本版Rockettesが着ていた衣裳のラインも、いわゆる「ロケットダンス」の衣裳の王道を行くようなものでした。今回ご紹介したこの本を読んでいても、掲載されている衣裳のヘムラインは、ほとんどが日本版Rockettesと同じようなもの。しかし、このような形が一般的になったのは、60年代に入ってからなのだそうです。30年代、40年代には、ダンサーの衣裳も、トラディショナルなボクサーショーツのようなものが多かったそうです。やがて、50年代を経て、60年代のビキニブームが席巻する頃になり、Rockettesもそんな時代の趨勢に合わせて、キックの高さとヘムラインを徐々に上げていったのだそうです。また同じく60年代の宇宙開発時代には、Rockettesの舞台衣裳にも、宇宙飛行士をテーマにしたものが登場したとか。その一方で、時代が変わっても30年代と変わらないのが、Christmas Spectacularの、おもちゃの兵隊さんのコスチューム。こちらはVincent Minnelliによるデザインを踏襲しているということで、1着制作するのに12時間かかるそう。観る側にとっては大変魅力的でも、かなり複雑な構造を持っているこの衣裳を着て、木で作られているような動きをするのは、かなり大変なことだそうです。

1925年に16人のダンサーがRussell Markertによって集められ、”Missouri Rockets”としてSt.LouisでスタートしたRockettes。同じ年に、ニューヨークに進出した彼らは、ブロードウェイのショー、”Rain or Shine”で好評を博し、観客の期待に応えるために、さらに二つのダンスグループが結成され、The Roxy Theaterで踊ることになったのだそうです。グループの名前も、彼女たちをニューヨークで発見したS.L.“Roxy”Rothafelにちなんで、“The Roxyettes”と改名、30~36人のダンサーによって構成されることになったそうです。そして、1932年12月27日、Radio City Music Hallのオープニングナイト。新しい劇場の歴史的な誕生とともに、彼女たちのショーも新たなデビューを飾ることとなりました。19のショーが5時間にもわたって繰り広げられたオープニングナイトには、Martha Grahamも出演したそうです。1934年には、いよいよ“The Radio City Rockettes”と改名。このホールで行われる新作ハリウッド映画のプレミアに合わせて、15分間のショーで踊る形式が出来上がっていったようです(1979年まで続いたそうです)。大戦中には、米軍基地も訪ね、50年代のテレビ時代の到来に合わせて、テレビデビューも果たしましたが、多忙を極める彼女たちに合わせて、Radio City Music Hallの裏手には、寮が完備されたのだとか。その後もRockettesは、各方面で活躍、1988年には、スーパー・ボールのハーフタイムショーにも登場したそうです。

アメリカの歴史とともに歩んできた、時代を感じさせるRockettesの数々の写真。そしてさきほどもふれたJames Portoによる現在のRockettesひとりひとりを撮影した舞台衣裳の写真。お揃いの舞台衣裳に身を包み、”a team of dancers moving as one”として踊ることを、常に厳しく求められるというRockettesですが、それらの写真の1枚1枚を眺めていると、 “dancers”としての彼女たちではなく、“a dancer”としての彼女、そのひとりひとりの夢の軌跡が無数に見えてくるかのようです。『ボーイ・フロム・オズ』では、Radio City Music HallでRockettesと歌って踊ることが、小さい頃からの夢であったということが、ピーターによって語られます。そのピーターを囲んでいたThe Radio City Rockettes、そんな彼女たちひとりひとりの夢が、語りかけてくるのが聞こえてくる気がする・・・、そんな1冊でした。




◆『ボーイ・フロム・オズ』詳細レポ Ⅵ

2007-08-12 21:30:40 | ボーイ・フロム・オズ
♪When I Get My Name in Lights 「俺の名前にライトを」(第1幕第1場) 
♪I Still Call Australia Home 「故郷と呼べるのはオーストラリアだけ」(第2幕第8場)

何もかもを失い、自分自身もエイズに侵されていることを知って、悲しみと絶望の淵にあるピーターですが、別れたはずのライザによって励まされ、救われます。そして、コンサートの開催予定地、故郷オーストラリアへとピーターは向かいます。母マリオンの前で、病について告白しようとするピーターですが、結局告げることはできません。母の前で、「I Still Call Australia Home / 故郷と呼べるのはオーストラリアだけ」を歌い始めるピーター。やがて曲の盛り上がりとともに、母マリオンは消え、舞台はシドニーでのコンサート会場へと場面転換してゆきます。背景も含め、舞台全体は暗く、マイクを持って歌うピーターの周辺だけが、照明で照らされている状態。そこへ曲の中盤から、舞台後方セリの部分に、真白い照明に照らされながら、この曲をコーラスする青山さんたちアンサンブルの姿が浮かび上がります。家族や友人から離れ、どんなに世界中のあちらこちらを駆け回ろうとも、故郷と呼べるのはオーストラリアだけ、と歌うこの曲。ピーターの歌声にアンサンブルのコーラスが、静かに、そして包み込むように重なってゆくのを耳にし、また暗い背景に、「白さ」を強調する照明のなかで、故郷の大地を踏みしめるように立ち尽くすアンサンブルを見るとき、観客は言いようのない「懐かしさ」と、すべてが洗われてそこへ戻っていくような「澄みきった感覚」に包まれてしまいます。はじめはアンサンブルのひとりひとりがそれぞれ違った方向を向き、この歌を歌っていますが、途中からは皆が正面の一方向を向いて、コーラスします。このときの青山さんは、まっすぐに遥か遠くをじっと見つめていますが、そのまなざしの彼方には、ピーターがこれまでに辿ってきた人生の一場面一場面が連綿と連なって、そこにあるような感覚さえ覚えます。また青山さんの表情を見ていると、ピーターの波乱に満ちた人生の旅路にも終わりが近づいていることが感じられ、込み上げてくる感情を抑えることができなくなりました。やがて「故郷(ふるさと)はオーストラリアだけ」というラストのフレーズを歌い終わる頃、アンサンブルのシルエットは、暗闇の中に消えてゆき、舞台には再びピーターひとりが残ります。

このシーンの設定は、ピーターが故郷であるオーストラリアに戻り、シドニーでのコンサートで聴衆に向けて歌うというものです。実際、曲を歌い終えたピーターは、「ありがとう、シドニー!」と言って、コンサートの聴衆に対し感謝の言葉を述べ、それに対し観客も拍手で応えます。青山さんたちアンサンブルも、あるいはシドニーのコンサート会場の聴衆という役割を負っていたのかもしれません。しかし他方でまた「コンサート会場の聴衆」とは異なる印象を、観客に与えていたことも事実です。この場面での、青山さんたちアンサンブルの衣装ですが、男性は淡い色調のシンプルなシャツに、トラウザース、女性は腰にベルトの付いたワンピースというものです。それぞれの方が、形も色も多少の違いのある衣装を身に着けているようなのですが、「白さ」を強調するような照明に照らされたアンサンブルの皆さんの、観る者をスーッと引き込むような淡く白い色調と、遥か遠くを見通すようなまなざしと表情が、「原点」に戻っていくピーターの心象風景を象徴しているようで印象的でした。私自身も初見のときは、眼の前のステージに広がるこの透き通るような「白さ」にただただ引き込まれて、この衣装に対して漠然とした印象を持っていただけでした。しかし2回目の観劇のときに、この場面でアンサンブルの皆さんが着ている衣装は、第一幕の冒頭のシーン(「When I Get My Name in Lights / 俺の名前にライトを」)で、8,9歳であったリトル・ピーターが踊り歌い、お金を稼ぎ始めたあの酒場で、ピーターの歌を聞いていた客たちの衣装として、アンサンブルの皆さんが着ていたものと同じもののようだ、ということに気がついたのです。

青山さんに限って言えば、服装も髪型も、あの冒頭の場面で酒場の客として着ていたものと酷似しています。確証はないのですが、何度見ても同じものに見えました。第1幕のあの酒場でのシーンは、まさにピーターの「夢の始まり」とも言える場面です。酒場で歌い踊る小さなピーターを、酒に酔いながらも、盛り上げ、その才能に引き込まれていた、当時の客たち。第2幕終盤、ピーターの人生が終わりに近づき、その長い旅路を振り返るこの場面で、彼らは、ピーターの「夢の始まり」に立ち会った「目撃者」という色彩を帯びてくるようにも思われます。その彼らの幻影とも解釈できる人たちが、「夢」を追い求め続け、その末に再び故郷に戻ってきたピーターを迎える、深読みのしすぎかもしれませんが、私個人としては、とても感慨深いものがあり、胸に迫るものがありました。90年代のシドニーでのコンサート会場での聴衆のようでもあり、50年代のリトル・ピーターが歌い踊った酒場の客たちの幻影のようでもある。青山さんたちアンサンブルは、この場面で、不思議なぐらい深みのある存在感を醸し出し、あの場面を観客の心に刻み付けていました。そして、これに引き続く次の場面、「Don’t Cry Out / 泣かないで」での回想シーンを通して、ピーターが自分自身の「内に秘めた感情」と向き合い、原点へと戻っていくきっかけを創り出していたようにも思われてきます。

実際に、「故郷と呼べるのはオーストラリアだけ」を歌った、このオーストラリアのコンサート会場でのシーンの後、舞台の場面は、先ほど述べた第1幕冒頭のシーンと重なるようなかたちで、あのときのリトル・ピーターと母マリオン、そして父ディック・ウールノーが登場する、回想場面へと続いてゆきます。第1幕冒頭、酒場でピアノを弾き、歌い踊ることでお金を稼ぐリトル・ピーターから、飲んだくれの父親ディックは、マリオンの制止を振り切って、その稼いだお金を、自分の飲み代にと、ふんだくろうとします。第1幕では、そこに大人のピーターが分け入って、「こんなものは見せたくないんです」とその場面を中断してしまいます。しかし、第2幕では、この続きが最後まで中断されることなく、回想シーンとして繰り広げられ、ピーターの幼少時に暗い影を落とした出来事が示されます。リトル・ピーターは、母親マリオンに暴力を振るう父に耐えられず、稼いだお金を父に渡してしまいます。お金を手にした父は、ふらつく足取りで、寂しそうに舞台袖に消えてゆきますが、しばらくして舞台後方に拳銃を頭にあてた父の後姿が浮かび上がり、「パパやめて!」の声とともに銃声が響きます。この過程で、観客はピーターの「夢」の裏側にあった、父の自殺という衝撃的な事実を知ることになります。

