今回も私august03の意見・見解です。
コメント欄にご投稿いただいた方を記事として紹介したことが続いた為でしょうか
二件ほど「整体関係者とおもわれる方」から「抗議」のコメントが投稿されていま
した。ここでは、その中身は記載はいたしません。基本的に彼らと掲示板も含め
ブログ内で議論する意思はありませんこと、整体関係者の方々にお伝えしたいと思い
これを書いています。
ネット上での名誉棄損等の裁判例をみますと、ネットでの記載に対する反論は
ネットで実施することが可能である。とされていますので、関係者の方々も
ぜひともブログなり、ホームページなりを立ち上げて「反論」されてはいかがで
しょうか。
過去二年半以上にわたり、側ワン整体を支持、擁護する人たち(関係者自身?)が
ネットで展開する論理というものを見ていますと、私のようないわゆる病気とは
部外者で、かつ、ある程度は医学を勉強している者からみますと、非常に感情論
を中心としたものなのですが、患者さんご自身あるいはお母さん方の立場から
しますと、その「感情論」が医学的事実として混同して捉えてしまうのだろうなあ
と考えられたために、今回は、「論理と感情」というタイトルで私の意見を展開
させていただきます。
.....ちょうど、いま読んでいた「英語は論理」小野田博一(光文社新書)という本
から、説明するためにちょうど良い材料を得たものですから、それをベースとして
話をさせていただきます。
① 演繹における論理
(論理が正しいか否かは絶対的なもの)
「AまたはBである。 Aではない。ゆえにBである」
たとえば、
「思春期特発性側弯症は側ワン整体で治る、というのは正しいか誤解か」
「正しくはない。 ゆえに、それは誤解である」
というような展開をすることを演繹法といいます。
② (感情的)理屈
(論理が正しいか否かの評価は人によってまちまち)
(その理屈を正しいと認めるか否かは、各個人の問題)
「思春期特発性側弯症は側ワン整体で治る、というのは正しいか誤解か」
「そんなことはどちらでもいい。ともかく何かをしていないと
気持ちが落ち着かない」
私は、このStep by stepのなかで、医学的事実は何か。ということをご紹介して
きました。 医学的事実としていえることは、 (途中を省きますが)
「装具療法あるいは、装具療法プラス側ワン体操をした患者さんの“すべて”
のひとが治るわけではない」
「20%~30%の患者さんは装具でも抑えることができない進行性の患者さんが
存在する」
「進行性かどうかは、現代医学でもまだ診断する技術がない」
「思春期を乗り越えた患者さんの中には、その後大人になるにつれ、度合は
まちまちだが再びカーブが進行する患者さんも存在する」
さらに付け加えるならば、「側ワン」を「理学療法」と置き換えてもいいわけですし
それらが害になることはなく、ある程度のプラス効果はありえる。とも言っていいと
思います。しかし、それでもある確率で「進行を抑えらずに手術を必要とする」
患者さんは存在します。
初めてこのブログを読まれている患者さんやお母さんがたにとっては、ある意味で
ショックな説明かもしれませんが、これが事実であり、私は、病気の治療とは
事実が何であるかを自分自身が理解した上で、対応すべきもの。と考えます。
この事実を踏まえたうえで、上記の①と②を振り返ってみていただきたいと思います
① 「思春期特発性側弯症の患者さんのうち、装具でも体操でも効果を得られず
に手術を必要とする患者さんが、ある確率で存在する」(医学的事実)
② 「治らなくてもいい、ともかく何かをしていたい」(個人の判断)
①の事実を踏まえたうえで、②をすることは、個人の感情からの発露であり、それ
は誰にも止めることのできないことです。別の観点からしますと、一途な思いとは
それはそれ自体として美しいものであり、誰にも否定も批難もできないものです
たとえば、お母さんが一生懸命にお子さんの背中をなでて、「まっすぐになって
真っ直ぐになって」と心のなかでつぶやくことを誰が批難できるでしょうか。
問題は、②(感情)を①(医学的事実)とすり替える、あるいは誤解を与える宣伝が
ネットに氾濫している。ということなのです。
前回も書きましたが、お母さんが側わん専門医に「治りますか」と質問したら
先生は「治ります」とは回答しません。それは治療の経過をみながら、時機に
応じた対応をしながら、経過観察だけですむかもしれず、装具を必要とするかも
しれず、手術を必要とするかもしれません。どの時点の何をもって「治る」と
定義し、「治ります」と言えるでしょうか。
しかも、将来的に大人になってからも再び進行する患者さんも中には存在するわけ
なのですから。
先生とは「論理思考」をする方々であり、「医学的事実の確率」にもとづいた説明
をする職業の方々だ。ということも記憶にとどめておいていただければと思います
つまり、端的にいえば、「嘘はつかない」「嘘はつけない」ということです。
それが医師という職業であり、逆に「嘘をついたら」その事自体が皆さんからの
不審を招く行為となってしまいます。
医学にもとづいて、その時点でもっとも正しい事を行う。それが医師の務めなのです。
それに対して、「医者は何もしない。放置しているだけで何もできない。うちに
いらっしゃい。うちは、これだけの実績があり、治った患者さんから、これだけ
手紙が来ていますよ」
たぶん、このような説明とも勧誘ともつかない言葉を受けることになるのだと思い
ます。
さて、これは、話し手は①として説明してるのでしょうか、②でしょうか。
さらには、聞き手の皆さんは、①として理解されるでしょうか、②でしょうか。
さていかがでしょう
彼らの説明がいかに曖昧であるか、ということをご理解していただけましたでしょうか?
