Girl in the Mirror 「鏡の中のあの子になりたい」
「君、可愛いね。」男爵は舞台上手のフレムシェンに近寄って声をかけます。そんな男爵に自分の魅力をアピールしようと、フレムシェンは、足元の台に片足を掛けて、ただでさえ短いスカートの裾を更に引き上げ、ガーターベルトのついたストッキングの端をちらつかせます。男爵に「魅力的だ」と言われた彼女は、「あなたも悪くないわ」と、大人の女性の雰囲気を漂わせて、19歳の女の子からはかなり背伸びをした様子で答えます。男爵は魅力的なフレムシェンを「黄色い館で、5時に」と誘い、約束をした後、その場を去ってしまいますが、その様子を傍らから眺めていたドクターは、この曲が始まると、音楽に合わせて指揮をするような手つきで、魅力的なフレムシェンに引き寄せられてしまうかのように、掌をひらひらとさせてリズムを取ります。重い存在感のある役どころにもかかわらず、何故かコミカルな動きをするドクター。ドクターでさえも思わず、リズムを取りながら美しいフレムシェンに引き寄せられてしまうのでしょうか。それともドクターは、若さにまかせて思いのままに進んでいこうとするフレムシェンの心の内をありのままに覗き込んでしまいたくなったのでしょうか。そんなドクターの指先の動きに導かれるかのように、観客は、フレムシェンの鏡の中の空想の世界へと誘われてゆきます。
素敵な男爵からのお誘いを受けてしまい、心弾むフレムシェン。上手の台に腰かけ、唇に指を添えて、嬉しさのなかにわずかなためらいを滲ませ、鏡のなかの自分を見つめながら、自分自身に問いかけているように見えます。「私のどこが気に入ったのかしら・・・」「鏡の中のあの子は誰なのかしら・・・」この曲は、フレムシェンのそんな胸のざわめきを表わしたような問いかけから静かに始まります。やがて、世の何百万もの男性を虜にして、カメラマンたちの眼を釘付けにする、「行きたいのよ、あなたと ハリウッド・・・」と素敵な男爵から誘いを受けたことをきっかけに、夢見るフレムシェンの想像は、果てしなく大きなものへと膨らんでいきます。ハリウッドに行って、映画に出て、大スターになって、豪勢な生活をして・・・、そんな夢のような生活を想像していくフレムシェン。「歌いたいのよブルーズ、つま先にはシューズ(履きたいのよナイスシューズ?)、唇にはルージュ(確かこんな訳詞でした)」と韻を踏んだ歌詞に合わせて、長く美しい脚を水平方向におおらかに伸ばしたり、腰を振ったりするコケティッシュな振りで紫吹さん@フレムシェンは、夢見る19歳のフレムシェンの輝きをのびやかに、そして鮮やかに魅せてくれます。
しかし、美しいフレムシェンが、どれほどハリウッドに行くという夢を見ても、現実の彼女の生活は、フリードリッヒ通りにある安アパートでの希望のかけらもない、うんざりするようなみすぼらしいもの。鏡の中の世界から再びこちら側に引き戻され、厳しい現実を突きつけられるフレムシェン。壊れたままの手鏡とポット、隣家の騒音、調子の悪い暖房・・・。毎日嫌というほど向き合わなければならない現実への失望感を、フレムシェンは舞台中央で歌います。そんなフレムシェンただひとりをスポットライトが照らし出し、彼女の周りは真っ暗で闇に包まれています。脱け出したいにも脱け出せない、そんな生活への不安と失望から、病気にでもなってしまいそうな彼女の状況が伝わってきます。(ちなみにこの曲の中盤、現実の生活への不満をフレムシェンが歌うこの部分のメロディーは、I Waltz Aloneの後、男爵が撃たれる直前、プライジングにフレムシェンが服を脱ぐよう強要されるあのシーンで、もう一度奏でられ、印象的でした。)
