絵などこの世の中からなくなってしまったところで、痛くも痒くもないではないか。
と、日常の何気ない営みを、地球の僻地で繰り返す中で思います。
希望や光、絶望や闇などを、あえて言葉ではないもので伝える意味など、本当の希望や絶望の前ではカンバス一枚の値打ちもないのではないか。
と、真っ白なカンバスを前に思います。
増してや心象などを表に出してなんの得や意味があるのか…
それを言い出せばキリがありませんが、徒労であろうが、無意味であろうが、それに心血注ぐことに、生きる意味を見いだす人間は少なからずいて、その人間を画家と言います。
個の中の美意識、哲学を悩みもがきながらカンバスに表す。
その快楽に取り憑かれたら最後、生涯繰り返し、一枚描き上げるごとに、確実に死に近づくことを覚えていく。
しかし、終わりは道半ばに過ぎず、明日も描くためにカンバスを見つめながら、突然目の前の絵画が、地上の生活における最後の産物となるはずです。
今や、画家を突き動かすだけの時代背景は薄く、内に内に衝動を探し求めねばならないことを平和というならば、益々画家がやっていることは、この世の中で奇異に映るに違いありません。
必然的に今の時代は、意味を考えていては絵など描くことはできないのです。
ならば我々画家は、そこに意味を見いださず、自分に取り憑いた魔物の手足となって、ただ素直に描くだけで良い。
そして―
…………………………
などの文は、ものすごく表面的な言葉です。
このような薄っぺらい言葉にはなんの説得力もなく、例え正しかろうが、こんなことを宣う輩は「だからなんだ?」と一笑に付してやれば良いのです。
大切なことは、描くべき者、描くために生まれてきたような者がいて、その者は自然の成り行きで、そのように生きていくこと。
例えばある「そんな者」の成り行きの道中に私はいましたが、その開拓する様は危うくも強く迷わず進む。
その先に、燦然と輝く未来があろうがなかろうが、何かを信じて川があれば橋を架け、山があれば乗り越えてゆく。
それが描くべき者のやり方で、描くために生まれた者の生き方ではないかと思うのです。
正しいと思う。
君のやり方は。
鳥居純子展 「+mind」
2013.2.15FRI~2.24SUN
cafe&雑貨「GRASSE」
Close: TUE
Open :11:00-20:00
URL/http:/www.grasse-style.com
ここには画家としての迷わぬ証があります。
是非ご高覧賜りますよう。
※写真は案内ハガキ。
美しい仕上がりです。