葬式仏教と言われることに、私はいつも不快感を感じる。
いや、不快感というよりは、憤りかもしれない。
お坊さんは、年から年中、葬式にかかわっているわけではない。
そして、葬式のすべてを、取り仕切っているのでもない。
かつての葬式は、地域の人たちの手で行なわれていた。
遺族にかわって、地域の人たちが、すべてを取り仕切った。
お寺に知らせに行く。
お通夜と葬儀の日取りを決める。
そして、通夜・葬儀の時の、お坊さんが使う仏具、着るもの(衣体)など、
それらをお寺から、そのおうちへ運んでいくのも地域の人たち。
遺族やお手伝いの人たちの食べごとから、帳場の世話まで、
すべてが地域の人たちによって行なわれた。
「これじゃ、棺おけが出んから、ここの木を少し切ろうかね」
そのお手伝いをしながら、亡くなられた方のご苦労を肌に
感じながら、最後のお別れをしたものだった。
しかし、今は違う。
そのような地域性が少しずつ壊れていき、それらの一切が
葬祭業者の手によって、行なわれるようになった。
人の死は、突然に訪れる。
葬式は、準備のための時間が極めて限られる。
だから、それらを業者に任せれば、一応葬式を済ませるということでは、
事足りる。
時々、業者さんの方から、直接電話がかかってくる。
「●●の●●●さんがお亡くなりになったんですが、
明日がお通夜で、あさっての午前中がお葬儀になりますが、
ご住職さまのお都合はいかかでしょうか」
私はいつもこう言う。
「すみませんけど、ご当家の方から、お電話をいただけませんか」
お坊さんは、葬祭業者の下請けではない。
亡くなられた方との深いご縁があったからこそ、私たちは、
その最後のご縁を結ぶ責任がある。
今日、99歳のおばあちゃんが亡くなられた。
今年になって、10人目である。
例年なら、1年を通して、20人前後の方々のお別れに
立ち合わせてもらっているのだが、今年は少し様子がちがう。
いつも、ありがとうございます
いや、不快感というよりは、憤りかもしれない。
お坊さんは、年から年中、葬式にかかわっているわけではない。
そして、葬式のすべてを、取り仕切っているのでもない。
かつての葬式は、地域の人たちの手で行なわれていた。
遺族にかわって、地域の人たちが、すべてを取り仕切った。
お寺に知らせに行く。
お通夜と葬儀の日取りを決める。
そして、通夜・葬儀の時の、お坊さんが使う仏具、着るもの(衣体)など、
それらをお寺から、そのおうちへ運んでいくのも地域の人たち。
遺族やお手伝いの人たちの食べごとから、帳場の世話まで、
すべてが地域の人たちによって行なわれた。
「これじゃ、棺おけが出んから、ここの木を少し切ろうかね」
そのお手伝いをしながら、亡くなられた方のご苦労を肌に
感じながら、最後のお別れをしたものだった。
しかし、今は違う。
そのような地域性が少しずつ壊れていき、それらの一切が
葬祭業者の手によって、行なわれるようになった。
人の死は、突然に訪れる。
葬式は、準備のための時間が極めて限られる。
だから、それらを業者に任せれば、一応葬式を済ませるということでは、
事足りる。
時々、業者さんの方から、直接電話がかかってくる。
「●●の●●●さんがお亡くなりになったんですが、
明日がお通夜で、あさっての午前中がお葬儀になりますが、
ご住職さまのお都合はいかかでしょうか」
私はいつもこう言う。
「すみませんけど、ご当家の方から、お電話をいただけませんか」
お坊さんは、葬祭業者の下請けではない。
亡くなられた方との深いご縁があったからこそ、私たちは、
その最後のご縁を結ぶ責任がある。
今日、99歳のおばあちゃんが亡くなられた。
今年になって、10人目である。
例年なら、1年を通して、20人前後の方々のお別れに
立ち合わせてもらっているのだが、今年は少し様子がちがう。
いつも、ありがとうございます