夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

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ドクターズ・ブック・ショッピング

2007年12月23日 | Weblog
 まずは病状報告を。
 日常会話OKまで復帰しました。声帯結節もほぼ消滅しているとのことです。みなさまには大変ご心配、ご迷惑をおかけしましたが、年明けから復帰します。しかし、この間、病院通いと父のことでいろいろ時間がとられ、自分の勉強時間が案外なかったのがショックでした。現在は音声外来というところで喉に負担のない声の出し方のリハビリをしています。
 
 さて、声帯の病気のほかに、今年は歯科、消化器科など、複数の病院へ通った「厄年」であった。薬は父からもらえるのだが、胃カメラとなるとお手上げなので専門医にかかったのである。十二指腸潰瘍だった。頸椎の異常もぶり返すし、どうして今年は病気に悩まされるのか、と我が身を呪ったものである。
 今の女性の厄年は32歳とかいうけれど、平均余命がのびた現在ではいささかずれているといわざるをえない。私が32歳のときは厄年どころか仕事が多くなり始めた当たり年であったし、まだまだ元気だった。
 年齢8がけ説、というのがある。現代では実年齢×0,8が精神的・肉体的な年齢であるというもの。それでゆけば47歳は約38歳になるので、まあそんなものかなあという感じがする。
 37、8歳といえば、源氏物語で紫の上が病気になる歳である。ほかの物語でもこの時期亡くなる女性登場人物があったと記憶する。これが本当の女性の厄年なのかもしれないと思う。

 というわけで、いろいろな病院に行ったのだが、診療所の娘としてかなり気になるのが「待合室にどんな雑誌が置いてあるか」ということだ。美容室でもそうだが、置いてある雑誌によってそこのスタンスといったものがわかるように思うからである。
 私は病院に行ってもたいがいは持参の本を読んでいるかPCで仕事をしているので雑誌を手にとることはないのだが、ちらちら横目でチェックしているのだ。
 ある歯科は、大変腕のよいお医者さんだったが、待合室に「ヴァンサンカン」や「グラマラス」などのいわゆるゴージャス路線の女性雑誌しか置いていなかった。
こうした雑誌はどのようにして選ばれるかというと、多くは医師の好みではなく、家人の選択によるのである。そして、たいがいは雑誌が届いたらまず家人が読んで、待合室に「下げ渡す」のが普通だ。雑誌は、きれいに読めばいくら読んでも減らないからである。
 ということは、この「ヴァンサンカン」などは歯科医師の妻、あるいは娘の好みを反映しているということになる。
 私の治療費が、まわりまわって「ヴァンサンカン」を読むような女性によって消費されるのか・・・と思うと、ちょっと嫌な気がするのは確かだ。
 かと思えば、女性週刊誌やちょっとエッチな写真が載っている男性週刊誌しか置いてないところも、なんとなく信用できない気がする。週刊誌の許容範囲は出版社系の週刊誌(「週刊新潮」だとか「週刊文春」だとか)か新聞社系の「週刊朝日」くらいであろうか(それでもかなりあやしい記事が載っているけれど、万人うけするという意味で許せる)。
 私がたまにプラセンタ注射をしてもらいに行く医院は大変凝ったインテリアの待合室であるが、ここには「芸術新潮」がずらっと並んでいて、「誰が読むのか」と思ったが(実際、誰も手をつけていなかった)、バックナンバーをざっと読めて私は満足であった。ちなみにここの本業は美容外科である。だから「芸術」と名のつく雑誌を置いているわけではなかろうが。
 あちこちの病院をまわって病状をきくことを「ドクターズ・ショッピング」というらしいが、私の場合は、「ドクターズ・ブック・ショッピング」を楽しんでいるということである。