そんな現実の生活からは絶対に脱け出さなくてはならない、なんとしてでもハリウッドに行かなくてはならないフレムシェンが、今はただ夢に描いているだけの自分の未来を、何とかして現実のものにしなくてはと決意し、一歩踏み出してゆく・・・。そんなフレムシェンの心情を描いているのが、この曲の後半、青山さんたちアンサンブルがシルクハットを被って登場してくる場面なのです。Maybe My Baby Loves Meのときと同じ紫色の燕尾服を着ているので、ジミーズと書きましたが、この場面は、あくまでフレムシェンの想像の世界、鏡の中の世界での夢のような出来事という気がします。首から下は先ほどのジミーズの衣裳、つまり紫色の燕尾服ですが、シルクハット(トップハット)の存在によって、より一層エレガントな雰囲気へとイメージががらりと変わります。そして、上流階級へのあこがれを語り、非日常性とショーらしさを演出するというシルクハットの特性が、ハリウッドへ行きたいというフレムシェンの夢が語られる、このシーンの雰囲気にとても適したものであると思いました。そんなシルクハットに添えられる指先、燕尾服の襟に添える手の形を取り出してみても、青山さんはとても表情豊かで、「鏡の中のあの子」が踊るというこの場面の空気を創り出しているようでした。御登場は曲の終盤になってからで、ダンスをしている時間としては非常に短いものですが、洗練されたエレガンスとスリルが渾然一体となった表情が全身から溢れ出ているダンスに、フレムシェンのみならず「夢見心地」に舞い上がってしまいます。
つらく厳しい現実の生活、しかしフレムシェンのなかにどうしても湧き起こってくる、それとは正反対の夢の世界。そんな鏡の中だけで許されるような夢の世界を象徴するかのように、回転扉の両脇の扉からジミーズの四人が、二手に分かれて、シルクハットを被り、ステップを踏みながら、中央のフレムシェンを後方からそっと包み込むように登場してきます。このときシルクハットをうつむき加減に被り、顔の表情というのが見えにくいのですが、この「誰かわからない」という正体を隠している感じが、自分の可能性に賭けることへのためらいのようなものを説き伏せて、フレムシェンのなかにどうしても湧き起こってきてしまう夢の世界に胸が高鳴るような感覚をイメージさせます。片方の手をシルクハットのブリム(鍔)に添え、もう片方の手を燕尾服の襟に添え、かっちりとした折り目正しさ、洗練されたエレガンスを漂わせながらも、フレムシェンをふんわりと再び夢の世界に誘い込むようにステップを刻みます。そんな衣裳に添えられる青山さんの指先、そしてそこを起点にして始まる腕から足先までの身体の描線は、まるで線描画のそれのように、とても緊張感に溢れた繊細なもの。それにもかかわらず、その動き全体から受けるイメージは、ふんわりとした優美さで充満しています。このようにして言葉だけで説明してしまうと、「緊張」と「ふんわり」などという、相反する言葉を用いることになってしまうので、矛盾しているような印象を与えてしまうと思いますが、そんな「矛盾」が青山さんのダンスのなかでは、当然のことのように美しく同居してしまうから不思議です。この場面での青山さんのダンスを、試みにたとえてみると、「非常に繊細なガラス細工、でもそのガラス細工の作品の中には、その表面が割れてしまうのではないかというぐらいにエネルギーがギュッと詰まっている感じ」のダンスとでも言えるでしょうか。青山さんのダンスのそんな雰囲気が、Maybe My Baby Loves Meのときとはまた異なる「スリル」を醸しだしているのでしょうか。フレムシェンが夢見る、華やかなハリウッドの世界と大スターだけに許されるゴージャスな生活。そんな夢のような生活へと突き進んでゆくフレムシェンの若さと勢い。そして、フレムシェンが鏡のあちら側とこちら側、空想と現実の間を行き来するなかで立ち現れる、鏡の中の世界のはかなさ、危うさ・・・、そんなものを、青山さんのダンスは観客の中に刻み込んでいるように思えました。