そして、この父の自殺ということが、幼いピーターにとって、どのような悲しみとして受け止められたのか、ということをより深く観客が知ることになるのが、「どうしてあんな「ピエロ」と結婚しちゃったのさあ?」と尋ねるリトル・ピーターに対し、母マリオンが答えるときに語られる、次のような話です。父親ディックはもともと戦争に行く前は、立派なバンジョー弾きだった、だからピーターの音楽の才能は他でもない父親譲りのものである、という話です。父親ディックは、戦争から帰った後、アルコール依存症となり、自暴自棄の生活を送るようになってしまったのです。父親の背景にあるもの、その父親と自分自身のつながりがどのようなものであるのかを知ったピーターに、父親の自殺という出来事は、どのように映ったのでしょうか。Don’t Cry Out Loudの歌詞には、「悲しいことは心の奥底に秘めて」という言葉がありますが、その「心の奥底」にしまいこんだ感情がどんなものであったのかが明らかになるにつれて、観客はこれまで辿ってきた波乱に満ちたピーターの人生に秘められたもうひとつの側面に気づくことになるのです。そして第1幕冒頭、酒場の外の片隅で、大人のピーターが、一人取り残された父親を見守るあの場面ともつながってきます。

第1幕、リトル・ピーターが歌う「When I Get My Name in Lights / 俺の名にライトを」の間奏部分で、盛り上がって、喧騒のうちにある酒場の傍らで、リトル・ピーターと母マリオンと父ディックの三人が、そこの場面から抜け出たかのように、やりとりをする場面があります。最初、楽しく盛り上がる酒場を、ひとり外から覗き込む父ディックは、立派に活躍する息子と、自分の姿を見比べて、「こんなナリじゃなあ・・・」と、後ろめたさを感じて、中に入るのを躊躇します。そして、外に出てきたピーターと母マリオンと出くわすのですが、そのときも息子を労うのではなく、「お前は(客に)笑われてるの」としか声をかけることができません。逆にマリオンからは、「あんたが笑い者じゃないか」と言い放たれてしまいます。再び、外にひとり取り残された父ディックですが、息子ピーターの立派な様子を見ながら、「なかなかだな・・・」とその音楽の才能を認めるような言葉を独り言のようにつぶやくのです。そのようなディックの傍らに、声をかけたいにもかけられず、もどかしい様子で父を見守る、大人のピーター(坂本さん)がいるのです。第2幕での「ピーターの音楽の血は、父親譲りである」というエピソードを知ると、第1幕のこの場面でのピーターの態度の解釈にも、深みが増します。

ピーター親子が酒場の外の片隅でやりとりをするこの場面では、ピーターたち親子以外の酒場の客たち、つまり彼らに扮する青山さんたちアンサンブルは、背景となり、それぞれの持ち場で酒を飲んだり、談笑したり、騒いでいたりという動作をスローモーションで表現します。それまでは、リトル・ピーターの歌に合わせて楽しく盛り上がる様子を客として、普通の動作で演技しているのですが、その変化の仕方が鮮やかです。特に青山さんは、スローモーションの動き自体も素晴らしかったのですが、スローモーションから普通の動きに戻るときの、動きの「微妙な変速」の仕方が傑出していました。例えば「おどろんぱ」の「マネトリックス」などで、一瞬の動きのうちに、思わず自分の眼を疑ってしまうような、「変速」が見られることがありますよね。「今ビデオ早く回した?!」って、聞きたくなっちゃうような・・・。また、「マイム劇場」の泥棒さんの「エスカレーター」のシーンで、「エスカレーター」から降りるときに身体が感じる変速を青山さんはとても巧みに表現していました。あれとも似た感覚です。

心の奥底では息子の才能を認め、褒めてやりたい気持ちを持っていながら、面と向かっては息子を褒めてやることすらできなかった父。そういう父に、大人になったピーターが声をかけようとしても、もうどうにもなりません。ただそのような父の傍らで、何かしようにも何もできないもどかしさを抱えながら、立ち尽くすしかないピーターを、決定的に引き離すかのように、場面は、スローモーションから現実の速度に戻るのです。その場面が元に戻るときの青山さんの動きにある巧みな「変速」の仕方は、とても鮮やかで印象に残っています。この場面でのアンサンブルの皆さんはダンスをするわけではないのですが、彼らの動きが創出するあの場面の、「現実からスローモーション、再びスローモーションから現実」という質感の変化は、父ディックの疎外感を際立たせ、引き離される父と息子の距離感を強調していたし、そこに大人のピーターが介在することによって、決して塗り替えることのできない過去であることを観客に伝えていたと思うのです。現実には到底ありえないであろう時間の流れ方を、あの場面で創出することは、わずかな時間ながら登場する父ディックがピーターのなかで占めていた特別な重みを、観客に切り取って見せる効果を持っているように思われるのです。スローモーションの背景の傍らで繰り広げられたピーターたち親子のやりとりの場面は、第1幕第1場という時空間のなかでは、酒場の雰囲気に溶け込めない父の疎外感と孤独感と悲哀を際立たせていました。また母によって語られるエピソードと父の自殺という事実が示される回想場面である第2幕第8場においては、第1幕のあの場面は、ピーターが心の奥底にしまいこんだ特別な父の像を提示する意味合いを帯び、父の自殺という悲劇が観客に与える衝撃をより大きなものとして印象づける役割を負っているのではないでしょうか。このようにOZでは、物語の「はじめ」と「おわり」が効果的に重ねられていましたが、青山さんたちアンサンブルは、「ダンス」ではない、その身体の動きと表情で、そこに奥行きを与えていました。

プロローグで、団時朗さん演ずるマネージャーのディー・アンソニーが、ピーターを紹介するときに、「時代をつかみ、追いかけ、そして流された」と、その人生を観客に説明します。そのような波乱に満ちた人生を送ったピーターが、「夢」を追い求め続けて、行き着いた末、最後に見たもの、これに関しては、観た方それぞれが、様々な解釈をお持ちのことと思います。キャスト全員が白一色の衣装でサンバのリズムを踊る、フィナーレの「I Go to Rio / 世界はリオ」、観劇する前から、とても楽しみであった半面、「どうしてそこでサンバなの?」という気持ちが心の隅にあったのは確かなことです。しかし、ピーター・アレンの約40年間の人生を盛り込んだ2時間40分という時空間を体験した後となっては、あの眩しいほどの華やかな世界と、舞台と観客が一体となるあの何ともいえない空気に、当然のように引き込まれてしまうのです。「フィナーレ」のあの素晴らしい雰囲気、お伝えしたい気持ちでいっぱいなのですが、やはりこればかりは「何ともいえない」のです。こればかりは、今回残念ながら観ることが叶わなかった方にも、いつの日か再び実際にピーターの人生に寄り添った上で、体感していただくのが一番なのではないかと思います。そして私のなかでは、キャスト全員による最後の「リオ!」の掛け声がいつまでも響き続けています。

◆『ボーイ・フロム・オズ』詳細レポ Ⅴ

2007-08-09 22:52:29 | ボーイ・フロム・オズ
♪Everything Old is New Again 歴史は繰り返される

「Everything Old is New Again/ 歴史は繰り返される」の歌詞にもあるような、「タップシューズ、白燕尾」(Get out your white suit, your tap shoes and tails)に身を包み、頭にはシルクハットを被り、手にはステッキを持った華麗なピーター。プライベートにおいても、キャリアにおいても、まさに頂点をむかえつつあるピーターが、ニューヨークのラジオ・シティー・ミュージック・ホールで、ロケッツとのラインダンスをショーとして見せる、第二幕での「見せ場」とも言える非常に華やかな場面です。BW版では、女性のみのダンサーによって、しかも鏡を使用して、大人数に見せたというこの場面ですが、今回の日本版では、女性に混ざって、「女装をした男性」がこの場面に登場し、華を添えています。青山さんが、以前にファンサイト様の掲示板で書かれていた「女装」とは、このロケッツのダンスシーンにおいてのことでした!

この曲の冒頭でピーターは、夢をこの手につかみ、頂点にある自分の人生を謳歌するように、スポットライトを浴びながら、ひとりでこの歌を歌い、優雅に踊ります。「雨の夜更けは思い出に浸ろう 夢よもう一度 歴史は繰り返される」(Don’t throw the past away / You might need it some rainy day / Dreams can come true again / when everything old is new again)、とサビの部分を歌い終わる頃、ロケッツの踏むステップの足音と彼らのコーラスの声が、ピーターの歌に重なってゆきます。それと同時に舞台に向かって右手から、一列に並んだロケッツの姿が現れるのです。全身真っ白な衣装のピーターとは対照的に、ロケッツの衣装は、赤くキラキラ光るスパンコール(?)を基調としたもので、胸元・腰周りにはシルバーのきらびやかなラインが入っています。頭は同じく赤いスパンコール地のつなぎで覆われていて、その中心には、大きな羽飾りがついています。足元はシルバーに光るダンスシューズに、肌色の網タイツ、勿論目には「つけまつげ」、メイクもショー仕様の派手なものです。女性アンサンブルの方も、そして青山さんを含めた男性アンサンブルの方も、皆さんこの衣装でご登場です。青山さんは列の最後から2番目でご登場。男性アンサンブルの方、お顔のメイクも、脚のラインも素晴らしくお綺麗で、一見女性と区別がつきません。私も初見のときは、横一列に長く並んだロケッツの中から、青山さんを見つけるのに、一瞬戸惑いました。しかし発達した大腿筋とその安定した脚捌き、ピンと伸びたしなやかな上半身、「女性」ではなくて、「女装した男性」の雰囲気を見事に作り出す表情としぐさを見れば、青山さんは一目瞭然。もう最高なのです!

