夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

読み納め・読み初め

2010年01月02日 | Weblog
 お年賀をいただいたみなさま、ありがとうございます。
 私に代わってきなこが新年のご挨拶を申し上げます。
 お正月、とはいえ、ここ数年はまったくそれらしいことをしておりません。日記ふうに近況を綴ってみます。

*昨年の読み納め
年末に知人から紹介された別のお医者さんに行って、薬を変えてもらった。すると、どうでしょう。眠くて眠くてしかたない。大丈夫だろうかと心配する時間もなく横になってしまう。で、何も出来ないので娯楽本を読む。文庫になった帚木蓬生『聖灰の暗号』(新潮文庫)上下巻一気読み。紹介文から、いかにも『ダヴィンチ・コード』ふうの筋書きに思えたのでやや心配であったが、いわゆる「異端」と呼ばれるキリスト教カタリ派をめぐる歴史学者のミステリというので、最近「異端」やら「邪教」やらに縁があるうえ、カタリ派の滅亡をまるで見てきたように描いた佐藤賢一の小説『オクシタニア』を思い出して購入。娯楽として読むには最適で、カタリ派にほんの少し知識がある程度の私にはひたすら楽しい読書。主人公とヒロインとが出会う、パリのペール・ラ・シェーズ墓地に、『地中海』で有名なフェルナン・ブローデルの墓があるとは知らなかった。主人公の日本人歴史学者は思わぬ場所でカタリ派に対する弾圧を「内から見た」資料を発見するが、その経緯が、普通なら見ない市立図書館の「地図」の分類コーナーをのぞいた、というもので、『とはずがたり』の「発見」と同じなのが面白い(『とはずがたり』は書陵部の「紀行」の部に入っていたのである)。やはり、資料はその後の伝流が大切なのである。この小説の舞台であるフランスでは、中世の資料がフランス革命で襲撃された教会から奪われたり焼かれたりして散逸した、という歴史があり、日本の廃仏毀釈とやや似ている。比叡山の焼き討ちを無視して天台宗の資料を考えることも出来ないし。中世をやっているから中世しか知らなくてもよい、というわけではなく、その後、資料がどのような時代を経験しているのか、どのような経緯で今の場所にあるようになったのか、という問題は大きいと思う。すこぶるロマンティックな小説であったが、資料、とくに宗教資料については考えること多し。カタリ派最後の砦、モンセギュールには、前に行こうと思って未だ果たせず。

*除夜の鐘の災難
うちはお寺がごく近くにあり、毎朝六時に鐘が鳴るのであるが、大晦日だけはきっちり百八つ鳴らされる。それが午後十一時半から始まるが、お風呂に入っていても響くくらいの大きさで、例年くりこはおびえて逃げ回り、隠れてしまうのだ。一昨年、きなこはうちに来たばかりで、どうやらほとんど除夜の鐘の記憶がないらしく、この食欲という煩悩の固まりは、いつやむとも知れぬ響きにややおびえた模様で、目を丸くしてじっと耐えていた。こればっかりはしかたない一年の締めくくりである。十二時半、やっと鐘が鳴り納む。二匹に「もう大丈夫」と撫でて安心させようとするが、両人筋肉が固まったまま、年が改まった。

*今年の読み初め
元日、何らお正月気分にならぬまま、一日から営業している店に行き、コリコリの首・肩・背中をマッサージしてもらう。なぜかあまり仕事もしていなかったのに、右肩と左肩胛骨に「コリコリ」の固まりがあるらしく、「ほら、音がしますよ」などといわれてもまれる。ぼうっとなったまま、初詣は、綾小路にある神明神社。すごく小さいので知らない人が多いが、ここは天神さんを祀るきっかけとなった託宣をしたといわれる文子なる人物ゆかりの「文子天満宮」ともいわれ、また、鵺退治のときの鏃が奉納されたともいう、変な場所である。「神明」という名になっているのは、アマテラスの神社になってしまったから。神さんもどんどん変わるのだ。ここで、鵺退治にちなんで病気退散を祈願。もちろんくりこときなこの健康と仕事の成就も。明日は新京極にある矢田寺にお参りする予定で、ここは「代受苦」のお地蔵さんがご本尊。私のお参りスポットの定番で、まさに「苦しいときの仏だのみ」である。帰宅後、くりこときなこに、お節代わりのササミをサービス。きなこの鼻がやや詰まっているので心配になり、明日、年中無休で診療しているかかりつけの動物病院に行くことにする。きっと、寒いところで寝ているからだと思う。実は大晦日に、敷き布団を「マニフレックス」という高反発マットに変えたのだが、きなこはなぜかそれ以来お布団にあがってこないのだ。悪いことをした(後、くりこがのいたすきにちゃっかり寝ているのを発見するのだが)。明日のことを考えて、早めにお布団に入ることにするが、きなこは仕事部屋に向かうので、エアコンをつけてやる。京都は極寒だが、雪はなし。こういう日の方が寒いのである。本日のお布団の友は、ギルバート・アデアの『閉じた本』(創元推理文庫)。娯楽の本は文庫でしか買わないのだが、これは最新刊のコーナーで気になっていたもので、お正月用に買い溜めておいたものの一冊。盲人と晴眼者の会話と独白のみのサスペンス、とあるのに惹かれる。お約束で結末は書かないが、叙述ミステリの一種といえようか。伏線の張り方がやや甘いように思うが、一気読みするには適当な量と内容であろう。翻訳ミステリはたくさん出ているので、新しい人を発掘するのが面倒になるが、アデアの『ポストモダニストは二度ベルを鳴らす』という辛口評論集は面白そうなので、あと一冊くらい読んでみたい。

*今現在・・・(二日午後7:40)
きなこの鼻詰まりは、やはり寒い空気を吸ったときに起こるものらしい。加湿器なども効果的といわれる(加湿器は持っていたのだが、小さすぎてあまりきいてなかったらしい)。加湿器の大きいのを買おうか、と思ってふとTVをつけると、なぜかTV画面がシュールな色になっているのに気づく。人の顔が蛍光色のように光っているのである。この、伊勢丹の福引きで当てた14インチの液晶TVの寿命が尽きたのだろうか。また、伊勢丹で新しいTVが当たらないか・・・と思うが、伊勢丹でお買い物をして福引き券をもらわないと当たらないのであった。あまり見ないから、このままアンディ・ウオーホールの絵みたいな画面でいいか、とも思ったが、「地デジ」とかいうのになるらしいので、この際買い換えるか。しかし、初売りチラシを見ても、もう14インチなどという小型のTVはないのである。私にはこれくらいで十分なのだが、どうしよう。背後の台所で、久々に作ったポトフが煮えている。白味噌のお雑煮は、たまに発作的に食べたくなるのでお正月には作らないのである。雑煮の夫婦別れ、などというが、私も白味噌雑煮だけは何が何でも譲れないだろうと思う。お雑煮に文句言わない猫たちが同居人でよかった、とつくづく思ったりする。今日までは娯楽読書日にしよう。今晩は岩井三四二『大明国へ、参りまする』(文春文庫)。ええかげんな下級役人が、出世と引き替えに、足利義満の命で遣明使の右筆となるが、乗組員はめちゃめちゃなやつばかり、しかも明では・・・といった室町もの、らしい。こうした娯楽本でも、何かしら自分なりの発見やヒントが得られることが多いので、それも楽しい。それも、自分の意識次第だとは思うが・・・おや、ポトフがそろそろできあがったようだ。ではまた。今年もよろしく、などという厚かましいことはいわないけれど、猫たちはよろしく。

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