この場面では、中央で歌うフレムシェンを中心に、左右両サイドのジミーズが両腕を上方に広げながら、交差してポジションが入れ替わるところがありますが、このときも青山さんが描く腕から指先に掛けての弧線は、とても柔らかい優美なもの。一方腰から大腿部、足先にかけての交差する動きには、緩急自在なスピード感があります。フレムシェンの周囲で交差してゆくジミーズたちの動きを見ていると、フレムシェンのなかに残っていたわずかなためらいのようなものも消えてゆき、再び夢の世界へと誘われていってしまう感じが伝わってきます。
やがてフレムシェンのなかで、ハリウッドに対する想いが、「行きたい(I want to go)」という願望から、「行かなきゃ(I have to go)」という必然に変わっていきます。そのヴォルテージの上昇してゆく様子が、スピード感を増してゆくダンスからも伝わってきます。左右交互に力強く伸ばされる大腿部から足先にかけての完璧なライン、力強いのだけれど、エネルギーをありのままに思いっきり外に押し出すという感じではなく、あくまでエレガントな繊細さを感じさせるようなもの。身体が描くその線がこれ以外のものはありえないと確信してしまうような完璧さなのです。さらにそのような動きのなかで、一瞬ドキッとするような表情が、シルクハットに宿ります。シルクハットとお顔、首、肩そして帽子のブリムの添えられた指先が生み出すエッジの効いたフォルム、青山さんの生み出すそんな瞬間には、視線が合うわけではないのに、こちらがハッとしてしまうほどのスリルがあるのです。登場のシーンでは、シルクハットが彼らの正体を隠して、フレムシェンのなかにあるためらいをほのめかしていたような感じでしたが、ここにきてこの帽子は、フレムシェンのなかに定まった強い意志を感じさせて、とても印象的です。そんなシルクハットの扱いとともに、真ん中にスッと通った揺らがない軸を中心にして展開する上半身の端整な動き。完璧な全身のフォルムが、テンポが速くなっていく音楽のなかで、少しの狂いもなく眼の前で連続してゆきます。
この後に続く部分では、フレムシェンを青山さんたちジミーズが代わる代わる軽くリフトします。このときも、正面を向いて、身体を斜めに傾斜させ、傾いた身体の右半分のラインに、紫吹さん@フレムシェンを寄りかからせるように乗せるのですが、スッと傾いていく感じがとても優雅で、お二人の創り出す傾斜時のフォルムと動きの流れがとても綺麗です。
BW版の”I swear that girl in the mirror, that girl in the mirror is going to go to Hollywood !”のところでは、「この子は絶対にハリウッドに行くわ!」というフレムシェンの決意にある勢いが最高潮に達する場面。ダンスの勢いも、そんなフレムシェンの感情の高まりを反映するかのごとく、ラストまで一気に高まっていきます。ここでは最初、音楽を追いかける感じで、ゆらゆらと揺れるように少しルーズな感じで、左右の腰の前あたりに両手をあてて全身でリズムを取っているのですが、やがて青山さんの動きを音楽が追いかけているのではないかと錯覚してしまうほど、緊張感とスピード感が高まっていきます。上半身の端整さと優雅さはそのままに、片膝を引き上げるような振りを織り交ぜながら力強く刻まれるステップ、やがて再び登場シーンと同様に、両腕を上方に広げていくようにしながら、フレムシェンを取り囲む形で交差するジミーズ。そしてラストに中央で彼らにリフトされるフレムシェンは、眼の前の現実から脱け出して、夢の高みまで一気に上り詰めてゆこうとするエネルギーに溢れています。
「ハリウッドに行きたい」という夢を抱く19歳のフレムシェン。そんな彼女が、幼い頃から「カラス」の寓話に囚われているプライジングに間もなく出逢うことになります。