ロケッツ登場のシーンに引き続いて、一度音楽が鳴り止み、ピーターは向かって左端の、ロケッツの列に入り、「ロケッツと一緒に踊ることが夢だった」ということを、ストーリーテリングします。その間勿論ダンスも一度ストップし、皆さんじっと立ったままなのですが、この間も青山さんは、その立ち方、まばたきの仕方、口元の表情の作り方のひとつひとつが、「女装をした男性」の空気を作り出していて、全身からそのようなオーラを放っているかのようです。そして再び曲が始まり、一気に盛り上がっていくのですが、このときに一列だったロケッツが、ステップを踏みながら、数人のかたまりごとに分解していきます。そのときの青山さんの、客席に向かって「斜め」のお顔の角度と、それに伴う眼の見開き方、そして首から下の身体の表情が、キュートで愛らしく、またまたこの上なく「それらしさ」を醸し出しています。そして再びサビの部分、一列に並び直したロケッツは、セリで上がっていきます。このとき左右の脚を斜め前に交互に出す振りがあるのですが、流麗さと華やかさとともに、優しさに溢れていました。遂に夢をつかんだピーターの幸福感とよろこびがこちらにも伝わってきて、心の底から拍手を送り、祝福したくなってしまうのです。そして全員が一列に並んで勢いよく足を上げる、これぞ「ラインダンス」という部分は、ピーターにとっても、そしてきっと観客にとっても「夢の世界」、圧巻でした。また曲が一度終わって、歌詞のついていないインストゥルメンタルなヴァージョンに合わせて、列の左端からウェービングのように、ひとりひとりが順番に、上半身をしならせるときも、青山さんの場合は、首の使い方やあごの向け方、背中のしならせ方などにも、すごく「女装した男性」の雰囲気がありながら、優雅さもあって、観ているこちらも微笑んでしまいます。最後は中心で左右二手に分かれたロケッツが(確かそうだったと思います。ここでは青山さんの笑顔に釘付けで、いつもそのお姿だけを眼で追っていたので、ちょっと記憶が飛んでいます。)、身体を「く」の字にして前の人の腰に手をあてて、列としてつながりながら、小刻みなステップで舞台両袖に引いていきます。

このシーンの華やかなロケッツのラインダンス、本当に楽しくて最高だったのですが、そのなかでの青山さんの「女装をした男性」の演技、これはやはり一番皆さんにお伝えしたいところです。青山さんの「女装」がどんなものなのか、と楽しみにしていた一ファンとしての気持ちを満足させるということだけでなく、この作品の中でこのシーンを際立たせるという点においてもです。やはりこの場面は、ピーターの人生、夢の頂点を描き出す、華やかな場面。ピーター自身の台詞にもあるように、「胸に勲章をつけて、整列した軍隊に並ぶよりも、ラメやスパンコールのきらびやかな衣装に身を包んだロケッツの列に、「男の勲章」をつけて入ることを、いつも夢見ていた(台詞を忠実には再現していません、要約しています)」という、ピーターの夢が実現する場面です。ピーターのゲイというセクシュアリティーと彼のキャリアが密接に連関して、ピーターの人生が開花し、すべてを手に入れたかのように思える幸福の絶頂ともいえるこの場面。実際のラジオ・シティ・ミュージック・ホールでのショーをはじめとして、この頃のピーターの客層は、ゲイの人たちや「女装した男性」が多かったというのは、ピーターによって語られるとおりです。「女装した男性」の空気をいきいきと、見事に作り出していた青山さんを見ていると、「ありのままの自分」を曝け出して、それをキャリアの中に取り込み、様々な過去を経て、成功をつかんだピーターの幸福感と喜びが、こちらにも伝わってきて、彼の人生の「そのとき」を、共に祝福したくなってくるのです。そしてそんなピーターに熱狂する、ホットな男性たちの熱気が再現されて、青山劇場の客席にいながらにして、当時のピーターのショーの客席に座る、そんな観客たちの笑顔にまで想いを馳せることができるのです。オーストラリア版では日本版と同様に「女装した男性」が加わり、BW版では女性のみのヴァージョンだったというこのシーンですが、青山さんが踊った日本版ロケッツ最高でした!!

この華やかなショーの後は、ラジオ・シティー・ミュージック・ホールの楽屋へと、シーンが移ります。そこで、ショーを終えたピーターを、年老いた母マリオンが迎え、息子の偉業を嬉しそうに、心から称賛し、ねぎらうのです。そして、息子に、自分自身にも新しい恋人ができたことを告げ、「古ぼけたものでさえも、新しくなってしまう」ように、「人生何がおこるかわからない」という気持ちを込めて、再びここで、「Everything Old is New Again / 歴史は繰り返される」を歌います。喜びを分かち合うピーターと母マリオン、とても幸せそうです。この曲の歌詞にもあるように、「だれもが大スターに」なってしまうことがある、という意味で、「人生何が起こるかわからない」のですが、このシーンの後、ピーターの台詞にもあるように、「人生何が起こるかわからない」、というこの言葉の意味は反転してしまうことになります。恋人グレッグ、そしてピーター自身もエイズに侵されていることがわかるのです。「まだ起きてもいないことが、懐かしく思えてしまう」という死期を悟ったグレッグの言葉が心に重く響いてきました。


※このシーンの設定は、ニューヨークのRadio City Music Hallとなっていますが、この劇場とRockettesについての記事はコチラです。
青山さんが出演された『テネシー・ワルツ 江利チエミ物語』では、日劇と日劇ダンシングチームが登場しますが、Rockettesと日劇ダンシングチームには関連性があったようです。そのことについて書いた記事です。



☆ここのところ、「この記事どこかでもうすでに1回読んだよ~」な記事ばかりを更新しまして、申し訳ございません。OZの詳細レポ終了後には、普通の記事も投稿する予定ですので、もう少々お待ちくださいませ。

◆『ボーイ・フロム・オズ』詳細レポ Ⅳ

2007-08-07 23:10:30 | ボーイ・フロム・オズ
♪Sure Thing,Baby 「確かだぜ、ベイビー」

第二幕冒頭のBi-coastalの歌詞のように、「東海岸でも西海岸でも」売れたい、と考えるピーターに対し、「衣装や照明がキモイ」、と恋人グレッグ(IZAMさん)は冗談を交えつつも、厳しい指摘をします。しかしながら、事実上、東海岸でも西海岸でも人気がイマイチなピーター。公私共に、ピーターのパートナーとなったグレッグは、ピーターのクローゼットに入っているたくさんのアロハシャツを、いっそのこと、ショーの衣装にしたらどうか、と提案します。凄腕マネージャーのディー・アンソニー(団時朗さん)も加わり、ピーターはここから、キャリアの頂点へと上り詰めていくことになります。アロハシャツをショーの衣装に決めたピーターですが、その着方をめぐって、グレッグとディー・アンソニーが対立。そんな二人が、ピーターを盛り立てていこうとする気持ちを、勢いのあるミュージカルナンバーで歌い上げるのが、「Sure Thing, Baby/確かだぜ、ベイビー」です。

「男らしさを女性客にもアピールしたい(ゲイらしさを演出したくない)」マネージャーのディー・アンソニーは、アロハシャツの胸元を大きく開けさせて、胸毛を見せるようピーターに提案。しかしピーターに胸毛がなくて、ガックリ。さらに「男っぽく」見えるよう、手を入れるためのポケットのついたパンツをはくように提案、噛みタバコをペッなんてやったらいい、またはライザ(女)と結婚していたと言うのもいいかも、と提案します。一方、セクシュアリティーのアピールにおいて中途半端なピーターは、ゲイには「裏切り者」、ゲイでない人には「ヒステリーなオカマちゃん」と批判されている、と指摘するグレッグ。ゲイの人たちに受けがいいように、シャツの裾をインにして、お尻を強調するスタイリングを提案。そんななか、舞台右手で、背を向けていたピーターは、その後のピーターのトレードマークになったというアロハシャツの裾をおへその前で結んで、両手を挙げてくるりとこちらに向きを変えます。ゲイというセクシャリティーを、ありのままに自分のキャリアのなかに取り込んで、キャリアを開花させてゆくピーターがそこにいるのです。「それらしい」しぐさで舞台袖へと消えてゆくピーターですが、この後、今度はピーターによる「Peter’s “ Sure Thing ,Baby”/ピーターの確かだぜ、ベイビー」のナンバーとともに、舞台はニューヨークの有名クラブ、クラブ・コパカバーナへとあっという間に場面転換してゆきます。

OZでは、舞台両サイドの雛壇に、バックバンドが控えていて、それがあるときはニューヨークの摩天楼のような「背景」のように見えたり、あるときは実際のショーのシーンのバックバンドとして振舞ったりと、音楽を奏でるだけではない、なかなか面白い役割を果たしています。このPeter’s “ Sure Thing ,Baby”では、バンドの方々も、アンサンブルの方々と同じ、「パナマ帽(?ウエスタンな感じもちょっとした気がします)」を被り、「クラブ・コパ」な雰囲気を盛り立てています。

この曲は始めからすごく盛り上がった感じでスタートしますが、まず男性アンサンブル3人が回転させる赤いグランドピアノの上で、腰を振りながら踊るピーター(先ほどの赤系のアロハシャツに赤パンツを着ています)が舞台中央奥に現れます。パイナップルなどを積んだ籠を頭上に飾り、黄色系の南国風ヒラヒラドレスに身を包んだ女性コーラスのトリオが、「ショ~シ~ング、ベイ~ベ~」とこの歌を歌いながら現れます。ここまでで既に客席の気分はトロピカル、すごく盛り上がっているのですが、そこへ一気に登場してくるアンサンブルのダンスによって、このシーンに華やかさと勢いが加えられるのです。

