鶏のいじめは酷いそうな。
一羽の対象を見つけたら、肛門が破れるまで、死ぬまで仲間とくちばしでツツき続けるそうな。
同じように、ヒト以外の動物は、力が弱い動物になればなるほど、生存のための間引きが頻繁に行われるのだそうな。
それをいじめと言うのか言わぬのか。
そのレベルまでいくと、仕方ない「業」の話になるのだろうか。
遺伝子レベルの話だそうな。
攻撃する側とされる側。
それを隔てるのは「隙」かもしれないそうな。
肉体的、精神的に弱く劣るものの、隙を見逃さないのだそうな。
知的動物と言われるヒトにもそれがあるそうな。
本来隠れているもの。
それが「退屈」や「鬱積」や「ストレス」などが原因で、ムクムク顔を出すそうな。
元々「生き残る」ための遺伝子が「ヒトには必要なくなった」と思われて隠れていた遺伝子が、しっかり働き始めるのが、所謂「いじめ」かもしれないそうな。
「業」と言えば、どのような動物よりも深いそれを抱えるニンゲンは、家畜を飼い、家畜を食べて生きている。
ぶくぶく肥らされた牛や豚。
早く卵を産まされる鶏。
家畜の牛は、場に着いて初めて己の短い生涯を知るそうな。
冷たい格子の中で知るそうな。
先までピンピンしていた脚が、震えて立てなくなるそうな。
涙を流して鳴くそうな。
泣くそうな。
ニンゲンは、それを骨の髄まで食べつくす。
「いただきます」
と手を合わせるのは、そのものたちへの合掌。
美味しいステーキでした。
ちょっと焼きすぎでした。
すりおろした玉ねぎのオレンジソースはオーガニックです。
ニンゲンは強いのですから。
頭が良いのですから。
動物の王様ですから。
いや、生き物の王様ですから。
王様には怖いものがありません。
王様は便利のために、光と熱と道具を作ります。
時間を作るためですか。
陽が登り陽が沈み、雨が降り風が吹く。
それでは足りないからですか。
怖い怖いものを作り、時間に便利と利益をふりかけたものと、命を秤にかけるスリルを味わうほど偉くなったのだそうな。
そして、自分が一番正しいと、王様同士で争うほど時間ができたそうな。
生きるためにギリギリの時間を持て余せるようになったそうな。
小さないじめ。
大きないじめ。
「ニンゲンは悪いのです」
これをしっかり植え付けねばならないのでしょうか。
小さいうちに。
弱いうちに。
守られてるうちに。
「おはようございます」とおひさまに。
「おやすみなさい」とおつきさまに。
「いただきます」「ごちそうさま」と命に。
そこから始めて、そしてそれが「業」であることを大きくなるスピードと並んで教えていかねばならないのでしょうか。
裸の王様であると。
津波や放射能でたくさん死んだのは、ニンゲンより犬や猫で、目の前に並ばなかった家畜たちだと、教えていかねばならないのでしょうか。
きみが使っているスプーンは、こんなもので出来ている。
飛行機はこんな風に飛ぶ。
そのためにどれだけの某かが何となっている。
そうやって「ニンゲンは生きている」と教えていかねばならないのでしょうか。
残念ながら、絵を描いているニンゲンにはよくわからないのです。
その行為自体は、生きるために最も必要のないことをしているニンゲンの私には。
ニンゲンはやっぱり王様なんでしょうか。
「業」ですべてを片付けられるくらいに。
ならばせめて王様らしく「命を大切に」「命は大切に」と教える中で「ニンゲンは家畜ではない」と教えればよいのでしょうか。
「ニンゲンはみんな王様」と教えればよいのでしょうか。
いじめはなくなるでしょうか。
自殺はなくなるでしょうか。
戦争はなくなるでしょうか。
絵を描いているニンゲンにはやっぱりわかりません。
でも、絵を描いているニンゲンでも考えるのです。
ニンゲンは王様で、悪魔で、優しい動物であると描こうとか、観てもらうヒトの心の鏡になろうとか、隙間に癒やしを埋めようとか。
たとえ徒労でもそんな風に描くのです。
「おまえもニンゲンだ」
これを忘れないようにしながら。
結局全ての根っこは同じでしょうか。
絵描きと隣のおじさんも、戦争といじめも、ニンゲンと人間も。
「か」をつけてごまかすことを覚えた私も殺人鬼も。
元々オチなどあるはずのない話。
ならばそろそろそれらしく、散文らしくシメましょう。
みなさまお後がよろしくないようで…
