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POP LIFEwww.wb.commufa.jp/atl-pop

春日井市の絵画教室、あとりえPOPアートスクールの教室風景や内容を中心に、アートについて広く記事にします。

裸の王様

2012-09-30 13:33:10 | 日記
鶏のいじめは酷いそうな。

一羽の対象を見つけたら、肛門が破れるまで、死ぬまで仲間とくちばしでツツき続けるそうな。

同じように、ヒト以外の動物は、力が弱い動物になればなるほど、生存のための間引きが頻繁に行われるのだそうな。

それをいじめと言うのか言わぬのか。

そのレベルまでいくと、仕方ない「業」の話になるのだろうか。

遺伝子レベルの話だそうな。

攻撃する側とされる側。

それを隔てるのは「隙」かもしれないそうな。

肉体的、精神的に弱く劣るものの、隙を見逃さないのだそうな。


知的動物と言われるヒトにもそれがあるそうな。

本来隠れているもの。

それが「退屈」や「鬱積」や「ストレス」などが原因で、ムクムク顔を出すそうな。

元々「生き残る」ための遺伝子が「ヒトには必要なくなった」と思われて隠れていた遺伝子が、しっかり働き始めるのが、所謂「いじめ」かもしれないそうな。

「業」と言えば、どのような動物よりも深いそれを抱えるニンゲンは、家畜を飼い、家畜を食べて生きている。

ぶくぶく肥らされた牛や豚。
早く卵を産まされる鶏。

家畜の牛は、場に着いて初めて己の短い生涯を知るそうな。

冷たい格子の中で知るそうな。

先までピンピンしていた脚が、震えて立てなくなるそうな。
涙を流して鳴くそうな。

泣くそうな。

ニンゲンは、それを骨の髄まで食べつくす。


「いただきます」
と手を合わせるのは、そのものたちへの合掌。

美味しいステーキでした。

ちょっと焼きすぎでした。

すりおろした玉ねぎのオレンジソースはオーガニックです。

ニンゲンは強いのですから。

頭が良いのですから。

動物の王様ですから。
いや、生き物の王様ですから。

王様には怖いものがありません。

王様は便利のために、光と熱と道具を作ります。

時間を作るためですか。

陽が登り陽が沈み、雨が降り風が吹く。
それでは足りないからですか。

怖い怖いものを作り、時間に便利と利益をふりかけたものと、命を秤にかけるスリルを味わうほど偉くなったのだそうな。

そして、自分が一番正しいと、王様同士で争うほど時間ができたそうな。


生きるためにギリギリの時間を持て余せるようになったそうな。

小さないじめ。
大きないじめ。

「ニンゲンは悪いのです」

これをしっかり植え付けねばならないのでしょうか。

小さいうちに。

弱いうちに。

守られてるうちに。

「おはようございます」とおひさまに。

「おやすみなさい」とおつきさまに。

「いただきます」「ごちそうさま」と命に。

そこから始めて、そしてそれが「業」であることを大きくなるスピードと並んで教えていかねばならないのでしょうか。
裸の王様であると。


津波や放射能でたくさん死んだのは、ニンゲンより犬や猫で、目の前に並ばなかった家畜たちだと、教えていかねばならないのでしょうか。
きみが使っているスプーンは、こんなもので出来ている。

飛行機はこんな風に飛ぶ。

そのためにどれだけの某かが何となっている。

そうやって「ニンゲンは生きている」と教えていかねばならないのでしょうか。


残念ながら、絵を描いているニンゲンにはよくわからないのです。

その行為自体は、生きるために最も必要のないことをしているニンゲンの私には。

ニンゲンはやっぱり王様なんでしょうか。

「業」ですべてを片付けられるくらいに。

ならばせめて王様らしく「命を大切に」「命は大切に」と教える中で「ニンゲンは家畜ではない」と教えればよいのでしょうか。

「ニンゲンはみんな王様」と教えればよいのでしょうか。

いじめはなくなるでしょうか。

自殺はなくなるでしょうか。

戦争はなくなるでしょうか。


絵を描いているニンゲンにはやっぱりわかりません。

でも、絵を描いているニンゲンでも考えるのです。

ニンゲンは王様で、悪魔で、優しい動物であると描こうとか、観てもらうヒトの心の鏡になろうとか、隙間に癒やしを埋めようとか。

たとえ徒労でもそんな風に描くのです。

「おまえもニンゲンだ」

これを忘れないようにしながら。


結局全ての根っこは同じでしょうか。

絵描きと隣のおじさんも、戦争といじめも、ニンゲンと人間も。

「か」をつけてごまかすことを覚えた私も殺人鬼も。


元々オチなどあるはずのない話。

ならばそろそろそれらしく、散文らしくシメましょう。

みなさまお後がよろしくないようで…

m(_ _)m
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豚とソクラテス

2012-09-29 11:14:42 | 日記
「狼は生きろ。豚は死ね」

森村誠一の小説が映画化された際のキャッチコピーなのか、小説内、もしくは脚本内の台詞の引用なのかはわかりませんが、子供心にテレビから聞こえたこのナレーションには衝撃を受けたものです。