アンサンブルの衣装は、さきほどの帽子に、白地にオレンジのハイビスカス模様のアロハシャツ、薄い黄色系のパンツというもの、帽子にもアロハと共布の生地が巻きつけてありましたが、アンサンブルの方々は、この帽子を目深に被って、目元が見えない状態。しかも髪の毛もバンダナで覆っていて見えない状態です。これは次のシーン、Radio City Music Hallでの、ラインダンスに備えて、既に目元には男性も「つけまつげ」をつけ、髪の毛もセットしてあるためでしょう。しかし、この便宜上、次のシーンの衣装の下準備段階を隠すためであった帽子が、ダンサーの目元を隠し、その視線を遮断したことは、この場面のダンスの魅力を、結果として倍増させていました。また次のロケッツとのダンスシーンという、「ピーターの夢の頂点」を予感させる演出ともなっていた気がします。

青山さんが踊っているときの「眼光」の魅力、これについては前にも書きました。しかし、この場面でのダンスは、これを敢えて隠した上でのダンス、つまりある種人格を消したような、もしかしたら、ちょっと抑えたような、匿名性があるようなダンスなのです。しかしそこには、文字通り「身体だけ」の表現が息づいており、精確さを極めながらも、語りかけてくるような、いきいきとした、非常に豊かな表情が加わっていて、青山さんのダンサーとしての力量に感じ入ってしまったのです。目元を隠し、その視線を遮断して踊る、しかも髪をバンダナで覆っているので、パッと見て個性が消えているような印象を受けます。一気に登場してくるアンサンブルのおひとりおひとりを見分けるのは、確かにちょっと大変だったかもしれません。しかしその類まれなる動きを見れば、やはり青山さんは青山さんなのです。このシーンでのダンスは、変化に富んだ振りをハードに踊るというものではなくて、シンプルな振りを着実に踊るというもの。青山さんの、非常に輪郭のはっきりとした動きの1コマ1コマを改めて感じることができるシーンと言えます。特筆すべきが、上腕部から肘、そして肘から手首、掌にかけての腕の動きです。腕を下に向けてフィンガースナッピングをしながら、ステップを踏むところがあるのですが、このときの肘を中心にした腕の動き、上腕部と下腕部が肘を中心にしなうあの動き、絶妙でした。そしてその腕の動きに伴う、帽子を手で押さえながら行う、前かがみ姿勢の身体のしなやかなラインとその中心に通った力強い動きの軸、やっぱり青山さんなのです。またそれとは逆に、腕を上向きに、空をつかむような感じで伸ばすところがあったのですが、こういうときの青山さんの腕の素晴らしさ、宙を切り裂くようで、もう完璧です。まさに、「夢をつかんでやる!」、「これからは俺の時代だ!」というこの曲に託されたピーターの気持ちを表現しているかのようです。またこのPeter’s “Sure Thing ,Baby”では、Bi-coastalのサビの部分が挿入されます。確かその部分で、目深に被った帽子を片手で押さえながら、脚を高く蹴り上げる振りなども、鮮明な画像として焼きついています。このシーンでの青山さん、ストップモーションの画像のごとく鮮やかな、一瞬一瞬の動きが素晴らしく、しかもその一瞬の動きには、ピーターの開花しつつあるキャリアの潜在的なパワーを感じさせる力強さがあって、とても印象的なのです。

「確かだぜ、ベイビー」という曲のタイトルが示すとおり、このシーンでは、「これからは俺の天下だ」というピーターが、自分のサクセスストーリーを語るために、曲の途中で彼によるストーリーテリングが挿入されます。そのときには、ダンスもシンプルな振りの繰り返しとなるのですが、そのなかのひとつが、舞台中央付近で、片膝をついてしゃがみ、うつむき加減になって、頭をカクカクと上下に振る部分です。すごくシンプルな振りを、帽子を被ったままの状態で踊るわけですが、そういうときも青山さんは、一定のリズムを刻む動きの線が鋭くて本当に見事です。青山さんは、このシーン以外のダンスシーンでは、センターで踊ることが多いのですが、このシーンではアンサンブルの前方左端というポジションで、アンサンブル全体を引っ張るかのように踊っておられます。そこで青山さんの精確なリズム感に裏打ちされた輪郭鮮やかなダンスが、アンサンブル全体の波のような動きを引き締めているのです。この曲の最後は、ピーターの上り調子のキャリアがすごい勢いで階段を上ってゆくような感じを表現しています。このシーンに引き続くロケッツとのダンスシーンはまさにピーターのキャリア、そして人生の頂点ともいえる場面。そこへたどり着く一歩前の、期待と興奮が盛り上がっていく様子が、うつむき加減にうなずいて、駆け足をするときのように腕を前後に振る動きをする、力強いダンスによってこちらにもよく伝わってきました。待ち望まれた、ピーターのキャリアの開花としての、このシーン自体のショーとしての華々しさも素晴らしく、観客を盛り上げて引き込むパワーに満ちているのですが、さらなる夢の頂点を観客に予感させつつ、次のシーンへといざなうような、青山さんの抑制の利いた力強さの表現が、とても印象的でした。

ショーが終わって舞台後方が暗転するなか、舞台前方中央に、ピーターと彼を取り囲む男性アンサンブルのみが残り、スポットライトがあたります。次のシーン、Radio City Music Hallでのロケッツとのダンスシーンのために、ピーターは舞台中央で着替えをするのです。男性アンサンブルに囲まれて、2階席からもほとんど坂本さん@ピーターの生お着替えは見えない状態です。青山さんは客席から見て右側で、坂本さん@ピーターを固くガードします。このときのピーターと男性アンサンブル、舞台と客席のやりとりがまた楽しいものです。そしてRadio City Music Hallの「世界最大のパイプオルガン」にからんだ話を差し挟んだりしながら、「ありのままの自分」全開のピーターが、男性アンサンブルの方に囲まれての嬉しい着替えを、客席に中継しているような感じです。そして「これ以上何を望むっていうの!」というピーターの一声とともに舞台は暗転、アンサンブルが疾風のように舞台袖に引き上げたかと思うと、舞台中央には、スポットライトに照らされた、白燕尾服にステッキを持った、輝くばかりに華麗なピーターが・・・。素晴らしい変わり身!アロハシャツから白燕尾服への、ピーターの見事な変わり身を演出したのは、他でもない、青山さんたち男性アンサンブルの方々でした。素晴らしいダンスを披露した後では、「黒子(黒衣)」の役割も果たしていたのです。アンサンブルがお揃いで着た同一の派手なアロハシャツと、帽子によって視線を遮断したことによる匿名性がここでも効果的でした。

◆『ボーイ・フロム・オズ』詳細レポ Ⅲ

2007-08-03 02:20:29 | ボーイ・フロム・オズ
♪She Loves to Hear the Music 「音楽を聴くのが大好き」

ライザに男性との戯れを目撃されたピーターは、自分の中には「ライザ」という名前しかない、と釈明をするものの、彼女との距離は決定的なものとなってしまいます。そして、ピーターのキャリアは「どん詰まり」に入り込むなか、ライザの人気は上がる一方。「たったひとりで片隅から、成功への階段を駆け上るライザを見ているしかなかった」というピーターが、舞台左手の端から中央をじっと見つめると、舞台中央奥にライザのシルエットが、浮かび上がります。頭上には、ライザを描いたイラストとともに、”LIZA”と大きな赤い文字で書かれたショーのセット。ライザ・ミネリといえば、あの衣装という、赤いスパンコールのマイクロミニに身を包んだ紫吹さん@ライザが、「ライザ・ミネリ」っぽいしぐさで、「She Loves to Hear the Music/音楽を聴くのが大好き」を歌い上げます。今や「ライザ」という名は、多くの人のなかに浸透したものとなったこと、そして誰よりもライザこそが、「自分が一番」と言われることを望んでいるということが理解されるのです。しかし、いかに皆の注目を一身に集め、スポットライトを浴びたとしても、たったひとりでこの歌を歌い始めるライザには、歌詞にもあるように、「起きるときは、いつもひとり」という、スターの孤独感が漂います。それでもなお、「音楽さえあれば生きていける」というライザの決意、あるいは「他の何はなくとも音楽がなければ生きていけない」という彼女の運命を感じさせるのが、この曲であり、このシーンなのです。そして曲の中盤からは、バックダンサーたちとともに「見せ場」ともいえる迫力ある圧巻のダンスが、「ショーのリハーサル風景」として繰り広げられるのです。

曲の中盤、盛り上がりとともに、舞台の両袖から、バックダンサーたちが3人で1列のかたまりになって、鉄砲から飛び出す弾丸のごとくライザを取り巻くように登場してきます。そして左右反対方向から各々飛び出してくるダンサーたちは、あっという間に混ざり合い、ライザを囲むようなフォーメーションとなり、瞬きしている暇もないようなスピーディーな展開のダンスが繰り広げられるのです。青山さんは、向かってライザの左側。ダンサー全員が紫吹さんの周りに集中するとき、また青山さんともう一人の男性ダンサーの方(佐々木誠さん)のみが紫吹さんを囲んで踊るときの二つに大別できます。”The inner rhythms that I hear are all that keep me high”という歌詞のごとく、ライザの身体中をかけめぐる「内なるリズム」と、「音楽を聴かずには生きてはいけない」という彼女を突き動かすような欲求と衝動とが、青山さんに化身して、それを目の当たりにする観客は、これでもかという底知れないエネルギーに打ちのめされそうになるのです。演出のマッキンリー氏が、パンフレットに寄せた言葉のなかで、この作品自体を、roller coaster/ジェットコースターに喩えておられましたが、このシーンでの青山さんは、まさに猛スピードで駆け抜けるジェットコースターそのもの、ヒートアップするエンジンの温度をこちらも体感できるかのような勢いなのです。