「君、可愛いね。」男爵は舞台上手のフレムシェンに近寄って声をかけます。そんな男爵に自分の魅力をアピールしようと、フレムシェンは、足元の台に片足を掛けて、ただでさえ短いスカートの裾を更に引き上げ、ガーターベルトのついたストッキングの端をちらつかせます。男爵に「魅力的だ」と言われた彼女は、「あなたも悪くないわ」と、大人の女性の雰囲気を漂わせて、19歳の女の子からはかなり背伸びをした様子で答えます。男爵は魅力的なフレムシェンを「黄色い館で、5時に」と誘い、約束をした後、その場を去ってしまいますが、その様子を傍らから眺めていたドクターは、この曲が始まると、音楽に合わせて指揮をするような手つきで、魅力的なフレムシェンに引き寄せられてしまうかのように、掌をひらひらとさせてリズムを取ります。重い存在感のある役どころにもかかわらず、何故かコミカルな動きをするドクター。ドクターでさえも思わず、リズムを取りながら美しいフレムシェンに引き寄せられてしまうのでしょうか。それともドクターは、若さにまかせて思いのままに進んでいこうとするフレムシェンの心の内をありのままに覗き込んでしまいたくなったのでしょうか。そんなドクターの指先の動きに導かれるかのように、観客は、フレムシェンの鏡の中の空想の世界へと誘われてゆきます。
素敵な男爵からのお誘いを受けてしまい、心弾むフレムシェン。上手の台に腰かけ、唇に指を添えて、嬉しさのなかにわずかなためらいを滲ませ、鏡のなかの自分を見つめながら、自分自身に問いかけているように見えます。「私のどこが気に入ったのかしら・・・」「鏡の中のあの子は誰なのかしら・・・」この曲は、フレムシェンのそんな胸のざわめきを表わしたような問いかけから静かに始まります。やがて、世の何百万もの男性を虜にして、カメラマンたちの眼を釘付けにする、「行きたいのよ、あなたと ハリウッド・・・」と素敵な男爵から誘いを受けたことをきっかけに、夢見るフレムシェンの想像は、果てしなく大きなものへと膨らんでいきます。ハリウッドに行って、映画に出て、大スターになって、豪勢な生活をして・・・、そんな夢のような生活を想像していくフレムシェン。「歌いたいのよブルーズ、つま先にはシューズ(履きたいのよナイスシューズ?)、唇にはルージュ(確かこんな訳詞でした)」と韻を踏んだ歌詞に合わせて、長く美しい脚を水平方向におおらかに伸ばしたり、腰を振ったりするコケティッシュな振りで紫吹さん@フレムシェンは、夢見る19歳のフレムシェンの輝きをのびやかに、そして鮮やかに魅せてくれます。
しかし、美しいフレムシェンが、どれほどハリウッドに行くという夢を見ても、現実の彼女の生活は、フリードリッヒ通りにある安アパートでの希望のかけらもない、うんざりするようなみすぼらしいもの。鏡の中の世界から再びこちら側に引き戻され、厳しい現実を突きつけられるフレムシェン。壊れたままの手鏡とポット、隣家の騒音、調子の悪い暖房・・・。毎日嫌というほど向き合わなければならない現実への失望感を、フレムシェンは舞台中央で歌います。そんなフレムシェンただひとりをスポットライトが照らし出し、彼女の周りは真っ暗で闇に包まれています。脱け出したいにも脱け出せない、そんな生活への不安と失望から、病気にでもなってしまいそうな彼女の状況が伝わってきます。(ちなみにこの曲の中盤、現実の生活への不満をフレムシェンが歌うこの部分のメロディーは、I Waltz Aloneの後、男爵が撃たれる直前、プライジングにフレムシェンが服を脱ぐよう強要されるあのシーンで、もう一度奏でられ、印象的でした。)