 ドクターズ・ハウス・ショッピング、というのもやっている。
 これは、受診はしないが、街中で見かけたおもしろい建物の病院・医院を見て歩くことなのである。とくに京都の街中には古い開業医が多いせいかユニークな建物が沢山ある。
 お薦めは、京都市の文化財指定を受けている、麩屋町四条上るの「革島外科」(指定を受けているので名前を出してもよいだろう)。ここは、外壁にツタがからまる洋館なのだ。しかも、外科。ほとんど綾辻行人氏の小説の世界といってよい雰囲気がある。講談社ノベルスの表紙にしてもいけそう。
 不可思議な医院もある。同じく麩屋町四条上るの「T医院」。ここは町屋に改造を重ねたような、軒の低く古い内科医院であり、このぼろさはうちの実家とタメ張れるくらいである。不可解なのは、入り口がどこかまったくわからないことだ。磨りガラスの扉の向こうには、はっきりと自動車の影が見えているのだが、扉は車庫の扉ということになり、一体どこから医院に入ればよいのか迷いに迷う。
 もう診療していないのか、と思うほどであるが、夕方などちゃんと明かりがついているので現役であることがわかる。しかし、患者さんの姿を見たことはない。
 謎の多い医院である。
 そのほか、室町四条下るの「J産婦人科」、桂の「K医院」など、大変ユニークな建造物もあるが、プライバシーに関わるのでこれ以上触れない。関心ある方は探してみられよ。

 町歩きは、どんなに慣れたとこでも楽しい散歩である。
 町屋とマンションとの間にぬっと出現する洋館、なんてものが、案外京都にはあるものだ。観光客の方もぜひ、目的なしに町歩きをしてみていただきたいものである。

講演会百景

2007年12月05日 | Weblog
 研究者は大学などに所属していると、しばしば業績書の提出を求められるものである。私もPCに保存してはいるが、私の場合「学術論文」よりも「社会的活動」の方が多いので、たまには入れ忘れている場合もある。今の大学の公募に応募したとき、業績書に「以上、相違ありません」と書いたのであるが、実はその後「相違がある」ことがわかり、大変あわてた。講演会がいくつか抜けていたのと、2本ばかりの雑文がどこの何号に書いたのかわからなくなっていたのである。こういうことは虚偽の申請に相当するのだろうか。不安だ。
 最近、その業績書を整理していたら、「社会的活動」に当たる講演会の回数が煩悩の数を超えていることに気づいた。論文数が三桁になった方が嬉しいのだが、これはこれでなかなか感慨深いものがある。
 私が講演会の依頼を受けるようになったのは、最初の本が刊行されてからのことである。したがって、三十二歳頃から十数年間、毎年、主に春と秋に数本ずつ講演会を引き受けていた勘定になる。私は恩師であった稲賀敬二先生の「来た仕事は断らないこと。断ったら次来るかどうかわからない」という言葉を馬鹿正直に守っていたので、ひにちがバッティングしない限りお引き受けしてきた。しかも、同じテーマでの講演はほとんどないので、準備にもけっこう時間がかかっている。
 初期の頃はまじめに研究発表のようなことを話していたのだが、どんなに関心がある人でも慣れない古文が出てくるといい顔をしなかったりするのである。その後、回数を重ねるにつれて笑いをとるタイミングがわかってきたり、レジメをわかりやすく作る方法を考えたりするようになり、これは大学での授業にも大変役に立った。「どうせ一般人相手に適当なことしゃべればいいんでしょ」などと講演会をおとしめるような研究者もいるが、講演会に来る人は年齢も性別も嗜好も理解力もさまざまであり、ほぼ同じような条件の学生たちを相手にするより気を遣うものなのである。私にとってはよい修行になったと思う。
 最近では、一般の方に古典文学を広める活動の一環という自覚のもとに講演しているので、どんなにギャランティーが少なくても(もちろん多くても)出かけることにしている。そう、一遍上人が鉦を叩いて踊り念仏して回るとか、日蓮さんが辻説法するような感じである。私はそんなに偉くはないけど。

 講演会でも、大変不快な思いをしたもの、おもしろかったもの、いろいろある。ちょっとその思い出を書いておこう。ちなみに、芸能人などが講演するとものすごい額のギャランティーが出るから学者もそうだと思っている人がいるかもしれないが、私がもらった最低額は二万円、最高額は三十万円(ほぼ90分で)であり、何十万クラスの機会はそうそうあるわけではないので、ほとんどが「お小遣いがちょっと増えました」程度である。二万円で交通費込みなんていうのは、下手したらアシが出る。しかも講演会が終われば聴衆にアンケート用紙が配られ、みなさん好きなことをお書きになるし(終わる時間が3分遅かった、とか、レジメの字が小さくて読みづらかった、とか)、質問の時間にはたまに奇妙な質問をする人がいたり、自分の説をとうとうと語りたがる人がいたりして、授業よりはずっと厳しいように思う。授業では何回も顔つきあわせているうちに学生たちの関心のありようがわかってくるので、いい雰囲気のなれ合い状態にもってゆけるのだが、講演会は一期一会なので、誰もを満足させて帰さなければならないのである。
 私が、出来れば避けたい講演会は企業人とかLクラブ、Rクラブなどといったところの聴衆を相手にするものである。どだい、古典などに興味を持つ人が少ないうえ(持つとしたら「信長に見る経営戦略」とかいったの)、こうしたところのオジサンたち(ほぼ男性である)は歴史好きが多いから、文学の話をするとたいてい「でも、司馬遼太郎は違うこというてますよ」といった反応が返ってくるのである。
 また、若い頃、ある企業に招かれた時は本当に嫌な気分だった。何か偉い役職の人が(私は身内や身近に会社員が一人もいない環境で育ったので、今でも専務とか常務といった肩書きのことがわからない)こう言ったのだ。