ダンサーたちが踊る時間は決して長いとは言えないのですが、このシーンでは、印象的な振り付けが多く、そのハイライトともいえる部分を青山さんが踊ります。ライザの後ろで、背を向けて肩を小刻みに震わせる振り(BW版HP参照。「演技者。」でも稽古中映像で映っていました。)などは、生身の身体が到底作り出せる動きではない、とさえ感じてしまうようなエネルギッシュなものでありながら、BW版のダンサーにはない「しなやかさ」がありました。また赤いラメの手袋をした手のひらに関しても、指の先の先までに神経が行き届いた感じがよくわかります。ダイナミズムを感じさせつつも、これ以上細やかにできるのかとも言いたくなるような一瞬の動きのひとつひとつが、瞼に焼き付いて離れません。ライザを含めた3人が、間奏の部分(Let me hear the musicの前の部分)で、身体の左側右側とで交互に、手首で手のひらを折り返して上下させる振りなどでは、一瞬のうちにエネルギーがパッと発散されるような手の動きとともに、しなるような身体全体のラインが、「ライザのなかで波打つ衝動」をこちらに伝えているかのようです。そして管楽器が刻むリズムごとに、背を向けて肩を上下させる振りや、上半身のみをこちらの方向にねじり、振り返りざまに、肩を動かすシーンなど、挙げだしたらキリがないのですが、一時一時で刻々と変化する肩から腕、背中、腰、大腿部の動きには、青山さん独特の際立つキレを感じてしまいます。躍動する身体のすごさをそれが当然とばかりに魅せつけてくれるという、つまり、それは青山さんのダンスの醍醐味を、短い時間のなかに凝縮して味わうことができるのが、このシーンの特徴でしょう。

そのようなダンスの魅力を引き出すのが、このシーンでの衣装です。この場面での、青山さんをはじめとした、バックダンサーさんたちの衣装は、男女ともに同じもの。黒の不規則な光沢のある薄いベロア(?)のような生地で、身体にピッタリとフィットしたボディースーツのような衣装です。胸に深くV字に入った切り込み(スラッシュ)と、裾が広がっているベルボトムシルエットが、とても60年代末~70年代っぽさを醸し出しています。肌の露出がほとんどないこの黒のボディースーツに、手には赤いラメの手袋(紫吹さんの衣装と同じ質感)。見たところ、掌までが露になっていない、全身を覆いつくす衣装なのですが、そのことが逆に、独特のセクシーさを演出しています。膝から上の身体のライン(輪郭)を強調するフィット感と、動くたびに変化するダンサーの筋肉を鈍い不規則な光沢で表現する生地の質感が、躍動する青山さんの身体の動きの凄さを見事に引き出しています。ライザを突き動かす「音楽を聴かずにはいられない」という抑えられない欲求・衝動と、歌詞にあるような”the inner rhythms “すなわち「身体のなかで脈打つようなリズム」を、青山さんの身体が代弁しているかのようなのです。

一方、紫吹さん@ライザは、真っ赤なスパンコールのホルターネックのマイクロミニというとても露出度の高いお衣装。スポットライトがあたって、キラキラ光る真っ赤なスパンコールの衣装と真っ白に輝く肌のコントラストが眩しく、長くのびやかな手と脚が、紫吹さんらしい「ライザ」のオーラを放ちます。BW版ライザも、本物のライザも、もう少しボリュームのある感じですが、紫吹さんのライザの魅力は、やはり何と言っても、素晴らしいくらいに美しい肩、細長い手と脚の繊細かつダイナミックな動きです。その点においても、バックダンサーたちの全身を覆いつくした衣装は、ライザとは対照的で効果的です。対照的な衣装で、舞台上にそのエネルギーをぶつけあい、融合させてゆくライザとバックダンサーたちを観ていると、ダンスの盛り上がりとともに、どんどんテンションが高くなっていく様子が伝わってきて、こちらは圧倒されてしまいます。また、ライザのこの衣裳の「露出度の高さ」が、この曲のストーリーを伝えるときに非常に効果的です。この曲の前半では、ライザのスターダムを駆け上がるなかでの「孤独感」が漂いますが、そのとき、この真っ赤なマイクロミニから覗く、白く細長いライザの手や足の動きが、広いスタジオの空気に晒され、たったひとりで歌うライザの心細さを表しているかのようなのです。しかし後半は一転して、この「露出度の高さ」こそが、ライザの自信を見事に表現するのです。あれほどの衣裳を着こなし、歌い踊れるのは、この私しかいない!というようなライザをうみだす、紫吹さんの迫力は素晴らしかったですよね。

BW版の公式HPのvideo galleryとphoto galleryで見た限りですが、BW版ダンサーの衣装に比べて、日本版ダンサーの衣装は、また異なる視点から、ダンサーの動きを堪能できるものになっています。BW版に比して、膝から上の身体の動きの表現という点では、今回の衣装の方が、身体の放つエネルギッシュなパワーをよりダイレクトに感じることができるものではないでしょうか。しかし、その分、それを着て踊るダンサーにとっては、厳しさを要求してくる衣装だったかもしれません。単に身体のラインということだけでなく、振りに伴う筋肉の動きが立体的に三次元で伝わってくるような衣装なのです。しかし身体のパーツごとのキレが手に取るようにわかるこの衣装、青山さんの躍動する身体を堪能するには、最適な衣装であったことは明らかです。(ベルボトムシルエットが、膝から下の動きの鋭さを堪能することを妨げることはありますが・・・。)そして男女ともに同じ衣装を着ることによって醸し出される男女の性差の曖昧さとボーダーレスな感じ、さらにはそのことによる独特な艶っぽさは、このショーの魅力を増大させていましたが、その程度はBW版の白フリルシャツによるそれを遥かに超えていた気がします。

この曲のフィニッシュは、今や栄光をこの手にしつつあり、自分の運命のあり方に気づいた輝くばかりのライザを、青山さんともう一人の男性ダンサーの方が、力強くリフトするというものです。それまでもスポットライトは十分すぎるぐらいにあたっていたはずですが、この瞬間の宙高くリフトされるライザには、降り注ぐスポットライトのすべてをその両手につかむ自信が満ちています。

ダンスシーンのリハーサルが終わり、リフトされたライザを青山さんたちがフロアーにそっと下ろすと、それまでの空気がガラリと変わります。素晴らしいダンスを共に作り上げた一体感が、ライザとバックダンサーたちに生まれているのです。青山さん@ダンサーも紫吹さん@ライザと言葉を交わし、心の底からその喜びを分かち合っている様子が伝わってきます。そして、他でもない青山劇場の観客が、「リハーサル」として目の前で繰り広げられた素晴らしいダンスに、割れんばかりの、惜しみない拍手を送っていて、「観客」を想定していないはずの、その「リハーサル」としてのダンスシーンに、「観客」として完全に引き込まれてしまっているのです。ライザの高揚感をバックダンサーのみならず、観客も明らかに共有していたのです。OZのダンスシーンに特有なのは、この感覚です。台詞のやり取りやピーターのストーリーテリングが多いなかで、適所に差し挟まれるダンスシーンは、眼の前で繰り広げられる「ショー」として観ている者を引き込み、その時代と場所に、いつの間にか立ち合わせる、という感じなのです。今回のOZは、WSSなどと比して、決してダンスは多いとは言えないかもしれません。しかし、2時間40分という上演時間にピーターの約40年間の波乱に満ちた人生を盛り込むというこのミュージカルに、奥行きとリアリティーを与えているのは、紛れもなく随所に散りばめられたダンスシーンであり、アンサンブルが作り出した「場」でありました。

話は戻りますが、確か台詞にもあったと思うのですが、そんなライザにとっては、バックダンサーたちは、「夢」を分かち合うことのできる「家族」のようなもの。彼らと楽しそうにリハーサル後の談笑を楽しむライザには幸せそうな表情が読み取れます。そこへ、ライザの母ジュディーの死を知らせに来たピーターが現れます。今のライザにとっては、明らかにピーターよりバックダンサーたちのほうが近い存在、仲間と感じていることが伝わってきます。ここでも、Continental Americanに引き続き、ピーターが一人取り残されていくという、孤独感がより一層際立ちます。そして、素晴らしかったダンスシーンの後の高揚した空気が、ピーターによってもたらされたジュディーの死の知らせによって、ここで再び、悲しみと衝撃に満ちた重苦しいものへと一変するのです。「ジュディーの死」という、これ以後のピーターとライザの関係に深い影を落とすことになる出来事の衝撃が、あのダンスシーンによって高揚感を得ていたライザやバックダンサーたちにも、そして、あのダンスシーンによってそんな舞台の空気と一体化していた観客にも、より大きなものとして伝わるのです。リハーサルから引き上げていくバックダンサーたちの後姿にはライザの悲しみへの共感と受けた衝撃の深さがにじみ出ています。

このシーンの後、ライザはピーターに別れを告げることになります。咲き誇る「真紅の薔薇」のように、スポットライトに照らされた輝くばかりの栄光のすべてを、手に入れたかのような華やかなステージの陰には、I’d Rather Leave While I’m in Loveの歌詞のごとく、「枯れてゆく薔薇」のような傷ついた心があります。Continental American、そしてこのShe Loves to Hear the Musicでの青山さんを観ていると、そのようなピーターとライザの心の風景というものが、こちらにグッと迫ってきます。そして、これらのシーンを通して強調されたピーターの孤独感があるからこそ、ライザも、ジュディーも、おまけにアレンブラザースの相方のクリスもいなくなって、本当に一人ぼっちになったピーターが今度は、第一幕最後のNot the Boy Next Door以降、「ありのままの自分」を見つけ、人生のパートナーとも出会い、キャリアの頂点へと上り詰めていくドラマティックなプロセスに、ピーターに寄り添いつつ、観客も入り込んで行けるのではないでしょうか。