そんな現実の生活からは絶対に脱け出さなくてはならない、なんとしてでもハリウッドに行かなくてはならないフレムシェンが、今はただ夢に描いているだけの自分の未来を、何とかして現実のものにしなくてはと決意し、一歩踏み出してゆく・・・。そんなフレムシェンの心情を描いているのが、この曲の後半、青山さんたちアンサンブルがシルクハットを被って登場してくる場面なのです。Maybe My Baby Loves Meのときと同じ紫色の燕尾服を着ているので、ジミーズと書きましたが、この場面は、あくまでフレムシェンの想像の世界、鏡の中の世界での夢のような出来事という気がします。首から下は先ほどのジミーズの衣裳、つまり紫色の燕尾服ですが、シルクハット(トップハット)の存在によって、より一層エレガントな雰囲気へとイメージががらりと変わります。そして、上流階級へのあこがれを語り、非日常性とショーらしさを演出するというシルクハットの特性が、ハリウッドへ行きたいというフレムシェンの夢が語られる、このシーンの雰囲気にとても適したものであると思いました。そんなシルクハットに添えられる指先、燕尾服の襟に添える手の形を取り出してみても、青山さんはとても表情豊かで、「鏡の中のあの子」が踊るというこの場面の空気を創り出しているようでした。御登場は曲の終盤になってからで、ダンスをしている時間としては非常に短いものですが、洗練されたエレガンスとスリルが渾然一体となった表情が全身から溢れ出ているダンスに、フレムシェンのみならず「夢見心地」に舞い上がってしまいます。
つらく厳しい現実の生活、しかしフレムシェンのなかにどうしても湧き起こってくる、それとは正反対の夢の世界。そんな鏡の中だけで許されるような夢の世界を象徴するかのように、回転扉の両脇の扉からジミーズの四人が、二手に分かれて、シルクハットを被り、ステップを踏みながら、中央のフレムシェンを後方からそっと包み込むように登場してきます。このときシルクハットをうつむき加減に被り、顔の表情というのが見えにくいのですが、この「誰かわからない」という正体を隠している感じが、自分の可能性に賭けることへのためらいのようなものを説き伏せて、フレムシェンのなかにどうしても湧き起こってきてしまう夢の世界に胸が高鳴るような感覚をイメージさせます。片方の手をシルクハットのブリム(鍔)に添え、もう片方の手を燕尾服の襟に添え、かっちりとした折り目正しさ、洗練されたエレガンスを漂わせながらも、フレムシェンをふんわりと再び夢の世界に誘い込むようにステップを刻みます。そんな衣裳に添えられる青山さんの指先、そしてそこを起点にして始まる腕から足先までの身体の描線は、まるで線描画のそれのように、とても緊張感に溢れた繊細なもの。それにもかかわらず、その動き全体から受けるイメージは、ふんわりとした優美さで充満しています。このようにして言葉だけで説明してしまうと、「緊張」と「ふんわり」などという、相反する言葉を用いることになってしまうので、矛盾しているような印象を与えてしまうと思いますが、そんな「矛盾」が青山さんのダンスのなかでは、当然のことのように美しく同居してしまうから不思議です。この場面での青山さんのダンスを、試みにたとえてみると、「非常に繊細なガラス細工、でもそのガラス細工の作品の中には、その表面が割れてしまうのではないかというぐらいにエネルギーがギュッと詰まっている感じ」のダンスとでも言えるでしょうか。青山さんのダンスのそんな雰囲気が、Maybe My Baby Loves Meのときとはまた異なる「スリル」を醸しだしているのでしょうか。フレムシェンが夢見る、華やかなハリウッドの世界と大スターだけに許されるゴージャスな生活。そんな夢のような生活へと突き進んでゆくフレムシェンの若さと勢い。そして、フレムシェンが鏡のあちら側とこちら側、空想と現実の間を行き来するなかで立ち現れる、鏡の中の世界のはかなさ、危うさ・・・、そんなものを、青山さんのダンスは観客の中に刻み込んでいるように思えました。