測ワン整体で「治った」のではありません。その患者さんは進行性ではなかった。
ということです。「治った」という言葉は、側ワン整体に通ったすべての患者さん
が「治った」ときに使うべき言葉であり、また患者さんの100%が側ワン整体で治った
という事実は存在しないのですから、そのような誤解を与える言葉は使うべきでは
ありません。
①なら①の説明をする。②なら②の説明をする。それが皆さんに対して「誠意の
ある説明、誠意のある対応」だと私は思います。
つまり、①思春期特発性側弯症は測ワン整体では治りません/治せません
②でも、何もしないでいるよりも、体操をすることで気持ちが落ち着くと
思います
もっとも、その前に、幽霊大学の学位の無意味さ、特許庁から得た商標登録の木枠
をさも「厚生労働省に認められた医療機器」であるかのように宣伝していたこと、
ユラユラ揺れるベッドに寝ていることの医学的無意味さの説明とか、
元厚生労働大臣を宣伝に利用することのきわどさとか、そういうことによって
お母さんがたの誤解を利用してきたことについての反省が必要だとは思いますが。
まるで「言葉のお遊び」のように聞こえるかもしれませんが、でも、皆さん当事者
の方がたにとっては「治る」という言葉の響きと、その「意味」がどれだけ大きいか.....
それを踏まえるならば、言葉は正しく使われなければならないと私は考えます。
august03
コメント欄にご投稿いただいた方を記事として紹介したことが続いた為でしょうか
二件ほど「整体関係者とおもわれる方」から「抗議」のコメントが投稿されていま
した。ここでは、その中身は記載はいたしません。基本的に彼らと掲示板も含め
ブログ内で議論する意思はありませんこと、整体関係者の方々にお伝えしたいと思い
これを書いています。
ネット上での名誉棄損等の裁判例をみますと、ネットでの記載に対する反論は
ネットで実施することが可能である。とされていますので、関係者の方々も
ぜひともブログなり、ホームページなりを立ち上げて「反論」されてはいかがで
しょうか。
過去二年半以上にわたり、側ワン整体を支持、擁護する人たち(関係者自身?)が
ネットで展開する論理というものを見ていますと、私のようないわゆる病気とは
部外者で、かつ、ある程度は医学を勉強している者からみますと、非常に感情論
を中心としたものなのですが、患者さんご自身あるいはお母さん方の立場から
しますと、その「感情論」が医学的事実として混同して捉えてしまうのだろうなあ
と考えられたために、今回は、「論理と感情」というタイトルで私の意見を展開
させていただきます。
.....ちょうど、いま読んでいた「英語は論理」小野田博一(光文社新書)という本
から、説明するためにちょうど良い材料を得たものですから、それをベースとして
話をさせていただきます。
① 演繹における論理
(論理が正しいか否かは絶対的なもの)
「AまたはBである。 Aではない。ゆえにBである」
たとえば、
「思春期特発性側弯症は側ワン整体で治る、というのは正しいか誤解か」
「正しくはない。 ゆえに、それは誤解である」
というような展開をすることを演繹法といいます。
② (感情的)理屈
(論理が正しいか否かの評価は人によってまちまち)
(その理屈を正しいと認めるか否かは、各個人の問題)
「思春期特発性側弯症は側ワン整体で治る、というのは正しいか誤解か」
「そんなことはどちらでもいい。ともかく何かをしていないと
気持ちが落ち着かない」
私は、このStep by stepのなかで、医学的事実は何か。ということをご紹介して
きました。 医学的事実としていえることは、 (途中を省きますが)
「装具療法あるいは、装具療法プラス側ワン体操をした患者さんの“すべて”
のひとが治るわけではない」
「20%~30%の患者さんは装具でも抑えることができない進行性の患者さんが
存在する」
「進行性かどうかは、現代医学でもまだ診断する技術がない」
「思春期を乗り越えた患者さんの中には、その後大人になるにつれ、度合は
まちまちだが再びカーブが進行する患者さんも存在する」
さらに付け加えるならば、「側ワン」を「理学療法」と置き換えてもいいわけですし
それらが害になることはなく、ある程度のプラス効果はありえる。とも言っていいと
