今は昔 ーー
30年前インドネシアはスラウェシ島に4か月半滞在した時(1992-93) の滞在記(1994年執筆)が出て来ましたので、4回に分けて公開しています。きょうはその第2章をどうぞ (^^)/
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まえがき
このエッセイは1994年さる大学の哲学科同窓会機関誌『なんてつ』に投稿したものです。文中、当時の哲学科教授の名前が登場します。ブログに再掲するにあたり、はじめ教授名やダム名にWikipedia等へのリンクを貼りましたところGoogle Chromeが「このサイトは安全ではありません、すぐ閉じてください」とアラームを出すようになりましたので、4つほどあったリンクをすべて削除しました。
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はなしが後先になりました。
もう1年半前のことです。
((注)1994年執筆時点) インドネシアはスラウェシ島に造る多目的ダムの材料調査のため4ヶ月ほど滞在しました。

スマトラ、ジャワ、バリ、とつづくインド洋プレートが大陸塊にぶつかってできた、はなぶさ列島のその1つ内側にあるアルファベットのkの形をした大きな島・・・というよりも、「ジャカルタから飛行機で2時間・・・」という名電社のCMで知られた・・・あるいは、かっての「セレベス島」といった方が 宮内先生方には判りやすいでしょうか?
インドネシアは東西に長い国で、最東端経度は、東京よりも東のイリアン・ジャヤ(ニューギニア島の西半分)に位置し、西はビルマ(ミャンマー)の西の境と同じくらいの経度になります。主な島だけでも両手で数え切れない程ありますから、民族の多様性はご想像がつくと思います。
インドネシアは1945年8月17日に独立しました。
<民族>を統一するものはぼくら日本人だとすぐ血の共通性を考えますが、立松先生がかつて講義で述べられたように、もう1つの考え方に<言語>があります。ジャワ島にはジャワ語、スラウェシ島でもマカッサール語とかブギース語とか・・・各々共通言語をもつ多くの民族によって構成されています。多言語国家です。
インドネシア語の元は、実はマレー語で、国家としての共通語(統一言語)を定めるとき、どこかの民族語を優先すると言うわけにもいかないからマレー語としたのでしょう。
ウジュンパンダン(旧マカッサル、南スラウェシ州の州都)に着いてはじめての日曜日、ぼくはひとりで博物館(マカッサール人がその昔オランダ軍と戦った砦の旧跡)に行き、日本語を話す学生と知合いになりました。名前をアムリン君とエディ君と言います。その後4ヶ月間 彼らとその友達イクバル君を交えて、仕事OFFのとき よく集団行動をとりました。
かれらの母国語はインドネシア語ということになるんでしょうが、エディとアムリンは故郷に帰ると今もブギース語で話すそうです。「インドネシア語との共通性は?」 と尋ねたら「まるでない」とのことでした。アムリンは教育学部英語課程にいますから、ぼくとは比較にならないくらい英語が得意です。またみな熱心な回教徒(モスレム)ですから、あのアラビア文字が読めるというのです!
ぼく「そしたらアムリン、
君は夢をみるとき何語で見るの?」
かれ「ここにいるときはインドネシア語、故郷に帰るとブギス語のことが多い。(ニャッと笑って)今はときどき日本語で夢を見る」。
かれらの友達イクバル君はこの島の最高学府ハサヌディン大学の法科の学生で、オランダ語を話しますが、日本語はぼくと会うまでは全然でした。かれについては、冒頭で紹介した挨拶ことばについての興味深いエピソードがあります。みんなで食事から帰ってホテルのロビーでお別れする時、こちらが覚えたてのイ語で"Sampai jumpa lagi(じゃあまたね)” と言ったら、イクバル君は「コンバンワ」といってくれたのでした。
きっとエディかアムリンに"スラマッマラーム"に対応する日本語が「コンバンワ」だと教えてもらい、 "Good Night!"というつもりで"コンバンワ"と言ったにちがいありません。
4ヶ月の滞在中に、20〜30程度のインドネシアのことばを覚えました。(インドネシア語は覚えやすい言語だそうで通常は、最初の1ヶ月で100語くらいは覚えるそうです。)
(つづく)
⇒ 第3章