この場面では、中央で歌うフレムシェンを中心に、左右両サイドのジミーズが両腕を上方に広げながら、交差してポジションが入れ替わるところがありますが、このときも青山さんが描く腕から指先に掛けての弧線は、とても柔らかい優美なもの。一方腰から大腿部、足先にかけての交差する動きには、緩急自在なスピード感があります。フレムシェンの周囲で交差してゆくジミーズたちの動きを見ていると、フレムシェンのなかに残っていたわずかなためらいのようなものも消えてゆき、再び夢の世界へと誘われていってしまう感じが伝わってきます。
やがてフレムシェンのなかで、ハリウッドに対する想いが、「行きたい(I want to go)」という願望から、「行かなきゃ(I have to go)」という必然に変わっていきます。そのヴォルテージの上昇してゆく様子が、スピード感を増してゆくダンスからも伝わってきます。左右交互に力強く伸ばされる大腿部から足先にかけての完璧なライン、力強いのだけれど、エネルギーをありのままに思いっきり外に押し出すという感じではなく、あくまでエレガントな繊細さを感じさせるようなもの。身体が描くその線がこれ以外のものはありえないと確信してしまうような完璧さなのです。さらにそのような動きのなかで、一瞬ドキッとするような表情が、シルクハットに宿ります。シルクハットとお顔、首、肩そして帽子のブリムの添えられた指先が生み出すエッジの効いたフォルム、青山さんの生み出すそんな瞬間には、視線が合うわけではないのに、こちらがハッとしてしまうほどのスリルがあるのです。登場のシーンでは、シルクハットが彼らの正体を隠して、フレムシェンのなかにあるためらいをほのめかしていたような感じでしたが、ここにきてこの帽子は、フレムシェンのなかに定まった強い意志を感じさせて、とても印象的です。そんなシルクハットの扱いとともに、真ん中にスッと通った揺らがない軸を中心にして展開する上半身の端整な動き。完璧な全身のフォルムが、テンポが速くなっていく音楽のなかで、少しの狂いもなく眼の前で連続してゆきます。
この後に続く部分では、フレムシェンを青山さんたちジミーズが代わる代わる軽くリフトします。このときも、正面を向いて、身体を斜めに傾斜させ、傾いた身体の右半分のラインに、紫吹さん@フレムシェンを寄りかからせるように乗せるのですが、スッと傾いていく感じがとても優雅で、お二人の創り出す傾斜時のフォルムと動きの流れがとても綺麗です。
BW版の”I swear that girl in the mirror, that girl in the mirror is going to go to Hollywood !”のところでは、「この子は絶対にハリウッドに行くわ!」というフレムシェンの決意にある勢いが最高潮に達する場面。ダンスの勢いも、そんなフレムシェンの感情の高まりを反映するかのごとく、ラストまで一気に高まっていきます。ここでは最初、音楽を追いかける感じで、ゆらゆらと揺れるように少しルーズな感じで、左右の腰の前あたりに両手をあてて全身でリズムを取っているのですが、やがて青山さんの動きを音楽が追いかけているのではないかと錯覚してしまうほど、緊張感とスピード感が高まっていきます。上半身の端整さと優雅さはそのままに、片膝を引き上げるような振りを織り交ぜながら力強く刻まれるステップ、やがて再び登場シーンと同様に、両腕を上方に広げていくようにしながら、フレムシェンを取り囲む形で交差するジミーズ。そしてラストに中央で彼らにリフトされるフレムシェンは、眼の前の現実から脱け出して、夢の高みまで一気に上り詰めてゆこうとするエネルギーに溢れています。
「ハリウッドに行きたい」という夢を抱く19歳のフレムシェン。そんな彼女が、幼い頃から「カラス」の寓話に囚われているプライジングに間もなく出逢うことになります。