母の夢
10月21日は母の90歳の誕生日でした。
そんな母は3人の子供を産み育ててくれました。
僕は姉と妹に囲まれ、そして何不自由のない生活の中ですくすくと育っていきました。
いや2ヶ月ほど予定日より遅れて生まれた僕は体があまり丈夫ではなく、そしてまた
初めての男の子ということで大層大事にされ、また甘やかされて育ちました。
産まれる前後は母の方が食べられず体調を壊し、歯はすっかりなくなってしまいました。
そんな母のことも、その想いも知らず、大事にしてもらううちに次第にわがままとなり、不平を言い続け
いつしかただの困り者となっていきました。
食べるのもそうでした。好き嫌いが激しく、体も弱く、また大食漢の父に比べ食の細かった僕は、
いつも何かと気を遣わせてしまい両親=特に母を一層疲れさせていきました。
いつも当たり散らしたりしているうちに、母は自分を責め苦しませていきました。
僕は、さらに図に乗って、その母の想いの上にあぐらをかき、だらしなく大人へと向かっていったのでした。
そしていつしか僕は自分の世界を持つようになり、
みかん農家の跡取り…という立場を放り投げ上京してしまって今日に至る。
思い返せばほんのわずかだが身勝手な言い分はある。
大人になって随分経っても、「こんなに大事にされ甘やかされ続けてたら自分は駄目になってしまう」ということを…
そんなおばかな甘チャンの親不孝者が世に認められる訳もなく
でもしかし、自分としては若気の至りとはいえ、大志を抱いて飛び出した手前、帰るに帰れず、時間と年月だけが瞬く間に流れていきました。
気が付けば24年の歳月が過ぎていました。
「こんな放蕩息子を残し死ぬに死ねない…」
との声なき声も聞こえ、「親不孝したから長生き出来たんだ」と豪語して自分を擁護している己の醜さを想うにつけ
また何の苦労も知らず、自分一人で大きくなったようなでかい面して自分だけの世界に酔っているような情けなくいい歳なっても
それでも我が子のことを想い続けてくれている母に一体何の恩返しが出来るのだろう。
24年前、家を飛び出した時も
「30(歳)になってグレた」とぼやき?ながらも嫌みの一つも言わず、
独身だった東京での修業時代には、時折「ウナギデモ食え」と、広告紙の裏に走り書きした中に心付けが入っていたり、
また悩んでいるのではないかと感じた折には、戦国の武将・山中鹿之介の名言「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
と書いた手紙をくれたりしました。
そこまでしてずっと応援し続けてくれた母の夢とはいったいどんなものだったのだろう。
「ああ人生が二度あれば」などとは、まさかでも言えまい。
元気に天寿を全うしてほしいと願うばかりである。
生き過ぎて 我も寒いぞ 冬の蝿 母 千代
10月21日は母の90歳の誕生日でした。
そんな母は3人の子供を産み育ててくれました。
僕は姉と妹に囲まれ、そして何不自由のない生活の中ですくすくと育っていきました。
いや2ヶ月ほど予定日より遅れて生まれた僕は体があまり丈夫ではなく、そしてまた
初めての男の子ということで大層大事にされ、また甘やかされて育ちました。
産まれる前後は母の方が食べられず体調を壊し、歯はすっかりなくなってしまいました。
そんな母のことも、その想いも知らず、大事にしてもらううちに次第にわがままとなり、不平を言い続け
いつしかただの困り者となっていきました。
食べるのもそうでした。好き嫌いが激しく、体も弱く、また大食漢の父に比べ食の細かった僕は、
いつも何かと気を遣わせてしまい両親=特に母を一層疲れさせていきました。
いつも当たり散らしたりしているうちに、母は自分を責め苦しませていきました。
僕は、さらに図に乗って、その母の想いの上にあぐらをかき、だらしなく大人へと向かっていったのでした。
そしていつしか僕は自分の世界を持つようになり、
みかん農家の跡取り…という立場を放り投げ上京してしまって今日に至る。
思い返せばほんのわずかだが身勝手な言い分はある。
大人になって随分経っても、「こんなに大事にされ甘やかされ続けてたら自分は駄目になってしまう」ということを…
そんなおばかな甘チャンの親不孝者が世に認められる訳もなく
でもしかし、自分としては若気の至りとはいえ、大志を抱いて飛び出した手前、帰るに帰れず、時間と年月だけが瞬く間に流れていきました。
気が付けば24年の歳月が過ぎていました。
「こんな放蕩息子を残し死ぬに死ねない…」
との声なき声も聞こえ、「親不孝したから長生き出来たんだ」と豪語して自分を擁護している己の醜さを想うにつけ
また何の苦労も知らず、自分一人で大きくなったようなでかい面して自分だけの世界に酔っているような情けなくいい歳なっても
それでも我が子のことを想い続けてくれている母に一体何の恩返しが出来るのだろう。
24年前、家を飛び出した時も
「30(歳)になってグレた」とぼやき?ながらも嫌みの一つも言わず、
独身だった東京での修業時代には、時折「ウナギデモ食え」と、広告紙の裏に走り書きした中に心付けが入っていたり、
また悩んでいるのではないかと感じた折には、戦国の武将・山中鹿之介の名言「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
と書いた手紙をくれたりしました。
そこまでしてずっと応援し続けてくれた母の夢とはいったいどんなものだったのだろう。
「ああ人生が二度あれば」などとは、まさかでも言えまい。
元気に天寿を全うしてほしいと願うばかりである。
生き過ぎて 我も寒いぞ 冬の蝿 母 千代