夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

受験シーズン到来

2010年01月10日 | Weblog
 受験生の方、受験生のご家族の方には「いとど心づくしの」季節となった。一月早々、センター入試がある。二月からは私大の入試が本格化する。これから三月まで気が抜けないことであろう。大学側も、新型インフルエンザで受験生が受けられなかったときの対応などに大わらわである。我々教員も(私は今年病気のため負担を軽減してもらっているのだが)一年でもっとも忙しく気を遣う時期に入る。
 いくら十八歳人口が減ったとはいえ、そしてかつての「受験地獄」ということばはほぼ消滅したとはいえ、入りたい大学は人それぞれである。大変なことだろうと思う。
 昨日食料品の買い物に行ったら、あるある、受験生狙いの期間限定の食品やお菓子が。「テキにカツ」などというレトロなのではないよ。よく知られているのはチョコ菓子の「キットカット」(きっと勝つと)であるが、ほかにとうもろこし菓子の「カール」が「ウカール」になっていた。冷凍食品の棚では「長崎チャンポン」の袋に「チャンと勉強してポンと入る」と添え書きが・・・。
 
 すでに教員の目からしか「受験」というものを見ることしか出来なくなってしまっている私でも、今の時期思い出すのは「共通一次」のことである。昨日の朝日新聞夕刊(大阪版)「昭和史再訪」に「54年(1979年)1月13、14日 共通一次スタート」という記事が載っていた。三十一年前か・・・。インタビューに答えているのは、当時受験生だった国際医療福祉大学大学院教授の和田秀樹さん(49)。「降りしきる窓外の雪には目もくれず、2日間、5科目7教科のマークシートの解答用紙を、必死に鉛筆で塗りつぶした」とある。
 年がばればれであるが、私もこの共通一次の第一回目の受験生で、この和田氏と同じ体験をしたのであった。「僕らの学年ほど、この新しい大学入試制度に振り回された学年はないでしょう」と話す和田氏。本当にそうだった。
 共通一次の試行が本決まりになったのが高校2年のときで、新聞によると78年12月にいったん決定しながら、高校側の異論が出て79年1月に変更されたという。
 私の通っていた高校はほとんどの生徒が推薦で上の大学に入るようなところで、受験生は医・歯・薬系など全生徒の約一割だった。もちろん受験指導などほとんどなく、3年生に選択科目として受験用の英・数・国がとれるくらいであった。ほかの生徒がのびのびとしている中で、入試制度の変更にとまどい、「マークシート」とかいう見たことのないものを「塗る」練習もした。いったいどんな問題が出るのか検討がつかず、しかも採点は自己採点で枝問の配点が明かされないから自分が何点なのかわからないまま、各自の志望する大学の二次試験に出願しなければならない。それまであった国立一期、二期の区別がなくなって受験の機会が一本になり、しかも二次試験では共通一次の点数をどのように評価するのか大学ごとに違っていた。もう、どないしようか、という感じである。私は予備校の季節ごとの講習とZ会の添削をやっていたが、予備校では「マークシートに使う鉛筆はHBがいいかFがいいか」なんてことをいわれるし、「足切り」といって、共通一次の点数によっては二次試験が受けられないようにする大学もあるというので、予備校の講師も受験生も手探りでやっているようなものだった。
 「足切り」は東京大学ほか少数の大学が行う予定らしい、との情報が流れたが、この名称を聞くたびに、青竜刀をふりまわすお役人と、その刃の上を必死で飛び越えようとする受験生、という絵が頭をよぎったものである。ほとんど、ヨーロッパによくある「拷問博物館」的発想である。
 
 私は高校3年のとき大きな病気をし、今年はもう無理かもしれないと半分諦めてはいたのだが、しかし、共通一次を受けねば始まらない。5教科7科目というのは、理科と社会が二科目ずつあるということで、かなりの負担だった。文系志望の受験生の多くは日本史、世界史を選択していたが、直前で公民と倫社(だったかな?)のほうが点がとれやすいという噂が流れ、半分くらいが鞍替えしたのを覚えている。それが、蓋を開けてみたらやはり日本史、世界史は平均点が低く、倫社、公民は20点近く高かったのだ。当時は得点調整なども一切行われず、日本史、世界史をとった私は「ドツボ踏んだ」かたちとなった。
 試験は近くの大学で行われ、私は京都工芸繊維大学に当たったが、当日は雪で路面が凍結している寒い寒い日だった。バスは遅れるし、男子が多い大学だから女子トイレが少ないし、試験開始直前にマスコミの写真取材というのが教室に入れられて写真バシバシ撮られたりして、ただでさえわけわかんなくなっているのになぜこういうことをするのか、と怒りさえわいたものである。
 前引の朝日新聞には、西村和雄・京都大学経済研究所長の談話として「少ない科目しか勉強せずに大学に入る。学生の学力が極端に低下した。共通一次はマイナス面ばかりが目立った」とある。しかし、京大の二次試験に全科目があったわけではなく、5教科7科目というのは受験生にとってかなりの負担であったことを思うと、こういう言い方は適切ではないと思う。共通一次によって入学した学生への批判は多々聞くが、ならばそういう入試制度を作って(しかもたった10年でセンター入試に切り替えた)文部省(当時)と政府に非はないのだろうか。しばしば「共通一次世代」などと揶揄され、バカで軽い大学生の見本のように言われるのは(まあ、バカではあったと思うけどね)筋が違うのではあるまいか。

 さて、私は簡単だったはずの数学のマークの場所をすべて一つづつずらす、という大失態をして、その年は志望大学に不合格となった。大学は国立しか許されていなかったし、推薦をけったのが同志社大学だったので、ほかの私立を受ける気もなく、浪人の身となったのだった。それも自宅浪人である。ぼうっとしている間に、予備校の受付と振り分け試験がすんでしまっていたのだった。つくづくあほうである。しかし、人ごみが苦手で自分勝手な私にとって案外自宅浪人は向いていたのであるが(ふらふらと沖縄の離島に行ったりもしていた)、その話はいずれまた。

 私が受験生の頃は、ネットも何もなかったので、合格電報というのが主流であった。よく「サクラサク」とか、短文でめでたい文型があるでしょう? あれ、地方色豊かなものがあったので、思い出したものだけ書き付けておく。今の受験生は「こんな昔があったのだ」、親御さんは「そういえばあったな」と懐かしんでください。

*北海道大学の不合格電報 「ツガルカイキョウナミタカシ」(内地出身者向けだったと思う)
*高知大学合格電報 「クジラツレタ」
*東北大学合格電報 「キタグニニハルキタル」
*静岡大学合格電報 {オチャノハカオル」

 ほかにもユニークなものがあったと記憶する。

 入試制度がめまぐるしく変わる昨今、親御さん(私の世代である)がなかなかそれを理解できず、自分の体験に引きつけて考え勝ちだが、当時みたいに「この大学に入らないと○○にはなれない」ということは(一部の学部を除いて)ほとんどなくなっているので、いわばあたたかい無関心で受験生を見守ってあげてください。大学は入れば終わりではなく、入ってからどうするかが大切なのですから。
 受験生のみなさんは、とにかく健康に留意して最善を尽くしてください。「ドツボ踏んだ」こんな私でも、今はちゃんと生きておりますからね。

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