m(_ _)m
一羽の対象を見つけたら、肛門が破れるまで、死ぬまで仲間とくちばしでツツき続けるそうな。
同じように、ヒト以外の動物は、力が弱い動物になればなるほど、生存のための間引きが頻繁に行われるのだそうな。
それをいじめと言うのか言わぬのか。
そのレベルまでいくと、仕方ない「業」の話になるのだろうか。
遺伝子レベルの話だそうな。
攻撃する側とされる側。
それを隔てるのは「隙」かもしれないそうな。
肉体的、精神的に弱く劣るものの、隙を見逃さないのだそうな。
知的動物と言われるヒトにもそれがあるそうな。
本来隠れているもの。
それが「退屈」や「鬱積」や「ストレス」などが原因で、ムクムク顔を出すそうな。
元々「生き残る」ための遺伝子が「ヒトには必要なくなった」と思われて隠れていた遺伝子が、しっかり働き始めるのが、所謂「いじめ」かもしれないそうな。
「業」と言えば、どのような動物よりも深いそれを抱えるニンゲンは、家畜を飼い、家畜を食べて生きている。
ぶくぶく肥らされた牛や豚。
早く卵を産まされる鶏。
家畜の牛は、場に着いて初めて己の短い生涯を知るそうな。
冷たい格子の中で知るそうな。
先までピンピンしていた脚が、震えて立てなくなるそうな。
涙を流して鳴くそうな。
泣くそうな。
ニンゲンは、それを骨の髄まで食べつくす。
「いただきます」
と手を合わせるのは、そのものたちへの合掌。
美味しいステーキでした。
ちょっと焼きすぎでした。
すりおろした玉ねぎのオレンジソースはオーガニックです。
ニンゲンは強いのですから。
頭が良いのですから。
動物の王様ですから。
いや、生き物の王様ですから。
王様には怖いものがありません。
王様は便利のために、光と熱と道具を作ります。
時間を作るためですか。
陽が登り陽が沈み、雨が降り風が吹く。
それでは足りないからですか。
怖い怖いものを作り、時間に便利と利益をふりかけたものと、命を秤にかけるスリルを味わうほど偉くなったのだそうな。
そして、自分が一番正しいと、王様同士で争うほど時間ができたそうな。
生きるためにギリギリの時間を持て余せるようになったそうな。
小さないじめ。
大きないじめ。
「ニンゲンは悪いのです」
これをしっかり植え付けねばならないのでしょうか。
小さいうちに。
弱いうちに。
守られてるうちに。
「おはようございます」とおひさまに。
「おやすみなさい」とおつきさまに。
「いただきます」「ごちそうさま」と命に。
そこから始めて、そしてそれが「業」であることを大きくなるスピードと並んで教えていかねばならないのでしょうか。
裸の王様であると。
津波や放射能でたくさん死んだのは、ニンゲンより犬や猫で、目の前に並ばなかった家畜たちだと、教えていかねばならないのでしょうか。
きみが使っているスプーンは、こんなもので出来ている。
飛行機はこんな風に飛ぶ。
そのためにどれだけの某かが何となっている。
そうやって「ニンゲンは生きている」と教えていかねばならないのでしょうか。
残念ながら、絵を描いているニンゲンにはよくわからないのです。
その行為自体は、生きるために最も必要のないことをしているニンゲンの私には。
ニンゲンはやっぱり王様なんでしょうか。
「業」ですべてを片付けられるくらいに。
ならばせめて王様らしく「命を大切に」「命は大切に」と教える中で「ニンゲンは家畜ではない」と教えればよいのでしょうか。
「ニンゲンはみんな王様」と教えればよいのでしょうか。
いじめはなくなるでしょうか。
自殺はなくなるでしょうか。
戦争はなくなるでしょうか。
絵を描いているニンゲンにはやっぱりわかりません。
でも、絵を描いているニンゲンでも考えるのです。
ニンゲンは王様で、悪魔で、優しい動物であると描こうとか、観てもらうヒトの心の鏡になろうとか、隙間に癒やしを埋めようとか。
たとえ徒労でもそんな風に描くのです。
「おまえもニンゲンだ」
これを忘れないようにしながら。
結局全ての根っこは同じでしょうか。
絵描きと隣のおじさんも、戦争といじめも、ニンゲンと人間も。
「か」をつけてごまかすことを覚えた私も殺人鬼も。
元々オチなどあるはずのない話。
ならばそろそろそれらしく、散文らしくシメましょう。
みなさまお後がよろしくないようで…
m(_ _)m