 「この研究会の講師はすべて女性を呼んでいます。見ていて楽しいですからな」

 セクシャルハラスメントという言葉がまだ一般化していない時期だった。私はまだ世間知らずだったので、唖然としたまま言い返すことも出来なかった。今ならこう返事するだろう。

 「こっちは、聴衆を見ていてなーんにも楽しいこと、ないんですけど」

 もちろんすべての企業やなんとかクラブに所属する人が悪いわけではないだろうが、こういうのは一番困る。

 三十代前半くらいまでは、とんちんかんなこともあった。大学の教員というイメージがもっと年配の人間を想像させるのだろう、受付に行って「○○大学の田中貴子です」と言うと、無愛想に私が作ったレジメを渡して「会場入り口はここです」と指さす。ははん、これは私を聴衆の一人と勘違いしているな、と思ったので、根性曲がりくねっている私はそしらぬ顔で聴衆席の一つに腰かけていた。
 だんだん開演の時間が迫ってくると、受付のあたりで「先生はまだか」といった会話が聞こえてきた。それでも知らん顔していると、ついに開始時刻になってしまった。責任者が汗をふきつつ会場にやってきて、

 「あー、講師の先生がまだお着きになっておりませんで・・・」

とアナウンスするので、

 「ずっと前からおりますが」

と立ち上がって声をかけた。会場がざわつく。責任者は困った顔で、

 「どうしてそんなところにおられるんですか」

と言うので、

 「受付の方がここへ座るよう指示されましたから」

とすまして答えた。
 あとで受付が叱られたらしいことは言うまでもない。
 講師が大学の教師らしくない若さであったから、というのはいいわけに過ぎない。そんなステロタイプなイメージを抱いている方が悪いのだ。
 しかし、こういうことはその後も起こり、私はずっとイケズを通した。

 そのような扱いを受けるのは、実は私の格好にも多少の責任があると思われる。大学教師だからといってテレビドラマみたいにグレイのスーツきて眼鏡かけているわけじゃないのだ。そうした先入観が嫌だった私は、一時期あえて教師らしくないファッションで出向いていた。スーツどころかジャケットも着ない。なるべく個性的なブランドの服を選んだ。まあ、大学のセンセには見えんだろう。
 私は、まったくの初対面の人に一度も職業を当てられたことがないのである。さて、何の職業によく間違えられるでしょうか? いや、ばらすのはやめとこ。
 講演会における講師の扱いもいろいろであるが、実に見事だ、と感心した例をあげておきたい。それは三重県のある博物館に招かれたときである。
 企画し依頼してくださったE氏は、研究会で面識があったが、私を講師として迎えたときは大変丁重、かつてきぱきと対応された。これは女性に対する配慮であるなあ、と思ったのは、講演が始まる直前、E氏はある扉を指し、ちょっと顔にパフを当てる動作をしてこう言ったのだ。

 「お化粧を直されるのなら、ここですから」

 そこは女性用のトイレであった。講演前、用を足したくてもあからさまに「トイレは?」と言わせないための配慮であり、気配りだった。私は化粧をしていたが、もし素顔であってもE氏は「お化粧直し」と言っただろうと思う。こういうときにその人の品格がわかるというものであろう。
 