やがてこのように第2幕前半で「すべてを手にいれた」はずのピーターは、第2幕後半で、パートナーの喪失、自身の病、マネージャーとの決別と、全てを失ない、悲しみに打ちひしがれます。しかしそこからピーターを引き上げ、覚醒へと向かわせるのは、他でもないライザなのです。「セックスとエゴと野心さえなければ、私たちはうまくいっていたのにね」という台詞で、ピーターとライザによって振り返られる過去に、Continental AmericanとShe Loves to Hear the Musicのシーンが重なります。第2幕後半そのシーンのYou and Me の歌詞にあるように、「すべての夢がかない、すべてを手に入れたはずの」ふたりが唯ひとつ失くしたものが「愛」だった、というピーターとライザの「取り戻すことのできない過去」に奥行きを与えるのも、この第1幕の二つのシーンContinental AmericanとShe Loves to Hear the Musicがあるからこそです。そして「咲き誇る真紅の薔薇」も「枯れてゆく薔薇」も、すべてを受け入れて、傷ついたピーターを救いだすライザの存在感に深みを与え、出会い、結婚、別離を経ての二人の友情をきわだたせるのです。第1幕の「見せ場」でもあり、第2幕の展開にも重層的に作用するこの2シーンで、青山さんは、その空気を見事にその身体によって創り出し、その画像を鮮烈に観客の目に焼き付けていました。

ところで、She Loves to Hear the Music/音楽を聴くのが好き、この曲の歌詞、確かに他の何はなくとも音楽がなくては生きてはいけない、というライザのためにあるようなものです。しかし、音楽が流れて踊りだすと、「水を得た魚」のように俄然輝きだす青山さんを観ていると、この曲の歌詞、そのまま青山さんのためにあるような気さえしてきます。ライザの「内なるリズム」と彼女を突き動かす「衝動」が青山さんに化身して、と先ほど書きましたが、このシーンで踊る青山さんを、客席に座って眼の前に観ていると、「このひとは踊るために生まれてきたひとだな」と、観るたびごとにどうしても感じてしまうのです。単に、踊るために生まれてきたと言えるような完璧な「身体」を持っているということだけではないのです。あの身体全体から溢れる豊かな表情、とりわけあの「眼の輝き」を見ていると、新たな驚きにも似た感動に包まれてしまいます。

OZのなかで、青山さんの「一番のお気に入り」だというこのシーン、観劇前からBW版HPやTVの特番の稽古場映像などで、いろいろ私なりに想像していたのですけれど、やっぱりこの眼で実際に観て、あの空気を体感したら、想像以上に、限度を超えた「かっこよさ」でした。とにかく、ファンの方には絶対観ていただきたい青山さんがそこにいる、そんなシーンでした!


※このダンスシーンは、ボブ・フォッシーが監督し、ライザ・ミネリが出演した1972年のLiza with a ‘Z’をイメージしたシーンのようです。DVD『FOSSE』に収録されている”Bye Bye Blackbird”( Liza with a ‘Z’からの曲)は、OZのこのダンスシーンを彷彿とさせるもので、興味深いです。ボブ・フォッシーの振り付けの特徴とされる「猫背・内股」のうち、特に「猫背」な感じが、振り付けに取り入れられているようです。青山さんのフォッシー調なダンスを堪能できるシーンです。

◆『ボーイ・フロム・オズ』詳細レポ Ⅱ

2007-08-03 01:23:14 | ボーイ・フロム・オズ
♪Continental American 「コンチネンタル・アメリカン」

Continental Americanでの青山さんは、男性とも女性とも、誰とでも欲望の赴くままに関係を持つというイージーな世界を、まとわりつくように、とってもウェットな感じで、一度踏み込んだら泥沼のように抜け出せないような陶酔感を漂わせながら、表現しています。しかし、そこにはパートナーへの感情のようなものは差し挟まないというドライさがつきまとうのです。”Nights would end at six am. / You’d sleep all day / and then start dancin’ again / The first to see the end.”という歌詞のように、昼も夜も区別がつかなくなるぐらいに抜け出せなくなるような頽廃と快楽の坩堝に嵌っていく様子が描きだされるのです。

この場面での青山さんは、ラメがたくさん入ったグレー系のトップスに、黒のベルボトムのパンツ、首には、ラメ入り(?)のショールをかけています。ピーターのマンションで、一人取り残されたピーターを、数人のそれらしき男女が「ピーター、ピーター」とけだるい声でプレイへと誘い込んでいるところへ、曲の始まりとともに、舞台右手から、様々な仕方で快楽に溺れていく男女が、横一列に並んで入ってくるのです。その最前列の女性は、ヒールを履いて、小刻みに脚をひきずるような振りで出て来るのですが、青山さんはその最後尾、眼鏡をかけた男性との絡みで倒錯的な陶酔を感じさせつつも(初演版では安倍康律さん?、再演版では後藤宏行さんとペアでした)、振り付けは飽くまでスタイリッシュ。このシーンでの振り付けは、全体的にとても官能的で、エロティシズムを感じさせるもの。そして単にカッコイイという意味の「スタイリッシュ」さを通り越して、青山さんには、様式styleとも言える完成された「かたち」を感じてしまいました。冒頭のこの部分の振りは、このあともダンサーがあちらこちらへと分散したかたちで、繰り返されます。

曲の盛り上がりとともに、ピーターと一人の女性(紀元由有さん)をアンサンブルがリフト、二人を囲むようにアンサンブルが絡みながら取り巻くのですが、このとき後方に回って踊る青山さんの波打つような腕の動きが必見なのです!ここでは、酒やドラッグに溺れて、落ちていく感じがよく出ていました。ちなみに、この青山さんの腕の動きを見られたのは、後方席のときでした(特に右側の後方席です)。

そして中盤のダンスは、とっても頽廃的でセクシーな感じ、流れるようでいて、まとわりつくようなウェットな感じです。これから70年代に入っていくという60年代末の、時代の空気の粒が、観ている側にも発散されるのが感じられるような錯覚に陥ります。手や腕全体を使って身体をなぞるような振りや、フロアーをなでるような感じのステップが、ラメ入りの衣装の質感と首にかけたショールの揺れと相まって、底なし沼のような官能と頽廃の空気を充満させていました。それでいて、そこには孤独感が漂うのです。

そしてこのシーン最後で、ピーターがソファーで男性と絡んでいる傍らの、グランドピアノの上で、青山さんは女性の方との情事を踊るわけですが、お互いに反対方向からピアノに寄っていき、ピアノの上に乗るまでの、青山さんと女性ダンサーの方のタイミングと脚捌きが絶妙のかっこよさ。このグランドピアノの場面については、完璧すぎますので、ここまでに。初演時より、「アルマーニのファッション写真」から抜け出たようだ!と私達ファンのあいだでは、話題になりました。快楽に溺れていく、まさにそのところで、予想外に早く帰宅したライザの叫びにも似た声で、彼らの世界に終止符が打たれるのですが、その現実への「引き戻される」感じを、青山さんはとても巧みに表現していたのです。その場限りの、情も何もない関係を、もてあそぶかのような終わり方、そしてピーターとライザを蔑むようなせせら笑いで部屋から引き上げていくその仕方は、ライザの受けた衝撃とピーターの孤独感を強調し、同時に短かったピーターとライザの蜜月時代の終焉を浮き彫りにしていました。このシーンの背景には、「ライザの亭主」としてしか扱われないというピーターの孤独感とさびしさ、ライザの上り調子のキャリアとは裏腹の、自分のキャリアの行き詰まり感から、自分自身の居場所を確かめるために、つかの間の快楽を求めてしまうピーターの存在があります。このつかの間の結びつきが、「偽りのもの」だとわかりすぎるぐらいわかっているがために、そのつかの間の一体感が崩れて、実際にピーターに牙をむいたときに、ピーターがより一層隅に追いやられ、感じた孤独感というものが、観る者によく伝わってくるのです。Continental Americanでの青山さんのダンスと演技は、まさにその流れを観客に伝えているのです。

また一方でこの場面は、ピーターのゲイというセクシャリティーを、最もわかりやすい形で観客に指し示す場面ですが、このようなイージーさと孤独感を伴った表現が、第2幕でのピーターとグレッグとの出会いと関係を、より運命的でピュアなものと位置づけるための、大きな要因になっているように思われます。ピーターや、ゲイ・アイコンであったジュディーの台詞においては、ピーターのセクシュアリティーについて、かなり多くの言及があるのですが、まだピーターが「ありのままの自分」を曝け出していない第1幕では、ピーターの「演技」にゲイとしてのセクシュアリティーを感じさせる部分があまり織り込まれていない気がします。第2幕でも、「ありのままの自分」を曝け出した後のピーターは、そのしぐさや台詞の言い方、そしてパフォーマンスに「それらしさ」が出て来るのですが、やはりストーリーテラーとしての役割を負っていることもあり、100%全開ということではありません。確かに、このContinental Americanで、青山さんはピーターのパートナーを直接に演じていたわけではないですし、以前にレポしたLove Crazyでも、ほんの一瞬「男の子大好き」なピーターのお目に留まっただけだったかもしれません。しかし、先ほど述べたような、第1幕におけるピーターのセクシュアリティーの示され方と合わせて考えると、青山さんの存在は、第1幕においては、そんなピーターのセクシュアリティーを映し出す「鏡」のようなものであったように思われてくるのです。

この後に続くライザとのダンスナンバー、She Loves to Hear the Musicで、ライザが、ピーターではなく、音楽こそが私の生きる道と、目覚めていく展開に説得力を持たせるのも、このContinental Amrericanの衝撃が大きく関わっているは言うまでもありません。

