かかりつけのお坊さん 奮闘編

転勤も定年もリストラもない、失うものは何もない最強な坊主が日頃の“感謝”を言葉にこめて、日常を綴ります。

葬式仏教と言われること

2012-03-04 19:39:02 | 坊主・ビー・アンビシャス
葬式仏教と言われることに、私はいつも不快感を感じる。

いや、不快感というよりは、憤りかもしれない。

 
お坊さんは、年から年中、葬式にかかわっているわけではない。

そして、葬式のすべてを、取り仕切っているのでもない。


かつての葬式は、地域の人たちの手で行なわれていた。

遺族にかわって、地域の人たちが、すべてを取り仕切った。

お寺に知らせに行く。

お通夜と葬儀の日取りを決める。

そして、通夜・葬儀の時の、お坊さんが使う仏具、着るもの(衣体)など、

それらをお寺から、そのおうちへ運んでいくのも地域の人たち。

遺族やお手伝いの人たちの食べごとから、帳場の世話まで、

すべてが地域の人たちによって行なわれた。


「これじゃ、棺おけが出んから、ここの木を少し切ろうかね」


そのお手伝いをしながら、亡くなられた方のご苦労を肌に

感じながら、最後のお別れをしたものだった。


しかし、今は違う。

そのような地域性が少しずつ壊れていき、それらの一切が

葬祭業者の手によって、行なわれるようになった。


人の死は、突然に訪れる。

葬式は、準備のための時間が極めて限られる。

だから、それらを業者に任せれば、一応葬式を済ませるということでは、

事足りる。


時々、業者さんの方から、直接電話がかかってくる。

「●●の●●●さんがお亡くなりになったんですが、
 明日がお通夜で、あさっての午前中がお葬儀になりますが、
 ご住職さまのお都合はいかかでしょうか」

私はいつもこう言う。

「すみませんけど、ご当家の方から、お電話をいただけませんか」

お坊さんは、葬祭業者の下請けではない。

亡くなられた方との深いご縁があったからこそ、私たちは、

その最後のご縁を結ぶ責任がある。


今日、99歳のおばあちゃんが亡くなられた。

今年になって、10人目である。

例年なら、1年を通して、20人前後の方々のお別れに

立ち合わせてもらっているのだが、今年は少し様子がちがう。




広島ブログ いつも、ありがとうございます
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