夏への扉、再びーー日々の泡

甲南大学文学部教授、日本中世文学専攻、田中貴子です。ブログ再開しました。

奇妙な味のはなし・書籍編

2009年08月16日 | Weblog
 あっという間にお精霊送りの十六日になってしまった。今日は大文字五山の送り火である。
 以前、同じ季節に「大文字焼きは間違い」ということをこのブログに書いたのだが、私はずっと、奈良の若草山の山焼きとの混同だと思っていた。しかし、なぜNHKのアナウンサーさえも間違うのか、とくに関東の人がよくそういうのか、疑問であったのだが、(ホントは引きたくないけど)ウィキペディアに「大文字焼き」という項目があることを知って、納得した。
 神奈川県などをはじめとして、「大文字焼き」と称するイベントが実在するのであった。これがどのような方法で行われるのかよくわからないが、もしかしたら山の草地に燃料などを撒いてじかに燃やすのであれば、「大文字焼き」という名称は理にかなっている。
 京都の大文字は、火床を組んでそこに薪を積み上げて燃やすのだから、「焼く」という言い方はそぐわないのである。ちなみに、この火床は大文字山の場合だと普段も置いてあり、森見登美彦氏の「くされ大学生」シリーズでは、夏にそこに登って焼き肉をする、というシーンが出てくる。
 都市伝説として、京大生が大文字の「大」の右肩に「、」をつけて「犬」にしようとした事件があった、という話を聞いたことがある(なんだか、『江談抄』の、姫宮の産室に犬が入って騒ぎになったところ、「犬」は「太」に通じるから立派な皇太子になる男子が産まれるでしょう、と誰かが言った話みたいである)。

 さて、お盆のお精霊さんが帰るこの日、今年あった「書籍の怪」を二つ、書いてみようと思う。
 いや、いくら化け物好きの私でも、「夜中に本が手ぬぐいかぶって三味線弾いてました」というのではないよ。「怪」というより、奇妙な体験といったほうがよいかもしれない。基本的に私は霊だとかいったものは信じていないし(いるかもしれないが、そんなもの見えないほうがいいに決まっている)、だから研究対象になるんである。信じてたら目が曇る。「霊が見える」という人も信じていない。

 その一。
 ある日、軽く読める文庫本(お風呂で読む気晴らしの本)を買おうと、AMAZONマーケットプレイスで探すと、1円で出ていた。1円でも送料は340円かかるから、なるべく同じ書店を探して数冊注文した。本当はブックオフなどにゆくほうが安いのだろうが、あそこは近くにないのである。また、冷泉家時雨亭文庫という一冊数万円の本を千円で買ったとか、25000円する『源氏物語享受史事典』が2500円で出てたのでラッキーとかいう話を聞くと、あほらしくて行く気が失せるのである。
 さて、数日を経て本が届いた。小説数冊のなかに、「死体は語る」をキャッチフレーズにたくさん本を書いている法医学の上野正彦氏のものもあった。やや疲れていたときなので、ちょっと寝転んでまずいちばん薄い上野氏の本を開いたところ・・・


 「成功するあなたの経済学」

という、およそ私とは無関係な扉題があらわれたのであった。
 乱丁にしては、別の本がまぎれることなどなかろう、と思って、ずっと最後までページをめくっていったら・・・

 その本はまるごと「なんとか経済学」というハウツー本だったのだ。

 つまり、本のカバーと中身が違う、いや、かけ替えられていたものだったのだ。
カバーを外してよく見ると、たしかに本のツカ(厚み)は上野氏のカバーとほとんど変わらない。天地もぴったりである。
 しかし、購入したのは数回使ったことのある職業的古書店である。こういうことがあるものだろうか? まあ、雑本の類だから、誰かから購入してそのまま放置していたのかもしれないが、いくらなんでも奥付くらい見ないかね。
 誰かの本だと思って開いたら別の本だった、という体験は、今までになかったことである。よくあることなのかもしれないが、ページをめくったときの奇妙な気分は、まさにトワイライトゾーンであった。