◆『ボーイ・フロム・オズ』詳細レポ Ⅰ

2007-08-02 23:50:14 | ボーイ・フロム・オズ
♪Love Crazy 「ラブ・クレイジー」

アップルミントグリーンのビーチシャツに、バブルガムピンクを基調にした水着(ショートパンツ)、足元はブルーのショートソックスに、同じくピンクの靴(スリッポン型?)。こんないかにも60年代な匂いのする装いに身を包んで、アレン・ブラザースのバックダンサー役である青山さんは、オーストラリアのテレビ局の収録スタジオに現れます。その溌剌とした風貌には、TVスタジオという設定でありながら、大きなビーチボールを描いたスタジオセットと相まって、ビーチを吹き抜ける潮風を感じてしまいました。BW版では、カラフルでありながら、もっとクラシックな感じの衣装、確かスーツを着て踊っていたようですが、今回の日本版のセットと衣装は、私としてはLove Crazyのダンスにぴったり、はじけるようなポップさ、若さを作り出すには、もってこいの演出だったように思っています。

舞台向かって右側から、皆より一足遅れてご登場の青山さん@バックダンサー、ビーチシャツを着なおしながら颯爽とスタジオに入ってくるのですが、このときに、胸元がチラリ、ピーター(坂本昌行さん)は思わず覗き込むように、この青山さん@バックダンサーに、眼を奪われてしまいます。テレビ収録の準備中のはずなのに、一瞬全然違うことのスイッチが入ってしまうピーターが、何とも笑えるわけです。再演版では、このご登場のシーンが初演版に比べて、なんと言ったらよいのか・・・(笑)、かなり強調されていました。「実は男の子大好き!」なピーターと、青山さん演ずるイケメンバックダンサーの眼が合ってしまう瞬間のあの「間」が、なんとも言えずおかしくて、毎回会場が沸いていましたよね。17歳の頃から既に「男の人についつい眼がいってしまっていた」ピーターのセクシュアリティー(バイセクシャルであること)が、この作品で初めて観客に示されるのが、この場面です。そんなピーターは関係ないとばかり、収録前の最後の身支度のチェックに抜かりのない、テレビ映りを気にする、「イカシタ」青年ぶりを青山さんは好演。アレン・ブラザースの紹介をするMCの後、Love Crazyの曲の出だしと同時にスポットライトがあたって、カメラが、踊りだすダンサーたちを映し始める瞬間の、青山さんの変化の仕方がまぶしく、非常に鮮やかでした。スポットライトがあたった瞬間、バックダンサーたちのセンターで、満面の笑顔でエネルギッシュに踊りだすあの青山さん、本当に真夏の照りつける太陽のごとく、眩しかったですよね。「60年代オーストラリアでのTV収録寸前のバックダンサーさんたちの緊張」と、「2005年6月(初演時)の青山劇場のOZの観客の期待」が重なって、それが一瞬にしてパチンとはじけて、溶け合っていく雰囲気は、何とも言えず、あの曲の始まりの瞬間は、「青山劇場のOZの観客」が「オーストラリアのTVスタジオの収録に立ち会う見学客」に変容してゆく瞬間だったかもしれません。

この曲の冒頭、青山さんは、まさにスポットライトとカメラの中心、センターで踊るバックダンサーのリーダー的存在です。そしてバックダンサーたちに囲まれて現れるアレン・ブラザースともに、客席から笑いが漏れるような、振りで踊ります。しかし、その振りは、「ちょっとやりすぎ?」と思えてしまうほどにコミカルな感じでありながら、Love Crazyの歌詞にぴったりという感じで、終始青山さんの”energy is everything”で、“the whole world is buzzing”してくるようなダンスを楽しめます。腕を上げて胸を前後に動かすもの、脚をツイストする動き、そしてピーターとクリス(松原剛志さん)を囲んで、フィンガースナッピングをしながら、横に移動していくシーンで、青山さんは前列中心で、背を向けてしゃがんでスナッピングするのですが、この手首と指の動きなんて、その部分だけでリズムを感じてしまうような考えられないかっこよさ!それからフィニッシュの、しゃがんで腕を伸ばすところなんて、最高でした~。さらに、”Listen to the music in the water. Don’t you see it swim before your eyes”の歌詞に関連してか、泳ぐような感じの振りも盛り込まれていて、とってもキュート!2005年6月(初演時)という、観客の抱く夏前の今の季節感と、舞台で繰り広げられる60年代のスタジオセットの光景とが、不思議に呼応して、観ている者は、本当に60年代のあの収録スタジオにタイムスリップしているような、なんだか不思議な感覚に陥るのでした。とにかく、太陽の光と夏の海のキラキラ光るようなまぶしさを感じさせる(飽くまでスタジオのセットなのですが・・・)、このシーンの雰囲気がとってもよく伝わってくるダンスでしたし、オーストラリアでブレイクした若きピーターたちの盛り上がり具合、アレン・ブラザースの「俺たちいけるよ!」な勢いが伝わってくるダンスでした。

ところで、この場面は、何度も言っているように、TVスタジオでの収録シーン。私たち観客は、カメラに映っている人たち、映っていない人たち、全てをひっくるめて、シーンとして楽しんでいるわけなんですが、青山さん@ダンサーは、そこのあたりを、とてもメリハリをつけて演じていらして、雰囲気がよく伝わってきたのです。Love Crazyの中盤で、青山さん@ダンサーは一旦カメラからは外れて、スタンバイ状態になるところがあるのですが、このときも舞台右手のほうで、カメラに映っていないので、心なしかリラックスしながらも、すかさず髪の毛を直したり、脚の状態をチェックしたりと、「ダンサー」として完璧にカメラに映ることに余念がないのです。そして再び、カメラに撮られるときになると・・・、再びエネルギッシュにダンシング!という感じで、観客は「収録現場」の雰囲気を、本当にリアルに感じることができるわけです。その風貌だけでも、ピーターが眼で追ってしまうのは、既に納得なのですが、こういうリアルな細かい部分の役作りでまた説得力が出て、名もないバックダンサーの人物像の輪郭が明確になって、このシーン最後のダンサーさんたち引き上げるところでの、ピーターの青山さん@ダンサーに対するお名残惜しい態度にもつながるような気がしました。手をギュッと握ったり、お尻にタッチしてしまったり、と日によって様々な演出でしたが・・・。(再演時には、ジャケットを脱いで、上半身を露出しながら袖に消えてゆくという感じで、シーン冒頭のご登場のときと同じぐらいの存在感があり、ピーターの「男の子大好き路線」を強調するためのよりわかりやすい演出になっていました。)

それにしても、このシーンでの青山さんを含めたバックダンサーの方々、笑顔が最高でした!曲冒頭でのスポットライトが当たった瞬間のカメラを意識した笑顔もパワーがあって、この曲の始まりにぴったりなのですが、曲が進むにつれて他のダンサーさんたちと一緒に踊るところでの笑顔もまた格別!ステージの楽しそうな雰囲気に観客も思わず足ではリズムを取ってしまうようなシーンでした。

Love Crazyの後には、ほどなく香港のヒルトンホテルのラウンジで、ピーターがジュディーに出会うシーンとなるのですが、このシーンになるとき、Waitzin’ Matildaというピーターとクリスが歌う中国語訛りの曲に合わせて、アンサンブルの男女のカップルがダンスをしながら、ホールに入ってくるのです。場面転換の役割も負っているこのダンスシーン、Love Crazyの雰囲気とうって変わって、とってもエレガント!シックなスーツに身を包み、女性の方(WSSご出演の柳田陽子さん)をリードして、輪を描くように踊る青山さん@ホテルのゲストは、先ほどと同じ人?という感じです。端正でいて、しなやかさが際立つ後姿はエレガンスそのもの。ホテルのラウンジのほの暗い照明のなかに、ふんわりと揺れるそのお姿は、この上もなくロマンティックでした!鳳蘭さん@ジュディーのAll I Wanted is the Dreamの熱唱を聞き入る青山さんをはじめとしたアンサンブルの皆さんがとても素敵!オーストラリアのTV局のスタジオから香港のヒルトンホテルのラウンジへと、客席もあっという間のトリップでした!

◆『ボーイ・フロム・オズ』詳細レポをアップさせていただきます。

2007-08-02 23:45:11 | ボーイ・フロム・オズ
さて、和央ようかさんの”ROCKIN’ Broadway”、どんなライブ・コンサートになるのか、とても楽しみなところですが、青山航士さんはこれまでにもたくさんの元宝塚トップスターの方々と共演されています。そこで、前回の記事でもふれた、紫吹淳さんとのダンスシーン(♪She Loves to Hear the Music 「音楽を聴くのが好き」)のレポも含む、『ボーイ・フロム・オズ』(2005年初演、2006年再演)の詳細レポをアップさせていただこうかと思います。青山さんのファンの方々には、以前にファンサイト様ネタバレ版に投稿させていただいたものを読んでいただいているかもしれませんが、こうして自分のブログを開設することになりましたので、こちらに再度投稿させていただこうかと思っております。2005年6月の初演時より長い期間、貴重なスペースをお借りして、激長のレポを掲載させていただけましたこと、管理人様には心より感謝しております。本当にありがとうございました。

今回の詳細レポは、初演時に投稿したもの、つまり青山さんご登場のシーンについての詳細レポになりますが、OZ全般に関しては、いづれまた機会を改めて、昨年の再演版を経ての、他のシーンについてのレポなども、アップしたいと考えております。

ちなみに、『グランドホテル』(2006年1月)では、紫吹淳さん演ずるフレムシェンとのダンス・ナンバーがとても印象的でしたね。
その詳細レポはコチラです。
→ ♪Maybe My Baby Loves Me 「たぶん彼女は愛してる」
  ♪Girl in the Mirror 「鏡の中のあの子になりたい」