思います。しかし、それでもある確率で「進行を抑えらずに手術を必要とする」
患者さんは存在します。
初めてこのブログを読まれている患者さんやお母さんがたにとっては、ある意味で
ショックな説明かもしれませんが、これが事実であり、私は、病気の治療とは
事実が何であるかを自分自身が理解した上で、対応すべきもの。と考えます。
この事実を踏まえたうえで、上記の①と②を振り返ってみていただきたいと思います
① 「思春期特発性側弯症の患者さんのうち、装具でも体操でも効果を得られず
に手術を必要とする患者さんが、ある確率で存在する」(医学的事実)
② 「治らなくてもいい、ともかく何かをしていたい」(個人の判断)
①の事実を踏まえたうえで、②をすることは、個人の感情からの発露であり、それ
は誰にも止めることのできないことです。別の観点からしますと、一途な思いとは
それはそれ自体として美しいものであり、誰にも否定も批難もできないものです
たとえば、お母さんが一生懸命にお子さんの背中をなでて、「まっすぐになって
真っ直ぐになって」と心のなかでつぶやくことを誰が批難できるでしょうか。
問題は、②(感情)を①(医学的事実)とすり替える、あるいは誤解を与える宣伝が
ネットに氾濫している。ということなのです。
前回も書きましたが、お母さんが側わん専門医に「治りますか」と質問したら
先生は「治ります」とは回答しません。それは治療の経過をみながら、時機に
応じた対応をしながら、経過観察だけですむかもしれず、装具を必要とするかも
しれず、手術を必要とするかもしれません。どの時点の何をもって「治る」と
定義し、「治ります」と言えるでしょうか。
しかも、将来的に大人になってからも再び進行する患者さんも中には存在するわけ
なのですから。
先生とは「論理思考」をする方々であり、「医学的事実の確率」にもとづいた説明
をする職業の方々だ。ということも記憶にとどめておいていただければと思います
つまり、端的にいえば、「嘘はつかない」「嘘はつけない」ということです。
それが医師という職業であり、逆に「嘘をついたら」その事自体が皆さんからの
不審を招く行為となってしまいます。
医学にもとづいて、その時点でもっとも正しい事を行う。それが医師の務めなのです。
それに対して、「医者は何もしない。放置しているだけで何もできない。うちに
いらっしゃい。うちは、これだけの実績があり、治った患者さんから、これだけ
手紙が来ていますよ」
たぶん、このような説明とも勧誘ともつかない言葉を受けることになるのだと思い
ます。
さて、これは、話し手は①として説明してるのでしょうか、②でしょうか。
さらには、聞き手の皆さんは、①として理解されるでしょうか、②でしょうか。
さていかがでしょう
彼らの説明がいかに曖昧であるか、ということをご理解していただけましたでしょうか?
測ワン整体で「治った」のではありません。その患者さんは進行性ではなかった。
ということです。「治った」という言葉は、側ワン整体に通ったすべての患者さん
が「治った」ときに使うべき言葉であり、また患者さんの100%が側ワン整体で治った
という事実は存在しないのですから、そのような誤解を与える言葉は使うべきでは
ありません。
①なら①の説明をする。②なら②の説明をする。それが皆さんに対して「誠意の
ある説明、誠意のある対応」だと私は思います。
つまり、①思春期特発性側弯症は測ワン整体では治りません/治せません
②でも、何もしないでいるよりも、体操をすることで気持ちが落ち着くと
思います
もっとも、その前に、幽霊大学の学位の無意味さ、特許庁から得た商標登録の木枠
をさも「厚生労働省に認められた医療機器」であるかのように宣伝していたこと、
ユラユラ揺れるベッドに寝ていることの医学的無意味さの説明とか、
元厚生労働大臣を宣伝に利用することのきわどさとか、そういうことによって
お母さんがたの誤解を利用してきたことについての反省が必要だとは思いますが。
まるで「言葉のお遊び」のように聞こえるかもしれませんが、でも、皆さん当事者
の方がたにとっては「治る」という言葉の響きと、その「意味」がどれだけ大きいか.....
それを踏まえるならば、言葉は正しく使われなければならないと私は考えます。
august03