 その二。
 裁判員裁判が始まり、いささか関心があって成り行きを見ているのだが、量刑はやや重めのように思うが死刑判決は出にくいだろうと思われる。永山則夫事件以来、一人殺しただけなら死刑にならない、というような不文律があるようだが、では一家三人惨殺、というような場合でも、すぐそこに被告を見ている裁判員が死刑判決を出すのは心情的にしんどいことだろう。
 私は死刑に対して反対とも賛成ともいいかねる(つまり、あまり深く考えないようにしていたわけである)が、うかつにも知らなかったのは、死刑囚は未決囚であるということだった。刑務所と拘置所との違いは、前者が一定期間の刑務に服するためにあるが、後者は未決囚を収監する場所なのである。つまり、死刑囚は「死刑という刑」が執行されてはじめて刑務が終了するということなので、それまでは何もしないまま収監されているのだという。
 作家で精神科医の加賀乙彦氏は、かつて小菅の拘置所で刑務医をしていたことがあり、拘禁状態にある死刑囚の精神状態を研究していた。その体験から生まれた小説が『宣告』(文庫本で三巻)であり、ここには実在のモデルがいる人物が多数登場する(モデルについては同氏の『ある死刑囚の記録』中公新書に詳しい)。主人公の青年はキリスト者となり思索にふける穏やかな人物像に描かれているが、実際は、文通で知り合った女性と結婚しようかどうか迷ったりする、一般的な青年だったようである。
 
 あるとき、この『宣告』が急に読みたくなり、やはりAMAZONマーケットプレイスで三冊揃いが出ていたので購入した。新潮社版だった。
 届いた本は比較的丁寧に扱われていたようだったが、しおりの紐が全巻切られていたのである・・・・。

 しのりのひもは、新潮文庫の特徴といってよい。うっとうしいとい理由で切ってしまう人もいるが、もうひとつ、切らねばならない状況というのがある。
 それは、拘置所への差し入れ本だった場合だ。
 もしかしたら、私のもとへ届いた本は、かつて拘置所で誰かに読まれた本かもしれなかった。その人は執行猶予がついて晴れて出てきたのか、それとも・・・。
 私はやや複雑な思いで『宣告』を通読した。

 実は、私は二十代の後半、広島刑務所に定期的に通っていたことがある。だから、差し入れのシステムなどはよく知っているのだ。食料品などの差し入れは、門前にある差し入れ屋に注文すると、その品が受刑者に届けられることになっている。衣服などは厳密にチェックされ、少しでも長いものがあるとだめなのだ。文庫本のしおりも、そのためすべて切られてしまう。

 こんなことをいうと、私が愛人にでも差し入れに通っていたように思う人がいるかもしれないが、実は、当時助手をしていた広島大学の学内雑誌の印刷を刑務所に頼んでいたからなのである。
 こういうことはよくあって、今のようにPCからそのまま版下が出力出来る時代ではないので、写植、あるいは活字で一々組んでいたのだ。受刑者のなかにはそういった技能を習得した人がいたのであり、格安のため、学会誌や、場合によっては秘密漏洩を防ぐため、入試問題を印刷した大学もあったと聞く。
 私は二人いる国語国文学研究室の助手のうち、学会誌担当だったので、しばしば原稿と校正を持って自転車で海に近い刑務所に向かった。門前の差し入れ屋のあたりには、派手な女性やいかにも「その筋」の男たちがいたりした(広島は、「仁義なき戦い」の舞台となった町でもある)。
 私はそれとは別の出入り口を使っていたが、ここも高い塀で囲まれ、目だけ見えるような、ちょうどポスト口のような穴が空いているので、そこから大きな声で「ひーろーしーまーだーいーがーくーのー」と叫ぶと、若い刑務官が鍵をあけてくれる(この兄ちゃんはすごく暇そうで、女性のいない職場のせいか、私がゆくたびにチョコレートや飴をくれた。もちろん自分の電話番号を書いた紙とともに。これは女性助手には全員やっていたようだ)。
 そして、担当者に校正と次号の原稿を渡して打ち合わせをしてまた帰るのであるが、かなりミスプリが多かったのでそれを何とかしてもらえまいか、と切り出すと、中年の担当者はこういった。

「凶悪犯が少なくなっているんで、長期受刑者が減ってるんですよ。だから、技術を身につける時間がないんです」

 それはええことや、とまぜっかえしそうな関西人の私であったが、うなづくだけにとどめて少し世間話をしてから大学へ戻った。
 門前を再び通ると、寒そうに身を縮めた質素な格好の女性が、赤ん坊を抱いて立っていた。「その筋」の男たちは、しずかに煙草を吸っていた。

 手許に送られてきた『宣告』のしおりひもが、そのような経緯で切られるにいたったかはわからない。私の邪推も、このような体験があったためかもしれない。だから、何にも言えないのだが、金とともに本も天下の回り物である。古本がどこで誰の手に渡ったのか、それを空想するのも奇妙な感じでおもしろいものである。

  

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