今の時代であれば、倫理の名の下に生きる人は、きっと黙ってはいないでしょう。

そして、もし本当にこの台詞のようなことが、圧倒的な支配と力によって実行されるような社会であったならば、私は大切な友人を確実に3人は亡くします。


これと同じような存在感で、私の頭に鮮明に残っている言葉は…

「太った豚より痩せたソクラテスになれ」

有名な言葉ですから、耳にされた機会は多いのではないでしょうか。

「なりたい」ではなく「なれ」に近いニュアンスで、しかも東大総長が学生の前で使われたと、後日談ながら記憶していました。(実際には記録簿的に、一部メディアと関係者にのみに配布された原稿に記載されたものの、発言は控えられたらしい)

この言葉が発せられたのは、私が生まれる少し前。

東大ですから、例えば安田講堂事件の前で、安保の後。どちらにせよ学生がアツかった60年代の話。

名前は忘れましたが、著名な外国人の論客が残した名言らしく、総長が地位や名誉を約束された一部の人間を前に「現状に満足せず、常に野心をもって、発展と進化を求めよ」と、戒める意味合いで引っ張ってきた言葉にせよ、様々な捉え方がある以上、刺激的な言葉でしょう。


その言葉が、人間性や資質を言うならば、そもそも太ったソクラテスも、痩せた豚もわんさかいて、その多様性が認められる昨今の時代にはそぐわず、この名言が生きていた一方向を向いていた時代にくらべ、今は価値観や意味が薄れ、逆に極端に偏って捉えられるかもしれません。


しかし、だからこそ新鮮です。

特にアーティストとして活動をして久しい私には、言い得て妙。
心に響く言葉です。

既に45才。
負け犬の遠吠えの支えと思われるかもしれませんが、そうではなく、空回りを覚悟して挑んだ活動の歴史の中で、常に共感できる名言であるのです。

満足せず不満足でありたい。
常に求め、探していきたい。

そう思い続けてきた今、痩せたソクラテスであることが難しい年になってきたのも事実。


絵を描くことに守りはないか?
今、諦めたり満足したりしていないか?
なんとなく描いて、なんとなくさらしてないか?
ごまかしていないか?
それならやめてしまえ。
ならばお前より良い作品を描く人間はたくさんいる。
良い絵とは、それだけの覚悟と真剣味を湛えたものだ。


このように、意識して鞭打ち問い続けなければならないことを自覚します。

だからこそ、今しかできないこと、今だからできること、これからやってみたいことを模索しもがいていきたいと思います。

アートに携わる中でだけは、痩せたソクラテスでありたい。 飢えていたいと思うのです―。



結論)
それ以外では満足したいし、何も考えないで多少太ってもいいかな(^_^;)


※写真はソクラテスではなく、ソクラテス像。
とても痩せているようには見えません。
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天使がやってくる

2012-09-28 08:45:30 | 教室のこと(子供造形絵画)



木曜日はいつも―

こんな風に天窓から天使が降りてくるんです。


そんな気がします。


地上に降り立つ瞬間に、えみちゃんになるんです。

遊び大好きえみちゃんに。

今日は羽根を隠し忘れてしまったみたいです。
(^_^)


最後に。
私が大好きなパウル・クレーの「忘れっぽい天使」を添えて。
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その男強情につき

2012-09-27 14:47:00 | アート紹介


写真1枚目の美しい手を遡ると、写真2枚目の涼しげな青年の顔にたどり着き、その背中が3枚目の写真となります。


恒森将晃。
25才。
静かなる男。

見た目ヤワなこの男、強情につき制作に耳は貸さず。


このブログには欠かせないジャッジマン&ワイズマン、金魚主さんのブログ「金魚日和」にて昨日、この静かなる男の初個展と案内ハガキについてご紹介頂きました。

http://blog.goo.ne.jp/gooldfish

故に本日は、私もこの記事を書くことに。







縦書き明朝体が、この上なく似合う名前であると気づいたのは、金魚主さんが作ってくださったこの男の案内ハガキの原案を目にした時で、名前もハガキも、静かなる男を良く表しています。


彼を支えていくことは、私の使命のひとつです。

私の教室の門をたたいた時の彼は、あどけない中学一年。
亀と納豆が好きであること以外に、自己主張を好まない少年は、貪るようにデッサンに取り組み、美術科の高校に進学。そこで油絵に目覚めました。

その後、大学進学を志し二浪するも、希望は叶わず断念することになります。

選ばなければ殆どの大学に進学できるだけの力はありました。
実際過去の教え子の中でも、その描写力は頭抜け、着眼点の鋭さも横並びではなかったのです。

ただ彼は強情だった。
必要以上のお金をかけて学ぶことに意味を見いださず、頑固一徹美大の最高峰のみにこだわり挑んだのです。

彼の夢はただひとつ。
絵を描き続けること。
それ以外に秤にかけるものはなく、それ以外に情熱を傾けるものもない。
そう言い切る彼は、独りで模索する道を、清々しくさえ思える態度で受け入れました。