 楽しい講演会というのも多かった。私がもっとも多く出向いたのは大阪府である。北摂から泉南市までかなりの地域にうかがった。よく関東の人は「大阪人はみんなお笑い芸人みたいなノリだ」と思っているうえ、あの悪名高い「あつかましくてよくしゃべる大阪のおばちゃん」のイメージも浸透している。大阪にも陰気な人や気兼ねしいも多いと思うが、私の体験では、大阪の聴衆は「講演を楽しもう」という気概にあふれた場合が多かったように思う。やはり、というか、中高年の女性、いわゆる「大阪のおばちゃん」は積極的であり、気さくで、優しかった。
 大阪での講演は、しばしば京都の現地見学コースを伴っていた。距離的にも来やすいのだろう。私はそういうとき、なるべく観光化されていない場所に案内し、ガイドに徹したが、おばちゃんたち(たまにおじいちゃんがまざる)を引き連れて歩くとなかなかかしましい。
 ある夏のこと。宇治ツアーを組んだ。
 歩くのでみな軽装である。私はそのときかごバッグに持ち物や資料を入れて下げていた。するとおばちゃんたち、すぐに目をつけて、

 「センセ、お財布が見えてまっせ」
 「そや、手エのばしたらすぐ盗れまっせ」
 「ほら、みてみ。盗れるやろ」

 と、実際に財布に触れてみせて、きゃあきゃあ笑っているんである。おせっかいといえばそれまでだが、このパワーは案外楽しい。
 やはりある夏、小野小町ゆかりの伏見の寺に別のおばちゃんたちを連れて行った。ハンディマイクで小町と深草少将のことを話していると、近くに木立があるせいか蚊がやたら寄ってきて、ちくっと足に刺激を受けた。すると次の瞬間、

 ばち
 ばち
 ばちっ

 という複数の音が私のふくらはぎから足首にかけて炸裂したのである。何事かと思って見ると、何人ものおばちゃんが私の足にとまった蚊を掌で叩いてくれたのだった。たちまち数匹の蚊の残骸が生み出された。話の接ぎ穂を失った私がぼうっとしていると、おばちゃんたち口々に、

 「センセ、スカートなんかはいてはるさかいや」
 「そやそや」
 「うちら、ちゃんとズボンやもんな」
 「そやでそやで」

 と言って、けらけら笑うのが、本当に明るい。
 大阪のおじいちゃんも負けてはいない。ある夏(現地見学は雨の心配が少ない夏が多い)、六角堂に別の団体を案内した。ほとんどおばちゃんであるが、なかに一人だけ、ちょっと粋なカンカン帽をかぶってアロハシャツをまとった、「楽隠居してまんねん」という感じのおじいちゃんがいた。
 六角堂のご本尊は如意輪観音だが、秘仏になっており、お厨子の前にはそっくり同じかたちをした「お前立ち」と呼ばれる仮りの仏像が安置されている。聖徳太子や池坊の話をひとしきりした後、そのことを話すと、例のおじいちゃんが私にそっと寄ってきて、こう尋ねたのである。

 「センセ、お前立ちちゅうんは、何かエッチな意味があるんだっか」

 私が返す言葉を失っていると、それを早速聞きつけたおばちゃんたちが、

 「いややわあ、○○さん、やらしいわあ」
 「そやわあ、もう立たへんやろうに」
 「それともバイアグラかいな」

 とまた、明るい笑いの渦がまくのであった。私は大阪のおばちゃんたちから得たものは大きいと言わざるを得ない。
 しかし、このノリで東京に行くと、たいてい失敗する。T女子大学での講演では、かなり笑わせたと思ったが、それがくせものであった。
 前日、私は大学院の同級生で今は東京の大学にいるYくんにメールを送った。

 「東京でうけるかどうか、心配です」
 
 すると、こんな返事が来た。

 「関西の人間はうけないことを心配しますが、東京では関係ありません」

 ちなみに、彼も関西人であり、院生時代は関西弁でばかなやりとりばっかりしていたので、東京の大学へ移ってから悟ったところがあるのだろう。
 思った通り、後で送られてきた感想文のなかに、「先生の関西風のノリにちょっとついてゆけませんでした」というのがあったのだ。私の今後の課題の一つは、対東京ディスクールを研究することであるようだ。

 声帯を痛めたので、今後同じペースで講演を引き受けることができるかどうかわからないが、不快な講演も、楽しい講演も、どれも体験しないとわからないことばかりだった。現在の古典文学の不人気を憂慮する立場としては、機会があれば、やらぬよりやるほうがよいのだろうと思う。
 
 鉦を叩いて一遍さん 今日はどこまで行ったやら

 こんなふうに、修行はいつまでも続くのである。