また、『テネシー・ワルツ 江利チエミ物語』(2005年9月、2006年8・9月)では、絵麻緒ゆうさん(雪村いづみさん役)とのダンス・シーンもとても素敵でした。
その詳細レポはコチラです。
♪Sweet and Gentle 「スウィート&ジェントル」

こうして自分の書いたものを読み返しながら、ちょっと振り返っただけでも、曲想、センターで踊られる方の雰囲気に合わせながら、どんなダンスでも完璧に踊りこなしてしまう青山さんのダンスのすごさに改めて驚いています。同時に、青山さんのダンスを観ながら、劇場でシーンごとにあの空気に包まれてゆく感覚が蘇ってきて、うれしくなります。こちらを読んでいただいている方に、どの程度その感覚を共有していただけるのかを考えると、かなり不安なのですが、少しでも「あの感じ」が伝わったら、とても嬉しく思います。詳細レポは、どれも激長で大変申し訳なく思っておりますが、劇場で私が体験したライブでリアルな感覚を、なんとか記録しておきたい、という思いから書き始めたものです。激長文&拙文、どうぞおゆるしください。

◆『ボーイ・フロム・オズ』観劇4回目レポ

2006-11-06 02:31:16 | ボーイ・フロム・オズ
今日はとうとう『ボーイ・フロム・オズ』のMy楽日でした。東京公演前楽ということもあって、劇場の雰囲気はとても熱く、ステージの展開という点においても、私の4回の観劇のなかでは、最もドラマ重視の回だったような気がします。前記事でも書きましたが、アンサンブルのダンスも演技も歌も、本当に初日から完成度とテンションが高く、今日も最初から最後まで本当に素晴らしかったです。また今日はフィナーレの後のお馴染みの坂本ピーターさん一人のカーテンコールの後、幕が下りても、客席の拍手が一向に鳴り止む気配がありませんでした。そのうち最初はバラバラであった拍手が自然とリズムを刻むように同調していって、最後は会場中の拍手がひとつになるということに・・・。既に客電がついているのに、そのような状態が2分ほど続いたと思います。そんな観客の心からの声援に応えるべく、幕が再び上がり、もう一度坂本ピーターさんが出てきてくれました。マイクを持った坂本さんは、「最高!とか、よかった!とか言われるより、こうやってここで拍手をもらえることが何よりもうれしい」というような内容の挨拶をされていました。

「今日の青山さん」については、いろいろと表現するための言葉を探してみるのだけれど、すっかりあのステージの余韻に浸りきっている私には、なかなかぴったりの言葉がみつかりません。ですので、今日は、4回の観劇を通して感じたことを書きたいと思います。今回の私の再演版『オズ』の観劇は、10月28日の初日から約1週間という短い期間に4回というハイペースなものでしたが、青山さんは、とにかく毎回、どのシーンのどこを切り取っても完璧なわけです。私の4回の観劇のうち、前半2回は上手寄り、後半2回は下手寄りだったわけですが、大きく角度を変えて観てみても、あの細部にまで神経が行き届いた精巧さ、空間をデザインしてゆくようなダイナミックさは、そのたびごとに(座席の位置が変わって見る角度が変わるごとに)違った魅力を、十分すぎるぐらいに放っていました。それでそのダンスに伴う表情、これはいつも言っているように「お顔の」ということだけではなく、「身体全体の」ということなのですが、もう本当に素晴らしかった!青山ファンだから、青山さんしか見ていないじゃない~、と突っ込みをいただけばそれまでなのですが、しかし、青山さんのダンスを見ていれば、そのシーンの空気、曲の世界が広がってきて、観る者のなかでストーリーが広がってゆく、これは少なくとも私にとっては紛れもない事実なのです。

「リーディング・ダンサー」という言葉は、青山さんを見ていれば、単に、「見せ場」的な重要なパートを踊ること(Love Crazyの冒頭やライザのシーン)や、大勢の群舞を引き締めるように踊ること(Peter’s Sure Thing ,Baby)だけをいうのではない、ということがよくわかります。場面の空気感が青山さんの動きから発散されているわけです。「ダンス」ということに限らず、青山さんの場合は、身体がもう何かを語っているので、とにかく眼が離せないのです。完璧すぎるフォルムとそこに充満するエネルギー、そして観る者に必ず何かを伝えること、それらが青山さんのダンスでは見事に共存してしまうのです。そして、その表現の底辺には、観ているひとを絶対に楽しませよう!というプロ根性が徹頭徹尾横たわっていると思います。どんな芸術家気取りのダンサーが真似したくても絶対にできないような、職人のようなダンスを見せてくれるのに、青山さんのダンスは観客の前で声高に「アートであること」を主張しない。むしろ逆にそんなことはどうでもいいから「楽しんで」とでも言ってくれているような軽やかな姿勢というものを、私などは感じてしまいます。でも私は青山さんから感じる、この「軽やかさ」が好きです。私にとっては、表現する側のこの力まない軽やかさこそが、作品の世界で遊ぶための絶対条件かもしれません。

何だかとても「イタ~イ青山ファンのオタク語り」に入ってしまいましたので、ここで仕切りなおします。でも、今日書いたことは独り言みたいですが、『オズ』の青山さんを観て、私が改めて確かに思ったことだったので、記録として残しておきたいと思います。さて、初日から今日までの約1週間、私にとっては、まさに怒涛の『オズ』ウィークでしたが、今回の『オズ』、「再演」という言葉からは想像がつかないほどの新鮮さに満ちた舞台でした。たくさんの人が待ち望んでいた今回の再演、劇場に実際に行ってみると、そんな観客の期待がいかに大きいものであるのかが、よくわかります。今回の再演版『ボーイ・フロム・オズ』は、そんな観客の気持ちに見事に応えてくれたものでした。たくさん言いたいことはあるのですが、今日はこのへんで。『ボーイ・フロム・オズ』という素晴らしい作品に出会えたことに感謝!そして素晴らしい作品ととっておきの時間をプレゼントしてくれた青山さんにありがとうの気持ちでいっぱいです!明日の東京公演千秋楽も素晴らしい公演となりますように、お祈りしております。

◆『ボーイ・フロム・オズ』観劇3回目レポ その2

2006-11-04 01:56:24 | ボーイ・フロム・オズ
昨日(2日木曜日、18時30分の回)の観劇レポ「その1」の続きです。

OZのダンスシーンにあるこの「心地よさ」って何なのだろう?と考えたときに、思い浮かべるのは、いわゆる「ダンス」の部分とそのシーンの設定を示すための「演技」の部分との絶妙な組み合わせというか、その両者のあいだの自然な流れというか、そういうもののような気がします。スミマセン、ちょっとコレ抽象的すぎて、わかりにくい表現のような気もしますので、ひとつ具体例を挙げさせていただきます。

例えば、Love Crazyなど観ていると、「オーストラリア・バンド・スタンド」という若者向けの番組の「収録」という設定と、若いアレン・ブラザーズがブレイクしたという設定と、ピーターの男の子大好き!という一番大切な設定とが、あの”energy is everything”な弾けんばかりの青山さんをセンターに据えたダンスを中心にして、バンッと示されてしまいますよね。あまり書くとネタバレになってしまうので、まだここでは控えめに書きますが、あのシーンは、確かにLove Crazyという曲のダンスシーンなのですが、いわゆる「ダンスシーン」としてそこだけ切り取られたように示されるのではなくて、ひとつのシーンの流れのなかで「ダンス」というものが配置されている。それで、この流れのようなものが今年の再演版では、さらに自然なものとなったというか、メリハリがついてわかりやすくなった、心地よくなったというのが、ものすごく強く印象として残る気がするのです。さらにいわゆる「ダンス」に関しても、初演からさらにクオリティが高くなっていて、観客をステージにギュッとひきつけるそのパワーがスゴイです。これはContinental American、She Loves to Hear the Music、そしてPeter’s Sure Thing,BabyからEverything Old is New Againにかけてのシーンなどでも言えることだと思います。初演のときにもこのことは十分感じていたことなのですが、今年の再演ではひとつひとつのシーンの完成度が初日からものすごく高くて、観客はさらに安心してステージの展開に身を任せていられる気がします。これはおそらく非常に細かい部分での演出の変更などにもよっているのでしょうが、アンサンブルの非常に安定したハイレベルなダンスと演技力の賜物といえるのではないでしょうか。それからこのような素晴らしいステージングからは、毎回カンパニー全体の一体感、そしてこの作品への深い愛情のようなものが伝わってきて、客席に座っている者としては、その点もとても心地がよかったりします。

それで「ダンス」といえば、リトルピーターとヤングピーターもすごいですね~♪あのぐらいの年齢の子供たちの「1年」って、成長著しくて、どんどんいろんなことを吸収していってしまう時期なのだろうなあ、ということを観るたびごとに感じます。特に、ヤングピーターの西川大貴さんのタップは昨年に引き続き圧巻ですね。足元でものすごい勢いで展開するタップには圧倒されてしまうけれど、その足元のタップに伴う身体全身のフォルムが何とも若いエネルギーに溢れていて魅力的です。When I Get My Name in Lightsの歌詞そのままに、「14歳」のピーターの、ライトを一身に集めるぞ!っていうオーラが出ていて、毎回非常に爽快な気分です。

そして何といっても、坂本さんのピーターは、本当に素晴らしい!歌、演技力、ダンス、そして客席とのコミュニケーション、どれをとっても最高だと思います。数々の素晴らしいシーンの中で、私が一番好きなピーターのシーンは、やっぱり冒頭のAll the Lives of Meです。何回か通っていると、一度ぐらいは「今日はどちらから?」なんて、聞かれてみたら楽しいだろうな~♪なんてことも思いますが、私あの冒頭の曲だけは聞き逃すことはできません~。本当に最高な『ボーイ・フロム・オズ』、My楽日はまだですが、早くも「再々演」希望です!毎年恒例の公演にしてほしいですね~♪