そこから、私と彼の二人三脚の旅が始まります。

彼には邪念も葛藤させるだけの物欲がありません。
そのエピソードとして、一浪の間、自分のために費やしたお金は缶ジュース1本でした。
そこまできたら、なぜ買ったのかが気になりますが(笑)


そんな彼の適性を見つけるのは私。
導くのも私ひとり。 互いの試行錯誤は手探りで、乗せつ乗りつつ、押しつ引きつつ暗黙で互いの師弟としての距離を計り、カンバスを重ねていくのは、作品と彼の変容の歴史でした。

その中で、似顔絵師となり生活の基盤を作り、社会との関わりを学び、静かなる男の志は益々強固になっていったのです。

私がここまでしてきたことは、話すこと。意見を求めること。
私の作家としての経験と美意識を、詳らかに且つ一方的に話し、彼の自立のための比較対象者に徹しました。
そして、彼の作風の個性と時代の整合性について、意識の変革と自分の意見を求めました。

流れの中では微々たるに遅々として見える歩みは、まさに亀の如し。

しかし今、亀の歩みは的確に力強く進んでいます。

それとは対照的に、世の中の彼に対する評価は高く、ここまでに公募展には二度入賞を果たしています。
その速さは兎の如し。


四年。
私が密かに掲げた時間。
彼が大学に進学していたら、卒業するまでに費やしただろう時間です。

同じく二浪した学生は、今年社会人1年目。
学生であり、学生ではなかった四年は終わりました。

「もし大学に行っていたら」という存在しない世界は、私と彼にとって、今はどうでも良いことですが、少なくともそう思わない四年を過ごして欲しかった。


画家として最も難しいことである、絵を描き続けることだけが夢の彼は、社会人1年目だったかもしれない今年、初個展を開きます。
絵を描き続ける生涯に対して、短すぎる四年間の証ですが、ここから始めることに意味があるように思えてなりません。


ここまで描き続けて来た作品は、たくさんありますが、個展でその全てを、ただ陳列するわけではありません。

彼が「等身大の今」に納得する作品のみを展示することなるでしょう。


強情な男は、真っ白の画面をずっと見つめ、頭に浮かんだイメージと、無意識に動き始めた手の動きを頼りに、描きながら作品を起こしていきます。

「妥協、なんとなく」という言葉は、彼の制作には一切存在せず、納得いくまで描き重ねていきます。
その姿は修行僧のよう。
描いている間の彼は、きっと無音の中で、自分の心の声のみを聞いているに違いなく、どのような雑音にも惑わされず、何時間も描き続けるのです。

はい。
彼は私の教室でのみ制作しています。

その全てを具に見てた私が言うのですから、おそらく間違いはありません。


金魚主さんが制作してくださった、時代小説の表紙のような案内ハガキは、今週中に完成します。
今取りかかっている写真の絵は発表されるのか否か。

今はまだわかりませんが、彼はこの絵に没頭します。


2012年12月4日~9日。
名古屋栄ハートフィールドギャラリーで行わないる展覧会です。
最終日は盛大にクロージングパーティーを開くつもりです。
どうぞ皆様。
静かな男の情熱の塊を観てやってください。

その男、強情につき、自分が信じたものだけを見せつけるはずです。

彼の私小説である初個展。
それだけでは終わらず、私はこれからも彼をずっと支え、見ていきたいと思います。

旅はまだまだ続く。

終わり無き旅のはじまりとも言える初個展は、確かな一歩になると信じています。
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サラなる

2012-09-26 13:29:47 | 教室のこと(受験コース)


「胸が痛い…」
と検索かけたら「もしかして恋?」と出ました。

わけないのですが、「こい」で検索してみたらそうきました。

やさしいな。

本で見かけたからやってみただけなのですが、なんだかほのぼの。

パソコンをまず使わない私には新鮮でした。

って本日は「もしかして恋?」の話ではありません。

ただ、高校生の後ろ姿は、見知らぬ同士でもなんとなく恋の匂いがします。

え?私だけ?

甲斐バンドの「バス通り」で胸がキュンとする私だけですかそうですか(^_^;)


気を取り直して本日のお題は受験生。

サラ・アートラボの受験コースは、現在二人です。

ゆうきとゆめこ。

昭和歌謡な二人組でも、限りなく演歌に近いフォークデュオでもありません。

まだ会って二回目のはずな二人。

私は隔週でサラの受験コースを見るので、二人揃って授業を行ったのは初めてでした。

でも、すでに何だか仲良しです。


私がゆうき君だったら、絶対こうはなりません。

ゆうき君は積極的に話しかけますし、ゆめこちゃんもフランクにそれに応じます。
「えらいな」
なんとなくそう思ってしまいました。

肝心のデッサンは…
まだまだまだ。

しかし飛躍的に上手くなっています。

ゆうきをもってゆめに挑めよ若人。

サラなる成長を期待して、本日はこの辺でm(_ _)m



※写真はゆうきとゆめこのお二人。
なぜかドラムセットを描くゆうきくん。 消さないでくださいとゆうきくん。
あ…

結論でました)

吹奏楽部の男子は女子慣れしてるんだな。
コメント (8)
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